ローマとラテン語のこと(下)

ローマ名言集に編まれている諺のほとんどは古代に起源をもつ。ラテン語で書かれているが、これを日本語対訳で読んでみて驚く。かつて英語で覚えた諺や格言の多くと見事に一致するのである。
 
セネカの『人生の短さについて』で紹介されている“Ars longa, vita brevis.”はヒポクラテスのことばとして有名だ。「芸術は長く、人生は短し」という意味である。英語にも同じ表現があって、“Art is longlife is short.”として知られている。「少年老い易く学成り難し」を「人は老いやすく芸術は成りがたい」と言い換えて見れば、ほぼ同じ意味になる。
 
おなじみの「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」(英語では“A sound mind in a sound body.”)は風刺詩人ユウュナーリスのことばで、こちらも元はラテン語だ。“Orandum est ut sit mens sana in corpore sano.がそれ。余談になるが、下線部のmensは精神という意味。これを類義語のanimaに変えればAnima Sana In Corpore Sanoとなり、5つの単語の頭文字をつなげば靴メーカーのASICSになる。同社の社名はここに由来している。
 

 ところで、いま紹介した二つの格言、実は長い歴史の中で曲解され意味が変わってしまった。
 
「芸術は長く、人生は短し」は、「芸術(作品)が長く歴史に名を残すのに比べて、人(アーティスト)の生は短い」と解釈されることが多い。しかし、ラテン語のarsは、芸術という意味に転じる前は「技術」だった。英語でもartには「技」という意味が根強く残っている。しかも、医学の祖であるヒポクラテスの言であることも踏まえれば、「技術(医術)を習得するには年月を要するのに、われわれの人生は短い」というのが原義に近かったことが類推できる。
 
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」のほうは、原語の前の数語を省いて引用したために意味が変わった。身体を鍛錬して健康になるほうが精神の健全さに先立つかのように都合よく解釈されされるようになったのである。肉体派が「ほら見てみろ」と薄ら笑いを浮かべて、精神派や知性派を小馬鹿にしているかのようだ。元はと言えば、「願わくば」という話である。思い切り意訳するならば、「欲望に振り回されるくらいなら、せめて身体の健康を願いなさい。きみたちはおバカさんなんだから、つつましく『元気な身体にこましな知恵が生まれること』をよしとしなさい」ということになるだろう。
 
ローマの格闘競技場コロッセオの博物館に碑文が展示されている。この碑文の言語は現代言語と大いに異なっている。現代のアルファベット26文字に対して、当時は21文字しかなかった。また、子音と子音の間に“V”の文字が頻繁に出てくる。これは“U”に近い発音なのだが、古ラテン語のアルファベットには“U”の文字がなかったのである。この伝統を意識的に守っているのが、例のBVLGARIだ。

ローマとラテン語のこと(上)

ローマに関する本.jpgのサムネール画像のサムネール画像〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。

 ところで、西洋絵画に刺激されて十代の頃によく絵を描き、ついでにルネサンスや古代ローマなどイタリアの歴史や美術や言語についてなまくらに独学したことがある。いろんなことを知ったが、とりわけ「すべての道はローマに通じる」や「永遠の都ローマ」などが言い得て妙であることがよくわかった。なにしろローマという街は古代からの「直系」であり、たとえ現代を語るにしてもどこかに歴史のエピソードがからんでくる。過去を切り離しては、たぶん今のローマは成り立たないのだろう。
 

 ローマに関する本を雑多に拾い読みすると、必ずと言っていいほど古代ローマの名言やラテン語に巡り合う。話が少しそれるが、カタカナで表記される外来語に対してぼくは寛容である。わが国では、明治時代から欧米の概念を強引に日本語に置き換え始めた(恋愛、概念、哲学、自由などの術語がそうである)。いま日本語と書いたが、実は、やまとことばへの置き換えではなく、ほとんどが漢語への翻訳だった。現在でも、外国固有のことばを無理に母語や漢語で言い換えてしまうと曲解や乖離が起こる。それなら、最初からカタカナ外来語のままにしておいてもいいとぼくは思うのだ。
 
仕事柄、マーケティング、コミュニケーション、コンセプトなどの用語をよく使うが、手を加えて日本語化することはない。ラテン語源のちょっとした知識を持ち合わせれば、これらのカタカナ語の本質を理解しながら地に足をつけて使うことができる。ぼくたちがふだん使っているカタカナ語の大部分はラテン語に起源をもつ。ギリシア由来のものも少なくないが、それらもラテン語を経由してヨーロッパ諸言語に広がった。だから、ラテン語の語源をちょっと齧っておくとおもしろい発見があったりする。
 
たとえば、英語のマーケット(market)は現代イタリア語ではmercatoであり、ラテン語mercatusにつながっている。「商品を持ち寄って売る」というのがマーケットの意味だったことがわかる。フランス語のマルシェ(marche)もここに由来する。なお、コミュニケーションは伝達というよりも「意味の共有」、コンセプトは別に小難しい用語ではなく、「おおまかな考えやアイデア」というのが原義である。
《「下」に続く》

「役立つ」ということ

あまり時間帯がよくないので視聴できていないが、NHKのテキスト『100de名著』は初学者にはお勧めだ。4月がニーチェ『ツァラトゥストラ』、5月が『論語』、6月がドラッカー『マネジメント』、そして7月は福沢諭吉『學問のすゝめ』。このうち、『マネジメント』を担当していた講師が、ドラッカー学会代表の上田惇生である。本題そのものはうまくまとまっているが、「知識や教育も変化を続けている」という項に気になるくだりがあった。

(……)役に立たない知識を教養と考えている人は、まだ少なからず存在します。たとえばいまだに欧米ではラテン語を必須科目としている学校がある。論理性を養うためだとか、他の外国語を学ぶ基礎になるといった理屈をつけてラテン語を教えていますが、実際にはラテン語教育は今や何の役にも立たなくなっています。

この前段で、知識には役に立つものと立たないものがあり、今という時代は生きた知識、使える知識が求められる時代になってきたと述べている。少々ラテン語を齧った身としては、この意見は勇み足ないしは短絡的と言わざるをえない。最初から知識が役に立つか立たないかなどは勉強してみなければわからない。往々にして、役立つと思って学んだことが役立たず、役立ちそうもないと値踏みしていたら、後日大いに仕事にプラスになったなどということは常である。


欧米文化圏の礎であるラテン語が役立たずならば、この島国固有の平安時代の古語など必須教科にする意義などまったくなくなってしまう。ここに、上記の講師とまったく正反対の意見がある。「情報が一過性で狭く不安定である一方で、知識は常に有効であり応用範囲が広く、古くならないという特徴がある」(白取春彦『勉学術』)。そして、ラテン語の意義を次のように説く。

ラテン語は古代に生まれた言語であり、現代世界ではもっぱらカトリック神父たちが共通語として使っているだけである。そんな古色蒼然とした言語が、知識として常に有効であり応用範囲が広い(……)。現代世界に通用している主流言語がラテン語を基礎にしているのである。だから、英語やフランス語やドイツ語がわからなくても、ラテン語の知識があるだけでそういった外国語の意味がだいたいは理解できる(……)。

実際のところ、現代の社会や技術の大半の概念は、ラテン語から用語を借りて成り立っている。役に立たないどころか、なくては困るほどの恩恵を受けているのだ。ラテン語役立たず論を展開するなら、「マネジメント」という術語も概念もありえない。英語の“manage”はイタリア語の“maneggiare”に由来する。この用語の起源は〈ラテン語“manus(手)不定詞語尾“-are”〉に遡る。「手で馬を訓練する」という意味だった。現代イタリア語にも「手で扱う」とか「調教する」という意味がある。英語の“management”にしても、第一義は今もなお「どうにかこうにか(工夫をして)やり遂げること」なのだ。経営や管理という抽象概念に先立って、このニュアンスが強い。

折りを見てラテン語の独習本に目を通すことは、少なくともぼくには役立っている。ことばを軽く流さないで、一歩踏み込んで考えることに役立っている。役立つか役立たないかは時代が決めるものではない。個々人にとっての有用性こそが重要なのである。ある種のご婦人にとって真珠は有用であり、豚にとっては無価値である。役立つことの一般化には誤謬がつきまとうものだ。