お勘定の話

二十代半ばになって自分のお金で飲食して会計し始めた頃、たとえば寿司屋で「おあいそ」などと告げるのが心地よかった記憶がある。このことばには、どう好意的に解釈しても、ちょっと威張った客目線が見え隠れする。

三十過ぎになって「お勘定してください」と言うようになった。こっちのほうがいいと思ったからである。しばらくして、「おあいそ」は店側が発することばであることを知った。「せっかくのお食事のところ、勘定の話で愛想づかしなことですが……」が転じて「おあいそ」になったらしい。「ご馳走さま、お勘定してください」と客が言い、「おあいそですね。ありがとうございます」と店が返す、調子のよいやりとりが定番なのだ。

ところで、お勘定にはぼくたちの想定する以上に間違いが起こる。たとえば、注文していない料理が運ばれてきて、「それ、頼んでいないけど……」「あ、すみません。あちらのテーブルでした」というやりとりの後は要注意だ。会計時には明細をレシートでチェックしておくのがよい。すでに注文が記入されていて、アルバイトの店員が訂正忘れしていることがありうる。これまで何度もそんな経験をした。


 イタリアやフランスに旅するようになってから、わが国との会計の違いがいろいろあることに気づいた。イタリア語では“il conto”(イル・コント)、フランス語では“l’addition”(ラディショォン)と告げるが、席に着いたまま勘定を済ませるのがふつうである。現金であれクレジットカードであれ、テーブル上で支払う。ぼったくられそうになったことはあるが、勘定間違いされたことはない。そもそもレジを見掛けない。なお、バールやカフェにはレジがあるが、ほとんど先払いである。
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【写真はトリップアドバイザー提供】


ひときわユニークな会計をしていたのが、パリの有名レストラン『シャルティエ』だ。数字を書き込んだ紙はレシートではない。エンボスの入った紙製のテーブルクロスである。ウェイターやウェイトレスは注文を受けるのも料理を運ぶのも同一人物で、いくつかのテーブルを担当している。そして、料理を一品ずつ運んでくるたびに、テーブルクロスの端に直接ボールペンで品名と金額を書くのである。まだ出されていない料理と金額は記入されないから、間違いようがない。料理のすぐそばに見えているので、客もいつでもチェックできる。何よりも客が数字をごまかすことも不可能である。

日本ではかなりの高級店でも、客が帰り支度をして勘定書きを手にしてレジへ向かい、そこで機械的な処理を受けて支払う仕組みになっている。食べたり飲んだりする場をレストランと言うが、これは本来「休息の場」という意味だ。客どうしの会話もさることながら、料理人や店員とのやりとりももてなしの一つである。お勘定にも人間味があってもいいと思う。

軽はずみなお愛想や同調

ずいぶん昔のことなので、誰かから教わったのか書物で読んだのかよく覚えていない。店で食事をして客のほうから「お愛想あいそ」と会計を求めてはいけないという話。そのわけは「金を払うから、さあ愛想しろ」ということになってしまうから。つまり、お愛想は店側のことばであって、客側のことばではない。客は「ご馳走さま。お勘定してください」というのが礼儀である――このように聞いたか読んだかした。ぼく自身は、自前で外食をするようになってからは「お愛想」と言ったことはなく、いつも「お勘定してください」だ。

もともとは「お食事中に会計のことなど持ち出すのは、まことに愛想づかしなことですが……」という常套句が転じて、会計のことをお愛想と呼ぶようになった。さて、ここで取り上げたいのは寿司店や居酒屋でのお勘定マナーではなくて、日々のコミュニケーションでの「相手の機嫌をとるためのお愛想」にまつわる話である。

誰かの「こうしたらどうだろう?」との提案に無検証のままイエス反応を示す「お愛想人種」が目立ってきた。いや、昔からこういう連中のことを「茶坊主」などと呼んで小馬鹿にしてきた経緯がある。だが、茶坊主には目的があった。そこには力関係のようなものが働いていて、意に反してでも人間関係を維持するために迎合役を演じていた。気になるお愛想人間のほうは無思考なのである。無思考ゆえに対話にすらならない。力関係などまったく働いていないし気にもかけていない。にもかかわらず、彼らはただ単に相手の機嫌を取って軽はずみに同調するだけ。そして、パブロフの犬のように無条件に反応するのみ。


同調ということば自体に悪い意味はない。調子や波長を極力同じにしようと努めるのはコミュニケーション上決してまずいことではない。だから「軽はずみな」と修飾しておく。軽はずみな同調とは、他人の意見に自分の意見を無理やり一致させることだ。本心はノーまたは「ちょっと待て」なのである。にもかかわらず、お愛想を振りまいて御座なりに場をやり過ごす。

イエスとノーが拮抗して選択の岐路で迷ったら、「とりあえずノーを表明して検証してみよ」とは、交渉や議論においてよく言われることだ。誰にも経験があるだろうが、軽はずみにイエスで安受けしたのはいいが、後日ノーに変えるのは大変だ。イエスをノーに変えるエネルギーに比べれば、ノーをイエスに変えるのはさほど問題ではない。早めのノーはつねに遅めのノーよりも有効であり、免疫効果も高い。

もちろんノーにはとげがある。誰だって「ノー」と突きつけられて気分のよいはずはない。自分がそうなると嫌なので、軽はずみな同調者は棘を避ける。最初は人間関係に棘をつくりたくないと意識してお愛想をしていたはずだ。ところが、このお愛想を何年も繰り返しているうちに、棘を刺したり刺されたりの経験から遠ざかり、やがては無意識のうちに「はい」とか「いいですね」と無思考・無検証同調をしてしまうようになる。あとはダンマリを決めこむ。ダンマリの数歩向こうには黙殺・無視があり、棘どころではない苦痛をともなう残酷な人間関係が待ち受けている。そのことに彼らは気づいていない。