考えること少なき者は過つこと多し

中学を卒業するまでは手習いをしていた。好きも嫌いもなく、親に勧められるままに書道塾に通い、師範について6年間指導を受けた。しかし、実は強く魅かれていたのは絵のほうだった。受験勉強そっちのけで絵ばかり描いていた時期がある。まったくの我流だったけれど、書道で教わった筆の運びが少しは役立ったようである。

絵描きになりたいと本気で思ったこともあったが、高校生になって筆を置き、鑑賞する側に回った。やがて天才ダ・ヴィンチに憧れるのもやめた。憧れるとは「その人のようになりたい」であるから、憧れから畏敬の念にシフトしたのは我ながら賢明な判断だったと思う。

ルネサンス期に芸術家列伝を著したジョルジョ・ヴァザーリや19世紀のポール・ヴァレリーなどの高い評価もあって、レオナルド・ダ・ヴィンチは「万能の天才」として人口に膾炙した。そして、最たる天才ぶりは絵画においてこそ発揮されたとの評論が多い。空気遠近法や輪郭を描かないスフマート法などを編み出し、いずれの作品も世界遺産級の至宝だ。それでも、37歳で他界したラファエロの多作ぶりに比べれば、ダ・ヴィンチは寡作の画家と言わざるをえない。作品は20あるかないかだろう。そのうち、幸運なことに、『受胎告知』と『キリストの洗礼』(いずれもウフィツィ美術館)、『白貂を抱く貴婦人』(京都市美術館)、『モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)』(ルーブル博物館)をぼくは生で鑑賞している。


ミラノで『最後の晩餐』を見損なったことには後悔している。悔しさを紛らせるためにレオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館を訪れた。晩餐に比べたらおやつ程度だろうと覚悟していた。結果は、期待以上だった。博覧強記を裏付ける草稿や実験スケッチと記録、設計図等の足跡が所狭しと展示されていた。音楽に始まり、科学から軍事の構想まで、あるいは発明から解剖に至るまで、好奇心のまなざしを万物に向けたことが手に取るようにわかる。数々の業績のうち絵画こそダ・ヴィンチの最上の仕事という通説でいいのか……博物館に佇みながら、ぼくは別の才能に目を向け始めていた。それは、思考する力、そしてそれを可能にした言語の才である。

レオナルド・ダ・ヴィンチ.jpg岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』は、今も繰り返し読む書物の一つだ。ものの考え方や処し方について、色褪せることのない普遍的な名言がおびただしく綴られている。これぞというのを選んで、怠け癖のある若い人たちに薀蓄したこともある。「ぼくの言うことなど聞いてもらえないだろうが、歴史上の天才の声に真摯に耳を傾けてはどうか」と持ち掛けるのだ。その一つが「考えること少なき者はあやまつこと多し」である。深慮遠謀してうまく行かないこともあるが、ほとんどの失敗は思考不足もしくは浅はかな考えに起因する。

いつの時代もどこの国でもそうだが、物事がうまくいかなくなると「理性に偏るな、下手な考え休むに似たり」などという声が高らかになる。人が人として成り立っている唯一とも言うべき理性と思考を、悪しきことや過ちごとの責任にしてしまうのである。そこで、ぼくは問いたい。それは理性を十全に発揮し限界まで考え抜いてこその恨み節でなければならないのではないか。浅瀬の一ヵ所で考えて引き返してくる者に思考の無力を述懐する資格はない。ここは素直にダ・ヴィンチの言葉に従いたい。願わくば、だらだらと一つ所で深掘りばかりして考えずに、複眼的に見晴らしよく考える癖をつけたいものである。

併読術について

アリストテレス「哲学のすすめ」.jpgのサムネール画像年半近く続けてきた読書会〈Savilna 会読会〉が昨年6月を最後にバッタリと途絶えてしまった。別に意図はない。何となく日が開き、主宰者であるぼくがバタバタし、そしてメンバーからも再開してくれとの催促もないまま、今日に至った。ついに今夜から再開する。何でも「新」を付けたらいいとは思わないが、リフレッシュ感も欲しいので〈New Savilna 会読会〉と命名する。

それぞれ自分の好きな本を読んでくる。文学作品以外はだいたい何でもいい。そして、書評をA412枚にまとめて配付し、さわりを伝えたり要約したり、また批評を加える。「この本を薦める」という、新聞雑誌の書評欄とは異なり、「私がきちんと読んで伝えてあげるから、この本を読む必要はありません」というスタンス。カジュアルな本読みの会ではあるが、根気よく続けていれば一年で数十冊の本の話が聴けるという寸法である。

昨年までは毎回7~10人が発表していた。久々のせいかどうかは知らないが、今夜の発表者は4人と少ない。実は、ぼくは写真左の『身近な野菜のなるほど観察録』を書評しようと思っていた。おびただしい野菜が紹介されているが、夏野菜に絞って話をし、ついでに書評者自身の夏野菜論を語ろうと思っていた。しかし、4人とわかって、それなら少し骨のあるものをということで、写真右の『アリストテレス「哲学のすすめ」』を選択した。骨があると言っても、『二コマコス倫理学』などに比べれば入門の部類に入る。


読書についてよく考える。本を読む時間よりも本を読むことについて考える時間のほうが長いかもしれない。自分の読書習慣についてではなく、誰か他の人から尋ねられて考える。どんなことかと言えば、「どのように本を読めばいいか?」という、きわめて原初的な問いである。たいして熱心に読書してきたわけでもないぼくに聞くのは人間違いだ。もちろん歳も歳だから、ある程度は読んできた。だが、ノウハウなどあるはずもなく、いつも手当たり次第の試行錯誤の連続だった。

本ブログを書き始めて4年が過ぎたが、その間、読書についてあれこれと書いてきた。最近では、一冊一冊読み重ねていって〈知層〉を形成しようとするよりも、複数の本を併読して〈知圏〉を広げるほうがいいと思っている。一冊ずつ読んでもなかなか知は統合されない。一冊を深く精読することを否定しないが、開かれた時代にあっては「見晴らし」のほうが知の働きには断然いい。

複数の、ジャンルの異なる本を手元に置いて併読している。「内容が混乱しないか?」と聞かれるが、ぼくたちのアタマは異種雑多な知を処理しているではないか。現実に遭遇する異種雑多な情報や課題や問題を取り扱うのと同じように本も読む。精読や速読ばかりでなく、併読術も取り入れてみてはどうだろう。

語句の断章(11) 観照

何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語、それが「観照かんしょう」である。

現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が観照という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が“contemplate”となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

この動詞は現代イタリア語では“contemplare”で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている。「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

するとどうだろう、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」と言ったダ・ヴィンチの真意が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。「理性は感性の限界を補う俯瞰や見晴らしをもたらす」というような意味のように思われる。

なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。

付箋紙メモの行き先

いろいろと自問していることがおびただしい。問われていることも多数、ここに依頼されているテーマが上乗せされて、少々収拾がつかなくなっている。かと言って、忙しくなったり慌ただしくなったり気が急いたりしているわけではない。ただ、何と言うか、散漫としていて焦点を絞り切れない感覚に陥っている。こういう感じを「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」とぼくは呼んでいる。

「付箋紙がいっぱい貼ってある状態」に良いも悪いもない。その状態は価値判断と無縁の現象にすぎない。もし無理にでも意味を見い出そうとするなら、どちらかと言えば好ましくないことが一点だけある。それは、ここまで書いてきてもなお、頭の中は一行メモの付箋紙で溢れ返っていて、何を書こうとしているのか未だに定まっていないことだ。カオスの中からカオスをなだめる術は生まれてこない。カオスの状態は外部からの強い刺激か、あるいは外部に対する執拗な働きかけによってのみ秩序へと向かう。

考えたい・深めたい・広げたいテーマが山ほどあって、思考・深耕・展開への意欲も指向性も強いのだが、何から手をつけて何と何を関連づけていくかがよく見えない。誰もが身に覚えがあるはず。抱えているすべてのテーマについて、浅瀬で逍遥している時間が延々と続くのだ。繰り返すが、それでもここに良し悪しなどない。なぜなら、一寸先は闇かもしれないが、視界の開けた眺望点かもしれないからである。


秩序へ向かう一つの方法は、一枚の付箋紙だけを偶発的に取り上げて、他を見えないところに格納してしまうことである。今日のところ、こうして手元に残ったのが「事業の目的、顧客の創造」というメモである。ピーター・ドラッカーのあまりにも有名な次の箇所が、この付箋紙メモの発端になっている。

If we want to know what a business is we have to start with its purpose. And its purpose must lie outside of the business itself. In fact, it must be in society since a business enterprise is an organ of society. There is only one valid definition of business purpose: to create a customer. (……)
「事業とは何かを知ろうとすれば、まず事業目的が出発点になる。しかも、事業目的は事業それ自体の外部に見出さねばならない。実際、企業は社会の一器官であるから、事業目的は社会にあってしかるべきだ。唯一妥当な事業目的の定義は顧客の創造である」(拙訳)

事業目的が顧客の創造であり、それがすべてで最終目的であるという議論を、いろんな機会に耳にしてきた。しかし、目的と手段がある時、なぜ目的のほうが手段よりも重要なのかを説明できた人はいない。このドラッカーの説を引く人たちは、事業目的が顧客の創造にあるのだから「それが一番重要だ」と、あまりにも短絡的なのである。人生の最高善であり最終目的を「幸福」だとする時、その幸福に近づく行程や手段を重要度で下位に見立ててよいのか。ノーである。上記の文章から三、四段落後に書かれている次の文章と併せて考えてみる必要がある。

Because it is its purpose to create a customer, any business enterprise has two――and only two――basic functions: marketing and innovation.
「事業の目的は顧客の創造であるから、いかなる企業も二つの、たった二つの基本的な機能を持つことになる。すなわち、マーケティングとイノベーションである」(拙訳)

マーケティングとイノベーションという機能によって顧客の創造へと向かう……これが事業なのだというわけである。一点注目せねばならないのは、顧客の創造の「顧客」が原文では“a customer”と「一顧客」になっている点である。決して集合名詞ではない。ドラッカーに与するかそうでないかの前に、きちんと解釈だけはしておきたいものだ。この先いくら書いても一晩で答えが出るわけでもないのでここでピリオド。続きはいずれ取り上げるが、ビジネスマンなら暇な折りに一考する価値があると思う。


脳内が収拾不能になったら、とりあえず上記のように書いてみることである。何もしないよりもきっと少しは見晴らしがよくなるはずだから。

全体と部分の関係

よくある折りたたみ式のヘアドライヤーを使っている。整髪のために使うのではなく、濡れた髪を乾かすためである。そのドライヤーの折りたたみ部のプラスチックが欠けた。小指の爪ほどのかけらだ。「強力瞬間接着剤」で何度もくっつけようと試みたが、100円ショップで買ったその接着剤、まったく強力ではない。くっつくことはくっつくのだが、折りたたみ部を伸縮させるとすぐに剥がれてしまう。それ以上意固地にならず、また、買い替えようとも思わず、機能そのものにまったく支障がないので今もそのまま使っている。

これは、部分の欠損が全体に対して特段の影響を及ぼさないケースだ。しかし、さほど重要ではない部分が全体の価値を落としてしまうこともある。たとえば、チャーハンに入っているグリーンピースやカレーライスに添えられた福神漬け。これらの取るに足らない脇役のせいで食事を心から楽しめていない人たちがいる。彼らは、嫌いなグリーンピースを福神漬けを悪戦苦闘して排除しようとする。全体に関わるマイナスの部分に容赦ならないのである。

実は、ことばというものは、ある文脈でたった一語が足りないだけで意味を形成しづらくなる。ことばはお互いにもたれ掛かってネットワークを構築しているので、ある語彙の不足・忘却は既知の語彙全体の使い方にも影響を及ぼす。

では、頭の働きはどうなのだろうか。人の身体には欠損を補おうとする機能がある。アタマも同様で、たとえば左脳に傷害が起こると右の脳が部分的に代役を務めることはよく知られた話だ。だが、精密機械の小さな一部品の故障が機械全体の不具合を招くように、言語と思考は一つの異常や不足によって全体の磁場を狂わせてしまうと考えられる。個がそれ自体で独立しているのなら不都合はないが、おおむね個は全体あっての存在なのである。だからこそ、個の問題はつねに全体に関わるのだ。


「全体は部分の総和以上であり、全体の属性は部分の属性より複雑である」

これはアーサー・ケストラーの言である(『ホロン革命』)。ケストラーによれば、「複雑な現象を分析する過程で必ず何か本質的なものが失われる」。つまり、全体を個々の部分に分解しても全体と部分の総和はイコールではないということである。このことは少し考えてみれば納得できる。レシピの材料の総和以上のものを料理全体は備えているし、住宅はあらゆるコンポーネントを組み立てた以上の存在になっている。

腕時計の完成形という全体構想に合わせて部品が作られ集められるのであり、一軒の家の設計図があって初めて柱や壁や屋根やその他諸々の部材が規定されるのである。決して部分を寄せ集めてから全体が決まるのではない。この話は、総論と各論の関係にも通じる。意見の全体的なネットワークを総論とするなら、各論が勝手に集まって総論を形づくっているのではない。思想や価値観の根幹にかかわる、その人の総論がまずあるべきなのだ。

人の顔色を見てそのつど間に合わせの各論を立て、それらの各論を足し算したら総論になったなどというバカな話はない。総論はさまざまな意見の全体を見晴らしている。それはつねに漠然としながらも、人生や世界や他者に対して変わりにくい価値を湛える。総論という意見のネットワークにはもちろんケースバイケースで各論が入ってくる。それはまるで、時計や家にソリッドな堅強系の部品とデリケートな柔弱系の部品が共存するようなものだ。各論に極論があってもいいが、総論には全体調和論がなければならないのである。