イタリア紀行13 「美しい人生の舞台」

アレッツォⅠ

アレッツォ(Arezzo)という街について詳しかったわけではない。フィレンツェから南東へ普通列車で1時間ちょっとの立地なので、日本を発つ前から訪問地にリストアップしていた。前知識は、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』の撮影舞台であること、毎月第一日曜日に骨董市が出ること、エトルリア時代の面影を残していることくらい。この街の名物は何と言っても「サラセン人の馬上槍大会」だが、開かれるのは6月と9月の年二回。訪問したのが3月なので、観光的にはシーズンオフだった。

純粋に街の散策に徹することにした。駅から旧市街までは徒歩10分。メインのイタリア通りをぶらぶら歩きする。骨董市の日だったので、大勢のアンティークマニアで石畳の狭い小道がごった返していた。一見してプロと思われる人々も品定めをしている。買い付けに来ている数人の日本人にも出会った。

くだんの映画の主演・監督を務めたロベルト・ベニーニの故郷がこのアレッツォで、その縁もあって舞台になったのだろう。映画に頻繁に出てきたグランデ広場に興味津々だったが、アンティークのにわか屋台が埋め尽くしていて臨場感には乏しかった。「グランデ」は「大きい」という意味なのだが、映画のシーンで感じたほどの広さではない。

歴史上の有名な芸術家がこのアレッツォで生まれ育った。グランデ広場は別名「ヴァザーリ広場」と呼ばれており、ルネサンス後期の芸術家兼建築家のジョルジオ・ヴァザーリにちなんだものだ。本人が広場の設計に携わっている。他にも絵画に初めて遠近法を採用したピエロ・デッラ・フランチェスカもこの街の出身である。

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アレッツォ駅。旧市街の北東のプラート公園へはモナコ通りかイタリア通りを経由する。 
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イタリア通りに立つ骨董屋台。
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ガラクタか掘出し物か判然としない品々。狭いスペースに雑然と放り出されている。
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使用済み絵はがきを売る店。何語かわからない時代物にもマニアが存在する。
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そこかしこの通りが人で溢れ返る。
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古い建物の外観をリフォームしたカフェレストラン。“Vita Bella”は「美しい人生」。おそらく映画の題名を拝借したに違いない。
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グランデ広場の一角に存在感を示すヴァザーリ設計のロッジェ館。1階は天井の高い柱廊。
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イタリア通りの街角。建物の壁色はベージュとグレーの色調が多い。 

背伸びと踏み台

過去10年分の研修レジュメを整理していると、「あれ、こんなこと書いたり喋ったりしていたかな?」という項目に出くわす。無責任だ! と咎められてもしかたがない。言い訳をするならば、底辺に流れる考え方が同じであっても、なるべく今という時代にシンクロする話題やエピソードを盛り込みたいという願望がある。それゆえ、たとえば『企画力』や『マーケティング』の研修はほぼ毎年バージョンアップすることにしている。

というような次第だから、数年以上経ってしまうと、自分が書いたにもかかわらず「あれ!?」というネタに遭遇することになる。もちろんたいていは覚えている。「これはリメークすることができるのではないか」というネタを再発見することもある。その一つが「背伸びと踏み台」というテーマ。学習と固定観念にまつわる話だが、気に入った別の切り口が見つかったので、この話はもうだいぶ前にお蔵入りになっていた。しかし、学び下手な人には役に立つ話である。


ところで、大学在学中、ぼくは英語研究部に所属していた。入部してきた新1年生を3年生が指導する仕組みになっていた。根っから英語を苦手とする学生は数少ない。ほとんどが、三度のメシよりも英語が好きか、高校時代に英語を得意科目にしていた連中である。ぼくの世代がいきなり与えられた教材は中級編であった(習得すれば英米人と対等に会話や対話ができるほどの高度な内容である)。

ところが、当時の2年生は1年生時に初級教材から学習を始めていて、まだ終えていなかった。つまり、一年上の2年生は初級の後半を学習していたが、ぼくたち新入生は中級からスタートを切ったのである。一年後、それぞれ3年生、2年生となったが、実力においてはすでに逆転していた。つまり一年後輩たちのほうが英語力をよく身につけていたのである。

その後、二十代の数年間、実社会の英語教育の現場で指導と研究に携わってきた。その経験から確実に一つ言えること。それは、たとえ〈入門→初級→中級→上級〉と段階を踏んで学んでも、成果はその順番で獲得できないということだ。さらに言えば、高いレベルを目指すのであれば、いつまでも入門や初級あたりをウロウロしていてもダメなのである。


ぼくの研修や私塾の内容に対して、受講生や塾生は「難しい」と感じる傾向が強い。「入門」と銘打っていても、「どこがいったい入門なんですか?」と問われることさえある。それもそのはず、レベルを高く設定しようと意識して「難解だが愉快」を講義の特徴にしているからである。なぜか? 学び手が社会人だからである。さらには、すでにわかっているレベルの事柄をわざわざ学んでもらうのは、エネルギーと時間と費用のムダになると考えるからである。

自分の今のレベルより一段でも二段でも高いところを目指す。これを「自力による背伸び」と呼ぶ。そのレベルに達するための支援を「他力による踏み台」と呼ぶ。題材や教材を工夫して踏み台よろしくジャンプしてもらい、現在の自分を精一杯背伸びさせてより上級の領域に指先をタッチさせる。

いくらでも上達できるチャンスがあるのに、今の自分が余裕で理解できるレベルに止まっている人たち。難しいとか役に立ちそうもないといつも不満をこぼしては、未知の領域への挑戦を拒んでいる人たち。こういう人たちに対して、ぼくは講義を通じて次のようなメッセージを送り続けている……。

「すでにクリアできている高さのバーではあるけれど、もう一度越えることができたら、それはそれでうれしいでしょう。しかし、実際は、学んだ気になっただけで、新たな学びにはなっていません。」

「今のあなたがもう一段階スキルを伸ばして一皮むけるためには、バー自体を跳んだことのない高さに設定したほうがいいのです。」

「つま先を立てて背伸びをすれば届くかもしれないのに、じっとしている。いや、すぐに届かなくてもいい。背伸びという自助努力をしていれば、成長を促してくれるぴったりした踏み台が見つかるものなのです。」

「あなたが現在到達している実力。その記録を塗り替えるのはあなた自身です。確実に越せるバーにいつまでもこだわらないように。越したことのないバーを越そうとすることが真の学びなのです。」

年がら年中、毎日が記念日

一ヵ月溜め込んだ新聞。もちろん目ぼしい記事には目を通しているのだが、そっくり捨てる前にもう一度ざっと見る。切り抜きにして残しておく場合もある。切り抜くに値する記事かどうかの基準は「おもしろい」と「誰かに教えてあげたい」と「ばからしい、または呆れる」。

今週金曜日は大阪での私塾の日。1010日である。1010日は何の日? 「体育の日」だった、何年か前までは。もちろん、その日が1964年の東京オリンピックの開会式の日であることは知っている。今では体育の日はハッピーマンデーとなり、10月の第二月曜日になった。

ある新聞記事に、その1010日は「転倒予防の日」と制定され、『日本記念日協会』に正式に登録されたと書いてあった。10月を”テン”と英語読みし10日を”トウ”と日本語読みする。併せ技にて”テントウ”で一本! ちょっとずっこけてこっちが転倒しそうになった。「予防」というニュアンスがどこにも見当たらないので、1010日だけだと「転倒の日」になりはしないのか。


それにしても『日本記念日協会』とはすごいではないか。NPOや任意団体がどんどん増えてますますニッチなテーマに入っていく。ぼくも18年ほど前に「関西ディベート交流協会」という任意団体を創始したが、ニッチであった。ニッチの上に、「日本」と欲張らずに「関西」と控えめにしたから超ニッチな存在と言える。

その『日本記念日協会』の1010日を検索してみて、もう一度驚いた。「転倒予防の日」のほかに13もの記念日が登録されているのだ。貯金箱の日、お好み焼の日、トマトの日、和太鼓の日、空を見る日、充実野菜の日、パソコン資格の日、トレーナーの日、銭湯の日……等々。

貯金箱にはコイン投入口がある。それがに見え、0がコインに見えるから1010日。感心するか苦笑いするか、ちょっと迷ってしまう。

お好み焼を仕掛けたのはオタフクソース。「ジュージュー」というシズルの音がそのまま1010日。これはわかりやすいが、「焼肉の日」でも「ステーキの日」でもいいわけだ。

トマトは微妙な語呂合わせ。「1010」で「トマト」と読む(10の間に「と」で、「10間と=トマト」という意図か)。

和太鼓は、「1010」で「ドンドン」と読むらしいが、何のこっちゃ!? という感じ。「~と読む語呂合わせ」と解説されているのだが、「~と読め!」と命じられているみたいだ。語呂が合っていると言うよりも、語呂がこじつけられると思うのだが……。

1010日午前1010分に日本じゅうで空を見上げて美しさを語り合いましょう」とは「空を見る日」の動機。10は英語で「テン」で、「天」に通じるとのこと。私塾の講義は午前10時スタートなので、残念ながら空を見上げることはできない。

次いで伊藤園が仕掛けた「充実野菜の日」は、調べる前からおおよその見当がついた。これは、実りの秋の10月にやってくる10日を「ジュウジツ」と読ませる。

パソコンは0の二進法を使うから1010日は「パソコン資格の日」。ならば1011日でも1110日でも10日でもいいことになる。好意的に考えれば、0がそれぞれ二つずつというのがこだわりなのだろう。

トレーナーの「ト」が10で、トレーナーの英語であるスウェットの「ト」が10。だから1010日は「トレーナーの日」なんて、この記念日はちいと苦しくないか!? 

これに比べれば、1010を「セントウ」と読ませる語呂合わせは悪くはない。旧体育の日に汗をかいて、それを銭湯で流すのだから辻褄も合っている。


もちろん1010日だけではなく、365日がこんなふうに複数のなんとか記念日で彩られている。少し茶化してしまったのは反省するが、こうした記念日を小馬鹿にしているのではない。語呂合わせでもダジャレでもいいし、実際の意味ある記念でもいいから、暇な折りにファミリー独自の記念日を365日分作ってみてはどうだろう――と提言する次第だ。ご覧の通り、「何でもあり」だから気楽にできること間違いなし。

ちなみに、本日108日は「入れ歯感謝デー」ほか5つの記念日が登録されている。108は「百八」だから、ぼくは「煩悩の日」と名づけることにする。

パラドックスと表現のあや

この壁に貼紙を貼らないでください」という注意書きの貼紙はパラドックスである。この注意書きそのものが言語表現的に矛盾した内容を含んでいて、論理的に成り立たない。つまり、貼紙を貼るなと主張しながら、それ自体が貼紙になっているという点がパラドックス。

論理的にはそうかもしれないが、現実の話としては、注意書きとそれに背いて貼られる紙を同列扱いにしなくてもよい。「矛盾だ!」という指摘に恐れおののいてはいけないし、及び腰になる必要もない。

年末に執行を迎えた死刑囚。「お前もそろそろだ。最後に願いを叶えてやろう。但し、死刑を免れたいという願いは聞き入れないぞ」と申し渡された。「何とか生き延びたい。何かいい妙案はないものか」と死刑囚は考えた。あくる日、「さあ、願いは何だ?」と執行人が聞いてきた。「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」と死刑囚は訴えた。

「なかなかアタマのいい奴だな。ボジョレヌーヴォーが出るまであと11ヵ月か。要するに、11ヵ月でも生き延びたいというわけだ。可愛いもんだ」と内心つぶやき、「よし、わかった。来年の新酒のワインを飲ませてやろう」と約束した。

翌年の11月になった。執行人は約束通り、グラスになみなみと搾りたてのワインを注ぎ、「さあ、思う存分飲め。お代わりしてもいいぞ」と言った。しかし、死刑囚は首を振った。「わたしが飲みたいのは来年のボジョレヌーヴォーです。注いでくださったのは、今年のボジョレヌーヴォーじゃありませんか」。今年から見た「来年」は、来年になると「今年」になってしまう。つまり来年のボジョレヌーヴォーは永久に飲めない代物なのである。巧みなパラドックスを使った死刑囚はこうして無期懲役になったとさ。

「来年のボジョレヌーヴォーが飲みたい」に対して、「よし、2009年のボジョレヌーヴォーだな」と念を押しておけばおしまい。一年後には死刑を執行できた。


汚染米の検査も薬物使用の人体検査も、「来週検査をします」と予告してはいけない。当然「抜き打ち」でなければならない。しかし、ここにも古典的パラドックスがある。「来週中に抜き打ちテストをする」と先生が予告した。アタマのいい生徒がパラドックスに気づいた。

もし木曜日までにテストがないと、自動的に金曜日に実施ということになる。木曜日の下校時点で生徒全員に「テストは明日」ということがわかるので、これでは抜き打ちにならない。というわけで、テストは木曜日までに実施せねばならない。ということは、水曜日までに実施していないと、木曜日も抜き打ちではなくなる。以下同様。結局月曜日に実施しなければならないことになり、それでは抜き打ちテストではなく、月曜日指定テストだ。

賢い生徒がパラドックスを逆用して先生をやり込める。論理学のテキストでおなじみのパラドックスだが、先日新聞でも紹介されていて、このパラドックスを「やっかい」と評していた。さて、ほんとうに「やっかい」なのだろうか。

表現のあやの揚げ足を取られるのは、告げるほうが矛盾をしてしまっているからである。「抜き打ち」とは「予告なしに突然おこなうこと」であるから、ごていねいにも前の週に抜き打ちテストを予告することが間違っているのだ。「抜き打ちテスト」は存在するが、「予告する抜き打ちテスト」はありえない。抜き打ちの背景にある思想はたぶん性悪説なのだろうが、それはそれ。疑わしきものに対しては、黙って抜き打ちでよろしい。

イタリア紀行12 「エトセトラの魅力」

フィレンツェⅥ

ルネサンスは14世紀から16世紀にかけて興った文芸復興。“Renaissance”と綴るが、実はこれは英語だ。発祥の地イタリアでは“Rinascimento”(リナシメント)と言う。ルネサンスの香りは街のどこからでも漂ってくる。にもかかわらず、これまでメジャーな場所ばかり紹介してきたのは、ひとえにその他の写真を撮り損ねたからに他ならない。

観光客気分のあいだはどんな被写体にもカメラを構えるが、数日経って街の光景に自分自身が溶け込んでくると、次第にカメラ離れをする。カメラと同時に地図もホテルに置いてくるようになる。超有名な名所から、市民が生活をしている場所へと散策経路が変わる。建物の2階部分の装飾や大きな門扉のドアノブや工房の水道の蛇口などにも視線を注ぐようになる。

サンタ・クローチェ地区には『神曲』を書いたフィレンツェの詩人ダンテ・アリギエーリの生家がある。比較的閑静な広場に面するのは、格調高いファサードのサンタ・クローチェ教会。サン・ロレンツォ地区へ足を伸ばせば市内バスの発着に便利なサン・マルコ広場と同名の美術館。今は美術館になっている15世紀の捨て子養育院はルネサンス初期の建築で、ブルネレスキが設計を手掛けた。このヨーロッパ最古の孤児院は、身分を明かさずに子どもを預けることができた「赤ちゃんポスト」だ。

サン・マルコ広場から市内バスで約25分、標高300メートルの丘にはフィエーゾレの街がある。そこはフィレンツェの街を一望できる抜群のロケーション。前回も今回も行ってみたが、残念ながらいずれも花曇りの天候で、鮮明な絶景とまではいかなかった。とても小さな街で人影もまばらだが、紀元前8世紀に住み始めたエトルリア人の文明の面影に加えて、その後のローマ時代の遺跡も残っている。

フィレンツェの良さはフィレンツェだけにとどまらない。何と言っても、日帰りであちこちの街へのアクセスを可能にしてくれる。引き続き次回からトスカーナや周辺の街を取り上げてみたい。 《フィレンツェ完》

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捨て子養育院から臨むドゥオーモは合成写真のよう。
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噴水の後ろの柱とアーチに目を凝らすと、メダイヨンと呼ばれる青色のレリーフのメダルが嵌め込んである。
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ブルネレスキが設計した孤児院。
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サンタ・マリア・ノヴェッラ駅の構内の発着案内掲示板。
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教会へ続くフィエーゾレの坂道。
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瀟洒な佇まいのサン・フランチェスコ教会。
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フィエーゾレから眺望するフィレンツェの街。花曇りの景色中央にドゥオーモが薄っすらと見える。

知らないだろうという想定

出張でホテル生活。二泊になると夕食の選択に迷う。二回くらい何を食べてもよさそうなものだが、今は違う。というのも、8月に5kg体重がオーバーしていたのが判明し、朝食を野菜ジュースだけにしているのである。しかし、ホテルのビュッフェスタイルは今のぼくにとってきわめて危険な舞台装置だ。加えて、ストレッチ体操と足腰の鍛錬で現在どうにかこうにか元の体重に戻せた。リバウンドしたくないのはもちろん、あわよくばあと2kgは落としたい。昼食は研修先で出てくるので選択の余地なし。こういう経緯上、出張時に自己判断で決められるのは夕食のみなのである。

とてもせこい話になるが、外食すると自腹を切ることになる。宿泊しているホテルで食事をすれば部屋づけできる。毎度毎度ホテルでは食傷気味になるので、2回に回は外に出掛ける。昨夜は外に出たので、今夜はホテルで食事をすることにした。

これまたせこい話だが、チェックイン時に「ご宿泊のお客様限定」と銘打った割引券をもらった。その名も“Drink Ticket”だ。指定されたレストランで食事をすれば、食後にコーヒー、紅茶、オレンジジュース、一口ビールのいずれかをサービスしてくれる。このチケットを使わない手はない。

券面の説明を読む。「パスワードでお食事されたお客様にお飲み物をサービス致します」と書いてある。パスワード? これは何だろう。どこかに書いてあるパスワードを注文時に伝えれば、サービスにありつけるのか? なぜこのチケットだけではダメなんだろう? こんなふうに不思議がりながら、宿泊カードを見てみた。パスワードが書いてあるのならそこだろうと見当をつけたが、部屋番号以外に数字らしきものはない。パスワードはアルファベットの可能性もあるので、探してみた。パスワードだけに部屋のどこかに秘密の記号みたいに隠されているのか? まさか。

本来単純明快であるはずのことをなかなか解せないというのはストレスが溜まるものである。一つのことばから何かを感じたり勘を働かせたりするのは得意なほうなのだが、研修の疲れもあって思考停止状態であった。あれこれパスワードに思いを巡らしてしばしの時間が経つ。判明した! 一杯のコーヒーのために情けない探偵ごっこをしたものだ。


『パスワード』はホテル1階のカフェの店名であった。「パスワードでお食事をされたお客様にお飲み物をサービス致します」――とても明快である。明快であるが、パスワードが「ホテルズカフェ」ということを客が承知しているという前提に立っている。「パスワードと言えば、何のこと?」と連想クイズを出されたら、今時はネットがらみの事柄に思いを馳せる。あるいはJALANAの暗証番号。ついこのあいだネットでJALのチケットを購入するときに、パスワードが思い出せなくて苦労したばかりだ。どこの誰がご丁寧にも「パスワード? それはこのホテルのカフェです」と連想できるのか。

講演や研修の際に、ぼくは自分に戒めていることがある。それは、「受講生がぼくの言っていることを理解してくれていると安易に思い込まない」というものだ。つまり、他人は自分がわかってくれるだろうと思うほどにはわかっていないという想定である。他人の理解力に関しては、過大評価ではなく過小評価するほうが、念には念を入れて話をするようになる。

ぼくの勘も鈍ったものだが、ホテル側も「当ホテル1階のカフェ『パスワード』で」と念には念を入れるべきだ。カフェの名前が『アンジェラ』や『サン・ジェルマン』であったならば、ぼくも瞬時に飲み込めたはずである。いずれにせよ、謎は解けた。今から機嫌を取り直して、その『パスワード』に夕食に出掛ける。一杯の無料コーヒーのために。 

足し算のようで実は引き算

取り込んだり蓄えたりした情報がそっくりそのまま活用できたら言うことはない。そんな奇跡的なことができたら、誰も知的活動に苦労などしない。いや、情報を10アイテム仕入れてでも使えれば御の字だろう。だが、現実的には活用確率はもっと低い。バランスシート的に言えば、仕入れ過剰で売上お粗末。ぼくたち個人の「情報ビジネス」は間違いなく赤字である。情けないほどの累積赤字で、企業ならば倒産しているはず。

講座で使ったパワーポイントのスライドの何枚かを三ヵ月後の関連講座に流用する。一度見てもらっているので、「記憶にあるでしょうが、確認のために……」と切り出して解説するのだが、塾生はポカンとしている。記憶にないのだ。覚えているのは塾長をさせてもらっているぼく一人。三ヵ月前の内容でこうだから、「昨年取り上げたけれど……」なんて断らなくても、まず覚えていない。

教育業においてはもっともすぐれた学び手は「記憶力の悪いお客さん」である。毎回毎回新しいネタを駆使して講座を工夫する必要などないのだ。極端なことを言えば、毎年同じ内容の話をしても通用する場合が多い。商売として考えればいいのだろうが、そうはいかない。学習効果のない講座は塾長として敗北感が強い。何とかならないものか。


記憶力の良し悪しは人それぞれである。熱意や集中力や好奇心の度合も影響するだろうし、個々人の当面の課題範囲に話が絡んでくれば情報もよく定着するだろう。記憶した事柄を再生し、あわよくば別の情報と組み合わせて生産的に活用したい―そのヒントを記憶の検索トレーニングに見い出すことができる。

たとえば「りんご」ということばから思いつくかぎりの連想をしてみる。

リンゴ、林檎、アップル、apple、ふじ、ゴールデンデリシャス、青りんご、アップルパイ、津軽、青森、長野、小岩井、apple polish(ゴマすり)、医者いらず、白雪姫、ウィリアム・テル、ミックスジュース、皮むき、すりおろし、歯茎から血、……

これはシナプス回路を使って記憶情報を探った結果である。関連するアイテムを「記憶の大海」に潜って拾ってくる所作だ。つながっているものを拾ってどんどん増やしていくので足し算のように思えるが、実は、つながっていないものを引き算しているという見方もできる。

こんな演習もすることがある。キーワードを伏せておいて、ヒントを一つずつ与える。いくつかのヒントを組み合わせて、キーワードを発見するのである。

たとえば、最初のヒントが「洋服」。当然絞りきれず、大海での検索が始まる。しばらくして二つ目のヒント、「リサイクル」を与える。この時点で、何人かは「フリーマーケット」や「寸法直し」などを見立てる。当たっているかどうかはわからないが、大海が閉じられた湖くらいにはなってくれる。次いで「兄弟」というヒント。すでに見当をつけていた人は軌道修正をし、まだ何にも浮かんでいない人はさらに狙いを絞る。湖が小さな池くらいになる。さらに「節約」というヒントを出し、勘のいい人、つまり検索によって情報をうまく組み合わせることができた人はここでキーワードを発見したりする。池は岸辺の水たまりくらいになっている。最後のヒントは「順繰り」。これで、ほぼ半数以上の人が「おさがり」という、伏せられていたキーワードにたどり着く。茫洋としていた大海が一滴にまで凝縮したわけである。

ヒント、つまり情報が増えるにしたがって検索領域が狭まっていく。情報どうしのあの手この手の組み合わせは、実は創造的な一つの事柄をピンポイントで発見することにつながるのである。上記の「おさがり」の例は事前に取り決めた一つの正解探しだが、未知なる何かを求めるときも検索と組み合わせのプロセスは同じである。情報の足し算は記憶の引き算なのだ。

解決策を講じるのがプロの仕事

すべての職業のすべての仕事に当てはまる話でもないし、少々極論めくかもしれない。来週の金曜日に「仕事の手法」について私塾で講義する。テキストのプロローグで次のような一節を書いておいた。

仕事の振りをする、仕事をした気になる―これほど生産性の悪い態度・空気はない。「原因を分析」してほっと一安心しているから、官僚の仕事はいつまでたってもよくならないのだ。仕事の真価は「解決策を講じること」にある。

かねてから、仕事における本分は、調査よりも解決に、情報よりも提案に、ひいては分析よりも創造にあると考えてきた。もちろん、よく調査をしなければ解決策が出せないことも、情報収集なくして新しい提案ができないことも、分析力に基づかなければ創造もままならぬことはわかっている。わかったうえで敢えて指摘しておきたい。調査、情報収集、分析だけで仕事が終わった気になっている人々がいかに多いことか。


ずいぶん前にある調査結果が新聞で発表された。「設立10年未満の会社に倒産が多い」という大手銀行の発表である。時間と費用をかけて調べたものだが、「わざわざ調査したのか?」と記事をにらむ自分の目を疑った。

世の中にはこんなことすら調べないとわからない連中がいるのである。昨今企業寿命が縮まっているだの、かつての7年が今では1年というドッグイヤー説だのがはびこっているのは知っている。それでもなお、創業して10年未満の企業と10年以上存続した企業を比較してみれば、後者に安定感があるのは当たり前だろう。ぼくのオフィス近辺の居酒屋やレストランの新陳代謝は驚くべきものだが、店じまい組は開店3年以内に集中し、何とか10年以上続いている店は潰れずに頑張っている。

「設立10年未満の会社に倒産が多い」というありきたりの結論に異論はない。わざわざ調査という、ほぼ無意味な仕事をしたことに呆れ果てているのだ。いや、譲歩して調査したこともオーケーとしよう。だから、どうすればいいのだ? 何でもいいからヒントの一つでも示唆したらどうなんだ? と、言いっ放しを咎めたくもなる。創業してから10年以内に会社を潰さない解決策を示してこそ、仕事が完結するのではないか。


「競合他社はこういう取り組みをしている」「中間管理職に問題がある」「この街の景観はイマイチだ」「新たな市場にアプローチしてみよう」……このあたりから出発するのを否定はしない。仕事の前段階に調査や情報収集や分析を置くのは常套手段である。だが、ここまでが主たる仕事と化し、解決策を講じる仕事が付け足しになってしまっている。

診断上手の処方下手という医者は困る。設計上手の建築下手も勘弁願いたい。線路抜群で車輌お粗末という鉄道も遠慮する。仕事の真価は、最終顧客の満足、すなわち顧客が自ら解決できないことを見事に解決してあげることにある。それでこそプロの仕事だ。 

イタリア紀行11 「夜のそぞろ歩き」

フィレンツェⅤ

日が暮れて夕闇が迫りくる黄昏時。変な表現だが、「軽快な虚脱感」と「神妙な躍動感」がいっしょにやってくる。人の顔の見分けがつきにくくなり、「そ、彼は」とつぶやきたくなる時間帯を「たそがれ」と呼んだのは、ことばの魔術と言うほかない。英語の“twilight”(トワイライト)という語感もいい。

イタリア語の黄昏は“crepuscolo”(クレプースコロ)で、偶然にも「暮れ伏す頃」みたいに響く。この時間帯にホテルを出てそぞろ歩きを楽しむ。当てもなく街の灯りと陰影を楽しみながら、足のおもむくまま移ろってみる。気がつけば同じ道や広場を何度も行ったり来たりしている。そぞろ歩きという意味の“passeggiata”(パッセジャータ)にはまったく重苦しいニュアンスや深い意味はなく、「ぶらぶら一歩き」のような軽やかさがある。散歩まで義務や日課にしてしまってはつまらない。

フィレンツェは皮製品や銀細工にいいものが多く、黄昏時は地元の人々や観光客の品定めで賑わう。ミラノやローマの規模のブランド街は形成されていないが、フェラガモ発祥の地でもあり、他にも名立たるブランド店が随所に店を構える。ぼくの物欲はまったく旺盛ではない。だから、ショーケースを覗く程度で有名店の前を通り過ぎる。

これは国内にいても同じだ。ただ、物欲に歯止めがかからない例外が二つある。一つは、読みもしない本をせっせと買う癖。目を通しただけでおしまいという本が蔵書の半数を占める。二つ目は、酒飲みでもなく、せいぜい週に一日か二日ほどハイボールかワインをたしなむ程度だが、良さそうなワインをひらめきだけで買う癖がある。自宅にワインクーラーもないくせに、常時10本以上のワインが所狭しと立ったり寝たりしている。残念ながら、ワインは荷物がかさばるので旅行先ではめったに買わない。

ルネサンスの余燼が未だ冷めやらない街。いや、余燼という形容は正しくない。ルネサンス時代のキャンバスの上に現在が間借りしているのがフィレンツェだ。ここは至宝が溢れるアートの街である。ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』など美術の教科書に出てきた作品は見逃したくないが、決して欲張ってはいけない。どの美術作品をどこの美術館で見るかを考え出すとノイローゼになるからだ。建造物やあちこちにむき出しのまま立っている彫刻、石畳、昔ながらの工房などを見ているだけでも十分にアートな心地になってくる。

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黄昏のシニョリーア広場。画面左のアーケードはランツィのロッジャ(開廊)。彫刻が無造作に展示されている野外ミュージアム。
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シニョリーア広場の噴水、颯爽としたネプチューン像。
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夜のジョットの鐘楼。時刻は午後7時頃でも空は明るい。
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日が暮れてもヴェッキオ橋は賑わう。
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名画を模写する「地面画」。美術学校に留学する日本人女性の作品。
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韓国からの留学生の作品。チョーク状のパステルで繊細なタッチまで描いている。正午から有料で場所を借りて描く。深夜12時に容赦なく消されてしまう。
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フィレンツェでの唯一の買物は小銭入れ。使い古した茶色は4年半愛用している。紺色の新品が次の出番を待つ。

前提から結論を導く

「論理的思考(ロジカルシンキング)」と「ロジカルコミュニケーション」という二つの研修はぼくの定番リストに入っている。いずれも研修冒頭で気を遣う。論理は重要なヒューマンスキルであるが、万能薬と理解されては困る。ぼくには「発想(ひらめき)」をテーマにした別の研修もあり、論理的思考と創造的思考のあいだに相反するものがあることもわかっている。

日頃安易に「筋が通っている」という意味で使っているが、「論理的」ということばはなかなかの難物だ。論理はもともと学問用語で、「ある前提から蓋然性十分な結論を導くときの考え方の筋道」である。論理学入門の本を手にしてかじろうとしても、こんな文章に出合って愕然、読むのを放棄したくなるだろう。前提と結論、それに蓋然性をわかりやすく説明してみよう。

コンクリートの床がある。
きみは右手に生卵を持っている。

この二つの文章のどちらにも「論理的」というラベルを貼ることはできない。証明さえできれば、それぞれの文章は事実なり証拠と呼ぶことができる。論理とは無関係という意味で、「無論理的」と呼んでもいい。ちなみに、ややこしい話だが、無論理的と非論理的は違う。

きみが右手に持っている生卵をコンクリートの床に落とせば(前提)、割れるだろう(結論)。

日常感覚ではこれで一応筋が通っていて、「論理的」と言える。前提と結論のあいだに筋道があり、納得できる。「だろう」というのが蓋然性で、「実際におこりうる確率」を表している。「十中八九割れる」でもいいし、自信があれば「間違いなく割れる」と結論づけてもいい。蓋然性とは、前提から結論が導かれる確かさの度合いである。


上記の文章、正確に言えば、言及不足だ。前提が不十分なのである。日本社会のように、「人はみな同じ」と考える同質性が高い風土では、わざわざ「生卵は壊れやすい」と「コンクリートの床は硬い」という説明をしない傾向がある。しかし、論理が生まれた背景には「人はみな違う」という異質性があるので、誰にでも明快にわかるよう「ことごとく」説明しようと試みる。「わかってる。もういい、みなまで言うな」という発想は、論理思考にとっては致命的な欠点になる。

生卵は壊れやすい(前提)。コンクリートの床は硬い(前提2)。ゆえに、きみが右手に持っている生卵を落とせば、割れるだろう(結論)。

面倒臭いが、このように推論してはじめて結論の蓋然性が十分に定まってくるのである。

類例を紹介しておこう。ある論理学の本に「よく吠える犬は弱虫だ(前提)。うちのポチはよく吠える(前提2)。ゆえにうちのポチは弱虫だ(結論)」という文があった。演繹推理と呼ばれ、三段論法で論証されている。しかし、これでは不十分なのである。なぜか? 前提2で「ポチ」を勝手に「犬」と決めているからである。もし亭主がポチという名前なら、この文は論理的に成立しない。

余談になるが、ことばの省略と論理・非論理は密接な関係にある。「あの店はうまい」と誰かが言うと、「店は食べられないぞ」と誰かがツッコミを入れる。実は、このツッコミはお笑いの専売特許ではなく、非論理をとがめる検証の役割を果たしている。「あの店は(調理して客に出している料理が)うまい」で納得。この例からもわかるように、文章表現というものはおおむね、説明を抜くと創造的になり、説明をはさんでやると論理的になる。