一番つながりの怪

車を運転しない。所有していて運転しないのではない。車を持っていないのである。もっと正確に言うと、運転免許を取得したことがないのである。別にアンチオートモービリズム(反自動車主義?)の思想家でも運動家でもない。人生において何百分の一かの偶然によって縁がなかっただけの話である。

「車がなくて困ったことはないか?」とよく聞かれてきたが、車がないこと、つまり「車の欠乏」が常態であるから困りようがない。いや、困っていることを想像することすらできない。だってそうだろう、無酸素で生きることができる人間に「酸素がなくて困ったことはないか?」と聞いているようなものではないか。但し、「車があれば……」と想像できないほどアタマは固くない。「もし手元に自由になる百万円があれば……」を仮想するのと同じ程度に「もし車があれば……」と仮想することはできる。

と言うわけで、真性の車オンチである。車オンチではあるが、広告やマーケティングのお手伝いも少々しているので、仕事柄テレビコマーシャルはよく見るし、その中に自動車も含まれる。だが、傾向としては、他商品に比べると淡白な見方になっているのは否めない。メーカー名も車種も覚える気がないので、コマーシャルの構成やプロットも流すようにしか見ていない。だから、狂言師の野村萬斎がいい声でホンダのフィットを持ち上げているのを耳にしても、「ふ~ん」という無関心ぶりであった。


ところが、先日、数度にわたってじっくり見てしまったのである。そして、見てしまった結果、「これはダメでしょう、ホンダさん!?」とつぶやいたのである。「たとえばケーキだと、一番売れてるケーキがやっぱり一番おいしいはず」という命題はどうにもいただけない(広告コピーに命題とはなんと大げさなと言うなかれ。英語では“selling proposition”、「売りの命題」と言う)。

販売至上主義やナンバーワンがどうのこうのと道徳論を持ち出すつもりなどない。一番は二番よりもいいことくらいわかっている。言いたいのは、「一番売れてるケーキ」が何を意味しているか不明であること。ケーキの種類なのか、特定パティシエが創作するケーキなのか、お店やベーカリーを暗示しているのか、さっぱりわからない。仮にイチゴショートが一番売れているのなら、それが一番うまいということになる。そして、秋には栗たっぷりのモンブランにおいしさ一位の座を奪われるというわけだ。

次に問題なのは、あることの一番が自動的に別のことの一番になるという、無茶苦茶な論法である。一番売れてる◯◯は一番流通上手、一番宣伝上手、一番安い……など何とでも言えるではないか。ケーキだから「おいしい」がぴったり嵌っているように見えるが、「一番売れてる本」なら「一番何」と言うのだろうか。一番売れてる本がやっぱり一番おもしろいはず? 一番ためになるはず? 一番話題性があるはず? 一番読みやすいはず? どれでもオーケー、自由に選べる。命題はまったく証明されていない。たかがコマーシャルだけれど、そう言って終われない後味の悪さがある。

「一番売れるケーキが一番おいしいはず」という仮説を持ち出した手前、この広告は「日本で一番売れているフィットが10周年。これまたおいしそう」で締めくくらざるをえなくなった。いや、ケーキを持ち出したのだから、「一番おいしいつながり」以外に終わりようがない。おいしいケーキは想像がつくが、おいしい車にぼくの味覚は反応しない。狂言が好きだし、従妹もホンダアメリカにいるので大目に見たいが、わざわざケーキをモチーフに使った意味が響いてこない。ケーキと車がどうにもフィットしないのである。

過剰なる礼讃

さして強い関心もなく、また親しんでもいない事柄だからといって、頭ごなしに否定するほど料簡は狭くないつもりだ。だいいちそんなことをしていたら、きわめて小さな世界でごくわずかな関心事をこね回して生きていくことになってしまう。そんな生き方は本望ではないから、異種共存をぼくは大いに歓迎する。そして、多様性に寛容であるからこそ、自分の存在も関心事も、ひいては意見も主張も世間に晒すことができると考えている。

「ブログを時々読ませてもらっています。ツイッターのほうはやらないのですか?」と聞かれたこと数回。「ツイッターには関心ないのですか?」とも言われた。ツイッターに関しては本も読み、年初に塾生のTさんのオフィスに行って詳しく教わり、その後に食事をしながらIT系のコミュニケーションメディアについても意見を交わした。「ツイッター、いいのではないか」と思ったし、そして今も、「ツイッター、はまっている人がいてもいいのではないか」と考えはほとんど変わっていない。ただ、ぼくはツイッターに手を染めてはいない。どうでもいいなどとは思っていないが、ツイッターをしていない。する予定もないし、しそうな予感も起こらない。

物分かりのいい傍観者のつもりなのに、ツイッターをしていないだけでツイッター否定論者のように扱われるのは心外である。ぼくは自動車を所有せずゴルフもしないが、自動車とゴルフの否定論者ではない。車についてゴルフについて熱弁する知人の話に「静かに、かつ爽やかに」耳を傾ける度量はある。関心もなく親しくもない人間と話をするし食事もする。ごくふつうにだ。しかし、恋い焦がれることはない。強く求めもしないし強く排除もしない。いや、それどころか、存在をちゃんと認めている。共存するのにたいせつなのは、情熱ではなく寛容だと思うのである。


IT関連の知り合いから定期的にメルマガが配信されてくる。一人はかつて親しかったが、ここ数年会っていない。もう一人は一、二度会った程度で、「名刺交換した方に送らせてもらっている」という動機からの配信だ。前者がツイッター礼讃者であり、後者がipad礼讃者である。後者のメルマガはほとんど見ないが、前者には時々目を通す。彼は「ツイッターがすごいのは、世界中の人と出会うきっかけを提供していることだ」と主張する。さらに、「もっとすごいことは、繋がりを維持し続けることができることにある」と強調する。まことに申し訳ないが、本人が「すごい」と力を込めて形容するほど、ぼくにはすごさが伝わってこない。

世界の人々との繋がりを特徴としたのはツイッターが最初ではない。かつては飛行機がそうだったし、電話・テレックスがそうだった。旅をして現地の人々と交流するのも繋がりだろう。実は、繋がりはずいぶん使い古されたことばなのである。しかし、よく喧伝されるわりには、世界の人々は現実的には繋がってなどいない。ツイッターによって具体的にどう繋がっているのか、そして、繋がりとはいったいどういうことなのかが実感としてわからない。彼の言い分はぼくには仮想にしか見えないのである。

最後に「特に書く内容を熟慮もせず、時間的コストもかけず、多くの人と繋がりを維持することができる」と締めくくっている。彼は真性のツイッター礼讃者のようだ。熟慮もせずに書くメッセージをやりとりして、いったいどの程度に世界の人々は繋がることができるのか。ツイッター上だけでなく、安直なつぶやきで日々繋がろうとしている人たちはいくらでもいる。そして彼らは対人関係上もネット上もただつぶやくのみ。その場かぎりの、思いつきのつぶやきごときで世界の人々が繋がるなどということはにわかに信じがたい。

手紙を否定しないように、ぼくはツイッターも否定しない。しかし、構造のうわべだけを過度に礼讃するツイッター信奉者に首を傾げている。

語順に関する大胆な仮想

仮説ではなく、「仮想」というところがミソ。間違って仮説とも言おうものなら理論的説明を求められるが、仮想としておけば「想い」だから、「そりゃないよ!」とケチはつかないはず(と都合よく逃げ道を用意している)。それはともかく、本題に入る。

ご存知の通り、欧米語と日本語にはいろんな違いがあるが、何と言っても大きな差異は語順である。語順の中でも決定的なのが動詞の位置。倒置法を使わなければ、日本語の動詞は通常文章の一番最後に置かれる。「ぼくは昨日Aランチを食べた」という例文では「食べた」という動詞が最後。主語と動詞が「昨日」と「Aランチ」という二語をまたいでいる。英語なら“I”の直後に“ate”なり“had”なりが来る。主語と動詞はくっついている。

動詞が最後に置かれる語順の文型を「文末決定型」と呼ぶ。英語なら「私は賛成する、あなたのおっしゃったことに」と文頭で賛否がわかるが、日本語では「私はあなたのおっしゃったことに……」までは賛否がわからない。極端なことを言えば、意見を少しでも先送りすることができる。気兼ねの文化という言い方もできるが、潔さ欠如の表われとも言える。どんどん読点をはさんで長い文章にすればするほど、結局何が言いたいのかは文末の動詞を見定めるまではわからない。


たとえば「私は毎日ブログを書く」という文章。この文章のキーワードは何か? と聞かれれば、ぼくのような行為関心派にとっては「書く」なのだが、目的関心派にとっては「ブログ」になる。頻度の「毎日」をかなめに見定める人もいるかもしれない。ぼくにとっては、毎日もブログも「書く」ほど存在感があるとは思えない。「書くか読むか」の差異のほうが、「毎日か週に一回か」の差異や「ブログか日記か」の差異よりも強い意味を包み含む。もう一歩踏み込めば、ぼくにとってはこの文型は「私は書く」が主題文なのだ。

もう一度例文をよく見てみよう。「私は毎日ブログを書く」。私と書くが離れている。「私は毎日ブログを」までを聞いても見ても、行為がどうなるかは未決定である。まさに「行為の先送り」ではないか。これを「言語表現的グズ」と名づける。奥ゆかしさなどではなく、行為決定のペンディングそのものである。毎日にこだわる。ブログにこだわる。しかし、毎日どうする、ブログをどうするについての明示を一秒でも二秒でも先送りする構文、それは日本語特有ではないか(世界にはこの種の言語もあるので敢えて固有とは言わないが)。

要するに「書く」という行為への注力よりも、毎日とブログが一瞬でも早くクローズアップされる言い回し。ブログでもノートでも日記でも手紙でもいい、毎日毎日いったい「どうしているのか」がすぐに判明しないのだ。動詞という行為表現の先送りと実際行動の先送りが、もしも連動しているのなら……これはなかなか大胆な仮説、いや、仮想ではないか。「私は書く」という構文にぼくは意思表明の覚悟と実際行動へと自らを煽り立てる強さを感じる。かと言って、「私は終わる、今日のブログの記事を」という文章をれっきとした日本語構文にしようと主張しているわけではない。