三十七、八歳頃だったと思う。ぼくがゲーム好きだとよく心得ている知人が誕生日にダーツボードをプレゼントしてくれた(その翌年はバックギャモンだった)。
このボード、プロの公式競技用という本格的なものだ。当時住んでいた自宅では適当な場所がないので、オフィスの会議室に置くことにした。人目につくから、「やりましょうよ」ということになり、勉強会の後によく遊んだものである。もちろん、ただ点数の多寡で遊ぶだけではおもしろくないので、少々の金品を刺激にして競い合ったりもした。
数ヵ月も経つと、月に一回程度ゲームする者と暇さえあれば練習できるぼくとでは腕前に格段の差が出てきた。よほどのことがないかぎり、ぼくが負けることはなくなった。プロのレベルからすれば、ぼくたちはみんなヘボだったのだが、回数を重ねるごとにぼくと彼らの精度の差はどんどん広がっていった。なお、ボードを外すと壁に穴が空くため、一投につき罰金100円としていたが、プール金は増えるばかりだった。
よく負ける者は異口同音に「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という諺を持ち出す。たくさん試みればまぐれ当たりもあるという意味だが、所詮「まぐれ」であるから計算は立たない。手元のことわざ成句辞典には「試みの回数が多ければ多いほど成功の確率は高くなる」という解説がある。とんでもない。下手が技を磨かずに下手であることに安住しているかぎり、下手は何度やってみても下手なのである。よく似た諺に「下手な鍛冶屋も一度は名剣」というのもある。こちらは絶望的なほど、まぐれすらありえないだろう。
下手を慰めたり励ましたりするのもほどほどにしておきたい。努力して上手になった人間が、何の方策も講じることなく下手であり続ける人間に負けるはずがないのである。まぐれに期待していること自体、すでに敗者の証拠ではないか。鉄砲だからたまには当たるかもしれない。そうだとしても、射撃を何度でもできるという前提に立つから「たまに当たる」という理屈が成り立つだけにすぎない。それはゲームの世界でありえても、一発勝負が多い実社会では途方もない空想である。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」という命題について検証すべきは、当たるか当たらないかではなく、「数撃ちゃ」という点にある。そう、人生では鉄砲玉は何発もないのである。チャンスを生かすチャレンジ機会は限られている。一回きりとは言わないが、「数はない」のである。下手のまま玉だけを求めるような都合のいい話はどこにもなく、ぼくたちはひたすら下手から上手へと技を磨かねばならない。下手と上手に一線を画するものが何か、よく考えてみるべきだろう。