揺らぐ「信」

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ぼくたちは「信じる」ということばをよく使う。「信頼」や「信用」も頻度が高い。他には「信念」や「自信」がある。その「信」が危うくも揺らいでいる。
「私はAを信じる」というのは「Aには信がある」というのにほぼ等しい。このときのAは人でも話でも事物でもいい。信とは「真実であり偽りのないこと」である。ぼくたちがAを信じるのは、Aが真実であり偽りがないと思うからである。「まず信じよ」というだらしない教えがあって困るのだが、信じることと信じたいことは違う。検証もそっちのけで信じたいのなら、自己責任の元におこなうべきだ。
 
何でも疑うことに感心もしないが、何でも信じることにはそれ以上に感心しない。かと言って、デカルトのように徹底的に懐疑して、これ以上疑えないという域に達しようとするのは現実的ではない。つまり、どんなに懐疑したり検証したりするにしても、どこかで手を打たねばならない。完全な信が得られる前に「信じてもいいだろう」で折り合うのである。繰り返すが、最初から無防備に信じることなどあってはいけない。
 

 ブランドやのれんによって真贋を識別することが難しくなった。では、看板と実体が同じかどうかを見分ける手立てが消費者にあるのだろうか。わざわざテーブル席でステーキ肉を見せられ、「これが国産黒毛和牛です」と告げられても、厨房に持ち帰ったら別の肉を焼くかもしれない。では、目の前で焼いてもらおうか。それでもなお、その肉が正真正銘のブランド牛という証明にはならない。ぼくがよく通った焼肉店では血統書のコピーがコース料理の前に提示された。何々産の雌の何歳とあって名前までついている。だが、その血統書の和牛の肉が本日のメニューとして実際に出されるかどうかを確認することはできない。
 
堂々巡りになってしまうが、結局は信じるしかなさそうである。但し、品は勝手に偽らない。偽装を仕組むのは人であり、ひいては人が集団化する組織である。だから、人と組織を注視するのだ。欲だけで生きていない人や組織が他人を欺くことは少なく、おおむね誠実である。他方、利得のみを人生や仕事の礎に置く人や組織は信に背を向ける可能性がある。食品関係に偽装問題が頻発するのは、食材が見分けにくく、消費者が騙されやすいからにほかならない。
 
やっぱり人間の清澄な心次第? いや、そんなメンタルな話に転嫁する気はない。賢慮良識を働かせれば、人や店の信頼度はその場で「経験科学的に」ある程度は感知できるはずである。レストランなら、ブランド価値などはひとまず棚上げする。接待であっても恰好をつけない。「安全でリーズナブルでそこそこ美味である」を基準にする。繰り返すが、食材がウソをついているのではない。これは何々ですと人が偽っているのだ。だから、人を見る。人の立ち居振る舞いと話し方を見る。この人たちに委託してもいいのかどうかを見極める。
 
逆説的だが、社会に蔓延する不信感を拭うためには――つまり、信を基本とした関係性を取り戻すためには――利用者が眼力を養うべく懐疑してみることだ。イタリアに「信じるのはよいことだ。だが、信じないのはもっとよいことだ」という諺がある。イエスに到る過程にはいくつものノーがある。ぼくたちが信用し、安全かつ快適に利用できているものは、厳しく懐疑され検証されてきたはずである。

「偽りを語るなかれ」

もう二年半前になるが、本ブログで嘘について集中的に書いたことがある。ギャグのようなもう少し嘘の話嘘つき考アゲイン性懲りもなく「嘘」の、堂々(?)たる四部作。久しぶりにさっき読み直してみた。自画自賛とのそしりを覚悟して言う、結構おもしろかった。

人は嘘をつく。但し、嘘をつくという理由だけで、やみくもに「嘘つき」呼ばわりできない。嘘つきとは「常習の確信犯」のことである。困った挙句に時々小さな嘘をつくぼくやあなたは彼らの同類ではない。嘘も方便という常套句の力を借りれば、「お似合いですよ」などは愛想混じりの嘘だから許容範囲だろう。但し、可愛げのある嘘も正当化し続けていると、可愛げがなくなるから要注意だ。

それにしても、人はなぜ嘘をつくのか。詐欺師は騙すことによって利を得ようとする。ぼくたちの場合は、だいたい都合が悪くなって嘘をつく。都合が悪い理由のそのさらなる理由は千差万別だろう。今の時期、嘘と言えば「八百長事件」を連想してしまうが、それはまた別の機会に取り上げよう。今日のところは、見栄や執着心と嘘との関係である。タイトルの「偽りを語るなかれ」は6世紀中国の学者、顔之推がんしすいの言とされる。


不可抗力によっても強いられる有言不実行とは違って、虚言は多分に意図的である。期限や約束破りは結果として偽ったことになる。愚かしいことに、その偽りをカモフラージュするために嘘を上塗りする。考えてみれば、都合を良くしようとする点では利を得ようとする詐欺師とあまり変わらないのだ。孫引き参照になるが、中村元の『東洋のこころ』に次のような引用がある。

「真実であるようだが、虚偽であることばを語る人がいる。そういう人はそれゆえに罪に触れる。いわんや嘘を語る人はなおさらである。」
(『ダサヴェーサーリア』75

「この世で迷妄に襲われ、僅かの物を貪って、事実でないことを語る人、――かれをいやしい人であると知れ。」
(『スッタニパータ』131

さて、嘘には〈偽薬効果プラシーボ〉があると思う。嘘も方便を足場にして毎日おだてているうちに、下手が上手になったり弱者が強者に変わったりすることもある。逆に言えば、まことの人が何かの拍子で舌に嘘を語らせ、悪しき口業くごうを繰り返すようになるうちに、「虚人」に成り果てることだってありうるだろう。

人はなぜ嘘をつくのか。先の書物で中村元は言う、「それは何ものかを貪ろうとする執著しゅうじゃくがあるからです」。執著、すなわち「こだわりの心」。何にこだわるのか。見栄にこだわり、やがて見栄が転じて虚栄となる。不完全な人間のことだ、非を認めずに我を通そうとすれば、嘘の一つもつかねば辻褄が合わなくなるだろう。嘘をつかない処方は簡単だ。我を引っ込めて非を認めればいいのである。