買う、忘れる、見つける、喜ぶ

財布に一万円札が入っているとする。当たり前のことのようだが、よくよく考えるとありがたいことである。だが、ありがたいことではあるが、うれしくて感極まってしまうことはないだろう。

では、その一万円を失くしてしまったらどうか。がっかりである。がっかりするが、容易に諦めきれないから、当然家のそこらじゅう、たぶん机の上や引き出しの中、封筒の中までも探すはず。ぼくのようなマンション住まいなら、共用部分の廊下や踊り場、それにエレベーター、今帰ってきた道中をしばらく逆に辿るかもしれない。いや、きっとそうする。だが、探すのに疲れておそらく諦めることになる。やがて月日が流れて、忘れる。

しかし、天災と朗報は忘れた頃にやってくる。何かの拍子に、その一万円札を本と本の隙間に見つけてしまうのだ。そして、はしゃぐように喜ぶ。最初から財布に入っている一万円札を見つけるのとは天と地ほど違って、狂喜のあまり小躍りしても不思議ではない。

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GAUDI~2.JPG怠けているわけではないが、「今度の週末こそは……」と先送りしているうちに、二ヵ月以上が過ぎた。土産物だけは手渡したが、バルセロナとパリで買った本や絵葉書、集めてきた資料やパンフレットに入場券や切符、それに写真の類はほとんど帰ってきた時のままで、手つかず状態である。

少し反省したのが一昨日の日曜日。手始めにB4サイズほどの紙袋の中を整理しようと、ガサっと取り出した。ずしりと重く手のひらにあたったのがこのガウディの図録である。もちろん買ったのを覚えているから、失くした一万円札を見つけるときほどの驚きはない。

しかし、ページを繰ってみてあらためてガウディの天才ぶりに驚嘆した。写真が鮮明で、とてもきれいな図録である。

海外でこの種の図録を買うとき、語学ができるできないにかかわらず、ぼくは現地語バージョンを記念に買う。バルセロナで買ったこの図録、当然スペイン語(カスティーリャ語)でなければならない。ところが、ミラ邸のギャラリーでスペイン語版は売り切れていた。それならば英語にしておけばいいものを、ぼくはバルセロナの公用語であるカタルーニャ語版を買い求める暴挙に出たのである。

それでも、固有名詞を頼りに読んでいくと三分の一くらいは何となくわかる。もちろん、「何となくわかること」と「はっきりわかること」は全然違う。それでも、写真を中心にカタルーニャ語を追うだけでも、値打ちがあるように感じる。そう、買って、忘れかけていたが、袋の中に見つけて大いに喜んでいるのだ。最近どうも感動が足りないと思うのなら、いったん忘れるか失くしてしまうことをお勧めする。

脳と刷り込み

口も達者でアタマの回転もそこそこいい「彼」が、その日、人前で「あのう」や「ええと」を連発していた。宴席に場を変えて軽いよもやま話をしていても、なかなか固有名詞が出てこない。だいたい男性の物忘れは、「名前を忘れる→顔を忘れる→小用の後にファスナーを上げ忘れる→小用の前にファスナーを下ろし忘れる」という順で深刻度を増す。だから、名前を忘れるのは顔を忘れるよりも症状が軽い。それに、人の名前を忘れるくらい誰にだってある。

しかし、彼の場合、短時間に複数回症状が見られた。言及しようとしている人物の名前がことごとく出てこないのである。「ちょっと気をつけたほうがいいよ」とぼくはいろいろと助言した。最近、このようなケースは決して稀ではなくなった。ぼくより一回りも二十ほども年下の、働き盛りの若い連中に目立ってきているのである。幸い、ぼくは年齢以上に物覚えがいいし物忘れもしない。ただ、脳を酷使する傾向があるので、「来るとき」は一気に来るのかもしれない。

別の男性が若年性認知症ではないかと気になったので、名の知れた専門家がいる病院に診断予約を取ろうとした。ところが、「一年待ち」と告げられたらしい。一年も待っていたら、それこそ脳のヤキが回ってしまう。科学的根拠はないが、ことばからイメージ、イメージからことばを連想するトレーニングが脳の劣化を食い止めるとぼくは考えているので、そのようなアドバイスをした。簡単に言うと、ことばとイメージがつながるような覚え方・使い方である。但し、ことばとイメージのつながり方は柔軟的でなければならない。


習慣や知識を短時間に集中的に覚えこんでしまえば、その後も長い年月にわたって忘れない。動物に顕著な〈刷り込みインプリンティング〉がこれだ。偶然親鳥と別れることになったアヒルやカモなどのヒナが、世話をしてくれる人間を親と見なして習慣形成していく。人の場合もよく似ているが、刷り込みは若い時期だけに限って起こるわけでもない。たとえば、中年になってからでも外国語にどっぷりと集中的に一、二年間浸ると、基礎語彙や基本構文は終生身についてくれる(もちろん、個人差も相当あるが……)。

刷り込みはとてもありがたい学習現象である。このお陰で、ある程度習慣的な事柄をそのつど慎重に取り扱わなくても、自動的かつ反射的にこなしていくことができている。要するに、いちいち立ち止まって考えなくても、刷り込まれた情報が勝手に何とかしてくれるのだ。だが、これは功罪の「功」のほうであって、刷り込みは融通のきかない、例の四字熟語と同じ罪をもたらす。そう、〈固定観念〉である。刷り込まれたものがその後の社会適応で不都合になってくる。

あることの強い刷り込みは、別のことの空白化だということを忘れてはいけない。博学的に器用に学習できない普通人の場合、ある時期に世界史ばかり勉強すれば日本史の空白化が起こっている。昨日瞑想三昧したら今日は言語の空白化が生じる。ツボにはまれば流暢に話せる人が、別のテーマになると口をつぐむか、「あのう」と「ええと」を連発するのがこれである。どう対処すればいいか。自己否定とまでは言わないが、定期的に適度な自己批判と自己変革をおこなうしかない。

「五十歳にもなって、そんなこと今さら……」と言う人がいる。その通り。固定観念は加齢とともに強くなる。だから、ことば遣いが怪しくなり発想が滞ってきたと自覚したら、一日でも早く自己検証を始めるべきである。

けちをつける愉しみ

「人は忘れる。だから生きていける。」 

缶コーヒーの車内広告である。缶コーヒーの宣伝に「忘却と人生」? なかなか凝ったものだ。商品写真横のキャプションには「強く、香る。強く、生きる。」とあって、このコピーライターが「生」をコンセプトにしたのは間違いない。生きることに強くこだわるような事情があったのだろうかと勘繰ってしまう。コーヒーとはいえ、ちょっと焙煎過剰な表現に場違い感を受けた。

たかが広告ではないか。こんな些細なことにけちをつけることはあるまい。けれども、ぼくはけちをつけ毒舌を吐くことを愛情もしくは関心の一表現または一変形だと思っている。そもそも人はどうでもいいことに対して肯定も否定もしないだろう。また、眼中にすらないことをわざわざ話題として拾わないだろう。それゆえ、言いがかりやイチャモンをつけるのは、対象を批評に値すると承認している証にほかならない。反証されることは自慢すべきことなのである。

(……)役所に猛烈な苦情や文句をぶつけるばかりで、みずから解決のために奔走することを考えもしない「クレーマー」たち。(……)「クレーマー」は他者の責任を問いつめるが、そのクレームが「もっと安心してシステムにぶら下がれるようにしてほしい」という受け身の要求であることに気づいていない。(鷲田清一著『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』)

ぼくは上記の引用にあるようなクレーマーではない。広告の文章にけちをつけはするが、苦情や文句をメーカーにぶつけてはいないし、責任を問いつめもしていない。ぼくは真摯かつ臨床哲学的かつ愉快に広告コピーを検証しようとしているのだから。


クレーマーがつけるけちは理不尽であり、相手が弱いと見るや際限なく垂れ流され増長し続ける。ぼくは、消費者があまり見向きもしない車内の小さな広告を気に留めて、「ダメだ!」などと声を荒げもせずに、静かにけちをつける。このコピーライターは、そしてゴーサインを出した広告主は、なぜ「人は忘れる。だから生きていける。」などという大胆な命題を見出しにしたのか、いったいその真意はどこにあるのだろうか……というふうに。この広告のヘッドラインになっている命題の真偽を、あるいは蓋然性を問うてみるのはおもしろいと直感した。

生きていくうえで忘れることが時々たいせつであることを認める。しかし、「忘れるから生きていける」は論理の飛躍だ。前提が少なくとも一つ足りない。よろしい。論理の飛躍をオーケーとしよう。たしかに、忘れるそいつは平気で厚かましく生きていけるだろう。しかし、忘れる当人の周囲がどれだけ迷惑していることか。ぐいっと缶コーヒーを飲んで何もかも忘れて、そいつは今日も明日も生きていくだろう。だが、やっぱりそんな記憶力の乏しい者は仕事ができるはずもないから、また人さまに迷惑をかける。

「人は忘れる。だから生きていける。」は、「人は忘れる。だから生きていけない。」という反対命題によって揺らぐだろう。もしかすると、命題は崩されてしまうかもしれない。また、「人は忘れない。だから生きていける。」という思い出重視派からの反論も有効になるだろう。いずれにしても、缶コーヒー一本で嫌なことを忘れて生きていこうというのがメッセージなら、そこで消し去ろうとしている記憶そのものが取るに足りないものであることは間違いない。

現在日本社会が抱えている大半の問題が、人々が忘れることによって繰り返されているのを見るにつけ、とりあえず安易な忘却に異議申し立てしておく。「ぼくは忘れない。だから生きていける。」