字句や文章に線を引く

昨日、何冊かに一冊は流し読みという読書に回帰しようと誓った。しかし、現実的にはそんな悠長な読み方は少なくとも仕事上は許されず、本にどんどん印を入れたり線を引いたり欄外にメモを書いたりする日々だ。

「線を引く」には二つの機能がある。後日の再読用に目立つようにしておく機能と、意識を高め読み取る気合を入れる機能だ。一つ目の機能は付箋紙でも代用がきくが、二つ目の機能はペンによる線引きでなければならない。印や線は内容の理解を促すような気がする。おそらく錯覚なのだろうが、ぼくの知り合いには一冊の本のうち90%の文章を蛍光マーカーで光らせている人がいる。


『広辞苑』で「下線」の項を引いたら、「アンダーラインに同じ」と書いてあった。ページを繰り直してアンダーラインの項へ。そこには「注意をひくため、または備忘のために、横書きの字句の下に引く線」とある。そりゃそうだ。文字の下に引く線だからアンダーライン。横書きの場合はそう。ところが、横書きの本なんて少数派ではないか。実際、手の届く本箱の一番上――読みかけやこれから読もうとセレクトした本を並べている棚――には80冊の本があり、そのうち横書きの本は『中学理科の教科書』と『ラテン語の世界』の二冊だけである。

わが国では圧倒的に多い縦書きの本。強調線を引くのは文字の右側であるから、アンダーラインとは言わない。ほとんどの国ではアンダーラインでいいだろうが、雑誌や一部の書物を除けば日本の出版物では下線の出番は少ない。再び『広辞苑』をめくった。さっき「下線」を調べたら「アンダーラインに同じ」だった。ならば、「横線」の項には「サイドラインに同じ」と出てくるのだろう、と推理した。

JR東海道線の支線「横須賀線」はあったが、「横線」なんていうことばはない。それで「サイドライン」へ飛んでみた。「テニス、バスケット・ボール、バレー・ボールなどで、コート両翼の区画線」が一つ目の意味で、二つ目に「傍線」とあった。

傍線なら知っている。傍点ということばもある。実を言うと、横線を発想する前に「縦書き文には傍線だろう」と見当をつけていた。しかし、ぼくが知るかぎり、傍線は自分のために引くのではなく読者のために引く線である。引用文などで「傍線筆者」と書くのは、読者のために原文にはない傍線を著者がほどこすことだ。


面倒臭くなってきたが、ここでやめたらそれまでの時間がムダになる。そこで念のために傍線を調べてみた。「強調し、または注意を向けさせるために、文字の横にひく線」とある(傍線部分は岡野――こんなふうに使う)。やっぱりそうだ。他人に向けられた線のことなのだ。しかし、ちょっと待てよ。強調するのは自分のためかもしれない。いや、自分が自分に注意を向けさせることだってありうるぞ。

というわけで、別の辞書『新明解国語辞典』にあたった。「縦書きの文章で、注意すべき字句(文)の右側に引く線」と定義されているではないか。さすが「明解(明快)」だ。これなら、注意すべき字句へ喚起させるのは自分でも他人でもいいことになる。しかも、「縦書き」と「右側」とまで厳密に書いてくれている。

縦書きの文章に引く線の名称は「傍線」ということで、一件落着。であるならば、先程の「強調し、または注意を向けさせるために、文字の横にひく線」の引用にあたっては、「下線部分は岡野」としなければならない。このブログ記事は横書きなので、必然下線と呼ぶべきであった。線はややこしい。縦書き・横書きに関係なく、これからは文章を囲もうと思う。

答えは問いよりも具体的であるべし

本ブログの名称である「オカノノート」は、ぼく自身が日々メモしているアイデア帳をそう呼んだことに由来している。たいした勉強家でも読書家でもないが、メモをつける習慣だけは断続的に30年ほど続けてきた。異種情報をごった煮状態で記しているので体系的な情報源にはなりえない。しかし、自分自身の発想・観察メモであることに値打ちがあるし、触媒や起爆剤として重宝している。

アイデアノートでも発想ノートでも、自分の名前を冠した「〇〇ノート」でもいいから始めてみたらどうか――知的生産に関してまったくノウハウもなく戸惑っている後輩や私塾の塾生にノートをつけるよう勧める。数年前からずっとそう言い続けてきて、本人もうなずき大いに共感してノートも購入していた。にもかかわらず、未だに着手していない一人の男性がいる。

彼はバカではない。だが、記憶力があまりよくない。記憶力が悪いのは、だいたいにおいて物事の観察や考察が粗っぽくて雑だからである。相当行き詰まっているようなので、「以前から言っているけど、ノートをつけなさいよ。その意義も理解し、効果もあると納得しているんでしょ?」と先日切り出した。「はい。わかっています。やってみたいと思っています。」「それならやればいい。そう思っているのに、なぜできないの?」

この問いに「単なるずぼらです」と彼は返した。こけそうになった。回りに角張った什器がなかったらたぶんこけていた。よくぞぬけぬけと言ったものだ。やろうと思ってやらない約束破りに仕事の手抜き……しまりなく無為徒食で過ごす日々……おまけに「ずぼら」の前に「単なる」をつけた。「単なるずぼら」につける薬はない!


「答えは問いよりも具体的であるべし」。これは「ことばの概念レベル」にかかわる重要なポイントだ。国語でも論理学でも、わが国では十分に取り上げられないのが残念である。

「なぜできないの?」は原因または理由を尋ねている。問うほうは「単なるずぼら」よりも具体的な答えを期待しているのだ。BecauseWhyより大きな概念だったら、原因や理由は永久に特定できなくなる。「総理はどのようにお考えですか?」に対して「前向きに取り組みたい」と体をかわしているかぎり、解決の答え、すなわち「解答」にはなっていない。

そもそも解答はある種の「ソリューション」でなければならない。たとえば「アメリカ大陸を発見したのは誰?」という問いに、「ヨーロッパの歴史上の人物」と答えても「イタリアはジェノバ出身のコロンブス」と答えても、いずれも正解である。だが、前者は上位の答えであり具体的な解答を棚上げしている。後者は「誰?」という問いに対してもっとも具体的なソリューションで答えている。

「ランチは何がいいですか?」とご馳走する側が尋ねた。「お任せします」は作法上礼儀正しいかもしれないが、尋ねたほうにとってはまったく答えになっていない。希望を聞いたのであるから、具体的な希望を言えばいいのである。ランチの希望を聞かれて「麦」というのも違和感があるだろう。いや、これはギャグになってしまう。「ランチ」という問いに「麦」が合っていない。せめて「うどん」か「パスタ」か「サンドイッチ」と答えねばならない。

ちょっと硬派な意見になったが、食事の話や普段の生活ではこんなに緻密である必要はない。しかし、問いに対して答えが大きくなってしまうと、仕事の打ち合わせ・商談・会議などで輪郭不明瞭な時間が過ぎていくのだ。正直言って、ぼんやりした受け答えを許容していると風土そのものがアホになってくる。

「売上不足をどう補完する? 対策は?」とサーブを打ってはみたが、「頑張ります」とリターンされたらバタンとこけるしかない。少なくともぼくはこんな精神論的ソリューションをまったく信じない。

「頑張ります」と答えたそいつに、「オーケー。でも、どのように頑張るのか?」とさらにたたみかけてみよう。そいつはきっとこう答える――「とにかく、がむしゃらに頑張ります」。ほら、抽象概念の階段は天へと伸びる。さっきはこっちがこけたが、今度はそいつにそのまま天高く消えていってもらおう。   

タイトルは悩ましい

二十代後半から三十代前半の数年間、コピーライティングの仕事に携わった。企業や商品のコンセプトを煮詰め、見出し(ヘッドライン)を数語か一行そこそこで表わす。ダラダラと文字を連ねる看板などない。同じく、見出しもことば少なく簡潔でなければならない。言いたいことはいっぱい、しかし、メッセージはかぎりなく凝縮しなければならない。

ストレスのたまる仕事である。英文ライターゆえ、ことばのハンデもあって表現もままならず、もどかしい時間と闘わねばならなかった。ブログのタイトルと記事本文との関係同様に、見出しを決めてから本文を書く場合と、本文を書いてから見出しを練る場合がある。見出し→本文の順だと主題を落とし込む演繹型(トップダウン)になり、本文→見出しの順では集約や切り取りの帰納型(ボトムアップ)になる。前者の場合でも、再度見出しを見直すことになるので、いずれにしても最後に仕上げるのはタイトルになる。

このタイトルをつける作業が悩ましい。コンセプトや方向性が決まってからも微妙な表現のニュアンスに四苦八苦する。今日のブログタイトルにしても、『悩ましいタイトル表現』『タイトルづくりの悩み』『タイトルの苦悩』などいくらでも候補案がありうる。どこかで踏ん切りをつけないと、文章など書くことはできない。


昨日の夕方にオフィスの本棚を見渡していたら、何年も前にぼくが自宅から持ってきてそのまま置いてある本を何冊か見つけた。そのうちの一冊が特に懐かしく、文庫本で22ページの短編を一気に再読した。フィリップ・K・ディックの「地図にない町」という小説だ。この小説が収録されている本の書名は『地図にない町 ディック幻想短編集』。全部で12の独立した短編が収められている。

この本は、12の短編のうちもっとも代表的な作品名をそのままタイトルにしている。ちなみに、原作のタイトルは“THE COMMUTER And Other Storiesとなっている。直訳すれば『通勤者 他短編』。想像するに、翻訳者は「通勤者」ではインパクトがないので、小説のエッセンスを切り取って「地図にない町」をタイトルにしたのだろう。“Commuter”は「定期券または回数券の電車通勤者」を意味する。実際、この小説の冒頭のシーンは駅の構内の窓口であり、「次の方」という出札係に対して、小男が5ドル紙幣を差し出して「回数券を一冊下さい」という会話から始まる。

この本のタイトルのつけ方は、「シアトルマリナーズの選手たち」ではなく、「イチロー 他マリナーズの選手たち」と言っているようなものだ。この本と同じタイプなのが、プラトンの『ソクラテスの弁明』。「エウチュプロン――敬虔について」「ソクラテスの弁明」「クリトン――なすべきことについて」の三つの作品が収められているが、著名な「ソクラテスの弁明」を切り取ってタイトルにしている。

これら二冊と異なるタイプのタイトルをつけているのが、エドガー・アラン・ポオの『ポオ小説全集3』だ。17の短編をまとめてこう名づけている。これら短編には名作「モルグ街の殺人」が含まれている。にもかかわらず、「ポオ小説全集」としたのは、おそらく個々の作品名を表に出すよりも、全4巻のうちの3巻目であることを示す点に意味があると判断したからに違いない。


一つの記事や作品の見出しをつけるとき、伝えたい意図をタイトルにするのか、それとも代表的なキーワードをタイトルにするのか、悩ましい。複数の作品や記事を束ねて名づけるとき、すべてを括って上位のタイトルを付すのか、それとも一つの目玉を選んでそれをタイトルにするのか、これもまた悩ましい。

ぼくの場合、タイトルのつけ方や表現の巧拙はさておき、まったく同じ主題・内容の記事などないのであるから、どこかで自分が一度使ったタイトルをなるべく繰り返さないようにしている。これは講座や講演のネーミングにあたっても意識するようにしている。同じタイトルを使わない――これがタイトルづくりの悩ましさを増幅させる。  

(遺伝子組換えでない)

専門的なことまで立ち入ってよく調べたわけではない。経緯も知らなければ、なぜこういう表現が使われるのかもわからない。だが、ここ数年間、ぼくの中でことばの違和感ナンバーワンに輝いているのが、括弧付きの「(遺伝子組換えでない)」という用語であり用法である。

今朝も食べたコーンフレーク。その箱に「とうもろこし(遺伝子組換えでない)」と書かれている。他にも「大豆(遺伝子組換えでない)」という食品表示も目につく。そもそも、日本語においては修飾語が主体となることばの前に置かれることがほとんどだ。にもかかわらず、後ろから前を修飾する用法にぎこちなさを感じてしまう。ぼくたちは赤ワインと言う。「赤いワイン」と修飾語が前に来る。フランス語では“vin rouge”で、「ワイン赤」と言っている。イタリアでも“vino rosso”と「赤い」が後に置かれる。

「遺伝子組換えでない」などのしっくりこない表現に出くわすと、英語の直訳だろうとおおよその見当がつく。これは“not genetically modified”に対応しているのか(直訳すると「遺伝子的に変異されていない」という意味)。毎朝、コーンフレークの表示を目にしているのでだいぶ慣れてきたはずなのに、未だに「とうもろこし(遺伝子組換えでない)」が日本語のように思えてこない。

かと言って、「遺伝子組換えでないとうもろこし」というのはいかにも冗長だ。括弧の中に入れているのは「但し書き」のつもりだろうから、但し書きを修飾語としてアタマに置くとニュアンスが変わってしまう。「中国から輸入したのではないウナギ」はいかにも変だし、この表示が「国内産」を意味するものでもない。「ウナギ(中国産でない)」と強調するのなら、いっそ「ウナギ(国内産である)」と肯定的に表現するほうがいいだろう。


とうもろこしや大豆の表示に関して言えば、最大関心事が「遺伝子組換えの有無」であるのに違いない。その義務づけは、ぼくにはよくわからない安全性基準などによるものなのだろう。「とうもろこし(国内産でない、大粒でない、家畜用でない)」などという説明のほうがずっと親近感が持てるのではないか。毎朝毎朝「遺伝子組換えでない」を目にするたびに、生物の実験教室で朝食しているような気分になる。

なんだか括弧付きの但し書きがパロディのように思えてきた。たとえばプロジェクトに関わったスタッフを企画書の表紙に列挙するとき、「凹川凸男(見習いではない)」とか「AB子(外注先スタッフでない)」などと但し書きしておけば、安心してもらえるだろうか。あるいは、コワモテの社員を得意先に紹介するとき、「弊社の新入社員です。ヤクザではありません」としておけば、末永く可愛がってもらえるだろうか。

コーンフレークの話に戻る。「とうもろこし*」と表示しておいて、欄外注釈で「*遺伝子を組換えた原料を使用していません」とすればいいような気がする。「遺伝子組換えでない」という、文章でも形容詞でもない中途半端な但し書きをやめて、しっかりとした文章で説明するのがいい。

以上が「ぼくの意見(専門的観点からではない)」。おっと、この用法、なかなか使い勝手がいいぞ。   

「聞術」というリテラシー

ある人が提言する。現状の問題を取り上げて改革案なりを唱える。提言内容を別の誰かが検証し、しかるべき問いかけをしてさらに具体的な説明を求める。このような「検証-尋問-応答」という論戦ゲームを研修の論理実習でおこなっていて、一つ重要なことに気づく。

それは、人というものがどれだけ他人の話を聞いていないか、という点である。よくもまあ検証の対象を見事に外すものだ。必然尋問が明後日の方向に流れ、わけのわからないことを尋ねられた提言者が応答に戸惑い右往左往してしまう。提言に接合しない検証者に非があるのだが、弱気になる提言者が議論の中身をなおさらお粗末にしてしまう。

話すのに比べて聞くほうが難しいという事実は、外国語の学習を通じて体験する。自分が考えていることを自分の語彙の枠組みの中でこなせるのが「話す」という行為である。しかし、「聞く」という行為の対象範囲はべらぼうに広がる。知らない語彙や知識を聞かねばならないのだ。不幸なことに、話は発せられた直後に消える。議論のさなかにあっては、「ちょっと待った」と遮って話の内容を再生することなどできない。


聞くことがこんなに挑戦的な課題であるにもかかわらず、ぼくたちはそのスキルを真剣に鍛えようとしてこなかった。「聞き上手のすすめ」という類の指南がないことはない。だが、指導者と学習者双方が話し方に注ぐ膨大なエネルギーの足元にも及ばない。話術や話道があって、なぜ「聞術もんじゅつ」や「聴道ちょうどう」は存在しえないのか。

「聞く? そんなものにコツなどない」などと片付けられる。しかし、話すのには特殊なスキルが必要で、聞くのに技術などいらないというのは錯覚だ。こんな安易な姿勢がリテラシーにつまずく原因になっている。幼児期から少年期の言語体験を思い起こせばいい。聞く・読むという認知の質と量があったからこそ、話す・書くという表現の質と量につながったのだ。

さらに悪いことに、人は人間関係上の力学によって傾聴の度合を変える。自分より格上の人の話にはとりあえず耳を傾けるが、相手が格下と見るやろくに話を聞かずに適当な相槌で済ます。横柄な態度は傾聴を「軽聴」にしてしまう。


かくいうぼくが聞くコツを処方できるのか。偉そうな意見を垂れながらも、精神訓としてはひとまず「一所懸命に聞く」としか言えない。「どんな話も初耳のように聞き、全身を耳にして聞いて聞いてひたすら聞く」としか言えない。「な~んだ」というため息が聞こえそうだが、ポイントが四つある。

(1)  キーワードと多義語(曖昧語)をしっかりと聞く
(2)  聞いているメッセージを箇条書きの要点メモに取る
(3)  そのメモをできるかぎり画像(イメージ)に変換する
(4)  「ほんとうにそうだろうか?」と批判的フィルターをかける。

冒頭の「提言 vs  検証」というような議論においては、これらのポイントが効果的なのは実験済みだ。

原則として人間関係は聞くことによって成り立っている。よく話すことよりもよく聞くことのほうがコミュニケーションの線をよりいっそう長く引くことができる。聞術こそがクリエーティブな話力の下支えになる。現在、傾聴をテーマにした新しいリテラシー「聞術」の構想をあたためているところだ。  

ヒューマンスキルの核

「ノリヒビ」ということばを聞いたり読んだりしたことがあるだろうか。「海苔ひび」。海中に立てる竹や粗朶そだという木の棒のことである。この棒に胞子を付着させて海苔を養殖する。最初は遅々として目立たないが、やがてしっかり定着すればみるみるうちに海苔が繁殖していく。

何かが大きく成長するためには、この棒のような核が必要で、学んだことがどんどんまつわりついていかなければならない。ノリヒビはそんなたとえにも使われることがある。では、ヒューマンスキルにとって、ひびや胞子に相当するのは一体何だろうか。


学び手と学習メニューの関係は、身体とサプリメントの関係に似ている。毎日の食事さえバランスよくきちんと摂り、ほどよく運動して筋肉を鍛えていればおおむね問題無しとは、良識ある専門家が異口同音に唱えている。しかし、栄養に過多や偏りがあると体力に不安を覚え体調異変を感じる。そうなると、中高年には手っ取り早くサプリメントに依存する傾向がある。

ぼくも例に漏れなかった。ウコンに卵黄ニンニク、納豆キナーゼにノコギリヤシ、マルチビタミンや各種ミネラルを試してみた。通販で買ったためにしつこくフォローの電話攻めにも遭った。やがて主客転倒していることに気がついたのである。栄養源は水で流し込むのではなく、よく噛まねばならないのではないか。きちんと食事をして年齢相応に身体を動かし、歩き、ストレッチをする。そういうふうに生活スタイルをシフトして現在に到っている。


ヒューマンスキルのサプリメントには何がいいのか。世の中には学習メニューが目白押し。摂取しても摂取しても効き目を実感していない人たちも多い。摂取後は何らかの効果を実感できたとしても、効き目は持続しない。何日かすれば元の木阿弥状態になってしまう。学習メニュー提供側のぼくとしても、大いに反省しなければならないと思っている。

食事同様、学習サプリメントはあくまでも副である。サプリメントとはもともと「補足」という意味だ。不足を補うものであって、主たる存在ではない。毎日の食事が主であるように、もっともよく使うスキルこそが主ではないか。そう、ヒューマンスキルの主食はことばというリテラシーなのだ。リテラシーこそがノリヒビであり、ぼくたちは幼少の頃から「ことばの胞子」をずっと養殖してきた。

日々振り返れば、生活も仕事も読み・聴き・話し・書くで成り立っている。言語の四技能というリテラシーを駆使して一日を過ごしている。いかなる専門スキルも言語の核にまつわりつく。肝心要の言語力が乏しければ、知識や情報を大量に取り込んでも定着しないのだ。そして、レベルアップするにつれて、とりわけ読むことと書くことの重要性が高まってくるのである。

自分特有のことばの盲点

タイトルに「盲点」と書いて、一瞬ドキッとしてしまう。「まさかこれは差別用語ではないだろうな」と。講演業においては、この種の「基本的人権にかかわる諸問題の一つ」に神経をピリピリさせねばならない。とりわけ、ぼくのような「言いたいことをストレートに表現するタイプ」は気を遣う。

何かの本で「エスキモーは避けたほうがいい」と書いてあったので、「イヌイット」と言い換えて講義していた(いったい何の講義かと思われるかもしれないが、たわいもない文例である)。一人の受講生が手を挙げて「イヌイットって何ですか?」と聞くから、「あ、エスキモーですよ」と答えた。重罪ではないだろうが、簡単に口を割ってしまった。これではわざわざ避けた意味がまったくない。

論理的思考研修の中で「私の家内は……」という、これまたさりげない例文がある。講義の休憩時間中に運営担当者から一言あった。「家内ということばはお使いにならないほうがよろしいでしょう」と丁重に注意され、重罪ではないものの「諸問題の一つ」を逆撫ですることもあると説明を受けた。「私の妻は……」と言うところらしい。

しつこいが、「教授の奥さまは……」という引用文が出てくる箇所もある。これもダメらしい。「えっ? 奥さまがダメなら何と言えばいいんですか?」と聞いたら、「教授の妻です」とおっしゃるので、「う~ん、それは勇気がいるぅ~」と唸っておいた。差別用語か何か知らないが、用語に敏感になる前に、使い手に悪意ある差別心があるかどうかを見極める眼力を身につけていただきたい。


さすがに「片手落ち」とはぼくも言わない。しかし、「手短に」というのは相当性根を入れないと、ふと洩らしてしまう。「要約すると」とか「かいつまむと」ということばが使えないわけではないが、英語をよく勉強した時代に“briefly” “in brief”を「手短に」と覚えてしまっているのだ。完全に刷り込まれているので、ブレーキをかけるのが難しい。

個々人には「語彙の地図」があって、あるところはものすごく詳しく、別のところは漠然としているのだろう。あることばに神経質になったりへっちゃらになったり、丁寧になったり乱暴になったり、よく知っていたり知らなかったりと、様々な濃淡や陰影があるに違いない。

差別用語とは無関係だが、二十代までのぼくは午前と午後を使い分けて12時間で時間を認識していた。午後7時と言うのが常で、19:00を使うことはなかった。いきおい、「13時に」と告げられて、午後3時と錯覚することはよくあったものだ。

以来30年近く経ったので、さすがに大きな混乱はしない。13:0014:0015:00も、それぞれ午後1時、午後2時、午後3時と当然判読し、何の不自由もない。19:00から22:00までも何の問題もない。ところが、ぼくには一つ盲点がある。どういうわけか「17:00」に弱いのだ。たいてい午後5時と瞬時に理解するのだが、少し油断をしたり集中力が欠けているときは「午後7時」と思い込んでしまう。

研修タイムテーブルはおおむね「9:00始まりの17:00終了」であるが、この17:00を勘違いする。「おっと、あと1時間で17:00だ。これは午後5時であって、午後7時ではないぞ」と言い聞かせるときがある。何かのきっかけでトラウマになったのだろうか。

ことばの揚げ足をとる

昔の漫才ネタで、「屁理屈を言うな」に対して「屁は理屈は言わん」という切り返しがあった。「電話をとる」に対して「電話はとらん。とるのは受話器」というのも、「鍋が煮えた」に対して「鍋は煮えん。煮えるのは具」というのも、ことばの揚げ足とりである。揚げ足とりは愉快である。ことば遊びには欠かせないし、この種のツッコミにめくじらを立てることはない。

慣用化が進むにつれ、ことばというものは省略され誇張され意味が転移する。そこに誤解や誤用が生まれ、ことば遣いが笑いのネタになったり新しいものの見方につながったりしてくれる。ぼくは、そんな「ことばのプチ哲学」が好きだ。そのせいで、ぴったりのことばを探そうと文章を書いているときに、あることばが気になっていろいろと考えてしまい、よく寄り道してしまうことがある。


先週は「五十歩百歩」という表現で、寄り道どころか大脱線してしまった。「五十歩を以て百歩を笑う」という言い方もあって、これが「目くそが鼻くそを笑う」にそっくりである。

中国の寓話ということは知っていたが、出典を確かめてみた。孟子の『梁恵王上』である。我流で解釈すれば、「臆病心から戦場で五十歩逃げた兵がいた。別の兵が百歩逃げた。五十歩逃走兵が百歩逃走兵を臆病者と言って笑いののしる。おいおい、五十歩さんよ、お前だって逃げたじゃないか。退散したことには変わりはないぞ」というようなことになる。

よく似た類語には「似たり寄ったり」がある。「PCなんて使ってみればどれも五十歩百歩だよ」という表現は、「PCなんて使ってみればどれも似たり寄ったりだよ」とほぼ同じニュアンスだ。しかし、「PCなんて使ってみればどれも目くそ鼻くそを笑うだよ」にすると、何か変。

そういえば、ぼくは以前から「目くそが鼻くそを笑う」という成句を変だと思っていた。目くそと鼻くそは五十歩百歩なのだろうか。成人が人前で目がしらの目やにを小指の先で払うのはよくあるが、堂々と面と向かって人差し指で鼻くそをほじくるのはめったにない。生理的インパクトからすると、鼻くそは目くその比ではない。目くそは「目やに」という言い換えもできるが、鼻くそを「鼻やに」とはふつう言わない。そう、目くそと鼻くそは似たり寄ったりではなく、カテゴリー自体が違うのである。正しくは、「目くそが鼻くそをシカトする」か「鼻くそが目くそをねたむ」でなければならない。

よくよく考えれば、「五十歩百歩」も変に思えてきた。たしかに広い戦場では五十歩と百歩は僅差だろう。しかし、短距離走なら大差がつく。決して似たり寄ったりではない。

参考にした辞典には、「どの意見をとっても五十歩百歩だ」という用例が紹介されている。敏感な人ならわかるだろう。意見にはニュアンスがある。こだわる人にとってはそれが重要だ。だが、五十歩百歩には「小さな相違はさておき」という前提がある。「小異はあるだろうが、マクロ的に見ればどれもこれもよく似ている」という含みだ。こういう使い方ができる人間はそのグループのトップに違いない。

もう一つ用例がある。「千円の損も二千円の損も五十歩百歩だ」。これで完璧に明らかになった。五十歩百歩は金持ちのことばなのだ。何十里や何百里という戦場を基準にしているからこそ、五十歩百歩が成り立つのである。同様に、千円と二千円が似たり寄ったりと言える人間は、何十万円や何百万円を基準に置いているのである。時給800円のフリーターはこの用例を使えない。

以上から、五十歩百歩をめぐるプチ哲学の結論――これは、組織のトップの地位にあって金を持っている人間、すなわち「勝ち組」が使う表現である。 

アルファベットに要注意

昨日“thunderbird”の話を書いた。日本語には、この英語特有の“th”の音を正確に表わす文字がない。幸か不幸かという話ではなく、単純にない。英語の“think”“sink”も「シンク」とカタカナ表記するしかすべがない(「アイ・シンク・ソー」と日本語風に発音したら、「私はそう考える」ではなく「私はそのように沈む」という意味になる)。だから、英語に不案内な人が「サンダーバード」が“s”で始まると推測するのもやむをえない。

少し英語ができる人でも、“bath”“bus”で英語のダジャレができると思ってしまう。日本語ならどちらも「バス」だが、音はまったく違う。母音にいたっては、日本語には「あ、い、う、え、お」の5種類しかないから、それ以上の数の母音が存在する英語やフランス語をカタカナ表記で学んでも、実際に発音してみるとまったく違うものになる。

嘆いてもしかたがない。少々の発音ミスは大目に見てもらうとしよう。しかし、綴りのミスは事前に辞書で調べたりしてチェックができる。それでもなお、念には念を入れたつもりがスペルミスを見落とすこともある。

三十代前半まで海外広報分野で英文ライティングと編集の仕事に従事していた。日本人二人、ネイティブ三人で一冊数十ページの広報誌を出稿間際まで校正しても、一つか二つのミスを見つけられないことがあった。しかし、見出しなどの短文や単語だけ独立して書かれている場合には、間違わない。そんな目立つところで失態をおかすと、プロ失格である。


英語はもちろん、フランス語やイタリア語で表記する店が増えてきた。おもしろいことに、フランス語やイタリア語の綴り間違いは少ない。まったく知らないことが多いので、よく調べるのだろうと想像できる。やっかいなのは英語だ。「少し知っている」あるいは「間違うはずがない」という油断がある。

会社近くで二、三度行ったショットバー。店名の下に“Cash on derivery”と書いてある。酒やつまみを注文して、テーブルに運ばれてきた時点で現金を支払う「キャッシュ・オン・デリバリー」だ。このデリバリーが正しくは“delivery”である。そう、“r”ではなく“l”なのだ。日本人の苦手な「ラ行」の典型的なミス。

先週は洋食屋さんの看板に“Lanch”というのを見つけた。もちろん“Lunch”でなければならない。日本語では「あ」は“a”と一致し、“u”を「あ」と発音するなんて店主は気づいていない。「あれ、実はローマ字なんです」という言い訳は通用しない。ローマ字なら“Ranti”または“Ranchi”である。看板を見ているだけで、なんだかまずいランチに思えてくる。

理髪店の看板が“Barbar”だったり、ごていねいにも“Bar bar”と二語に分けていたりというのにお目にかかった経験があるだろう。これではまるで「バーという名のバー」ではないか。辞書を引けばすむことだ。そうすれば“Barber”に辿り着ける。美容院の“beauty parlor”も要注意。時々“o”“e”になって“parler”と綴られているのがある。

英文併記の名刺をお持ちの方、この際、姓名にくっついている肩書きを点検しておくことをお薦めする。“President”“Present”になっていたりすると、社長の存在が贈答品になってしまう。まさか“Manager”“Moneyger”になることはまずないだろうが、そんなミスがあると、その肩書きの部長か課長は守銭奴と見なされるだろう。

滑稽極まる鼓舞

誰しも褒められたい。褒められて照れることはあっても、けなされるよりはいいだろう。ところが、褒められても決してうれしくない時がある。分相応ならいいのだが、「そこまで褒められるほどのことはない」と自覚しているのに、過剰に賞賛される場合だ。

実力や実質以上に人を褒めちぎることを「ほめごろし」という。褒めちぎれば、バカにしたり無能化したりするのと同じ効果がある。ちょっとした出来に対して、そのつどこまめに「すごい!」とか「わぁ~」とはしゃぐのがいるが、不自然であり不愉快である。こんなのにかぎって、冷蔵庫ネタ漫才のチュートリアル徳井みたいに、冷蔵庫の色が銀色という当たり前に対して異常なリアクションを示し、冷蔵庫のドアが両開きというユニークさに対して素知らぬ顔をするのだ。

お互い現実にそぐわない賞賛には気をつけよう。「感動したから賞賛している」などと言えば聞こえはいいが、小さな感動の大安売りはみっともない。安易に褒めあったり感動しあったりしていると、組織も人間も成長しない。レッドカーペットの「満点大笑い」のレベルの低いこと、開いた口がふさがらない。アマチュアが笑えない芸に対して同業のプロたちが大笑いしている。空しい賛辞、空しいリアクション、空しい爆笑が相手の値打ちを落とす。

褒め言葉とよく似た機能をもつのが「鼓舞」である。見ての通り、鼓を叩きそれに合わせて舞うこと。「士気を鼓舞する」と使うように、やる気や意気を奮い立たせることだ。

自分自身を鼓舞することばには「何が何でもやり遂げる」、「絶対勝つ」、「断固闘う」などがあるが、代表格は「頑張る」。これらに共通するのは、意気込みだけで何をどうするのかという策がまったくないことだ。何かにつけて頑張るを繰り返されると耳にタコができる。自分に向けようが他人に向けようが、空っぽの鼓舞というのは具合が悪い。反省を込めて告白すると、ぼく自身が誰かに「頑張ってください」というときは、だいたいにおいて相手が舞うことなど期待していない。そう、このことば、すでに虚礼化しているのだ。


鼓舞の何がそんなに気に入らないのか? と言われそうだが、実際に置かれた状況があり、まったくふさわしくない鼓舞がその状況にかぶせられたとき、悲しくなるほど滑稽に見えてくるのである。

何度も会社を潰してきた知人が「死にものぐるいで必ず這い上がってみせます!」と真顔で語ったとき、つい「そんな決死の覚悟なんてしなくていいじゃないですか、ボチボチやれば」と言ってしまった。残酷な言い方で気の毒だけれど、現実と決意の落差が滑稽だった。「今年こそ頑張ります」という年賀状の決意表明にも飽き飽きしている。達成しえない決意をよくも二十年間公言し続けられるものだ。

次の文章を読んでいただきたい。

「情熱と誇りを懸けて・・・ 執念で勝利をもぎとれ 優勝候補の欧州王者と 意地と決意の最終決戦  このままで終われない 日本の威信を懸け激闘」
(毎日新聞テレビ番組欄)

浮いた鼓舞だが、これから初戦が始まる状況ならばギリギリ許せる。しかし、すでにアメリカとナイジェリアに負けて一次予選敗退が決まったあとの対オランダ最終戦に向けての鼓舞なのだ。敗れた日本サッカー五輪代表の情けない姿をいっそう浮き彫りにするだけではないか。「ロスタイム3分! まだ2点は取れる!」という実況の空しさ同様、現実を正しく踏まえない鼓舞やガンバリズムがいかに滑稽か、わかっていただけるだろうか。