人の何に賭けるのか

「賭け」と口に出しただけで危うい匂いが漂ってくる。賭け事ということばに爽やかなニュアンスはない。うしろめたく、まっとうではなく、堂々と胸を張りにくい。だから、その方面の愛好家は賭け事などと呼ばずに、「競馬」や「パチンコ」や「麻雀」などと遊戯内容を明かすことによってマイナスイメージをやわらげようとする。

それでも、求人募集に応募した面接で「趣味は競馬です」とか「パチンコファンです」などと情報公開する者はほとんどいないだろう。万が一「趣味は賭け事です」などと舌を滑らせてしまったら、競馬やパチンコ関連業でも不採用になるかもしれない。別の場面、たとえば何らかの決意表明などでも、「ここが勝負どころです」と言うのはいいが、「一か八かの賭けに出ます」は向こう見ずで物騒だ。安心して見ていられない。

ところが、ことばにして「賭け」とは言わずとも、ぼくたちは様々な状況で何がしかの賭けを人に対しておこなっている。面接をして誰を採用するか、その判断は一種の賭けである。応募者も「趣味は賭け事」と言わないし、面接官も「よし、君に賭けた」とは言わない。しかし、一方は会社の未来に賭け、他方は将来の人材に賭けている。

賭博は偶然性の要素を含む勝負事であるが、回数を重ねていくと強者・弱者に色分けされる。人材の成長可能性を読むのを賭け事と同じ扱いするつもりはないが、まったく非なるものとも言い難い。なぜなら、過去の実績と現在の技能や力量を踏まえ、将来性を見極めて採否の決定を下すのは、その人物への賭けにほかならないからだ。賭けは当たるかもしれないし、外れるかもしれない。経験を積んだ人事の眼力が問われるところである。


だが、学校を出たばかりの若者の成長可能性を見抜くのは容易ではない。履歴書というペーパーに記載された出身大学やその他諸々の経歴・賞罰という「事実」、そして面接と入社試験の成績(あるいは縁故など)が、はたして精度の高い評価を支える証拠になりうるのか。確率論的にはなりうるだろうが、評価はあくまでも個人単位である。ところが、国家公務員住宅の家賃が相場の半額以下という事実が明るみに出た昨年11月、著名人がまさかというコメントをしているのを聞いて呆れてしまった。

元検事の評論家と行政学専門の大学教授は「家賃が高いと優秀な公務員が集まらない」と、ぬけぬけと言ってのけたのだ。彼らが言う「優秀な公務員」とは実績を積んだ社会人ではなく、新卒のことである。つまり、「優秀な公務員になるであろう新卒を集めるためには、世間の家賃相場の半分以下で住宅を用意せねばならない」と言っているのである。

優遇を期待して公務員になる人間と、そんなことなど当てにもせずに公務員を志望する人間がいるだろう。前者が優秀で後者がさほどでもないなどという推論は当然成り立たない。二十二、三才の時点で公務員マンションに格安で住もうとする連中を、優秀な公務員候補と格付けしてしまう愚かしさをわらうべし。現状の優秀性のみを見て成長可能性に目配りなどまったくしていない。まるでデータ重視の本命主義だ。安い家賃や住宅手当に期待などせぬ活きのいいダークホースに賭けてみる勇気はないのか。

人を見て法を説けるか?

「人を見て法を説け」とはご存知釈尊のことばだ。どちらかと言うと、好きなセオリーである。相手にふさわしい働きかけをするという意味では、接客はもちろん、マーケティングにも通じる法則である。

イエス・キリストが「広告マン」と謳われるなら、釈尊は「マーケッター」と呼んでもいいかもしれない。ピーター・ドラッカーが何かの本で「姉と妹の、あるいは独身者と既婚者の、靴に対する価値観の違い」を論じていたが、「人を見て靴を売れ」と応用できる。だが、足の大きさを測れば売るべき靴のサイズはとりあえずわかるだろうが、人の内面に潜む価値観を見抜くのはそう容易ではない。

よく「やさしく、わかりやすく説明せよ」と上司に叱られている社員がいるが、やさしくてわかりやすい絶対法則がそこらに転がっているわけがない。やさしさとわかりやすさは「絶対」という修飾語とは相性が悪いのだ。何かを説明されても、人によって理解のスピードや思い起こすイメージは違う。この名句は「説明はカスタマイズせよ」という意味である。


しかし、しかし、しかしである。ここから先の話は「しかし」を三回繰り返すにふさわしい。

順序からすると、まず「人を見る」。それから「法を説く」である。この順番が変わるとまずい。好き放題に法を説いた後で相手を見ても手遅れになってしまう。

くどいが、整理すると、(1) 目の前にいる人の能力や性質をよく見定めよ、そして、(2) その人がよく理解できる方法で真理を説明せよ、となる。この順番はゲームソフトと同じで、ステージ(1)をクリアしないことにはステージ(2)には進めない。

さあ、冷静に考えてみようではないか。ビジネスにしてもスポーツの世界にしても、人の能力や性質は簡単にわかるものなのだろうか。何年かけようと、人事部長や監督の眼力がお粗末ならどうにもならない。犯罪心理学者が「彼は社会から孤立していたんでしょうね」とパーフェクトに普通のコメントをする時代、心理学にも全幅の信頼を寄せることはできない。

(1)の壁、実に高い。どこからよじ登ればいいのかわからず、すぐさますべり落ちそう。さらに、奇跡的に(1)の壁を超えることに成功しても、現実的には説く側も凡人であることが多いゆえ、説明できるほどの真理を極めていることはめったにないだろう。つまり、(2)の壁も聳え立つほど高い。


何だか底無しのジレンマに陥って悲観的になってしまいそうだ。そう、全身全霊を傾けるくらいの本気がないと、「人を見て法を説く」ことなどできないのである。凡人にとっては「人を見ず、法も説かない」のが無難なのか……。

いや、そうではないだろう。この名句は、ちょっと高い地位に就いているという理由だけで人を見れるようになったと錯覚し、挙句の果ては真理とはほど遠い法を好き勝手に垂れまくる人たちに向けられた、永遠に成し遂げられぬテーゼに違いない。自戒を込めて、「分相応に人を見て法を説けるようになりたい」と締めくくろう。驕らず謙虚に、驕らず謙虚に、驕らず謙虚に。これも三回繰り返すにふさわしい。