変わったのか、変わっていないのか

9月末、出張先のホテルで日経新聞を手にした。「ご自由にどうぞ」の表示とともに置いてあった。「歴史的な衆院選からきょうで一ヵ月になる。政治の風景は変わった」とコラムの書き出し。よく目にする「変わる」ということばなのに、この時ばかりは不思議に思えてきた。よく目を凝らしていると「変」という文字が変に見えてきたのである。こういう知覚の過程の作用を〈異化〉と呼ぶが、「変、変、変、変、変……」と並べていくと異様な雰囲気が漂ってきて、逆に強い注意がそこに向いてしまった。

「変化」を認知するには、ある対象の「過去と現在」の差異に気づかねばならない。変化とは二点間差異である。既に知っていることと現在心得ていることが同じであれば、変化はわからない。つまり、「変」とは思わない。夏を知っているから秋の気配に気づく。「よくなった」とつぶやくときは「よくなかったこと」と比較している。「あったのに、なくなった」……休暇、食料、金銭でもそのような落差に気づいて変化を知る。


では、政治の風景はどう変わったのか。つまり、政治という対象の、前風景と現在の風景の違いは何か。前風景もよく知らず今の風景にも関心がなければ、「政治の風景は変わった」という評論を鵜呑みにするしかない。いずれの風景もよく眺めていて、なおかつ変わっていないと思うのであれば、「政治の風景は変わった」に同意することはできないだろう。

大きな変化があるとしても、それに気づくのはもっと先に違いない。革命でも起こらないかぎり、ただちに激変を認めることはできない。もちろん巷間取り上げられているような小さな変化には気づいているつもりである。とはいえ、新聞のコラムニストのように「政治の風景は変わった」と歴史の境目に立ち会っているようなコメントをする勇気はない。

ひとつ異様に聞こえることば遣いに気づいた。首相の「国民のお暮らし」である。いやはや、「国民の暮らし」で十分だろう。何でも「お」を付けたがるこの国の政治家の言語感性が問われる。その後も耳を澄ましていると、前政権でも重宝されていた「訴えをしてまいりたい」などの古風な言い回しもちらほら聞こえてくる。異様に聞こえたものが、実はよく知っている語りだったのである。よく知っているものが変に見えてくるのを異化と呼ぶのに対して、変に見えるものが実はよく知っているものだったというのを〈異化の異化〉と言うらしい。「異化の異化の異化の異化の……」と延々と続いても、政治家は変わらないのかもしれない。

企画に言霊が宿る時

別に内緒にしていたわけではないが、何を隠そう、昨今リピートの多い研修は「企画」である。主催する側によって名称は変わる。「企画力研修」というストレートなものから、「企画能力向上研修」「企画提案力研修」「企画書作成研修」「政策企画力研修」などバリエーションは豊富である。もともと「スーパー企画発想術」と名付けていた二日間プログラムで、学習の基本軸は「発想>企画>企画書」。つまり、企画書に先立って企画があり、企画に先立って発想があるという考え方。その発想の拠り所は日々の変化への感受性である。

企画とは好ましい変化をつくることであり、その作戦をシナリオ化することと言えるだろう。何から何への変化かと言うと、Before(使用前)からAfter(使用後)への変化である。使用するのは企画という処方箋。つまり、さらに詳しく言えば、企画とは、現状の問題なり不満を解決・解消して、より理想的な状況を生み出す方策なのだ。こんなわかりきった(つもりの)企画という用語をわざわざ辞書で引くことはないだろうが、念のために手元の『新明解』を調べてみた。正直驚いた。「新しい事業・イベントなどを計画すること。また、その事業・イベント。プラン」とある。これはかなり偏見の入った定義である。まるで企画という仕事を広告代理店の代名詞のように扱っているではないか。

企画をしてみようという動機の背景には、まず何を企画するかというテーマへの着眼がある。そして、そのテーマ領域内の、ある具体的な事柄をよく観察していると、何だか問題がありそうだ、と気づく。いや、必ずしもゆゆしき問題でなくてもよい。ちょっとした気掛かりでもいいのだ。もしプラスの変化を起こすことができたら、きっと今よりもよくなるだろう―こうして方策を編み出そうとする。着眼力、観察力、発想力、分析力、情報力、立案力、解決力、構想力、構成力……数えあげたらキリがないほど、「〇〇力」の長いリストが連なる。


こんな多彩な能力の持ち主はスーパーマン? そうかもしれない。一言で片付けられるほど企画力は簡単ではない。だが、つかみどころのなさそうな企画力ではあるが、つまるところ、その最終価値を決めるのは「言語力」を除いて他にはない。コンセプトだの因果関係だのアイデアだのと言ってみても、下手な表現や説明に時間がかかっては企画の中身がさっぱり伝わらないのである。もっと言えば、新しくて効果的な提案がそこにあるのなら、使い古した陳腐なことば遣いに満足してはいけない。「固有であり旬であること」を表現したいのなら、「新しいワインは新しい皮袋に」入れなければならないのだ。

言語力が企画の価値を決定づける。もっと極端な例を挙げれば、タイトルが企画の表現形式をも規定してしまう。話は先週の研修。あるグループが順調に企画を進めていき、企画の終盤に『涼しい夏の過ごし方』というタイトルに辿り着いた。現状分析も悪くなく、「暑い夏→涼しい夏」という変化を可能にする詳細なプログラムをきちんと提示していた。しかし、総じて平凡な印象を受けた。「新しいワインを古い皮袋に」入れてしまったのである。

仮に『灼熱の夏と闘う!』としていればどうだったか。同じ企画内容が、タイトルの強さに見合った表現形式になったのではないか。ハウツーの説明に終わった『涼しい夏の過ごし方』に比べて、『灼熱の……』には企画者の意志が込められ、「夏との対決」の様子を実況生中継するような迫力を醸し出せたのではないだろうか。いや、もちろん企画者にはそれぞれの性格があるから、必ずしもそうなるわけではない。だが、その性格要因を差し引いても、命名が企画内容の表現形式にもたらす影響は想像以上に大きい。

ちなみに、「コンテンツ→タイトル」という帰納型よりも「タイトル→コンテンツ」という演繹型のほうが、メリハリのきいたダイナミックな企画になる可能性が大きい。これは、数百ものグループの企画実習の指導・評価経験から導かれた揺るぎない法則である。できたモノや企画に名前を付けるのではない。名前という一種のゴールや概念に向けてモノや企画をデザインする――このほうが言霊が企画に宿りやすいのだ。

差異と変化について

えらく硬派なテーマである。本を読んでも人の話を聞いても知り合いのブログに目を通していても「変化」という文字がやたら目につく。ぼくも講義でしょっちゅう使っている。「変化とスピード」をクレド(経営信条)として掲げている得意先もある。他方、格差や差別や分別など、一言で「差異」とくくれる概念も目立つ。先週のマーケティングの講演で「差別化か、さもなくば死か」という、ジャック・トラウトの物騒なテーマも取り上げた。人は差異と変化によって成り立っている―これが、ぼくが導こうとしている主張である。

差異。差異があるから比較したり対立させたり、いずれかを選択したりできる。一番近い本棚に『政策形成の日米比較』という10年前の本があるが、比較するのはそこ(日米間)に差異があるからである。社会の中から自分だけを切り取って語るのは難しい。自分とは他人との差異によってはじめて語るに値する存在である。得は損によって、夢は現実によって、善は悪によって明確になる。二項以上が並立したり対立するのは差異ゆえである。

初めて誰かを見たり接したりする。たとえばRさん。このときあなたがRさんに持つ印象は、Rさん本人だけからやってこない。それはSさんやTさんとの差異に基づくのであったり、あるいは一般的な人間の尺度との差異による印象であったりする。これは人にかぎらない。ふきのとうの天ぷらを苦く感じたのならば、それは苦くない他の食材との差異ゆえである。何かと対比しなければ、苦さすら感じないのだ。これは食材だけにかぎらない。ことばも概念も同じだ。「今日」ということばは「昨日」と「明日」との差異によって成り立っている。「まぐろ」を注文して「はまち」や「よこわ」が出てこないのは、客も寿司職人も差異がわかっているからである。


この差異に加えて、変化ということばをぼくたちはどのように使い分けているのだろうか―こんなことを数日前から考えていた。

列車の旅をしていて、P村からQ町に近づく。切れ目なくアナログ的に窓の外が移ろうので、このときは「風景が変わる」というように「変化」という表現を使う。ところが、飛行機に乗りM国からN国へ向かう。機中で寝ているうちに到着する。ある意味でデジタル的なワープがそこに起こっているので、M国がN国に変化したのではなく、M国とN国との(突然の)差異に気づくのである。

連続するものに「変化」を用い、非連続なものに「差異」を使っているのかもしれない。おたまじゃくしは蛙に「変態」する。メタモルフォーゼは同一固体における外形・性質・状態の変化である。これを「おたまじゃくしから蛙に差異化した」とは言わない。

K君と初対面。「太い」という印象を受ける。このとき、ぼくたちは特定のL君や一般的な尺度との差異を見て太いと感じる。二度目にK君と会う。このときも、たしかに「やっぱり太い」という差異を認めるが、新たにK君における変化をも見る。三日前のK君と今日のK君の体重の変化を感じている(「こいつ、また太った」)。こうしてK君と長く付き合っていく。そうすると、他者との差異には鈍感になっていき、K君自身における変化のみに敏感になってくる。これは体重だけではない。顔つき、服装、能力、立ち居振る舞い、趣味などありとあらゆる面の変化を嗅ぎ取るようになる。

「個性をつくれ」は差異であり、「能力を伸ばせ」は変化である。他人と違う発想をもつ―これは差異だが、標準から逸れるのを恐れる日本人にとっては結構難しい。しかし、もっと難しいのは、昨日の自分の発想から離脱する変化である。「変わりたい、でも変われない自分」がいつもそこにいるからだ。


イチローのTVコマーシャルを思い出す――「RVは変わらなきゃ」。しかし、翌年か翌々年には「変わらなきゃも変わらなきゃ」に変わった。変化してほっとしていてはいけない。変化はエンドレスなのだ。「変化しなければ生き残れない」。その通りである。しかし、このコンセプトを固定させてもいけない。毎度毎度変化を実践している者にとっては、「変化しないでおこう」という選択の変化もありうるのだ。アタマが混乱してしまいそうだが、差異と変化は不思議でおもしろい。

変える論理、変えない論理

「いつまでもお若いですね」は、変わっていないことを評価することば。「いつまで同じやり方をしているんだ!」は、不変に対する不満。「彼の仕事に対する姿勢は変わらない」は、たぶん褒めことば。しかし、「君、安易に目先を変えるな!」は、変化に対する批判。「殻を破れ、自己変革せよ!」は、変わることを奨励している。「変えてよし」あれば、「変えなくてよし」あり。変えるか変えないかの岐路でどう決断するかは、クイズミリオネアで「ファイナルアンサー?」と聞かれての対応に似ている。

直感的印象で恐縮だが、現在は「変える論理」が優勢な気がしている。まず、「変化とスピード」を謳う企業メッセージをよく耳にする。「時代や社会の変化に対応」というのは、人間が変化すべきことを示唆している。ぼくも、どちらかと言えば、変化礼賛派である。いや、それは「飽き性」をカモフラージュする看板だろうか。


「万物は流転し、自然界は絶えず変化している」――これは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの根源的な考え。『方丈記』でおなじみの鴨長明は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と人間世界を比喩した。構造人類学のレヴィ=ストロースは、「社会システムが変化に開かれるよう構造化されている」と喝破した。つまり、じっとしていると滅ぶ。

これらの思想に共通するのは、世界や社会が「変わる」という論理である。変わる世界の中にあって、人間だけが変わらない特権を有しているとは思えない。同じ状態にしがみついたまま、永続性だけを得ようともくろむのは厚かましい話だ。存続し維持したければ、変化し続けなければならないのである。人間は「変える論理」で生きなければならない。


しかし、変える論理を認めたうえで、ぼくたちは一つの大きな苦労に突き当たる。ひとまず何を変えるのかという選択の苦労である。見方を変えれば、これは「何を変えないか」という選択とも言える。

本ブログで毎週イタリア紀行を書いているが、イタリアの各都市から「何を変えないか」について実に多くを学ぶ。いかなる不便を甘受しても、数世紀前の景観を変えないヴェネツィア。フィレンツェには何世紀も前の水道蛇口を在庫している、ただの古道具屋ではない、水道工事屋があった。愚直なまでに変化しないことが必ずしも滅亡に至るわけではないという証である。

ぼくたちの社会は、便利という価値へと変化した結果、少なからず景観や伝統という価値を犠牲にしてきた。変えなくてもいいものすら変えてきてしまったのではないか。他動詞「変える」には「何を」が必要だ。変える論理は「何」という客語とセットでのみ成立する。