「店員に呆れ果てる」の巻

店舗や店員に対するぼくの観察がとてもおもしろいと言ってくれる人がいる。何がおもしろいのかと聞けば、普通の人では気づかない小さな言動を精細に描写する「一種偏執的な観察眼」だと言う。たぶん褒められているのだろう。では、期待にお応えしようではないか。


小話その

アイスコーヒーをカウンターで注文すると、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」と聞かれる。この話、前にも書いた。「はい」と答えていたが、最近では首を縦に振るだけにしている。暑くて「はい」の二音すら発する気にならないからだ。

さて、ここからが本題。先週の話だ。例の通り、シロップとフレッシュはそれぞれ一つずつでいいかと聞いてきた。目と目を合わせて大きくうなずいてあげた。席に着いて、ミニ容器のツメを機械的に開けて、ほとんど目もくれずに両方ともアイスコーヒーに入れた。こげ茶色のアイスコーヒーがみるみるうちにベージュに変色していく。

よく見たら二つともフレッシュで、シロップがないではないか。あぁ、やっぱり、この連中にはうなずくだけではダメなのだ。シロップを手に入れたければ、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」に対して、「はい。シロップ一つにフレッシュ一つ。そこんとこ間違えずによろしく」でなければならない。

怒りをあらわにせず、貴重なシロップを一つカウンターで配給してもらった。「めっちゃ甘党のオッサン」と思われたに違いない。


小話その2

ディスカウントの文具店である。ポストイットを買いに行った。量販店というほどではないが、通路が5本あり奥行きも10メートル以上あるので探すのは面倒だ。天井から吊るしてあるコーナー表示板に「ポストイット」の名を掲げる店はまずない。

男性店員に場所を聞いた。「3番の通路を進まれて、棚が途切れたところで、右手に封筒コーナーがありますが、その手前側に置いてあります」。あぁ、パニックに陥りそう。

こうして文章に書けばわからぬでもないが、音声をキャッチして理解できるか!? しかし、やむなし。ええっと、3番の通路? あ、すぐそばだ。先へ進むが、わずか数歩で棚が途切れたぞ。で、次の棚に目をやれば、棚のサイドにすぐ見つかった。何のことはない、カウンター内の男性からは一切の遮断物がなく斜め直線で5メートルほどのところにポストイットのコーナーが見えていたではないか。

「ポストイットはあそこです」と指で示せばおしまいだった。あんなふうにことばを羅列したのは、自分たちの説明責任トレーニングのついでに客の理解力もチェックしていたのだろうか。

ランチタイムの選択肢

できれば弁当持参のほうが迷わないでいいというのがホンネだ。しかし、ランチのふいのお誘いが少なくないため、弁当を食いそびれてしまうことがあった。その弁当を夕食にするというのはちょっと情けないし、この時期だと食中毒すらありえる。というわけで、ランチはほとんど外食である。

同じ店に週に二回も三回も通わない性分なので、オフィス近辺の食事処はだいたい知り尽くしている。時間があれば一駅くらい平気で歩いて行く。目当てがあるわけではなく、新しい店を探すことも多い。店構えと店名とメニューと料金で推理し、当たり外れに一喜一憂するが、ぼくの選ぶ店は当たりが多い。知人友人も認めてくれている。

それにしても、何十年にもわたってランチタイムに少考したり迷ったりしてきたわけだ。出張時にはさっさと決められるのに、地元ではついつい選択の岐路に立って自虐的に迷いたがる傾向がある。

お決まりの店に毎日通い、まったく悩むことなく日替わり定食一本主義のM。誰が何と言おうと、ビッグマックとコーラ以外を口にしなかった、かつての同僚アメリカ人のR。この二人を思い浮かべると、心中複雑だ。彼らの確固たるランチ哲学を羨む一方で、それじゃまるで餌ではないかと皮肉りたくもなる。


どこで何を食すかに迷うのはやむをえない。自分がそれを内心望んでいるからだ。しかし、そうして注文した後に、今度は店側からオプションを突きつけられて、さらに迷ったり不条理な選択肢に首をかしげさせられたりする。

そのランチはセットメニューで、たぶんこの店の定番である。うどん、コロッケと鶏のから揚げ、ポテトサラダ、ライスの組み合わせだ。メニューを見て「これください」で注文完了。と思いきや、それで終わらない。

うどんは「そば」に変更でき、しかも「温」か「冷」を選べると言う。温かいうどんのつもりで頼んだが、冷やしうどん、かけそば、ざるそばという三つの選択肢が増えた。しばし迷って、ざるそばにした。「うどん・温」を「そば・冷」に変えるのは二重の変更で、あまりにも節操のない自分に呆れる。

さらに、「生卵か味付け海苔、どっちにしますか?」と奇妙なことを聞いてくる。

トッピングみたいなものがこの定食にはついてくるのか。まったくの想定外である。そんなものを客に選ばせることはない。両方ともつけたらいいではないか。しかもだ、しらす大根おろし vs 冷奴とか、バニラアイス vs 抹茶アイスなら両者拮抗しているが、生卵と海苔は選択肢としてバランスが悪い。

生卵が苦手なお客さんのためのオプションが味付け海苔? たぶんそうなのだろう。それはともかく、バリエーションやオプションが豊富であることがサービスともかぎらない。こっちは店と品物を選ぶまでに十分に迷ってきているのだ。「顧客の選択をこれ以上ないくらい容易かつわかりやすくしてあげる」というシンプルマーケティングの要諦を思い出した。

今日のランチは迷わずに上うな丼にしよう。少なくとも、温か冷か、生卵か味付け海苔かで迷わされることはなさそうだ。

コンセプトを伝える

先程出張先のホテルにチェックインした。メールのやりとりの必要があったので、フロントでインターネット用のケーブルが部屋にあるのかどうかを尋ねた。

「あいにくまだ準備ができておりません。モデムの貸し出しになります」とフロントマン。この意味が飲み込めなかった。ぼくの傾聴力に問題あり? そうは思いたくない。

部屋のメークアップとケーブルの有無の話がぼくのアタマで混線してしまっている。なんだかよくわからないまま、部屋にエスコートしてくれた女性スタッフに再度確認して事の次第がわかった。

当ホテルでは、全館各部屋にインターネットのケーブルを設置していない、ゆえにモデムを300円で貸し出す、ということだ。ならば、「まだ準備ができていない」は「当面のところ」というニュアンスを匂わすため、不適切な表現である。この一件、単なるコミュニケーションの巧拙だけに終わる話ではない。


理屈っぽい言い草で恐縮だが、メッセージの前にコンセプトがしっかりと定まっていないのである。部屋のケーブルの有無に対して、ホテルの設備計画面から応答するから伝わらないのだ。言葉遣いや表現の問題ではない。

これに先立って、タクシーの中でダイエットクリニックのリーフレットを見つけた。持ち帰ってきて、いま手元にある。「痩せたくない人は見ないで下さい」という見出し。これにケチをつける気はない。「真に痩せたい人」をターゲットにした一直線のコンセプトだ。だから、こういう言い回しになるのだろう。

ところが、他方で、「痩せたくない人もお読みください」という見出しにする手もあることに気づく。この表現にするならば、コンセプトがまったく違うものになっているはず。「痩せたくない人」には、「すでに痩せすぎていて、これ以上痩せたくない人」と、「ある種の思い(哲学?)があって、痩せたくない人」がいるだろう。この後者の、クリニック側から見れば強情な潜在顧客にも働きかけて損はない。

トマトを使った「トマリコ」というスナックが開発されたとして、「トマトの嫌いな人は食べないで下さい」とするか、「トマトの嫌いな人も食べてみて下さい」とするかは、コミュニケーションの良し悪しではなく、顧客心理へのコンセプトをどう定めるかによって決まる。

コンセプト(concept)は、「考える・はらむ」という“conceive”という動詞から派生した言葉だ。それは、メッセージを送る側の「思い」を凝縮したものにほかならない。 

いっそイノベーション

誤解なきよう。リサイクル思想に異論を唱える大胆な提言ではない。

修正や再利用を繰り返すよりも、思い切ってやり変えたほうがいいという、とても身近な話。散歩をしていたら、古めかしいビルの入り口横の壁に貼り紙を見つけた。最初は意図がよくわからなかった。その貼り紙には求人募集にともなう典型的な文言がいろいろ書いてあるのだが、一番目立ったのがこれである。

88歳までの方
38

さすが少子高齢化社会を反映して、ここまで年齢を引き上げての募集をしていたか……しかし、応募がなかった(若い人が嫌がった?)……そこでやむなく一気に50歳も引き下げて38歳? 「38」の数字はマジックインクの手書きである。

ちょっと待てよ、何かおかしい。よく見れば線で消されている88の十の位のほうが3から改ざんされた8ではないか。はは~ん、これで読めました、古畑任三郎。悪戯である。事の次第を推理すると……。

最初は「38歳」で募集していたのだ。ある時誰かが悪さをして「88歳」に書き直した。数字の38に変えるのは朝飯前、17に、あるいは56に変えるよりも簡単だ。悪戯をした奴はちょいちょいと一筆足して50もプラスできたことにほくそ笑んだに違いない。


そのオフィスはしばらく気づかなかったのだろう。早く気づいていれば、パソコンのデータも残っていただろうから、データを修正して貼り直せば済んだはず。何ヵ月か、もしかすると何年か経ってから気づいたが、当時のデータがない。で、おざなりに手書きで貼り紙に訂正を加えた……。

ぼく以外に誰がこんなに深い読みを入れて理解してくれるだろうか? ノーバディだ。みんな呆れたり薄ら笑いを浮かべて通り過ぎる。「よくもまあ、88歳で募集したもんだ。いったいどんな仕事なんだい? 28歳も88歳も一緒にできる世代間格差のない仕事? あればあったで結構なことだが、結局人が来なかったんだろ。で、やむなく50歳ダウンの38歳か」。ここまでの感想を洩らすことすらありそうにないが、まあこんな印象だろう。

これはなかなかの教訓である。リフォームしてよいことと悪いことがある。修正するより一からやり直したほうが手っ取り早く、しかもイメージを損なわないこともある。コストと手間がかからず見映えがよければ、黙ってイノベーションだ。

応募者心理に気配りできないあの会社、応募状況はどうなんだろう? と余計な心配。仮に「いっそ作り変えたら?」とお節介な口出ししても、「いやいや、あれでいいんです。へっちゃらです」と返されるかもしれない。あの貼り紙、なんとなく威風堂々に見えてきた。

五輪(2)~ルールとフェアネス

ルールが変わっているかもしれない。リレハンメル当時は、スキージャンプ競技ではスタンバイ信号が赤から青に変わってから15秒以内に滑走を開始しなければならなかった。スピードスケートのスタートも用意の合図からスタートまでの2秒間微動だにしてはいけなかった。

ジャンプで失格となった選手、スピードスケートで二度失敗した選手。両者とも、気の毒なことに、はるばるノルウェーまでやって来て、スタートを切ることなく去っていった。情状酌量の余地は、微塵もない。しかし、この二例とは対照的に同大会で再試技が認められた選手がいた。覚えている方もいるだろう、フィギュア選手トーニャ・ハーディング、その人である。スケート靴の紐にトラブルがあったらしく、フリーの演技中に審査員に泣きついたのである。

これを認めてしまった。認めるということは、ルールの未熟性を暴露することに等しい。フェアネス(公平性)とは正々堂々の精神であり、つまるところ「潔さ」でもある。再試技はフェアネスに反する。


これがルールとして許されるのなら、トリプルアクセルで転んだのは目に埃が入ったからだの、フィニッシュが決まらなかったのは脚が疲れたからだのと申し立てればよい。屋外のスキージャンプでは風や天候という外的要因と闘わねばならない。それでもルール違反は大目に見てもらえない。屋内の、しかも選手自身の人的コントロールが可能な競技に例外があってはならない。

例外なくルールが適応されるからフェアネスが保たれる。そこにスポーツの潔さを垣間見る。昨日・一昨日とアメリカの金メダル候補の有力選手が、水泳・陸上の最終選考会で落ちた。十回に一回の敗北かもしれないし、出場させてやりたいという人情も働くが、ルールはルールだ。

人はやみくもにフェアであることはできないだろう。しかし、一つの例外を許せば、その他のすべての約束体系をモデルチェンジしなければならなくなる。フェアであるためには万人に平等なルールが必要なのだ。もちろん実社会では杓子定規にはいかない。いかないからこそ、ルールは厳格であるよりも、まずは明快であることを優先すべきだろう。

五輪(1)~ライブと記録と記憶

東京五輪が開催された1964年は中学生だった。学校が斡旋した「五輪記録ノート」を買った。全競技全種目が開催日別に印刷されており、ページごとにメダリストと国名を自分で記録していくという体裁になっていた。

後日新聞記事なり開催終了時に掲載される一覧を見ればわかることだが、そのつど結果を記入していくとページたりとも空白のまま残せなくなってしまう。開催期間中はテレビ中継に釘付けになった。録画ではダメで生中継に意味がある。競技終了後に書き込むのが正統で、どうしても記録が追いつかなかったりして翌日新聞で確認して穴埋めするときは少し情けない気がしたものだ。

二学期の中間テスト前だったが、勉強はほどほどにしておき、全種目の金メダリストや日本選手の成績はほとんど覚えた。そんなもの覚えてもしかたがないことはわかっていたが、一種のオタクだったのだろう。しかし、自己弁護しておきたいが、開催期間の約半月は一億総五輪オタクのニッポンであった。


五輪のみならず、サッカーでも野球でもそうだが、録画はつまらない。結果を知らないで見る録画はまだしも、結果を知ってからの録画は話にならない。現場観戦が一番いいだろうが、それが叶わぬならばせめてライブだ。ただし、国内に居ながらの時差ボケというツケを払わねばならないが……。

1970年代以降夏季五輪はもちろん観戦したが、冬季もよく見た。印象に残る冬季大会は1994年リレハンメルだ。スキージャンプは、原田選手の失速に日本じゅうが悲鳴をあげた。観衆も一緒に自分の腹筋に力を入れて1メートルでも先へと足腰を浮かせてみたが、結果は団体銀メダルに終わった。

さらに印象的なのが4年後の長野大会。ラージヒル団体戦の当日、ぼくは講師として大手企業の合宿研修の最中だった。立派な研修センターでロビーには大型テレビがある。最終ジャンパーの跳躍だけでもライブ観戦したいとの思いから、卑しくもその時間帯を自習させることはできないかと画策していた。

結果的には卑しくならずに済んだ。というのも、企業の研修担当課長が「研修していても気が入らないでしょう。ぜひ30分ほど休憩してみんなで観戦しませんか?」と申し出てきたのだ。ここで相好を崩すわけにはいかない。ポーカーフェースで「う~ん、やむをえませんね」とぼく。

4年前の雪辱を果たす原田選手のウルトラジャンプに全員拍手と感激の嵐。金メダルに酔った。気がつけば、ロビーは他のコースの研修生も含めて人で溢れていた。やっぱりライブだ。ただ、受講生のテンションの余燼がくすぶり、その後の研修の調子は失速していったのを覚えている。   

無意味な意味づけ

「自宅の柱か壁の一部にあどけない、あるいは微笑ましい落書きをするのは自由である。公共施設、ひいては世界遺産に落書きするのは論外である」。型通りな寸評だということは分かっている。だから、「よい子のみなさん、落書きをしてはいけませんよ」と呼びかけて終わるつもりはない。

指摘したいのは、常識に挑戦する落書きの見た目・メッセージが大胆であるのに対して、落書きを戒める側の情けなさである。壁の持ち主が貼り出す注意書きには強さも工夫もない。たとえば、「人権侵害につながる悪質な落書きはやめましょう」なんて弱腰すぎるではないか。まるで「人権侵害につながらない良質な落書き」を認めているかのようである。「落書きは懲役5年かつ罰金100万円!」くらいのアバンギャルドで対抗すべきではないか。


フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はお気に入りの名所である。フィレンツェには過去数年間で15泊ほどしているが、滞在中は欠かさずに近くを散策した。この大聖堂によくも大胆な「犯罪」をおかしたものだ。見学時に落書きに適した筆記具を持参していること自体、もはや悪ふざけの域を超えている。寛大にも謝罪だけで済んだということだが、フィレンツェへのお詫びの意味でこの落書き日本人をわが国独自のやり方で懲らしめておくべきだろう。

この一件に刺激されて、芸能ネタがなかったのかどうか知らないが、マスコミがわが国の落書き事情へと目を向ける。今朝は新幹線車輌を取り上げていた。目を盗んで落書きできるくらいなら、爆弾を仕掛けることぐらい朝飯前ではないか。鉄道会社、しっかり用心すべし!

「自分の描いたものを誇示したいという心理」――落書きの権威らしき人がこのような趣旨の意見を述べていた。まったく感動を覚えないコメントである。ぼくのブログのタイトル画面の抽象画(らしきもの)は自作だが、描いて公開しているのだから「誇示したいという心理」? ふ~む。そうだったのか、ぼくの心理は……。このコメントでは、落書きと絵画の違いを説明することはできない。

専門家ゆえに何事にも意味づけを求められる。気の毒だとは思うが、その無理っぽい意味づけが素人考えと大差ないとは皮肉な話だ。己への警鐘として受け止めておくことにしよう。 

仕事の中の寄り道

あまりノスタルジーに浸るほうではないが、仕事に集中しつつも考えがまとまらないときには過去に遡ってしまう。何かを調べるのではなく自力で考えようとしたら、アタマに頼るのは当然だ。そして、そこにあるのは未来の情報ではなく、おびただしい過去の情報である。

過去を再生すると、切ない光景や思い出も混じってくる。すると、本題から脱線してしまって仕事が座礁する。机まわりを整理し始めたのはいいが、写真アルバムに見入ってしまう体験が誰にもあるだろう。懐かしさは仕事の邪魔になる。

脱線はよくない。特に夕方以降にこんな状態になると、精神的にも疲れる。翌朝にもストレスを持ち越してしまう。とはいえ、まったく寄り道もしないような仕事は愉快ではない。


その日の寄り道はキャラメルだった。時々飴を転がすが、無性にキャラメルを舐めたくなってわざわざ買ってきた。紙をめくって一個口に入れる。箱から手のひらに乗るような小さなカードが出てきた。おまけ? G社でなくM社だからおまけではないだろう。ずいぶん昔っぽい濁ったカラーの岩だらけの風景写真。写真の下には「過去と歴史の違いは、何?」と、なんだか哲学めいた問い。クイズだろうか? クイズ好きだからそう思ってしまう。

「過去は現在から切り離された時間であり、歴史とは現在に連なる時間」と自答してみた。行き詰まったあげく休憩を兼ねてキャラメルに寄り道したのに、なんというアタマの使わされ方だ。と思いながらも、カードを裏返してみる。

裏面にはキャラメル名が印刷されていて、8本の線が引いてある。メモ欄? 表面の問いに対応するような文字はいっさいない。もしかして、別紙に何か書いてあるのかもしれないと、念のためにもう一度箱の中を覗いてみた。何もない。

おいおい、何のための問いだったんだ? 岩だらけの風景との関係はどうなんだ? カードの「企画意図」は? 「これだけは言っておく」と吐き捨てて何も言わずに去っていく新喜劇ギャグとかぶる。キャラメルの箱に向かってぼやいた、「答えも教えろ!」 

ノスタルジーを色濃く練りこんであるキャラメルは気分転換によくないことがわかった。こんなことを思い出しながら、今日の寄り道は目薬にしておいた。  

たまには小銭――感傷編

アイスコーヒー代を支払って、午後への繰越金は759円。さっきまでズッシリ感があった小銭入れがいくぶん軽くなっている。札入れやキャッシュカードだけを使い、預金通帳の数字をにらんでいるだけでは、このアナログ感覚はわからない。

正午になった。この研修では講師用の弁当は出ない。弁当が出ないからこそ、少しばかり心配していたのである。ランチタイムの食事処を教えてもらい、かけうどん350円、きつねうどん450円、喫茶店のピラフ650円などとそろばんをはじきながら歩く。

「コンビニに行けば悩むことなし」。わかっている。一日くらいおにぎり2個で我慢することもできる(いや、ランチそのものをパスしてもいい)。しかし、そんなことをすれば、朝のあの小銭への安堵と執着の体験価値が半減してしまうではないか。ここまできたら、小銭と対話しながら、その有り難味を噛みしめるべきだろう……かたくなにこう考えた。

普段は千円ちょうどか、少しお釣りのある程度のランチをいただく。オフィス近辺では平均すると値段はそんなものだ。あまりにも慣れてしまっているので、高いとか安いという値踏みはいちいちしない。


レストラン街に行って、とても驚いた。ぼくが立ち止まったほとんどの店のランチは700円~1000円だった。いや、別に驚かなくても、普段通りである。しかし、759円からすればことごとく贅沢な品々に見えてきた。ちなみに、ハンバーグ定食850円、トンカツ定食780円、海鮮丼1000円。どれも超豪華ランチに見えてきた。

価格720円以上には目を向けないようにした。昨今メニューはすべて消費税込みというのは常識。だが、万が一730円のランチを頼んで、お勘定時に「消費税は別になります」と言われたら、766円になってしまう。買物ゲームは7円でも超えたら、ゲームオーバーだ。

というわけで、根気よくひたすら600円台を探す。そして、ついに「肉じゃが定食619円」を見つけた。ちゃんと税込みと書いてくれている。一目惚れである。肉じゃがとお惣菜一品にではなく、この619円に惚れた。中途半端な619円に「愛情とやさしさ」を感じた。お釣りの円に対してまたもや「儲けた」という気分になった。

ご馳走さま。残りは759619140円。食事だけして会場に引き返すのも切ない。自販機で120円の缶コーヒーを買う。残り20円(10円硬貨枚、5円硬貨枚、円硬貨5枚)。こんな至近距離で硬貨をまじまじと見つめたのは何年ぶりだろう。

研修指導も無事に終えた。朝から夕方までの小銭にまつわるいろんな思い。小銭をにぎりしめて駄菓子屋に通った昭和30年代の、あの懐かしい光景が帰途につく電車の中で甦ってきた。 

たまには小銭――安堵編

研修指導初日の朝、駅のホームに降り立った。しばらくして上着のポケットに財布がないのに気づく。一瞬ドキッがあったのは認めるが、沈着冷静なぼくは自宅に確認する。財布は自宅に忘れていた。すられたり落としたりしたのではないということがわかって、ひとまず安心している自分がいた。

まだ時間の余裕はあるが、引き返すと間に合わなくなる。「初対面だけど、先方の担当者に借りればいいか」とか「ICカードのおかげで帰路の乗車賃は心配なし」などと思いながら、目的地に到着する頃にはもう割り切っていた。「千円ほど貸してもらえますか? 実は……」と脳裏でリハーサルまでしている自分がいた。

「もしかして」と鞄の外側のポケットを覗いてみた。小銭入れが入っていた。「地獄で仏」という、場違いで大袈裟な比喩をしている。そこは駅のコンコースだ。午前845分頃で通勤ラッシュの終盤。小銭入れから小銭をこぼさぬよう、ていねいに取り扱いながら「概算見積」してみる。五百円硬貨が目に入り、その他いろいろある。やった、千円はあるぞ! 大人げなく喜んでいる自分がいた。

安堵。こうなると身勝手なもので、「開始までまだ半時間以上ある。アイスコーヒーでも」と欲望がよぎる。当然一杯200円ほどのチェーン店カフェを探す。だが、近くにそれらしき店は見当たらない。やむなく会場近くの喫茶店に入ることにする。表にディスプレイがなく値段は不明であるものの、400円までだろうと見立てをした。

アイスコーヒーを注文し、一口含み、置かれた伝票を見ると390の数字。ほくそ笑んで10円儲けた気になっている自分がいた。再び小銭入れを宝物を扱うように取り出して、正確に数えてみる。1149円。ランチもしのげそうだといい気になっている。「11493で割り切れる」とアホなことを考えて、すっかり余裕を取り戻していた。こういうのを「現金なやつ」と形容するのだろう。

(続く)