単位や数字の奇妙

最近めっきり行かなくなったが、銭湯には体重を測定する秤が置いてある。ほとんど電子体重計に置き換わったようだが、ぼくが幼少の頃はもちろんアナログ。おまけに「かんもんめ」で目方を表示する尺貫法名残りの秤だった。ちなみに貨幣単位では円の下の位のせんも使っていた。昭和31年に生まれた弟を産院に見に行った帰りにポン煎餅を買ったら、差し出した十円硬貨のお釣りが白く輝く5枚の一円玉だったので驚いた記憶がある。つまり、それまでは一円札を使っていたのだ。

親の世代は尺や寸に馴染んでいたが、長さに関してはぼくの世代ではすでにメートル法だった。とは言え、普請や着物の裾上げの際に、専門家と客が尺寸で会話を交わすのを聞いていた。やがて貫と匁はキログラム・グラムに移行する。慣れないうちは、3.75キログラムを1貫に「翻訳」したものである。こうして、いつの間にか、メートルと同じくキログラムが自分の世界を測る長さと重さの基準になっていった。

ところが、単位の変換作業はこれで終わらなかった。英語を学習し始めると、ドルという通貨があって、どうやらそれが世界の基準になっていることを知る。変動為替相場ではなかったから1ドル=360円を覚えた。もっとも海外とは無縁な環境ゆえ、そんな話題はハワイに嵌まっていた叔父の話に出てくる程度だった。次いでヤードやフィート、それにポンドという単位の存在も知る(ポンドはボクシングの試合で「145ポンド5分の1」と独特の節回しで告げるので聞き慣れてはいた。ただ何分の一というのが奇妙に響いた)。


世界にはおびただしい通貨の単位がある。同時に固有の計測体系が相変わらず存在している。知られざる様々な呼称もあるに違いない。わが国の一羽、一個、一匹などもその類である。学問としての数学の世界に限定すれば、そこには客観的な統一表現があるように思われるが、日常生活世界ではものの見方がいかに文化的慣習的に多様かがわかる。本日の会読会で取り上げるマイケル・ポランニー(『暗黙知の次元』)のことばに「私は科学を感覚的認識の一変種と考える」というのがあるが、まさに「単位や数字は人々の感覚的認識の一変種」と言えるかもしれない。

ドルとユーロの価値を「1ドル、1ユーロ」という情報だけによってぼくたちは評価しえない。円という基準に照らし合わせないかぎりどれほどの価値なのかを理解できないのだ。1ドル=91円、1ユーロ=135円(今日の正午現在)と相対化して初めて価値を知る。もちろんこの価値は変動するから、明日になると価値に変動が生じるだろうが、それも円換算によってのみ感じることができる。しかし、国際比較を必要としない個々の市場にあっては、1ドルは1ドルであり、1ユーロは1ユーロである。わが国にあっても100円は100円である。

話を元に戻す。単位や数字というものは主観的な世界観の反映らしい。比較文化的視点だけではなく、一人の人間がある対象を数字でとらえるのも主観的であることがわかる。たとえしっかりした評価基準が設けられていても、フィギュアスケートや体操競技は審査員の主観によって点数化される。数字は物事の多様な見方のうちの「一変種」にすぎないのだ。ペットボトルの水を500mlととらえたり硬度29mg/Lと表記しているのも一つの見方、富士山3776メートルも台風985ヘクトパスカルもマグニチュード4.5というのもすべて主観的な認識の一つなのである。「駅から1キロ」と「徒歩12分」には視点の違いがある。給与や業績やテストはなぜ数字至上主義を貫いているのか……。   

明日は続編として「数字信奉の危うさ」をテーマに書いてみようと思う。