家を持つこと、住まうこと

90年代だったか、「橋をデザインするな、川の渡り方をデザインせよ」という仕事訓があった。一言一句正確な表現かどうか自信はないが、フィリップス社のデザイン理念の一つと聞いた。橋をデザインしようとすると既成概念に囚われるが、「川を渡る」という原初的機能に着眼すれば、大胆で目新しいアイデアに辿り着ける可能性がある。この表現を「家をデザインするな、住まい方をデザインせよ」と住居に応用したことがある。住まい方とは「生き方」でもある。


60代半ばと思われるホームレスの夫婦。彼らは小さなリヤカーを引き、中型の黒い犬を飼っていた(いや、連れていたと言うべきか)。犬を見かけなくなったのが2年程前。それから半年経った頃、今度は夫がいなくなった。以来、老女は高速道路の下に常宿の場を確保して、一人たくましく生きている。縄張り争いが起こりそうな所ではない。だから、彼女の場所は青いテントやダンボールの目印もなく、「家財道具」が表札代わりに置かれているだけである。

彼女の居場所や活動範囲はぼくの自宅からオフィスへの途上にある。空き缶を集めている姿をよく見掛けた。ところが、ここしばらく姿を見ていない。半月程になるかもしれない。先週のある朝、家財道具のそばにビニールで梱包した布団が置かれていた。貼り紙があり、「寒いので、使ってください」云々と書かれていた。「寒」と「使」の漢字の上にはそれぞれ「さむ」と「つか」とルビが振ってあった。彼女はルビのあるメッセージを読んで布団を使っているだろうか、それとも……。

英語に“hobo”ということばがある。「ホウボウ」と発音する。親日家のアメリカ人が「これは日本語の『方々ほうぼう』から来たんだ」と言うからしばらく信じていたけれど、その後起源不明ということを知った。辞書には「浮浪の民」のように記されていることが多いが、どうやら「渡り労働者」を意味するようである。働かない時期もあるが、原則として仕事を求めて旅をする人たちだ。仕事をしない放浪者をtrampトランプ、仕事もせず放浪もしない無宿の人をbumバムと呼ぶ。あの老女はバムということになるのだろうか。バムにとって、布団は家そのもの? それとも一つの住まい方? はたしてどちらなのか。


知らず、生まれ死ぬる人何方いずかたより来たりて何方へか去る。また知らず、仮の宿りが為にか心を悩まし何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或ひは露落ちて花残れり。残るといへども朝日の枯れぬ。或ひは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つ事なし。

『方丈記』の住まいに関する記述である。「人の生は短く、その短い一生を過ごす住居に一喜一憂しても始まらない。人と家の関係は、露と朝顔の花の関係と同じで、いずれも常はなく、はかない」と超訳して読める。家をデザインして建てても、そのが住まい方、ひいては生き方を保証してくれるわけではない。家あってもホームレスな生き方があり、家なくしてもアトホームな生き方があるだろう。橋と川の渡り方を家と住まい方になぞらえたように、さらに別の対象と機能に置き換えてみれば、少しは幸福の本質について想像力が働くかもしれない。

過去は現在に選ばれる

塾生のT氏が、「過去と未来」についてブログに書いていた。この主張に同感したり異論を唱えたりする前に、まったく偶然なのだが、このテーマについてアメリカにいた先週と先々週、実はずっと考え続けていたのである。明日の夕刻の書評会で「哲学随想」の本を取り上げるのだが、これまた偶然なことに、その本にも「過去と未来、そして現実と仮想」というエッセイが収められている(この本は帰国途上の機中で読んだ)。

未来とは何かを考え始めるとアタマがすぐに降参してしまう。T氏のブログでは「未来は今の延長線上」になっているが、仮にそうだとしても、その延長線は一本とはかぎらない。未来は確定していないのだから(少なくともぼくはそういう考え方をする)、現在における選択によって決まってくるだろう。その選択のしかたというのは、それまでの生き方と異なる強引なものかもしれないし、過去から親しんできた、無難で「道なり的な」方法かもしれない。未来はよくわからない。だからこそ、人は今を生きていけるとも言える。

では、過去はどうだろうか。カリフォルニア滞在中に学生時代に打ち込んだ英語の独学の日々を再生していた。その思い出は、アメリカに関するおびただしい本やアメリカ人との会話を彷彿させた。もちろん何から何まで浮かんできたわけではない。過去として認識できる事柄はごくわずかな部分にすぎない。しかし、なぜあることに関しては過去の心象風景として思い浮かべ、それ以外のことを過去として扱わないのか。ぼくにとっての過去とは、実在した過去の総体なのではなく、現在のぼくが選んでいる部分的な過去なのである。


現在まで途切れずに継承してきた歴史や伝統が、過去に存在した歴史や伝統になっている。現在――その時々の時代――が選ばなかった歴史や伝統は、過去のリストから除外され知られざる存在になっている。別の例を見てみよう。自分の父母を十代前まで遡れば、2の十乗、すなわち1,024人の直系先祖が理論上存在したはずである。だが、ぼくたちは都合よく「一番出来のいい十代前の父や母」を祖先と見なす。ろくでなしがいたとしても、そっち方面の先祖は見て見ぬ振りしたり「いなかった」ことにする。自分を誰々の十代目だと身を明かす時、それは過去から千分の一を切り取ったものにすぎない。

過去の延長線上に現在があって、現在の延長線上に未来がある――たしかにそうなのだが、それはあくまでも時間概念上の解釈である。タイムマシンは無理かもしれないが、人は過去と現在と未来を同時に行き来して考えることはできる。生きてきた過去をすべて引きずって現在に至ったのかもしれないが、その現在から振り返るのは決してすべての過去ではない。現在が規定している「一部の過去」であり、場合によっては「都合のよい過去」かもしれない。

過去のうちのどの価値を認めて、今に取り込むか。どの過去を今の自分の拠り所にするのか――まさにこの選択こそが現在の生き方を反映するのに違いない。現在が過去を選ぶ。この考え方を敷衍していくと、未来が現在を選ぶとも言えるかもしれない。こんな明日にしたいと描くからこそ、今日の行動を選べているのではないか。いずれにしても、現在にあって選択の自由があることが幸せというものだろう。