パラレル読書術

テープレコーダーの話を持ち出すと、「古い!」と片付けられそう。ぼくが二年半前に買ったミニコンポはCD/DVDMD、カセットテープ対応。別にDVD専用機があるので、このミニコンポの主な用途はCDである。MDもカセットテープもめったに使わない。

 つい15年くらい前まではカセットテープで何でも収録していた記憶がある。それ以前に主宰していた勉強会の講座はほとんど録音してあるが、すべてカセットテープ。保存はしているが再生したことがないので劣化しているかどうかもわからない。

カセットテープのように、時系列で記録するのを「シーケンシャル」という。片面30分のテープで話を収録した直後に巻き戻して、たとえば最初の5分間を再生してから10分間をとばして次の5分間を聞こうと思ったら、早戻しや早送りを何度か繰り返さなければならない。CDDVDにすっかり慣れてしまった今ではかなり面倒な作業だ。

脳はCDDVDと同じくランダムアクセスな機能をもつ。それをカセットテープのように順序制御中心の使い方をしていては損である。情報を取り込むにしても活用するにしても、あちらこちらへとジャンプして記録・再生するのが望ましい。このことは読書にも当てはまる。


一冊の本、たとえばAを完読する。次いでBという本を読了する。さらにCへと移る。この読書行為はカセットテープの機能によく似ている。三冊の本、ABCはテープに読んだ順序で記録される。Aの情報のみ残像となってBCの読書に何らかの影響を及ぼすが、Aの本を読んでいる時は、Bの内容もCの内容もAに影響することはない。Aを記録している時は、BについてもCについても読者にとってはまったく未知の状態だ。

ぼくはこの読書の方法が機会損失だと考える。仮に一週間か10日間で三冊の本を読むのなら、ABCA……というような相互に関わる読み方をしたほうがいい。つまり、三冊並行して読むのだ。そうすれば、ABCの三冊の内容が互いに影響を及ぼし合って、情報の相乗効果が生まれる。まさに脳の並行処理機能に自然な知識の形成や融合、編集が可能になるのだ。こういう読み方を〈パラレル読書術〉と名付ける。

読みたい本を選んだまではいいが、一冊最後まで読むだけのテンションを保てない内容のものだってある。そんなとき、飽きれば別の本を読めばいい。ABCをしっかり読むよりも、行ったり来たり拾い読みするほうが定着も活用もうまくいく。ぜひ試していただきたい。但し、小説などの読み物やストーリー性の高い書物はこのかぎりではない。 

イタリア紀行9 「南岸と橋と料理」

フィレンツェⅢ

ミケランジェロ広場から街の景観を楽しみ、直線なら250メートルほどの川岸までジグザグ状に下っていく。振り向けば要塞へと続く城壁跡や門が見える。アルノ川沿いの通りを西へ歩くと、グラツィエ橋。ここからさらに400メートルのところにヴェッキオ橋が架かっている。フィレンツェを訪れるすべての観光客は必ずこの橋を渡る。日が暮れたあと、西200メートルのところに架かるサンタ・トリニタ橋を眺める。ライトが川面に溶け込んでほどよく滲む夜景にしばし立ち止まる。

「食とワインはトスカーナにあり」という表現には逆らえない。トスカーナの州都フィレンツェは旨いものへの期待を決して裏切らない。逆に言えば、食、とりわけ肉料理に好き嫌いの多い旅人にとってはフィレンツェの値打ちは半減する。牛、豚、鶏は当然として、サラミと生ハムのアンティパスト(前菜)はほとんどすべての店で定番。羊、ハト、ウサギ、ヤギもある。

街中に屋台がある。そこでの名物は「トリッパ(trippa」(牛の胃袋ハチノス)の煮込み。これをパニーニにはさんで頬張る。トマトソースとバジルソースの二種類の味付けがあり、いずれもニンニクがたっぷりきいている。このような屋台出身のオーナーが始めた「トスカーナ風ホルモン料理店」をランチタイムに訪ねた。「トリッペリーア(tripperia」と呼ばれ、文字通り「牛の胃袋料理専門店」という意味である。乳房のグリル盛り合わせやホルモンの熱々コロッケなどの店自慢の料理が数種類。臓物は好物なので、クセがあっても平気だが、この店の料理はとても洗練された味に仕上がっていた。

しかし、何と言ってもフィレンツェ随一の名物は「Tボーンステーキ(bistecca alla fiorentina」だ。重さ700グラムなど当たり前で、店によっては1キロという大迫力もある。二人や三人で頼むと、これ一品でおしまい。他の料理には手を出せなくなってしまう。というわけで、肩ロースを焼いて少量をあらかじめスライスしてある「タリアータ(tagliata」をレアで頼む。ちなみに、レアは“al sangue”。これは「血のしたたる」という意味だ。

Toscana1 059.jpg
ミケランジェロ広場から川岸へ下る途中、丘陵地帯を振り返ると、かつての要塞へと続く城壁跡が見渡せる。
Toscana1 065.jpg
地元の人がよく通うトリッペリーア。ずばり「店」という名前の店。
Toscana1 190.jpg
北岸から眺めるヴェッキオ橋。たしかに橋なのだが、店舗が入った建物の構造になっている。
Toscana1 191.jpg
川岸の飾り柱に旅行者が記念に錠をかけていく。
Toscana1 068.jpgのサムネール画像
ヴェッキオ橋から西へ二つ目のカッライア橋。滞在中はこの橋を使って歴史地区へ足を運んだ。
Toscana1 341.jpg
ヴェッキオ橋から眺める黄昏時のサンタ・トリニタ橋。

もし~がなくなったら……

いま手元にエドワード・デ・ボノ編『発明発見小事典』という、初版が昭和54年の古い本がある。本棚の整理をしていたら見つかった。愛読書というわけではないが、マーケティングの講義で製品事例を取り上げるときに時々参照していた。巻頭で監訳者が、この本の原題にもなっている「ユリーカー!」について書いている。一部だが、そのまま引用してみよう。

「この王冠は純金なのかそれともにせ物なのか」という王の質問にたいし、アルキメデスは、湯ぶねにつかったときからだが浮き上がった瞬間に正解を得たのであった。そのとき彼の叫んだ言葉が「ユリーカー!」である。「わかった」とか「できた」とかいう意味で、アルキメデスは、はだかのまま「ユリーカー! ユリーカー!」と叫びながら王宮にむかって駆け出したという。

水中の物体はその物体が押しのける水の重量だけ軽くなる」という、よくご存知の〈アルキメデスの原理〉の誕生秘話である。これは発明ではなく発見ということになるのだろうか。なお、この「ユリーカー」ということばは、正確に言うと「私はそれを見つけた」という意味で“eureka”と綴られる。発音は諸説あって、「ユリイカ」「ユーリカ」「ユーレカ」をはじめ、そのままローマ字読みする「エウレカ」というのを目にしたこともある。

人類史上最初の発見ではないが、ユニークな発見として語り継がれてきた。その後の発明発見の歴史の華々しさと加速ぶりには目を見張る。ことごとく紹介すればキリがないが、同書のア行の「あ」で始まるものだけで、アイスクリーム、アーチ、圧力釜、編み機、アラビア数字、アルミニウム、安全カミソリ、安全ピンが揃い踏みする。


発明されてから今日に至るまで現存し進化してきたものは何らかの必要性に裏打ちされている。おそらくその他の無数の発明品は需要されなくなり、見向きもされなくなり、やがて消えてしまったのだ。昔はあったけれど今では一般家庭とは無縁になった品々を博物館や古物展などで目にすると、ちょっとしたノスタルジーに浸ってしまう。

ぼくが小学生のとき、祖父は煙管きせるに煙草を詰め、一服しては火鉢の枠をカンカンと叩いて灰を落としていた。その煙管、今では時代劇にのみ小道具として登場し、鉄道の切符の料金をごまかす「キセル」ということばとして残るのみ。切符や定期の電子化にともないキセルという概念も消える運命にあるのだろう。実際、このことばを使って、「それ、何ですか?」と聞かれたことがある。

さて、煙管がまだ日常的であった時代に遡って、うちの祖父らに「もし煙管がなくなったら、どうでしょう?」と尋ねたら、「そりゃ困るよ」と答えたに違いない。徐々に使用頻度が低くなりやがてなくなってしまうのなら困らない。しかし、必要性の絶頂期に毎日使っているモノが忽然と消えてしまっては不便この上ないだろう。

「もし~がなくなったら」と、「~」の部分に愛用品を入れてどうなるかを推測してみる。今この部屋にある携帯電話、PCUSBメモリ、メガネ、壁時計、カレンダー、居酒屋のポイントカード、広辞苑、ペーパーウェイト、のど飴……。すぐ目の前の窓の外には、自動車、コンビニ、ラーメン店、自動販売機、交番、信号、いちじくの木……。なくなったら困るものもあるが、当面少しの不便さえ我慢すれば消失に慣れてしまえそうなものもある。「もし~がなくなったら」と問いかけて、「少し不便だが別に困らないかも」と思えるものを近いうちに身辺から一掃してみようと考えている。

「もし~があったら」という願望を叶えるために発明されてきた文明の利器に感謝を示しつつも、「ユリーカー!」と叫ぶことばかりに躍起になってきた生活スタイルも見直すべき時が来た。なくても困らないものを見直し、少々の不便に寛容になる生き方を学習してみたい。

マンネリズムとの付き合い方

いつの頃からか「継続は力なり」が金言のようにもてはやされるようになった。

何の工夫もなく新鮮味もなく一つのことをずっと続けたって力になんかならない、という皮肉った見方もできる。いやいや、それとは逆に、何の工夫もなく新鮮味もなくひたすら一日のうち小一時間ほど会社と自宅を徒歩で往復すれば、車で通勤する人よりも足腰に力がつくだろうし、ガソリン代を浮かせて年末には手元に小銭を残せるかもしれない。

「継続は力なり」。言い換えれば、「マンネリズムとの共生」である。マンネリズムとは「ある一定のやり方をいつも繰り返すだけで、新鮮味がまったくないこと」。こんな辛いことに専念できること自体、すでに強靭な神経の持ち主であることの証明だ。ある意味で、マンネリズムと仲良しになれる人は「力のある人」かもしれない。

ところが、「石の上にも三年」の辛抱が実ることもあれば、三年も同じところに留まっていては昨今の急速な時代変化に取り残されることもある。「転がる石には苔がつかない」という意味のイギリスの諺 “A rolling stone gathers no moss.” は、古来、日本人の価値観に近い。職業を頻繁に変えたり次から次へと新しい場に活動を求めていたりすると、蓄財はもちろん功績も残せない、という意味だ。

しかし、この諺にはまったく別の解釈もある。「転がっている石ほど苔みたいな変なものはつかない」、つまり「どんどん新しい方面に活動していれば、地に墜ちることはない」というとらえ方だ。


気になることや思いついたことを日々ノートにしてきた。もうかれこれ30年になる。『発想ノート』と題して続けてきた。今の仕事に、日々の着眼に、人との対話に有形無形のプラスになっていると自覚している。まさに「継続は力なり」を思い知る。

しかし、同時に「日々新た」でなければ、ノートをとるという同じ行動を続けることなどできない。執拗なまでにあることを継続するためには、目先を変え新しい情報を取り込み、昨日と違う今日を追い求めていかねばならないのだ。まさにマンネリズムとの格闘でありマンネリズムの打破である。逆説的だが、飽きることを容認しないかぎり、人はひたすら継続することなどできない。そう、飽き性は物事を成し遂げる上で欠かすことのできない「空気穴」なのである。

「継続は力なり」を検証もせずに座右の銘にするのは考えものである。最大級の賛辞で飾ったり金科玉条として崇めたりするのは危険なのだ。継続が惰性になっていては力になるどころか、単なる脱力状態だ。マンネリズムに飽きる――これが継続へのエネルギーであることを忘れてはならない。

幸せな気分になる話

微細なところまで正確には覚えていないが、ユダヤにこんな笑話があった。

その昔、貧しい家族があった。狭い家屋に大所帯。我慢が限界に達して主がラビ(ユダヤ教の聖職者)のところに相談に行く。ラビは言う、「明日から家の中に騾馬を入れなさい」。どう考えても解せない助言だったが、主はこれに従い、一週間ばかり騾馬との生活に耐えた。
案の定、耐えきれない。再びラビのところに赴き、「家族だけでも大変なのに、騾馬との生活なんて無理です」と吐露した。「では、騾馬を家の外に出しなさい」とラビは助言した。言われた通りの生活を送り、しばらくして主はラビを訪ねた。「ラビさま、ありがとうございます! 家族だけの幸せな生活が取り戻せました。」

うまくいって当たり前なはずなのに、ひょんな悪運や失敗が邪魔してうまくいかない。うまくいかないから落ち込んでいると、何かの拍子にうまくいき始める。感激して喜ぶ。ユダヤの別の笑話に、「貧乏人は、落としたお金を見つけて、それを拾ったときに大喜びする」というのもある。貧乏人でなくても喜びはひとしおだろう。

「一万円札を落とす(マイナス)、それを見つける(プラス)」で実はプラス・マイナス・ゼロなのに、「一万円札を落とさずに財布に入っている状態」よりも喜ぶ。正しく言えば、喜びではなく安堵なのだが、ショックと安堵との大きな落差が幸福感を増幅させる。

ノーアウトでランナー一塁。次打者がバントをするも投手がすばやくさばいてランナーが二塁でホースアウト。その一瞬、観客は「あ~あ」とため息混じりに落胆。しかし、ダブルプレーを狙って二塁手が一塁へ悪送球。ボールが転々とする間にバントをミスったバッターが二塁へ。この瞬間、観客は一転して歓喜する。その歓喜ぶりは、バントを成功させてランナーを二塁へ送るときの声援どころではない。


快適性や幸福感にどっぷり浸かる日々。日常の当たり前がいかに感受性を鈍らせているかという証である。もう一つは「地獄で仏」や「ピンチはチャンス」や「結果オーライ」という自浄作用だ。「不運の後の幸運」を収支トントンではなく、「幸福の黒字」と錯覚できるように人間のメカニズムは働くのだろう。その代わり、「幸運の後の不運」も収支トントンや赤字どころか、「幸福の倒産」にまで落ち込んでしまう。

柔道やレスリングでは、敗者復活戦を勝ち抜き三位決定戦に勝利する者は「銅メダル」を手にする。早々に負けて泣き、やがて「勝利して銅メダル」。ところが、ずっと勝ち続けて決勝戦まで進んで惜敗する者は「負けて銀メダル」。銅メダリストより上位の銀メダリストに笑顔はない。幸福な人生はバランスシートで説明できないのだろう。連敗の後の一勝をありがたいと感じ、「終わりよければすべてよし」と思いなすのだ。

ちなみに、最近のぼくは、小さなメモを見つけたときに幸せな気分になる。それは自分自身のメモでありながら、そこにはまったく記憶から抜け落ちている内容が記されているからだ。「ふむふむ、なかなかいいことを書いているもんだ」と十数年前の自分を賞賛するとき、気分は最高潮に達する。「それって、ただの自己陶酔ではないか!?」と言うなかれ。幸福には錯覚と陶酔が不可欠なのである。

イタリア紀行8 「アルノ川対岸散策」

フィレンツェⅡ

ミラノやローマからフィレンツェに入るには鉄道がいい。列車はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に着く。この中央駅からチェントロと呼ばれる歴史地区内のホテルへは、たとえ大きな荷物を持っていても歩くのがベスト。ミラノやローマと違ってフィレンツェは治安がいいので、見た目に明らかに観光客であっても心配はない。もちろん路線が充実している市内バスなら、たいていの場所に10分以内で行けてしまう。

空路フランクフルトからフィレンツェ空港に降り立ち、アルノ川対岸のサン・フレディアーノのアパートにタクシーで向かった。所要約30分。アパートで受け取った鍵は4種類あり、玄関の門、中門、3階通路の門、部屋の扉の鍵が束になっている。その束の重いことといったら、腕時計5個分と同じくらいだ。宿泊期間中は自己責任で管理する。したがって、外出時は半コートの内ポケットにずっしり忍ばせて歩かねばならない。

午後7時の到着。ちょうどいい時間である。食事処の夕刻の開店はおおむね午後7時から7時半。一番賑わう時間帯は9時から10時だ。アルノ川沿いの通りから一本内側へ入ったサント・スピリト通りへ出て、いかにも老舗っぽいリストランテに入る。サラミと生ハムの盛り合わせにハウスワインの赤を合わせ、パスタでしめた。この一帯は歴史地区ほどの賑わいはなく、ツアー客もほとんどやって来ない。しかし、地元の常連が通うトラットリアやリストランテが点在している。

翌朝。アパートなので朝食がついていない。近くのバールでカプチーノを注文し小さなパンで腹を満たす。さて、散策スタート。アパートから約600メートルの位置にあるポンテ・ヴェッキオの橋から南の丘陵へ。なだらかなサン・ジョルジョの坂を進むと、道すがら丘陵地帯独特の空気が漂ってくる。

かつての要塞跡そばのサン・ジョルジョの門からさらにサン・レオナルド通りへ入り、そこを左折していくと高台にサン・ミニアート・アル・モンテ教会が佇む。アルノ川を挟んで市街地が一望できる絶好の場所である。この教会の下に別のサン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会があり、すぐ眼下にミケランジェロ広場がある。広場まで下れば観光客がたむろしているが、そこからわずか300メートル上の高台は閑散としている。

Toscana1 032.jpg
ポンテ・ヴェッキオ。向う岸右側の建物が有名なウフィッツィ美術館の一部。
Toscana1 038.jpg
丘陵へ抜ける小径。瀟洒な住宅が続く。
Toscana1 044.jpg
中心街のランドマーク「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」のクーポラが見える。春間近な緑の濃淡の綾が目にやさしい。
Toscana1 062.jpg
さらに進むと、左右の大きな木に挟まれて、凝縮された借景のように街が浮かぶ。
Toscana1 055.jpg
サン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会前に出た。質素な教会という印象のまま通り過ぎた。後日旅行ガイドを見たら、ミケランジェロが「美しい田舎娘」と比喩したというエピソードを見つけた。ミケランジェロ大先生、絵筆やノミさばきだけでなく、ことばのさばき方も超一級である。
Toscana1 047.jpg
サン・ミニアート・アル・モンテ教会のファサードは雅なロマネスク様式。

雨のち蓮根、晴れ時々蓮根

旬の野菜や果物は格別である。舌鼓を打つのは言うまでもなく、「今しかない」あるいは「今が一番」というタイムリーな価値にわくわくする。

 毎年6月下旬になると、山形のMKさんがサクランボを送ってくださる。十年程前まではめったに口に入らなかった代物だが、今ではちょっと贅沢に頬張らせてもらっている。佐藤錦や紅秀峰という品種の名前も覚えた。少し多めに食べるときには、腹を下さないために塩をつまんで舐めるという地元の習慣も知った。

今年は縁あって、二種類の旬の野菜に恵まれた。金沢で開催している私塾の塾生のお一人からの「産地直送」だ。偶然だが、この方もMKというイニシャルである。何となくぼくの「また(M)ください(K)」という下心(?)に呼応しているみたいだ。

春は筍だった。宅急便で届いたが、キッチンに運ぶのに腰が抜けそうになった。開けてみれば、前日に朝掘りした、とてつもなく大ぶりな筍が約20本! いやはや、MKさん、ありがとうございますと感謝。とりあえず土がついたまま数本を知り合いにお裾分けした。

さて、残る十数本。持ち合わせの知識にウェブの情報を補足したうえで、包丁でさばきアク抜き。大鍋、パスタ用の深い鍋、中華鍋などを総動員した。湯気と筍特有の匂いが家じゅうに広がった。調理というよりも、専門店の厨房における仕事のように思えてきた。

しかし、その仕事はほんの序章にすぎなかった。その日からの約10日間、仕事は格闘と化した。筍づくしの日々を闘い抜くことになったのである。やわらかいところを刺身にしたのを皮切りに、土佐煮、筑前煮、天ぷら、若竹煮、きんぴら、ちらし寿司、筍ごはん、中華風炒め物……とありとあらゆるレシピを試み、来る日も来る日も筍を食べ続けた。

筍は傷むのが早いだろうという見込みとは裏腹に、新鮮な水に浸して冷蔵庫で保存すれば日持ちするものだ。その一部をさらにお裾分けしたり、料理にして親類にも持って帰らせた。しかし、もしかして冷蔵庫の中で増殖しているのではないかと疑うくらい、いっこうに減ってはくれない。MKさんへの当初の感謝の気持が薄れ、イジメにも似た心理に苛まれていく。そういう趣旨のメールをギャグっぽく伝えたら、「連絡いただき次第、第二弾がスタンバイしています」との返信。やっぱりイジメだ。


とはいえ、やっぱりぼくは筍が好きなのだ。最近食べていないので、懐かしささえ感じてしまう。そんな折り、三日前にMKさんから蓮根が届いた。加賀野菜に認定されている小坂蓮根という種類だそうだ。一本が丸々三連のまま採れたての状態で数本。見るからに新鮮で、レシピを頭に浮かべればすでに垂涎状態である。

筍の教訓を生かそうと思い、半分の量を知り合いにお裾分けにすることにした。これで、日々蓮根漬けにならなくてすむだろう。いただいた初日は天ぷらに。翌日は野菜炒めに。そしてきんぴらをすればいい。筍のときは、「筍のち筍、筍時々筍」だったが、今回は「雨のち蓮根、晴時々蓮根」というローテーションでいけそうだ。

ところが、さっき台所をのぞいてみたら、今夜で終わってしまうほどの数量しか残っていないではないか。新蓮根の旬は9月初旬。もう少し残しておくべきだった、ちょっと気前よく振る舞いすぎたかと複雑な心境だ。おっと、これは「MK」というサインではない。何事も度を越えてはいけないことくらい承知している。年末の蓮根も美味らしい。それに期待することとしよう。

ことばの揚げ足をとる

昔の漫才ネタで、「屁理屈を言うな」に対して「屁は理屈は言わん」という切り返しがあった。「電話をとる」に対して「電話はとらん。とるのは受話器」というのも、「鍋が煮えた」に対して「鍋は煮えん。煮えるのは具」というのも、ことばの揚げ足とりである。揚げ足とりは愉快である。ことば遊びには欠かせないし、この種のツッコミにめくじらを立てることはない。

慣用化が進むにつれ、ことばというものは省略され誇張され意味が転移する。そこに誤解や誤用が生まれ、ことば遣いが笑いのネタになったり新しいものの見方につながったりしてくれる。ぼくは、そんな「ことばのプチ哲学」が好きだ。そのせいで、ぴったりのことばを探そうと文章を書いているときに、あることばが気になっていろいろと考えてしまい、よく寄り道してしまうことがある。


先週は「五十歩百歩」という表現で、寄り道どころか大脱線してしまった。「五十歩を以て百歩を笑う」という言い方もあって、これが「目くそが鼻くそを笑う」にそっくりである。

中国の寓話ということは知っていたが、出典を確かめてみた。孟子の『梁恵王上』である。我流で解釈すれば、「臆病心から戦場で五十歩逃げた兵がいた。別の兵が百歩逃げた。五十歩逃走兵が百歩逃走兵を臆病者と言って笑いののしる。おいおい、五十歩さんよ、お前だって逃げたじゃないか。退散したことには変わりはないぞ」というようなことになる。

よく似た類語には「似たり寄ったり」がある。「PCなんて使ってみればどれも五十歩百歩だよ」という表現は、「PCなんて使ってみればどれも似たり寄ったりだよ」とほぼ同じニュアンスだ。しかし、「PCなんて使ってみればどれも目くそ鼻くそを笑うだよ」にすると、何か変。

そういえば、ぼくは以前から「目くそが鼻くそを笑う」という成句を変だと思っていた。目くそと鼻くそは五十歩百歩なのだろうか。成人が人前で目がしらの目やにを小指の先で払うのはよくあるが、堂々と面と向かって人差し指で鼻くそをほじくるのはめったにない。生理的インパクトからすると、鼻くそは目くその比ではない。目くそは「目やに」という言い換えもできるが、鼻くそを「鼻やに」とはふつう言わない。そう、目くそと鼻くそは似たり寄ったりではなく、カテゴリー自体が違うのである。正しくは、「目くそが鼻くそをシカトする」か「鼻くそが目くそをねたむ」でなければならない。

よくよく考えれば、「五十歩百歩」も変に思えてきた。たしかに広い戦場では五十歩と百歩は僅差だろう。しかし、短距離走なら大差がつく。決して似たり寄ったりではない。

参考にした辞典には、「どの意見をとっても五十歩百歩だ」という用例が紹介されている。敏感な人ならわかるだろう。意見にはニュアンスがある。こだわる人にとってはそれが重要だ。だが、五十歩百歩には「小さな相違はさておき」という前提がある。「小異はあるだろうが、マクロ的に見ればどれもこれもよく似ている」という含みだ。こういう使い方ができる人間はそのグループのトップに違いない。

もう一つ用例がある。「千円の損も二千円の損も五十歩百歩だ」。これで完璧に明らかになった。五十歩百歩は金持ちのことばなのだ。何十里や何百里という戦場を基準にしているからこそ、五十歩百歩が成り立つのである。同様に、千円と二千円が似たり寄ったりと言える人間は、何十万円や何百万円を基準に置いているのである。時給800円のフリーターはこの用例を使えない。

以上から、五十歩百歩をめぐるプチ哲学の結論――これは、組織のトップの地位にあって金を持っている人間、すなわち「勝ち組」が使う表現である。 

矢印(→)の便利と強引

行き先を矢に似せたデザインで示してくれる「矢印」。地図上の目当ての場所に向けて「ココ」と記してあるととてもわかりやすい。目的地に接近すればするほど、矢印のピンポイント効果は高くなるようだ。

ところが、たとえば駅構内の矢印はどうだろう。「地下鉄中央線→」などという表示はきわめて漠然としていて、一応矢印の方向に歩を進めるものの、迷わずに辿り着ける保障などない。とりわけ上向き(〉や下向き(〉にはよくよく注意したほうがよろしい。これらベクトルが示すのは、それぞれ「階上」「階下」という抽象概念にすぎない。そこに至る手段がエスカレーターかエレベーターか階段か、はたまた飛び上がるのか飛び降りるのかは不明である。

矢印の行き先を突き止めるだけの精神力と体力のない高齢者が右往左往している場面によく出くわす。当然駅員に尋ねることになるが、駅員の説明の随所に人差し指を使った矢印が登場するのである。壁に貼られた矢印の表示が指によるライブの矢印に変わるだけだ。結局駅員はお年寄りをかぎりなく目的地に近いところまで連れていくことになる。


資料に目を通したり本を読んでいたりするとき、小さなチャートの中に矢印が散りばめられているのに気づく。「ターゲット設定強みの訴求顧客満足」などと矢印が概念をリレーしている。油断すると、すっと流れていく。いかにも理路整然とつながっているように通り過ぎてしまう。

しかし、ちょっと待てよ。矢印がバトンだとすれば、そのバトンリレーはうまくいっていないぞ、ということに気づく。バトンが落っこちているじゃないか! 

PDCAサイクルは、PLANDOCHECKACTと仕事や業務のサイクルを回せと教える。矢印は同じ長さで表現されているのだが、よく観察すれば、PLANからDOの矢印が実はもっと長いものであり、CHECKからACTへの矢印が一本とはかぎらないことがわかってくる。

自分のことを棚に上げて論うつもりはない。ぼくもテキストやレジュメやパワーポイントで矢印をふんだんに使い、その便利さの恩恵を受けている。しかし、知らず知らずのうちに矢印を牽強付会気味に使っていて反省しきりである。だから、「ABC」と書くときに、なるべく矢印のスムーズさに気をつけるようにし、Aが原因でBが結果であるとか、実際はこんな一本道で脈絡がついているのではないとか、口頭で補足するようにしている。

矢印には「勝手にそうなる」「必然の結果として」というマジカル効果がある。便利だが、緻密な思考を省略してしまうので、できる人はゆるゆる論理を見抜いてしまう。

イタリア紀行7 「花の都の序章」

フィレンツェⅠ

今回から数回にわたってフィレンツェを振り返る。これまで紹介してきたヴェネツィアやシエナ同様、この街も歴史地区と呼ばれる中心地はおよそ2キロメートル四方に収まっている。

よく知られている通り、フィレンツェはルネサンス発祥の地である。当時を偲ぶゆかりの名所や芸術作品には事欠かない。同時に、ここは「花の都」とも呼ばれている。フィレンツェ(Firenze)はその昔、ラテン語で“Fiorentia”という名前だった。このことばの頭のFiore(フィオーレ)が花を表す。先般日本人観光客の落書きでニュースになった、フィレンツェ歴史地区の象徴であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂も「花の聖母寺」である。

日本からイタリアへの直行便はミラノかローマに向かう。だから、個人旅行の本にはこの二つの都市を拠点にした旅指南の記事が目立つ。しかし、世界遺産を含めた遊覧密度の高さで言えば、フィレンツェの立地はミラノやローマより優れている。なにしろシエナ、サンジミニャーノ、ルッカ、ピサ、アレッツォなどの街へ楽々半日旅行できてしまうのだ。

コンパクトな街だが至宝が凝縮している。過去23日、45日で二度訪れていたが、20073月に9日間滞在する機会があった。オルトラルノという、中心街から見ればアルノ川の南岸のサン・フレディアーノ地区のアパートに3泊。その後は、名所シニョリーア広場に面した隠れ家的ホテルが予約できたので、そこに5泊。

フィレンツェに泊まって市中をくまなく歩き、さらにバスと電車で周辺を巡る計画を立てた。計画というと緻密なようだが、天気と相談しつつ気の向くまま、足の向くままが基本。イタリア語で気に入っていることばに“passegiata”(パッセジャータ)がある。散歩という意味なのだが、当てもなく同じところを行ったり来たりというニュアンスが強いから「そぞろ歩き」がぴったりだ。今日は有名どころを概観するが、次回からのフィレンツェ紀行はそぞろ歩きに似て、行き当たりばったり。日によって、あるいは歩いてくる方向によってルネサンスの花の都が変える表情を見ていただこう。

Toscana1 024.jpg
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。2003年には息を切らしながら500段のクーポラに上って街を展望した。
Toscana1 162.jpg
大聖堂の正面からの光景。イタリア的なゴシック建築の典型を見ることができる。赤屋根のクーポラの右手前に聳えるのがジョットの鐘楼。
Toscana1 179.jpg
鐘楼から眺めるクーポラと背後に広がるフィレンツェの街並み。
Toscana1 058.jpg
南岸に位置するミケランジェロ広場から見渡すアルノ川。アルノ川に架かる橋が有名なポンテ・ヴェッキオ(イタリア語で「古い橋」という意味)。
Toscana1 057.jpgのサムネール画像
カメラを右にずらすと対岸の「チェントロ」という歴史地区の街並み。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラと鐘楼の位置関係がよくわかる。