「嫌いの顔」が立つ

あることにおいて好きと嫌いが同居し拮抗するとき、ほぼ間違いなく「嫌いの顔」が立つ。半分好きで半分嫌いはプラスマイナスゼロ、つまり「どっちでもない」という感情にはならない。それはほとんど嫌いを意味する。たとえば、ちゃんこ鍋に十の具が入っていて、そのうち九つの具は好物または「嫌いではない」。しかし、一つの具だけは許せないほど嫌いである。この時、どんなにわがままな人間でもみんなで鍋を囲むときは耐えるだろうが、自分が一人の時にその一人ちゃんこ鍋を注文することはありえない。

ある何かやある誰かを嫌う人のエネルギーは、別の何かや別の誰かを好むエネルギーよりも強い。同一人物において、嫌悪の情は愛好の情よりもほぼつねに優勢である。食べたくてしかたがない料理を我慢して見送ることはできても、嫌いでしかたがない料理を我慢して口に放り込むことはできない。好きから嫌いへと価値観を変えるのは容易だが、その逆は困難だ。「嫌いだから嫌い」は、「ダメなものはダメ」と同じように、反論する気すら起こらないほど鉄壁の論理なのである。


何年前だったろうか、昼下がりのとある中華料理店での珍事である。食事を終わりかけていたぼくの隣りのテーブルに還暦前後のご婦人が一人。メニューをじっと睨んだまま動かない。固まったのではないかと心配したウェイターがテーブルに近づいて注文を取ろうとする。「これ(エビ天定食)とこれ(麻婆豆腐定食)の二つを頼んだら、多いかしら?」 そりゃ、一人で定食二つは多すぎますよ、というぼくの独言とハーモニーを奏でるようにウェイターが言う、「そうですね、多いですね、お一人だとね……。」

ご婦人、「やっぱりそうかあ。困った……」とつぶやいて、再び悩みの世界に戻っていく。この店にはエビ天と麻婆豆腐が好きな人にターゲットを絞ったような定食がある。別にそこまで困らなくても、その定食にすればいいのに、と内言するぼく。と同時に、やっぱり店の人も同じことを考えるもので、「こちらの定食には少しずつ四品入っています。エビ天と麻婆豆腐が入っていて、他に豚肉炒めと鶏の甘酢も付いています」とフォローした。

そんなこと承知済みと言わんばかりの顔をして、「私、鶏がダメなのよね~」とご婦人。聞き耳を立てなくてもご婦人の声はよく通る。エビ天と麻婆豆腐は大好物なのである。なにしろ二種類の定食を注文しようと覚悟したくらいだ。しかし、鶏が苦手、嫌いなのである。そう、これこそ嫌いが好きを押さえ込んだ「ワザあり」の瞬間。そして、ご婦人はまたまた選択の迷いに没する。傍観するぼくは、この帰結を見届けないで立ち去るわけにはいかなくなっている。

しばらくして、しびれを切らしたウェイターが提案を持ちかけた。「鶏以外は大丈夫ですか?」「ええ、鶏だけが苦手で……」「わかりました。その四品の定食にしてください。鶏の甘酢の代わりに別の一品を入れますから」。こう言って、ウェイターは厨房の方へ行き注文を通した。もうここまできたら、ぼくも一部始終の顛末を見届けなければならない。数分待つ。例の定食がご婦人の前に出てきた。代品は、ゴージャスな「ふんわり仕立てのカニ玉」だった。「ワザあり」が「一本」になった瞬間である。ご婦人は満面の笑みを湛えていた。「嫌い」の引きは何と強いのだろう。