交渉のヒントとピント

問題解決や物事の理解の手がかりがヒント。問題や物事の中心に焦点を絞るのがピント。先人たちが残した交渉の鉄則からヒントは得られるが、自分の当面の問題にピントが合うとは限らない。一般的な格言や諺と同じく、上手に意味を汲むべきで、決して軽はずみに信じてはいけない。

「ディベートや交渉の指導はもうしないのかい?」と知人。「大がかりな場ではするつもりはない。個別に手ほどきするのはやぶさかではないけれど」と返答した。議論の勝ち方や交渉の進め方について30年以上講演や研修をしてきたが、学びたい人のための便宜的な手立てに過ぎない。ディベートや交渉で勝負しようとしている二人を相手に同時に手ほどきはできない。

相対する二者のレベルが上がってくるにつれ、基本原則や定跡としての交渉術は徐々に通用しなくなってくる。読み合いと裏のかき合いをすればするほど、上級者の間では戦術が通用しなくなるのだ。交渉術は中級者向けであり、相対する両者に駆け引きの技量の差がある時に有効だと言える。という前提のもとに、いくつかの「術」を紹介しよう。

「ことば。それは人間が使うもっとも霊験あらたかな薬だ」(ラドヤード・キプリング)

👉 交渉は「ことばのチェス」である。軽はずみにことばを使う者は交渉事でなかなか勝てない。ことばの重みを知り尽くし、ことばの「薬効」に詳しい者が有利に交渉を進めることができる。

「物事を体系的に扱おうとするなら、まずその定義から始めよ」(マルクス・トゥッリウス・キケロ)

👉 定義が曖昧なら弱者もいい勝負に持ち込める。相手より少しでも力上位だと自覚するのなら、まず重要なことばを明確に定義して交渉をリードするべきである。自分が定めた定義で議論したり交渉を進めたりできていれば、すでに形勢は有利になっているはず。

「敵の手の内を熟読すること。われらの敵はわれらの味方である」(エドモンド・バーグ)

👉 「あの人はこういう人で、こんな考えをする」という他人からの情報を当てにしてはいけない。敵に喋らせて一言一句をフィルターにかけてホンネとタテマエをその場で即興的に見極めるのがいい。いま目の前にいる当面の敵こそが最大の情報源なのだから。

考えを理解してもらうには大言壮語してはいけない。短いセンテンスで小さく言い表せ」(ジョン・パターソン)

👉 争点が分かっておらず理解も不十分な人ほど大言壮語する。すなわち、抽象的なことばを振り回す。たとえば「自由で開かれたインド太平洋」という漠然とした概念を繰り返す相手は恐くないのである。これに対して、争点がよく分かっている人は、ここぞという場面で具体的かつ簡潔に話をする。

「あなたの意に反して即断を迫られた時にはノーと答えよ」(チャールズ・ニールソン)

👉 「さあ、イエスかノーか、どっちなんだ?」と迫る問いに即座に答えられない時、「二者択一では答えられない」などと平凡に返してはいけない。とりあえず「ノー」で凌ぐ。ノーと言っておけば後でイエスに変えることができる。イエスに対して相手は受容しやすい。しかし、イエスと言って、後で「やっぱりノーだ」と変更すると弱みを露呈することになる。

「種蒔きと刈り取りを同時におこなうな」(フランシス・ベーコン)

👉 質疑応答や情報提供は交渉の下地づくりの過程である。たとえば「この情報をご存知か?」と尋ね、相手にイエスかノーかの答えを迫る。ノーと答えた相手にその場で「ノーはおかしいじゃないか!? 」と反論するのではなく、黙ってうなずく。このような種をたくさん蒔いておき、次に「これまでの質疑応答を通じて問題が浮き彫りになった」と切り出して、重要な争点の刈り取りに取り掛かる。いてはいけない。

特急車中のメモを読み返す

言いっ放し、聞きっ放しはよくある。文字でなく音声だから、言ったり聞いたりするそばから消える。しばらくすると何を言ったか何を聞いたか忘れている。文字の場合は消えずに記録に残るが、書きっ放しのまま放置しては意味がない。時々読み返してこそのノートである。下記は先週の出張時の特急車内で記した歪んだ文字のメモの書き起こし。


📎 促されるままアプリをスマホにインストールすることがある。気づけばかなりの数になっている。ふと、人生も無数のアプリで出来ているのではないかと思う。「アプリ人生」または「人生アプリ」。

📎 リーダーは孤独か否か? という雑談をした。孤独の時間もあるだろう。しかし、仕事では会議や打ち合わせが入る。プライベートでは、仲間から声が掛かる、自ら仲間を呼んで会う。一緒にメシを食い飲み屋にも行く。知り合いのリーダーはいつもワイワイガヤガヤやっている。孤独を噛みしめる時間はあまりなさそうだ。孤独が似合うリーダーが少なくなった。

📎 まだ一度も使っていないフランスの土産のことを思い出した。パリ郊外のフォンテンブロー宮殿で買い求めたらしい。ナポレオンが愛したグラスとか。たしか“N”のレリーフが入っていた。今年の夏、使ってみようと思う。

📎 とある中華料理店のメニューに、しばらく消えていた一品が戻ってきた。やや辛めのビャンビャン麵がそれ。最初の実食時に好奇心から漢字を覚えてみたが、今はすっかり忘れている。

📎 「うまいものを食べるのではない。食べたものがうまいのである」と食後にいつもつぶやく。食材と料理への感謝のしるし。

📎 「天ぷらは親のカタキに会ったように食べろ」と言ったのは池波正太郎。まあ、どんな料理も出されたら、なるべく早くいただくのがいい。先日、カツオのタタキをそんなふうに食べた。親のカタキ、カツオのタタキ、合わせて親の肩たたき。

📎 副次的なディテールがうまく行っても、大局を誤っていると話にならない。大局がディテールよりもすぐれていると断言するつもりはないが、ディテールに配慮する心遣いが大局にはある。大局観は粋なのだ。

コツコツが発想のコツ

💡 「一瞬のひらめきで企画案が出来上がる」なんてことはありません。好奇心や遊び心に促される気づきをコツコツ積み重ね、地味にあれこれと考える。これが発想の基本。奇跡も稀にありますが、期待しないほうがいいでしょう。

💡 正解は、どこかにあるものではなく、そのつど編み出すもの。しかも、一つとはかぎらず、現実世界ではたいてい複数の正解がありえます。有力視される論理的思考や分析的思考から生まれるアイデアは案外月並みです。決して過信してはいけません。

💡 半世紀以上前に、論理一辺倒の「垂直思考」に代わる、柔軟な「水平思考」を提唱したのがエドワード・デ・ボノ。A⇢B⇢C〉という順序的な定常処理に対して、水平思考とは論理を脱して「飛ぶ」ということ。誰にでもできる思考ではないですが、近づける道はあります。さぞかし「すごい方法」に違いないと思いきや、普通過ぎて驚きます。それはそうでしょう。日常わたしたちは論理思考で明け暮れているわけではないですから。

 広視野でとらわれなく考える。深く考えようとするととらわれる。浅くてもいいから広く見渡すように考える。

 大きな目的を目指すとマクロ的かつ抽象的に考えてしまう。小さくて具体的なゴールほど到達しやすい。

 何もかも手の内に入れて考えるのは所詮無理。何が重要か――あれもこれもと欲張らずに、優先順位を決める。

 「これが正解だ!」と確信した時に落とし穴が生まれる。一つのアイデアに安心せずに、代案やオプションを捻り出す。

💡 発想の質――ひいては企画の質――は膨大なルーチンワークの積み重ね、同じことの繰り返しによって高まります。職人さんの経験・熟練と同じ。日常的な経験値が多いほど気づきも多くなります。毎日同じ道を歩いている人ほど変化をしたためやすいのです。

💡 発想のスキルはいきなり身につきません。また、仕事中に身につくだけではありません。生活のスタイル、癖や習慣、教養や雑学がスキルに反映します。面倒臭がらないこと。細やかに気遣いすること。記録し記憶すること。そして、社会とのアナログ的距離感覚をおろそかにしないことがたいせつです。

(岡野勝志『企画発想術講座(初級)』のイントロより)

夏はやっぱりカレー?

「夏はやっぱりカレー」と言われても、「夏はやっぱりアイスコーヒー」と同じく、特に違和感を覚えない。誰が言い出したか知らないが、暑さとスパイスは相性がいいようだ。では、「カレーと言えばやっぱり〇〇〇」と言い切れるカレーはあるか? 絞り切れないという点では「ない」と言うしかない。

ここ十数年、日本で独自に進化したスパイスカレー。あまり追いかけなかった。それよりも、近場でインド/ネパールカレーを中心に食べ歩いた。何しろ居住区と職場は関西有数のカレー激戦区なので、徒歩圏内でいろいろ賞味できてしまう。インド/ネパールだけでなく、パキスタンやスリランカやシンガポールもある。

ここ数年、ナンよりもライスの頻度が高くなった。よく行くネパールの店ではご飯たっぷりの「ダルバート」。もっとよく行く南インドの店では、土曜日は大盛りのかやくご飯「ビリヤニ」、そして最近の日曜日は「カレーはやっぱりミールス」と決めて店に入る。ダルバートもミールスも、また北インドのタ―リーも、味や盛り方のニュアンスが違うだけで、基本はライスとカレー数種類の定食である。

南インド料理の定食、ミールス
同じ店の別の日のミールス

ひいきにしている店のミールスは、ライスと8種類ほどのカレーの小皿を丸い大きな皿に乗せて出てくる。中央にはパラパラとしたバスマティライスを盛り、その上にパパドという豆の粉を薄く焼いたせんべい。バスマティはジャスミンライスのように香りがなく、カレーで煮込んだおかずとの相性がとてもいい。

小皿のカレーは日替わりでおかずが変わるが、定番はサンバル(豆と野菜の辛酸っぱいカレー)とラッサム(塩酸っぱいスープ)。あとは、ココナツカレーやダル(豆のカレー)やポテトの炒め物、ホルモン煮込みやカボチャなどの小皿もたまに出てくる。カレーとナンを注文すると、1種類か2種類のカレーに小さなライスが付いてくるのが一般的。ミールスなら、ふんだんに豆と野菜と肉を使った味の違うカレーが何種類も楽しめる。

インド/ネパール料理は、ご飯をたっぷり食べさせる。ミールスのいろいろな小皿はご飯をモリモリ食べる仕掛けなのではないかと思う今日この頃である。

抜き書き録〈2023年7月〉

コロナ前に途中まで読んで最後のページまで到らなかった本からの抜き書き。本は無作為に読んでいるが、引用箇所はたまたま言語が共通テーマになった。


📗 『エッフェル塔のかけら――建築家の旅』(岡部憲明)

夕日を背にしたエッフェル塔は光の中に溶解し、風とたわむれ、空の織物となる。エッフェル塔は限りなく透明な構築物だ。なめらかにのびる四本の足から加速度的に空の一点へと収斂していく。透明な軽さは重力を感じさせない。

靴がかなりくたびれるほどパリを歩いた日がある。石畳が多いから靴底のクッションは重要だ。歩くリズムの中に街を感知しながら、予定以上に歩いてしまう。一休みはカフェで、フランスのエスプレッソ「エクスプレッソ・・・・・・・」を注文し、舗道と通行人をぼんやり眺めて午後のひとときを過ごす。パリ市内ではどこにいてもエッフェル塔が見える。パリに三度訪れ、合わせて20日以上滞在したが、エッフェル塔は見飽きない。エッフェル塔は空間的存在のみならず、変幻自在な言語的存在でもある。表現が尽きない。

📗 『言葉とは何か』(丸山圭三郎)

言葉は、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有の概念化・構造化であって、外国語を学ぶということは、すでに知っている事物や概念の新しい名前を知ることではなく、今までとは全く異なった分析やカテゴリー化の新しい視点を獲得すること(……)

国際広報の仕事をしていた20代、30代の頃、日英の翻訳も業務の一つだった。「これ訳しておいてもらえる?」と気軽に依頼されたが、気楽にできるものではなかった。翻訳とは二言語間の単なる文字面もじづらの置き換えではない。ものの見方、感情や生活様式、慣習、風俗など、何から何までそっくり照らし合わせなければならないのだ。AIがどこまで概念化・構造化としての言語を分析できるようになるのか、興味津々である。

📗 『言語の科学――ことば・心・人間本性』(チョムスキー)

言語は6万年前、突然変異で人間の脳が再配線され、それを契機に生まれた能力である。言語が人間を人間にしたのだ。

人間を人間たらしめているのが言語なら、言語のどの要素が最も決定的なのか。言語は人間どうしの意味の共有を可能にした。今ここにないモノをその名によって伝え、見えない時間や感情を記号化して分かり合えるようになった。この6万年間、ホモサピエンスの他にこの能力を獲得した動物はいない。しかし人間は、言語と引き換えにそれまで駆使していたはずの固有の能力のほとんどを失ったはずである。

雨ナントカ

一昨日の夕方近く、我慢の限界に達したかのように豪雨が突然襲ってきた。まるで潜んでいたゲリラがふいに現れたようだった。ゲリラ豪雨とは言い得て妙だ。漢字の「雨」の成り立ちは雲から落ちる粒状の水だが、豪雨にはこんな可愛さは微塵もない。

月や季節の変わり目に何冊かの歳時記を取り出して、バーチャルに季節感を再現する。「雨(あま/あめ)ナントカ」という熟語は結構多い。

雨脚、雨蛙、雨傘、雨雲、雨乞い、雨空、雨垂れ、雨粒、雨戸、雨宿り、雨上がり、雨男、雨風、雨露雨模様……。

取り出した本の目次と索引から「雨(あま/あめ)ナントカ」という文字を探す。「ナントカ雨」は多いが、「雨ナントカ」ということばの歳時記は意外にも少ない。調べ方の問題があったかもしれない。一昨日の雨には情趣も何もなかったので、ひとひねりして「雨男」と「雨乞い」にねらいをつけてもう少し探してみた。

雨男

グループが集まったり出掛けたりする時に雨が降り出す。そのグループの中に雨を降らせる男がいる。それが雨男だ(雨女でもいい)。男が十人集まって雨が降れば、みんなが雨男かもしれないのに、だいたい一人か二人の男が「ぼく、雨男なんです」といち早く名乗りを上げる。「うぬぼれてはいけない。きみごときが神のように空模様をアレンジできるはずがない」と何度か言ってやったことがある。

明治の文豪、尾崎紅葉は雨男として知られていた。歌人の佐々木信綱も雨男だった。

「ところがいつかこの二人がいっしょに出かけたところ、雨が降らないどころか、カンカン照り。雨性あめしょうと雨性とがぶつかって晴天となったもので、両陰相合して陽となるの原理によるものだと評判だったそうな。」(金田一春彦『ことばの歳時記』より)

この一例しか見つからなかった。そうか、雨男は年中どこでもいるから、歳時記の対象にふさわしくないのだろう。

雨乞い

引っ張り出してきた歳時記のどれにも見当たらなかった。以前何かの本で見つけて、本ブログでも紹介したエピソードを思い出した。

雨が長らく降らずに困ると、アフリカのある部族は雨乞いをする。酋長の指示に従って部族の男たちは雨よ降れとばかりに踊り始める。そして、雨乞いダンスをすれば百発百中でやがて雨が降るのである。不思議でも何でもない。雨が降るまで踊り続ければいいのだから。

現代人は空模様から雨を予知してはいない。気象予報士が「午後から雨」と言うから、雨が降ると思っている。「降水確率は10パーセントでしょう」と言うから、傘を持たずに出掛けている。予報しない時代のほうが、たぶん雨には雰囲気があった。それが証拠に日本人はいろんな表現で雨を命名したのだ。

調べものの最後に『歳時記百話 季を生きる』(高橋睦郎著)の中の「夕立」が目に止まった。一昨日の雨は激しかったが、夕立の一種とも言える。いくつか拾ってみた。

ゆふ立ちやよみがへりたるたおれ馬  几菫
夕立が洗つていつた茄子なすをもぐ   山頭火
さつきから夕立ゆだちはしにゐるらしき  晴子

最後の句は一昨日の雨に通じる。但し、「さつきから」ではなく「とつぜんの」、「夕立」は「豪雨」、ゐるところは「端」ではなく「ど真ん中」。豪雨は人に「我こそが今そのど真ん中にゐる」と恐怖させる。

焼きそばを食べ比べる

『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』というパロディ本がある。100人ほどの文豪の名文の一節をカップ焼きそばをテーマとして創作した一冊。たとえばシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のあの有名なシーンが次のように化けている。

ああ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの? バラは名前を捨てても、その香りは美しいまま。
インスタントになっても、焼きそばは美味しいまま。
ロミオ、その名前を捨てて。私に顔を見せて。蓋を開けたら麺が見えるように!

こんな具合に名作のパロディが書かれる。佳作とそうでないものが半々というところか。カップ焼きそばがパロディになるのは、カップ焼きそばの本質に愉快があるからだ。鉄板で調理する焼きそばはB級グルメなどと言われるが、カップごときに負けるわけにはいかない。それどころか、うまさに唸ることも稀ではない。

時々ぶらぶら歩く商店街に「ヤキソバ研究所」なる醤油焼きそばの専門店がある。入店体験なし。興味がないわけではないが、近くを通る時はいつもランチの後。ともあれ、焼きそばは立派に研究対象になり、その成果が商いになることの証明である。


焼きそばの研究家や通などとは思わないが、焼きそばは好きであり、好きと言うかぎりは数をこなしており、平均すると週一ペースになるかもしれない。これまた好物のパスタといい勝負である。と言うわけで、今年になって食べた焼きそばをレビューしてみる。

定番のソース焼きそば

具は豚肉とキャベツのみ。具の種類は少なめがおすすめ。卓上のソースを好みに応じて足す。焼きそばとご飯をいっしょに食べるかどうかという論争があるが、好きにすればいい。

上海焼きそば

ソース焼きそばに比べて具が多い。そばをベースにしたあっさり系の野菜炒めという感じ。上海焼きそばと香港焼きそばは見た目よく似ている。色合いと味は香港のほうがやや濃い。

西安クミン焼きそば

行きつけだった店では「西安シーアン焼きうどん」と呼んでいた。これでもかとばかりにクミンと唐辛子をまぶしてある。ご飯に合う。この店、残念なことに移転してしまった。

タイの焼きそば、パッタイ

カオマンガイで使う鶏肉とモヤシを炒める。生野菜が添えられ、唐辛子と砕いたピーナツがかかっている。日本米だと合わないが、タイ米との相性はかなりすぐれている。

タイの醤油焼きそば、パットシ―ユー

パッタイに青菜が加わり、見た目も味も濃くなっている。上海も香港もこのパットシーユーも醤油味が違う。組み合わせる調味料によって醤油の味変が生じるのだろう。

モンゴルの羊肉焼きそば、ツォイピン

珍しい羊肉の焼きそば。割と辛めに作られている。羊を敬遠する人は多いが、牛肉焼きそばよりはかなりおいしい(牛肉は焼きそばの具としてはイマイチである)。

リングイーネの創作焼きそば

リングイーネという稲庭うどんに似たパスタを使う、わが家の創作焼きそば。茹で残ったリングイーネを好みのキノコと炒め、醤油を数滴たらす。刻み海苔と大葉をまぶす。

さっと見てすっと分かる

どんなに時間をかけて読んでも全然分からない本がある。たとえばヘーゲルやハイデッガーの本。しかし、哲学書はそんなものだと割り切っているので、自分の能力不足のせいにしておけばいい。厄介なのはピンとこない俳句や短歌や詩だ。せっかく楽しく味わおうとしても、詠み手や歌い手がことばをいじくっては自己満足して、読者を置き去りにする。ぼくもレトリックに凝って伝わりにくい文章を書くことがあるので、思い当たるフシはある。

さっと見るだけですっと分かってもらえる文や詩はあれもこれもと欲張らない。小事やささやかな思いを脚色し過ぎず、また主題を広げることもない。ところで、旅先で時間があれば名所旧跡を足早に訪れる。どこに行っても碑があり、石に刻まれた句や歌の文字の一部は長い歳月を経て摩耗して判読しづらい。仮に判読可能だとしても、語彙も意味も難しい。碑の横の説明板を読むことになる。

先日、長崎に滞在中、長い階段で有名な諏訪神社に赴いた。無事に息切れもせず階段を上り切り、帰りに通った裏道の途中に一つの歌碑に出合った。

川端に牛と馬とがつながれて牛と馬とが風に吹かるる  三郎

そうそう、これこれ。歌碑とはこうでなくては! と小躍りする。久しぶりに文字が瞬時に判読できた。分かった後に何を想像しようが哲学しようが余韻に浸ろうが自由だが、さっと見てすっと分かるとはこういう歌なのだと思う。気になったので調べた。「歌人中村三郎、明治24年長崎県で出生、大正11年没。享年32歳」。


甲骨文字の「目」

さっと見てすっと分かるには、対象が素朴で平易であること、かつ鑑賞者(または観賞者)の理解能力があること。将棋や囲碁のある局面で、一目ひとめで何十手も一瞬で読めるのは才能である。ちらっと見て何もかも先の先まで分かることを一目瞭然いちもくりょうぜんという。手元の盤面ではなく、それが風景になると一望いちぼうに見渡す視野の広さがいる。

「一」の後に「見る」という意味の単漢字を添えると、さっと見てすっと分かる二字熟語ができる。一目や一望の他に、一見いっけんがある。初見でもちょっと見るだけで分かるのだから「一」なのだろう。一睨いちげいなら、ひとにらみ。目で相手を牽制する様子がうかがえる。

一瞥いちべつなら対象への思いやりが軽い。「まあ、わざわざ気にとめることもないが、ちょっと見ておいてやるか」と上から目線である。一覧いちらんと言うと、今では表の体裁になったリストのことを思い浮かべるが、対象のすべての要素に一通りざっと目を通すことが原意だ。要素が多くなっても、さっと見てすっと分かるのは表がよく出来ていて、かつ一覧する者がよく出来る人だからである。

以上のような内容をグダグダと盛るのはたやすいが、さっと見てすっと分かる文を綴る道は険しい。

紙の上の文字に向き合う

PCの普及がごく一部に限られていた1980年代の後半。小型のワープロ「文豪」で文書を作成し、感熱紙に印字していた。主要な文字情報源は本か雑誌だった。さらにその前の10年は原稿用紙に手書きしていた。企画書も手書き。手直しが多くなりそうな予感があれば鉛筆で書いた。書き直しは当たり前なので、消しゴムと修正液は必需品。時間はかかったが、それ以外に選択肢がなく、特に不便だとは思わなかった。

大阪の「適塾」や京都の学塾まなびやである「山本読書室」はいずれも江戸時代に開塾している。塾生はどうしても手に入れたい稀少な本があれば、すべて自分で筆写していた。学ぶ情熱があれば手間暇は厭わなかったのである。翻って、PCもスマホもない時代には戻れそうにない今、ITの利器が誕生する前の十数年間仕事をしていた者としては、古典的な学びのスタイルとリテラシーから学んだことが財産になっていると思う。

本を読むこと、観察すること、手書きすることを日々意識しているつもりだが、気が付くと一日の仕事の大半はキーボードを叩いている。PCは仕事の道具だから手放せない。しかし、スマホ時間は減らせるのではないか。減らせば読書時間が増えるのではないか。そう考えて、この一カ月、休みの日と平日の仕事中は不要不急のスマホ利用を控えるようにした。特に困ったことは生じない。むしろ、眼精疲労がずいぶん緩和された気がする。


ディスプレイの文字ではなく、紙に印刷された文字。キーボード経由の文章ではなく、紙に手書きする文章。つまり、デジタルではなくアナログということだが、そこには生身の感覚と直結する「手触り」がある。適塾の二階部屋で閲覧できる「ヅーフハルマ蘭日辞書」のことを思い出した。たった一つの場所に一冊しかない辞書に学び手が争うように群がった。無限増殖可能な、一人一冊持てる電子辞書の前で人は血相を変えることはないだろう。

先週、4年半ぶりに長崎に行く機会があり、再び出島を訪れた。そこでズーフハルマ辞書とまた出合う。適塾を主宰した緒方洪庵は天保7年(1836年)に長崎へ遊学し、出島のオランダ商館長でもあるニーマン医師と交流しつつ医学を学んだ。天保9年の春に大阪に戻った洪庵は適塾を開き、持ち帰ったヅーフハルマ辞書を活用して塾生指導に当たった。

コロナで仕事がペースダウンした3年間、安直にPCやスマホで調べるのではなく、手の届くところに数冊の辞書を置いて、頻繁に引くように意識した。引いた見出し語には青の色鉛筆で傍線の印を入れる。単に意味をチェックするだけで終わらないのが辞書の利点だ。ことばが別のことばを、断片的な小さなアイデアを誘発する。

さて、アナログリテラシー重視の勉強会の再開準備を進めているが、イベントをメールやSNSで案内するのはやむをえない。昔は住所を知らない人たちと交流することはほとんどなかったが、今は住所を知らない人たちとアルファベットのアドレス上で毎日のようにやりとりしている。当たり前のようだが、時々自分のしていることを不気味に思うことがある。

人気を「ひとけ」と読む時

人気と書いて「にんき」または「ひとけ」と読む(稀に「じんき」と読むこともある)。「にんき」は、あったり出たりすると好ましいとされる。しかし、それに溺れてしまうと、いずれ痛い目に合う。一時的にそれを博した者や物は早晩それを失うことが多い。

同じ漢字を「ひとけ」と読むと、場で感じる人の気配や様子をあらわす。「にんきがない」と「ひとけがない」には人が寄りつかないという共通の意味がある。しかし、「にんきがない」のは本人も諦めがつくが、「ひとけがない」と周囲の者たちが気持ち悪がる。「ひとけのない部屋」で物音がすると不気味ではないか。

平日の昼に二度しか入っていないので、結論めいたことや断定的な意見は慎みたいが、こんな街中なのに信じられないほど「ひとけのない店」がオフィスの近くにある。最初に入店した昨年はぼくが一人だけ、二度目の先日は先客一人とぼくだけ。ざっと見渡せば50席は下らない、広い店にもかかわらず。

撮り収めた写真に時計が写っていた。ランチタイムとしてはピークのはずの1225分頃である。この時刻に客が二人。とんでもなくまずい料理を出す店と思われそうだが、そんな店ならぼくの二度目はない。ミートソースやトマトや魚介のスパゲッティを出す店で、ベーカリーも併設している(いや、ベーカリ―がパスタランチを提供しているのかもしれない)。ともあれ、味は普通である。

最初にサラダとスープが運ばれる。次にパン。通常はパンを乗せたトレイを客席で見せて、好きなパンを23個選ばせるものだが、これでもかとばかりに7種の小ぶりなパンを盛った皿をテーブルに置く。そして、「あちらで(と小さなテーブルを指差し)バターとジャムはご自由にどうぞ」と言う。厨房に初老の夫、ホールにその妻(たぶん)。夜になると繫盛しているかもしれないので、敢えて「にんきがない」とは言わないが、正午前後になぜひとけがないのか、その原因はわずか二度では突き止められそうにない。

現象面的には他のイタリアンとの違いが見える。他店は女性客が多い。ムダにシャレている。店の前のメニューに高級感がある。翻って、この店はパン屋かスパゲッティ屋か喫茶店かわかりづらい。繰り返すが、パスタは普通である。当世、パスタをまずく下手くそに作るほうが難しい。普通のパスタを普通のソースで普通に作れば、普通の一品が出来上がる。

パンも普通である。「配給」された気分だったので頑張ってパンを食べたが、不覚にも2個残した。お勘定の時に「残して申し訳ない」と詫びたら、「お持ち帰りもできますのでお申し付けください」と言われた。いい店ではないか。敬遠する理由が見当たらない。しかし、ひとけがない理由を探るためにもう一度来ようとは思わない。この店に来た客はみな二度来て、ぼくと同じことを感じ、そして三度目を見送っているのに違いない。