蒼ざめる彼がいた

地下鉄の車内。ぼくの前、一列の座席に6、7人が座っている。そのうちの半数が携帯電話を触っている。車内をざっと見渡せば、34割が画面を見ているようだ。メールかゲームかツイッターかのいずれかに違いない。リベラルに考えるほうなので、マナーがどうのこうのと目くじらを立てない。一人で移動中なら本を読むのも瞑想するのも携帯を操るのも大差はない。

少々残念に思うのは、家族連れなのに、子どもそっちのけでメールに没頭している親の姿。それに、二人でいるのにそれぞれが携帯を眺めているという光景。会話することもないのなら、一緒にいる必要などないだろう。かく言うぼくは、出張で長距離・長時間の車中ではほとんど読書をするか何かを書いている。時々うたたねをし、時々携帯で将棋をする。しかし、アプリの対戦相手であるコンピュータは上級モードでもあまり強くないので、すぐに飽きてしまう。

相談をよく受ける。ぼくから招くことはほとんどなく、たいて相手から相談事があると言ってオフィスにやってくる。ほんの半時間のうちに相手の携帯が二度三度と鳴る。メールの音、着信の音。「ちょっとすみません」と言って部屋を出て応答しても、ぼくは顔色一つ変えないで戻るのを待つ。着信音が鳴り遠慮して応答しなければ「電話に出てくださいよ」と促す。話に熱が入って予定の時間を過ぎると、相手は部屋の時計にちょくちょく目をやる。おそらく次の予定の時間が迫っているのだろう。「今ここに集中できない、気の散る人だなあ」とは思うが、知らん顔している。


電源オフかマナーモードに設定するのを失念して、講演や研修の最中に携帯を鳴らせてしまう人もいる。案外多いもので、三回に一回の割合だろうか。こんな時もポーカーフェースで話し続ける。携帯の音に負けないようにほんの少し地声のボリュームを上げる。と、こんな話を知人にしていたら、その知人もほとんどの場合意に介さないと言う。ぼくも知人も寛容の人なのである。但し、この知人は同一人物に対しては二度までしか許容しないと付け足した。

業者さんの一人で、若手だがなかなか見所のある男がいたらしい。気に入ったので応接室に招き、談話をした。かかってきた電話にその彼はそのつど応対したらしい。知人は別に何とも思わなかったと言う。次に会った時にランチに誘った。その時も一度だけだが、席を立ってレストランの外へ出て電話に応答したようだ。ランチの最中に数分間中座したので、「食事に誘われていながら……」とは思ったが、「まあ、いいか」と思い直した。

後日。いい仕事もしてくれるので、行きつけのちょっと高級感のある小料理店に連れて行った。知人は極力仕事とは関係のない世間話や自分の経験談を肴にした。若い男も料理の三品目くらいまでは問いかけたり身の上話をしたりしたそうだ。しかし、ふいにスマホを取り出して、「すみません、ここは何という店ですか?」と尋ねてツイッターをし始めたというのである。三度目の正直、知人は切れた。「顧客と飯食って会話している時に、携帯に触るな!」と一喝した。状況を飲み込めず、呆然と蒼ざめる彼。

その後の取引関係がどうなったのか知らないが、知人は「過去形」で語っていたので、だいたいの見当はつく。ぼくは同じような場面でこのような一事が万事の行為をめったに取らないが、知人の対応に理不尽を唱えることはできない。いや、むしろ共感する次第である。携帯やスマホが悪いのではない。「心ここにあらず」が目の前の人に失礼なのだ。

ことばを遊ぶ

暇つぶしに辞書を読む人がいた。調べる対象となる用語を決めて読むのではなく、調べるついでに別のページをめくって読むという感覚らしい。ぼくにもそんな覚えがある。ある語を調べたついでに辞書の中を徘徊していたという経験なら誰にでもあるに違いない。但し、手持ちぶさたなときに首尾よく辞書が手元にあるとはかぎらない。それもそのはず、辞書を携えて外出することなどほとんどありえないのだから。また、辞書というものは、時間と場所をわきまえずに引けるものでもない。

それにしても、ことばには我を忘れさせる愉快な魅力がある。辞書にのめり込むと、飛び石伝いにことばは別のことばへと連なっていく。たとえば、一昨日のブログでたまたま「曲学阿世」という四字熟語を使った。そして、書いてからしばらく凝視していたら、阿世の「阿」という文字が気になってきた。大阪市内の南東部にある「阿野」という地名は身近な存在である。同じ「あべの」でも、近鉄の駅は「阿野橋」と書く。「倍」と「部」の違いがある。こんなことを思い巡らすうちに、阿がますます不思議な造形に見えてきた。

阿は、表記としては稀だが、「阿る」という動詞として使われる。クイズ番組の国語の問題に出そうな難読字で、当てれば「ファインプレイ!」と褒められるだろう。「おもねる」と読む。へつらうという意味だ(へつらうも漢字で書けば「諂う」で、これまた難読字だ)。ここから先、辞書世界に埋没していくことになる。「阿諛あゆ」という語を思い出して調べ、これが世間に媚び諂うという意味で阿世に通じていることがわかる。阿とは「山や川の曲がって入り組んだ箇所」だと知る。阿と安は万葉仮名の「あ」を代表している……などなど。


略語系はやりことば
これも遊べる。遊びというよりも「もてあそび」に近い。ぼちぼち「古い!」と言われそうだが、“KY”なる略語に未だに違和感がある。これで「空気読めない」としたのはセンスが悪いのではないか。KYなら「空気読める」の略でなければならない。空気が読めないのなら“KYN”ではないか。あるいは“Not KY”だろう。“AKB48″は「あくび48回」と読める。「今年はお世話になりました、来年もよろしくお願いします」を“KONRYO”とするのはやり過ぎかもしれない。

ツイッター
タレントが元夫の不倫をツイッターで流した一件で、「ツイッターはつぶやくものだから、あんなメッセージは度を越している」と誰かが言えば、「もはやツイッターにそんな原初的な純粋機能などはない」と別の誰かが反論している。すべてのことばは早晩発祥時の意味を変えて、はやったり廃れたりしていく。ことばが生き残るかぎり、意味は変遷しおおむね多義を含むようになる。よく語の起源はこうだった、にもかかわらず現在はズレてしまったなどと批判されるが、変化を批判しても詮無いことである。ツイッターは「つぶやき」を起源としたかもしれないが、誕生と同時に「無差別ばら撒きビラ」の機能も併せ持ったのである。

草食系
一年ほど前の調査だが、肉食系を「貪欲で積極的に活動する人」という意味にとらえ、対して、草食系が「協調性が高く優しいが、恋愛などに保守的になりがちな人」と考える傾向が明らかになった。動物界では、草食系のほうが肉食系よりも行動的な気がするのだが、どうだろう。猛獣は明けても暮れても動かないし、食事は腹八分目で比較的禁欲的である。草食系の協調性は保全のための群れの行動である。草を求めてよく移動するし、肉食系よりも食欲旺盛ではないか。

ことば遊びに正解はない。遊びの本領はイマジネーションにある。そして、ことばの意味についてあれこれと思い巡らすことが、おそらく概念的に考えるということにつながっている。

過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。


IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。

モノローグの中のダイアローグ

T 「ツイッターは、まだ? 岡野さん、時代に取り残されますよ。」
F 「あ、そう。それなら、ぜひ時代に取り残されたいもんだよ。」

T 「怠け者が『来週中に』と言えば、月曜日であることはまずなく、たいてい金曜日の夜中を意味している。」
F 「そいつは未熟な怠け者だな。ベテランの怠け者は約束もしないし守りもしない。さらに怠惰道を極めた師になると、もはやぼくらと同じ浮世にはいない。」

T 「淡々と語り振る舞えば、お前は醒め過ぎだと評される。」
F 「ならばとばかりに、熱弁を振るい活気に溢れた動きを見せれば、テンションだけ高くて空回りとのそしりを受ける。」

T 「あなたの悪口を言っている人がいますよ。」
F 「ありがたいことです。存在意義がなければ誰も悪口すら言ってくれなくなりますからね。」 


わざわざツイートフォローしなくても、上記のようにぼくたちは独白モノローグの中で知らず知らずのうちに一人二役でツイッターをしているものだ。自分がつぶやき、もう一人の自分がつぶやく。主客相対するダイアローグである必要はない。所詮つぶやきだから、そこに主観と客観の対比がなくてもいいだろう。

元来相手を特定せずに、ぽつんと独り言をこぼすのがつぶやきだ。このつぶやきに不特定多数という誰かを想定するのがツイッターである。純粋な独り言なら発信したり公開したりするに及ばないから、どう考えても特定せぬ相手を考えているのはたしかだろう。すると、これはどうやら演劇の舞台のモノローグと似てはいないか。役者が一人で語る台詞せりふは一種のつぶやきで、その心中の思いをことばにした語りは居合わせる観客に向けられている。要するに、聞かれたい知られたいつぶやきなのである。

聞かれたい知られたいと思い、さらにフォローをしてほしいと願い、その結果、何らかのやりとりが成立すれば、それはまさしく初歩的なダイアローグの様相を呈する。モノローグという形式の中でおこなわれるダイアローグ。自分一人でこなすダイアローグは文字も音声もともなわず、思考する内言語として現れる。自分の日常茶飯事のツイートをフォローできていないし、目の前の対話相手のツイートの面倒を見るのに精一杯のぼくだ、大海原のようなツイッターの世界に飛び込むのは容易でない。

こんなことをつぶやいたら、「そんな理屈っぽい世界ではなくて、もっと軽やかですって!」と諭された。「軽やかで理屈っぽくないから、相性が合わないのだよ」と返事しておいた。