「考えないこと」を考える

知らないことを知る――これが昨日のテーマであった。考えてみれば、当たり前のことである。何も知らないまま生を受けてからずっとそうしてきた。知らないことは無限だから、生あるかぎり知るという行為に出番はある。けれども、人はわがままだ。「知らないことをわざわざ知ろうとしなくても、知っていることだけで十分ではないか。それで差し迫って困ることもなかろう」という具合に考えて、知ることを面倒だと思うようになる。

これと同じことが「考える」ということにも起こる。考えられる範囲でのみ考える、複雑なこと・むずかしいこと・邪魔くさいことは考えない。いつも考えている手順・枠組み・パターンで考える。つまり、「考えないこと」を考えようとしなくなるのである。

「考えられないこと」と言っているのではない。「考えられないこと」はすぐには考えられるようにはならない。考えた時点ですでに「考えられないこと」ではないからだ。ぼくが意味しているのは、「ふだん考えないこと」である。あるいは「めったに考えないこと」である。これが簡単なようで簡単ではない。よく自分の思考状況を振り返ってみればわかる。いつものテーマを常習的な言語体系と慣れ親しんだ道筋で考えている。テーマが新しいものに変わっても、思考の方法はあまり変わることはない。


たいていの場合、「考える」は「流用する」や「なぞる」や「調べる」などと同義の内容になっている。特に茫洋と構えて考え事をしていると、ほとんど考え事に値しない時間だけが過ぎていく。新しいアイデアが出ないのは、ある種の考え方の上塗りをしているからであって、その結果出てくるのは既存知識に一本毛の生えた程度のものにすぎない。

「物事を自力で考えよ」など、まったくその通りと共感する。この「自力」というところがたいせつだ。他人や世間がどうのこうのと気にせずに、従来とはまったく異なる手順・枠組み・パターンに挑戦すること――これが自力である。

たとえば「よく考えよ」と言われると、たいてい深く考えようとする。一つのことを掘り下げて考える癖が出る。あるいは熟考してしまう。しかし、その一つのことについては、いつもよく考えてきたのではないか。それ以上ほんとうに考えることができるのか。ぼくたちは行き詰まりを避けようとして、「いつもの考え方→いつもの熟考」を繰り返しているだけではないのか。

もっとも手っ取り早く「考えないことを考える」には、深堀などせずに、見晴しをよくして広く考えればいい。そうすれば、テーマも思考パターンも枠の外に出る。必然容易に手に負えなくなる。これが「考えないことを考える」出発点になる。つまり、「いつもの考え方→行き詰まり→別の考え方」を強制するのである。いつもの考え方で生まれるようなアイデアが楽しいか。それでプロフェッショナルなのか。そもそもそのアイデアを求めてくれる人が世間にいるのか。

ほとんどの仕事は「考えること」を基本とし必要とする。行き詰まりの傷が思考の勲章であることを忘れてはならない。 

「知らないこと」を知る

十数年前、東京で「ディベート入門」の講演をした。そのときのレジュメが残っていて、「由来」から始まっている。初物を学ぶ人たちを対象にするとき、ズバリ本陣に切り込むのか、はたまた外堀を埋めるのかに悩む。それでも、最終的にはきっぱりと聴衆の層によって決める。まだキャリア不十分の若手にはストレートにハウツーから入る。仕事や他分野で経験や実績のあるビジネスパーソンに対しては、敢えて迂回して本題に近づいていく。

その講演でディベートの由来を冒頭に置いたのは、キャリア豊富な聴衆への敬意のつもりであった。古代ギリシャのソフィストであるプロタゴラスの話を少し、それからアリストテレスの弁論術から「相反する命題のいずれをも説得できる技術」についても触れた(ディベートの肯定側と否定側は相反している。論者はいずれの立場でも議論する必要があるので、この話は初心者には重要なのだ)。

反応もよく、まずまず順調に話を進めていき途中休憩となった。熱心に聴いてくれていた――少なくともぼくにはそう見えた――数歳年長の経営者が歩み寄ってきて、ぼくにこう言った。「先生、アリストテレスの話なんて興味ないですよ。あんなのいらないです。わたしたちはビジネスに役立つディベートを学びたいんですから」。その会合の重鎮ゆえか、その人は聴衆全員を代弁するかのようにコメントした。講演の後半も残っているので議論せず、ありがたく拝聴しておいた。

この人が何かにつけて一言批評を垂れる癖の持ち主であることを知ったのは後日のこと。その後も何度か会い話をするうちに、「知らないこと」にケチはつけるが、知ろうと努力しない人であることもわかった。


何でもかんでも知ることはない。ディベート初心者が直感的に「アリストテレスはいらない」と判断を下してもいいだろう。その代わり、知らないことはいつまで経っても知らないままだ。「知らないこと」を知ろうとする背後には好奇心もあるが、縁という要素もある。「縁あって」ぼくのディベート入門の話を聴きに来られたのだから、行きがけの駄賃のごとくちょっと齧っておけばいいのではないか、とぼくは考える。

さて、「縁あって」ここまで読んでくださったのなら、ついでにアリストテレスの話に耳を傾けるのはどうだろう(『弁論術』第23章 説得推論の論点)。

証明の主眼とする説得推論の一つの論点は、相反するものに基づいてなされる。すなわち、何かと反対なものに、その何かが持っている性質とは反対の性質が属しているかどうかを調べ、もし属していなければその命題を否定し去り、属しているなら是認するようにしなければならない。例えば、「節制あることはよいことである。なぜなら、放埓ほうらつであることは害をもたらすから」という命題がそうである。

むずかしいことが書いてある。〈節制⇔放埓〉が相反する価値である。節制の正反対の放埓が「害」であるならば、節制はその反対の性質である「益」をもたらす、ということだ。アリストテレスの本意と少しそれるかもしれないが、わかりやすく応用してみよう。「清潔な店は成功する。なぜなら、不潔な店は失敗するからである」。「清潔な店は成功する」と言われてみると、なるほどそうかもしれぬと思う。しかし、不潔な店でありながら失敗せず、それどころか繁盛している屋台だってある。とすれば、「清潔」は店が成功する絶対要因ではないことがわかる。

店のビジネスのあり方を考えるヒントになるではないか。「アリストテレスなんていらん」と言い放ったあの人は、ビジネスに役立つディベートを主張した。何のことはない、一工夫すればビジネス命題にもなるではないか。無関係で役立たないように見えても、知は必ずどこかで繋がっている。   

論理が飛躍したり抜け落ちたり

どういうわけか知らないが、ぼくのことをガチガチの論理信奉者のように思っている人がいるらしい。あるいは、「理性と感性、どっちが重要か?」などとしつこく迫ってきて、無理やりに「そりゃ、もちろん理性だよ」とぼくに言わせたくてたまらない塾生もいる。だが、昨日の「川藤出さんかい!」を読んでもらえばわかる通り、ぼくは論理の飛躍や欠如から生まれる不条理やユーモアをこよなく愛している。仕事柄論理や理性にまつわる話をよくするが、四六時中そんなことを考えているはずがない。

「川藤の話、思い出して久々に笑いました。この流れと、今でも使えますね。モルツのコマーシャルは他の作品もよくできていました。一つ、ナンセンスものとして印象に残っているのが、ヤクルトです。たぶんご存知でしょうが、ご紹介しておきます……」

昨夜、ブログを読んだ知人がメールをよこしてきた。彼が察した通り、ぼくはそのコマーシャルを知っていた。知ってはいたが、そうやすやすと思い出せるものではない。これはと思った広告コピーはだいたいノートにメモしている。このヤクルトのもどこかに記した記憶がある(ぼくは二十代後半から三十代前半にかけて広告やPRのコピーを書いていて、名文系・おもしろ系を問わず、気に入った文章を集めていた。この癖は今も続いている)。

知人が思い出させてくれたコマーシャルがこれだ。

「なんで(ヤクルト)毎日飲むの?」
「からだにいいからでしょ」
「なんでからだにいいの?」
「毎日飲むからでしょ」

ナンセンス論理の最たるものに見えるが、「なんで」の問いを「何のために」と解釈したり、あるいは「何の理由で」に置き換えてみると、おやおや意味が通っているではないか。因果関係的には、「毎日飲む(因)→身体にいい(果)」である。目標条件化してみると、「身体にいい」という目的を達成するための条件の一つが「毎日飲む」ということになる。

「ヤクルトを毎日飲む目的は何か?」「健康のためである」――これはよし。
「なぜヤクルトは健康にいいのか?」「毎日飲むからである」――これもよし。

四行まとめて読むとナンセンスだが、前の二行を目的の質問と応答、後の二行を原因の質問と応答というふうに読めば、やりとりはちゃんと成立している。


感謝の気持を込めて、今朝ぼくが送りつけたコマーシャルメッセージ。

「メガネはカラダの一部です。だから東京メガネ」

どうだろう、たまらないほど強烈なロジックではないか。これこそ、居合わせた人々全員をよろけさせる天然ボケの力だ。論拠を抜いてやると文章は滑稽になるのである。 

方向性とその含意

かつて「そこのところ、ひとつよろしく」は、「どこをどれだけよろしくするのかわからない」けれども、何とかよろしく取り計らわれたものである。これでもコミュニケーション効果があったのだ。今ではメッセージ性が失われた虚礼語になり果ててしまった。意味が通じることを過信してはいけない。意味を共有することは大変なことなのである。意思疎通コミュニケーション意志疎通不全ディスコミュニケーションはいつも拮抗している。そう考えておくのがいい。


リーダーは方向性を示した。部下はその方向性を額面通りに理解して、具体的な行動に移した。しかし、その行動はリーダーの思惑とはまったく異なるものであった。「おい、含意を汲んでくれ、含意を」とリーダーは命令調で懇願する。

行動は指示された方向に向いてはいるのだが、なんだかしっくりこない。読むべきところが違っているのである。よくある話だ。「頑張れとは言ったが、徹夜までしろとは言ってない」などもその一つ。「頑張る」という方向性の中に徹夜というアクションはありえるだろう。しかし、肉体を疲れさせるそんな策を期待したのではない……というわけ。

「ことばの微妙なあやを理解してくれない」というぼやきをよく耳にする。「行間を読ませようとしたりニュアンスを伝えようとしたりしてもダメ。一言一句、野暮なくらいに指示しないととんでもないことになる」――ふだんギャグ連発の課長たちが真顔になってこんなふうに嘆く。そもそもコミュニケーションはその本質においてこのようなストレス要因を秘めるものなのだ。


思い浮かぶのは10年以上前のモルツのテレビコマーシャル。覚えている人もいるだろう。観客の一人である桂ざこばが、「川藤出さんかい!」と叫ぶ。その声が届いたわけではないが、モルツ球団のベンチは「代打川藤」を告げる。川藤、ベンチから出て素振り。その姿を見て「ほんまに出して、どないすんねん」と呆れるざこば。

そう、まさにこんな感じである。感情が高ぶって「出さんかい!」と言ったまでで、ほんとうに出せとは言ってはおらん。世間のリーダーたちはこの本意をわかってほしいのだろう。とりわけ桂ざこば型の、すぐに苛立つリーダーが課す指示はことば足らずで極論めく。だいたいこのタイプは甘えん坊ゆえ、「指示の背後にある自分の気持を汲んで考えてほしい」と部下に言っているつもり・・・なのだ。だが、意に反して指示はそっくり額面通りに実行されてしまう。己にも非があることに気づくので、呆れるか苦笑いするしかない。

含意が伝わらない、汲んでもらえないというのはゆゆしき問題か? いや、実はそうではない。もどかしくストレスも溜まる一方で、ユーモアやジョークが生まれてバランスを取ってくれるのである。いつの時代もコミュニケーション行動は、通じる生真面目と通じない非真面目をともなっている。

懐かしい世界遺産マテーラ

今日は〈週刊イタリア紀行〉はお休み。次回からはペルージャ、その後にボローニャをそれぞれ3回の予定で書くつもり。まだローマを取り上げていないし、写真が少ないために見送っているヴェローナ、ポンペイ、コモ、ナポリなども残っている。

夕方6時のテレビ番組『世界遺産』はバジリカータ州の洞窟都市マテーラだった。実は、ぼくはマテーラにも行った。行ってはいるが、その想像を絶する光景にカメラを構えるのをつい忘れ、撮影枚数がきわめて少ない。それでも10数枚はあるのだろうか。ただマテーラについて帰国後に次のような走り書きの感想を書いている。

マテーラはまるで映画のセットのようだった。ミニアチュアの模型のようでもある。

おとぎの国アルベロベッロとは異なる圧巻ぶりだ。何でこんなものがこの世に存在するのか。対面の山肌には七千年前の洞窟住居跡が見えている。ピラミッドや万里の長城とは違って、この洞窟群では人間たちが日常的に生活していた。日々ここで暮らしていたというのがすごい。

旅人として一瞬佇めば、かくれんぼ遊びの衝動にかられる。だが、実際に暮らすのは大変だ。ここに一夜でも身を投じてみれば洞窟での営みを少しは理解できるのだろうか……。

鳥が岩穴に巣を作るように、かつて人間もこの岩肌に小さな穴を見つけて、身を寄せた。さらにその後、石を切り出して穴を広げたり奥へ掘ったりして、切り出した石をブロックにして積み上げ住居を作っていった。生きる知恵はとてつもないものを築くものだ。


このマテーラの新市街地のバールで、イタリア初体験のアイスコーヒーを飲んだ。イタリア語で「カフェ・フレッド」と注文したら、氷の入っていない常温のコーヒーだった。わざわざ冷やすのではなく、「冷めた」という感覚である。イタリアではフレッド系のコーヒーを注文してはいけないことを学んだ。

TBSの世界遺産は欠かさず見るようにしているし、DVDにも収めている。マテーラについてもサイトではコンパクトにまとめて紹介してくれているので、ぼくの下手な講釈に物足りない人には一読をお薦めしておく。 

続・対話とスピーチ

スピーチが面白くないのは、多数の聴衆に向けて準備するからである。多数を相手にするから、冒頭は「皆さん」で始まり、上位概念のことばが連なるのである。世間にスピーチ上手という人たちがいるが、流暢で弁舌さわやかだから上手なのではない。名人級はスピーチという形式の中に「トーク」の要素を散りばめる。トークとは「一対一の対話」であり、必然ことばも描写的になり論理的になる。いい加減に、「論理イコール難解」という幻想を取り払ってほしいものだ。「論理イコール明快」こそが本筋なのだから。

まあ、スピーチが面白くないのは許すとしよう。けれども、スピーチに慣れてしまうと言語力が甘くなるから気をつけるべきだ。覚えてきた筋書きを再現するばかりだと、言語脳は状況に応じたアドリブ表現を工夫しなくなる。ただ聴いてもらうだけで、検証も質問もされない話は進化しない。そんな話を何万回喋っても言語脳は鍛えられない。

他方、対話には共感も異議も説得も対立もある。状況はどんどん変わるし展開も速い。そこには挑発がある。一つの表現が危うい論点を救い、相手の主張を切り崩してくれることもある。対話は生き物だ。想定の外にテーマや争点が飛び出す。少々嫌悪なムードになることもあるが、慣れればアタマに血が上らなくなる。何よりも、対話はスピーチよりも脳の働きをよくしてくれる。


(A)起立をして大多数の前で話そうとすると、ついフォーマルになり形式的になり空理空言が先行する大仰なスピーチをしてしまう。

(B)一対一で座ったまま話す習慣と論理的話法の訓練を積むと、対話の波長が身につく。

(B)ができれば、実のあるスピーチができるようになる。対話力はスピーチにも有効なのだ。しかし、(A)のタイプはことごとく(B)にはなれない。「今日は座ったままディベートをしよう」と申し合わせても、ついつい起立してしまう者がいる。スピーチに慣れすぎるとカジュアルトークができなくなってしまうのだ。ロジカルでカジュアルな話し方を身につけようと思ったら、起立して「皆さん」から始めるのをやめるのがいい。

十年ほど前、スピーチ上手で名の知れた講師と食事をしたことがある。ぼくより20歳以上先輩になるその人は、講演していても絶対に「噛まない、詰まらない、途切れない」。しかも、喜怒哀楽を見事に調合して巧みに聴衆に語りかけたかと思うと、絶妙に自己陶酔へとギアチェンジする。だが、ぼくと二人きりで食事をしていても、講演とまったく同じ調子。あたかも数百人の聴衆に語るかのように喋るのだ。数十センチの至近距離。これはたまらない。たまらないので、話の腰を折るように「リスペクトしない質問」をはさむ。するとどうだ、その先生、フリーズしてしまったのである。「な~んだ、この人、テープレコーダーの再生機能と同じじゃないか」と落胆した。スピーチ屋さんは変化球に弱いのだ。

対話とスピーチ

顧客の究極の絞り方の模範は手紙であると先週書いた。話は顧客だけにとどまらない。ビジネスとは無関係の、ふだんの自分の話し方が個別的であるか、あるいは一般的であるかとも大いに関わってくる。

ディベートを学んでいた二十代の頃から、ぼくは結構熱心にアリストテレスの『弁論術』を読んでいた。紀元前に書かれたこの書物からは今もなお学べることが多い。確実に言えるのは、この弁論術を「スピーチ」と解釈し、スピーチを一対多のコミュニケーションに仕立ててしまったこと。その結果、わが国の話法が儀礼的に流れてしまう伝統を育んでしまった。

弁論大会ということばから、事前に準備した原稿を丸暗記してスピーチする状況を連想する。さらにひどくなると、質疑も答弁も冒頭の挨拶もすべて原稿の丸々読み上げということになる。すでに作られたものを再生する儀式である。この儀式然とした弁論とアリストテレスの弁論はまったく異なる。アリストテレスが唱えた弁論術は、説得と推論にまつわる言語とレトリックと論理の技術に関するものだ。大半が聞かなくてもいいメッセージでこね回されたスピーチは日本の特産品と考えて間違いない。

スピーチは欧米でよくジョークのネタにされる。一人の弁士が好き勝手に多数に向かって喋るスピーチは不愉快と苦痛の代名詞であり、神経性ストレスの最大要因と思われている。

「今日の第二部の冒頭は長いスピーチになるらしいぜ」
「そりゃいかん、胃薬を飲まないと」
「スピーカーは英語の下手な日本人だ」
「ますますいかん、胃薬を倍の量にしないと」

国際舞台では、「スピーチ×日本人×英語」は最悪の構図になっている。

続・ネタはランチタイムから

わが国で消費税が導入されたのが198941日。エイプリルフールの日であったが、決して冗談ではなかった。当初は中途半端な3%によく戸惑った。いや、戸惑いは数年間ほど続き、ものを買うたびに掛け算して小数点以下の端数まで計算していたものだ。消費税率を3%にした背景には、国民の乗算力強化という狙いがあったに違いない。

消費税導入から5年ほど過ぎたある日の手帳に、ハヤシライスを昼食に食べに行った話が書いてある。まだ十分になじめていない様子が浮かんでくる。

昼食にカレーショップでハヤシライスを食べる。座って注文して待つこと20秒。早速出てきた。「お待たせしました」。(待ってない、待ってないと内心つぶやく。) その店員さん、「前払いとなっています。618円になります」と告げる。ハヤシライスは600円。これに消費税3%が加算されて618円。消費税のせいで、価格が落ち着かない数字に化けてしまう。

お店の方針だから前払いに抵抗することはできない。言われるがままに支払った。しかし、考えてみれば、このシステムは変なのである。場合によっては、食後に200円のホットコーヒーを付けてもらおうと思っていた。同時に頼まないのはぼくの習性。ランチのまずい店のコーヒーがうまいはずがないからである。この店は初めてだったので、ハヤシライスの味次第でコーヒーを追加しようと目論んでいたわけだ。

ところが前払いなのである。まず、ハヤシライス代のお釣りが82円。それがうまいということになってコーヒーを頼むと、再び前払いとやらで206円。全部終えてから精算すれば、合計824円。面倒な一円単位のやりとりを一度で済ませることができる。ハヤシライスはぎりぎり合格点だったが、何だか面倒になってコーヒーは頼まなかった。昨今、ショットバーなどで「キャッシュ・オン・デリバリー」というのがあるが、あれだって一円玉や五円玉を出したり受け取ったりしていては格好がつかない。

ハヤシライスを食べていたぼくの隣りのオバサンは、カレーライスを二口、三口食べたところで「すみません、生卵一つ」と注文した。食事の最中にバッグから小銭入れを取り出して51円を差し出した。何だかスケールの小さなママゴト遊びをしているような光景に見えてきた。


やがて消費税は5%になった。税率アップに関しての是非はさておき、多めに払うことになったものの掛け算はとても楽になった。小学生の頃、九九が苦手だった人も五の段だけは七や九の段より得意だったはずである。

こんな体験がトラウマになっていて、消費税引き上げ論よりも何パーセント引き上げるかに関心がいってしまう。何が何でも7.7%などというのは阻止せねばならない。それなら8%にしてもらったほうがましだという気になる。えい、ままよ、いっそのこと10%にしてくれよと懇願したりして。なるほど、こうして13%よりは15%になるのか。ちょっと待てよ、17%などにされてはたまらん、それなら20%でよろしく――こんな調子でアップしていくのだろうか。

しかし、世界各国の消費税率を見てみると、キリの良し悪しはあまり関係なさそうだ。フランスの19.6%やイギリスの17.5%なんていうのもある。キリのいいのは先進国ではイタリア(20%)とオーストラリア(10%)くらいだ。

仕事の合間のランチタイム。ぼくは弁当ではなく、なるべく外に出る。弁当主義の方にも週に一度の職場離れをお薦めする。仕事と職場を切り離した五感でネタを拾う。いや、拾わなくてもいい、勝手に入ってくることがほとんどだ。何かを発想したり調べたりするきっかけになってくれることを請け合う。  

ネタはランチタイムから

その昔、朝日新聞の天声人語で「困ったときは動物園ネタ」というのが紹介されていた。上野動物園に電話をかけるなり出掛けて行くなりして話を聞くのだそうだ。なるほど、動物ネタは好感材料である。ブログもそうだが、毎日何かについて書くというのは大変だ。ぼくなど毎日登板しないから、さほどでもない。また、書くのが億劫ではないので、ネタさえあれば短時間で綴ってしまう。

「ブログのネタに困ったらランチに行け」というのが今日の話のネタではない。ブログがそこまで負担ならさっさとやめてしまえばいい。ここで言うネタとは、仕事のネタ、特にぼくの場合は企画のネタや講演のネタや談笑のネタのことである。いや、ネタそのものでなくとも、ネタの触媒であってもいい。ほぼ毎日一回体験するランチタイムを、ただ腹一杯にするだけの時間にしてはもったいない。箸を動かしながらも店舗観察、人間観察、慣習観察をするのは楽しい。ランチタイムはネタの宝庫なのである。

鰻をネタに何度かブログを書いた知人がいる。この人、これからも書きそうな気がする。彼には大いに共感する。どういうわけか、鰻屋では初めての体験や傑作な光景に出くわす確率が高い。今から14年前のノートにも鰻屋の話を書いているので紹介しよう。


昼食に鰻を食べた。昼はなるべく野菜を多めに取るようにしているが、いきおい中華丼(中華飯)や五目焼きそばということになってしまう。それでは飽きる。たまには鰻丼も悪くない。と言うわけで、ピークを過ぎた時間帯に一人で鰻丼を食べに行った。食べ始めてしばらくすると、年恰好70歳くらいの男性がお勘定に立った。お勘定を終えて、調理場のほうに向かって店の大将に話しかける。

「○○に勤めていた何々です。大将、覚えておられますか? この界隈に30年ぶりに来ました。懐かしいですわ」

しばし会話が続く。最初一瞬首をかしげた大将、話をしているうちに思い出した様子である。それだけ久しぶりとなると、最後にそのお客さんが来たのは推定40歳頃になる。よくぞ大将が思い出したと感心するが、顔を思い出したのではなくて「〇〇」という社名から記憶がよみがえったのかもしれない。

老人が店を後にして、残った客はぼく一人。しばらくして店員の二人の姐さんの会話が始まる。姐さんたちも還暦前後である。

姐さんA 「三十年前なあ。十年一昔言うから、”三昔”やね」
姐さんB 「ほんまほんま。そんな昔、まだ生まれてへんわ」
姐さんA 「そらそうやわ。わたしがちょうど生まれたかどうかいうくらいやもん」

ここでご両人、自分らの会話に大爆笑。大阪では、吉本新喜劇にわざわざ行かずに、鰻屋でミニ漫才が楽しめる。


さっき中華のランチから帰ってきた。スタッフと二人で食事をした。仕事の話に夢中で、周囲の”ネタ”探しはできなかった。ネタを見つけたいなら、ランチは一人で行くにかぎる。ランチタイムは「探知タイム」である。 

顧客――究極の絞り込み

「情報スキマー」に関連した話。つまり、顧客絞り込み論の続編。

顧客が情報をまともに読み取ってくれない。目を向けてもほんの一瞬スキミングするだけ。その情報が個別的でないから、なおさら見過ごしたり見落としたりしてしまう。不特定多数へのメッセージには気づきにくいのである。

それではとばかりにメッセージに個別的な仕掛けをしても、大半の顧客は情報が自分に向けられたものだとはなかなか気づかない。たとえ気づいたとしても、まさか自分向けとは思ってくれない。「そこのあなた! そう、あなたですよ!」と声を掛けてもらってはじめて気づいてくれる。皆さんからあなたへと二人称複数を二人称単数にしなければならない。

当たり前すぎて恐縮するが、「すべての人たちに向けたありとあらゆる食料」は存在する。存在するが、わざわざ「すべての人たちに向けた」と言うまでもないだろう。そう、これは、「総称としての食料」を意味しているにすぎない。存在はするが、特定はできない。つまり、「すべての人たち」は「すべての食料」に吸収されてしまう。

「すべての食料」を売り込むのはむずかしい。「好き嫌いしないように」とか「自然の恵み」くらいしか言えない。「イチゴ」や「ビール」や「焼肉」は、その他すべての食料を敵にまわしても容易に負けない。このことからわかるように、売りたいものを絞り込むのも不可欠。加えて場面も絞り込んでみると、「小学校低学年のおやつにイチゴ」とというポジショニングが完成する。小学校低学年を「お宅の八歳の男の子」に、イチゴを「〇〇県産品」に、それぞれをさらに個別化することができる。


ポジショニングとは、「その商品は誰のために何ができるのかという固有の公式」である。「二十歳から四十代の女性の肌に潤いを与える乳液」などはまだまだ絞り込み不十分。その乳液を二十代の女性が嬉々として使いたがるとは思えない。つまり、「二十歳から四十代」というのは「四十代」に等しい想定になる。数年前にある化粧品会社が「28歳のわたし」をコンセプトにしたが、これなら逆に二十歳から四十代をカバーすることができる。

ここがポジショニングにまつわる不思議なのだ。顧客を広げると広がらない。顧客を絞ると広がってくれる。同様のことは、商品やサービスの特徴の絞り込みにも当てはまる。特徴多くしてコンセプトは埋もれ、特徴一点主義にすればコンセプトが際立つ。

何のことはない、これまでの話のポイントは「手紙を書くこと」と同じ要領なのだ。手紙は原則として私信であり、たった一人の固有名詞に向けられた、個性色の強いメッセージである。ゴミ箱へ直行することが多い、無差別DMや迷惑メールとはわけが違う。あたかも一通の手紙を書くように――これが顧客を絞り込む最大にして唯一のコツである。