関係と比較

ある物事から他の物事との関係を外してしまうと、個として立ち現れるのが不可能と思われる。たとえば、りんごという果物は単体でも認識できるが、他の果物と比較すれば認識の質も深さも変わるはず。もの、概念、人にも同じことが言える。関係づけたり比較してみたりして、あるもの、ある概念、ある人の意味が際立ってくる。

ものどうし、概念どうし、人どうし……いずれの間にも関係がありうる。企画や編集の仕事にあたって関係をどのように認識しているかあらためて考えてみると、そこには「配置のイメージ」が重要な役割を果たしていることに気づく。手紙を書こうとすれば、机上のペンケースに収まっている万年筆と椅子の後ろに並べてあるインク瓶が近づく。万年筆はインクによって、インクは万年筆によって、それぞれの認識が深まる。「左右」という概念を考えるとき、岐路に立つ自分がいて左右の方向感覚をイメージとして認知しようとしている。左だけを想像することはできない。左右をセットにするほうが左も右もよく見える。

自分と他人の関係では二人が登場する。ある人物と自分が配置されるとき、その人物のことだけや自分のことだけを分析するよりも、自分のこともその人物のこともずっとよくわかるものだ。異なる二人を並べてみてはじめて、類似なり関連性なりがあぶり出されてくる。〈差異と類似のネットワーク〉によって、ぼくたちは個々のもの、概念、人についての理解を深めるように思われる。


概念の関係図

「もっと深く考えよ」とよく言われてきたが、他のものと比較もせず配置関係も想像せずに、深さを追求することはできそうにない。仮にできたとしても、それを他者に説明するにはかなりの描写力を必要とする。池そのものをどれほど深く考えても限界がある。しかし、海、川、湖、沼、潟などを配置させて比較してみればどうか。固有の概念の深掘りよりも関係の広がりのほうが、池そのものが浮き彫りになってくるのがわかる。

今日の昼前、年越しそばの待ち時間に『ミケランジェロ』(木下長宏)の序章を読んでいた。序章のタイトルは「ミケランジェロとレオナルド」であるが、レオナルド・ダ・ヴィンチから始まり延々とレオナルド・ダ・ヴィンチの話が続く。これはレオナルド・ダ・ヴィンチについて書かれた本ではないのかと思ったほど。しかし、序章を読み終えて、著者を責める気にならない。レオナルド・ダ・ヴィンチとの比較において、23歳年少のミケランジェロ・ブォナローティの存在がいっそう際立ってくるからである。

日本人だけを語る日本人論、日本文化だけを語る日本文化論に出合ったことはない。他国人との比較、他国の文化との関係においてはじめて語りうるテーマである。いや、こうしたテーマだけに限らない。すべてのもの、概念、人は「関係的存在」なのである。

諺に「下手があるので上手が知れる」というのがある。優劣は比較してわかる。下手のお陰で上手の程度がわかる。ある一つの物事だけを目の前に置かれて評価するのは難しい。ところで、いつもの蕎麦屋の年越しそばは今年もうまかった。下手とは勝負にならないレベルだが、並み居る競合店相手に勝ち抜いてきたのは、常連客が他店の味との比較をしている結果にほかならない。ぼくがこの蕎麦屋のそばの味について誰かに語るとき、これまで立ち寄った他店の味を思い浮かべている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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