語句の断章(66)蘊蓄

蘊蓄うんちくとは「十分に研究を積んで蓄えてきた、学問や技芸上の深い知識」のこと。蘊は「積む」という意味であり、畜は貯蓄に使われる通り「たくわえる」である。

「あの人は熱心に蘊蓄を語る」と言えば褒めことば。ところが、蘊蓄を「ウンチク」とカタカナにすると小馬鹿にした感じに変わる。一般的には「蘊蓄を傾ける」という連語を使うが、これを「ウンチクを垂れる」と言い換えると、これまた皮肉っぽく響く。「ぐだぐだとウンチクするよりも他に時間を割くべきことは山ほどあるぞ」という意味が言外に潜む。

蘊蓄よりも重要なことは世におびただしい。蘊蓄を有り難く拝聴するというケースは稀で、いつ終わるかもわからない専門の知識を滔々とうとうと語られるのは嫌がられる。知識や学問を蘊蓄してきたことと、それを披瀝することは同等の価値とは認めてもらえない。

しかし、蘊蓄を傾けることによって、語る側も聴く側も知識の深みと広がりに気づくこともある。ある特定の知識の知識全体におけるディレクトリー(場所や階層)が見えてきたりする。蘊蓄に付き合わされる側はつらいが、誰かを捕まえて蘊蓄を傾けるのは悪くない。知っていることを誰かに語るというのは究極の知的トレーニングなのである。

高齢者が同じ話を延々とし始めたら、「あ、脳のトレーニングをしているんだな」と鷹揚に構えて聞いてあげるのがいい。

待つ覚悟をして列に並ぶ

自称「待たない男」のぼくが、ランチ処で順番を待った。年に1回なら待つこともあるが、先週だけで2度も待った。スリランカカレーの店内での15分待ちは大したことはなかったが、海鮮料理の列には店外で40分並んだ。食事処の待ち時間の新記録になった。


「半時間待つ」と「半時間待たされる」は同義語。しかし、「待つ」には覚悟がある。待つに値する見返りが期待できるからこその覚悟だ。

「待つ」と言えば、サミュエル・ベケットの不条理戯曲『ゴドーを待ちながら』を思い出す。2人のホームレスが存在不詳のゴドーをずっと待つ。ゴドーは第1幕で現れず、焦れた観客は第2幕に期待するが、ゴドーは劇中でついに現れない。

「待つ」と言えば、あみんが歌った『待つわ』も思い出す。あの曲の「私」も、願いが叶えられるかどうかもわからないのに、かなり辛抱強く待つ。

♪ 私 待つわ いつまでも待つわ
たとえあなたが ふり向いて くれなくても
待つわ(待つわ) いつまでも待つわ (……)

いつまで待つのか? 「他の誰かに あなたがふられる日まで」だから、未来永劫、他力本願で待つのである。



さて、先週の海鮮料理の話に戻る。午前11時の開店時間に行けば、すでに50人ほど並んでいる。誘導されたのは列の最後尾。席数が450もある店なのに1巡目で入れなかった。ところが、ぼくの後ろに新たにできた50人ほどの列を見てほっとした。入店までの40分を長く感じなかった。待つには待ったが、着席して注文してから2分後に食事にありつけたのである。

世界名言格言辞典で「待つ」の項を引いたら、フランスの人文主義者フランソワ・ラブレーの「待つことのできる者にはすべてがうまくいく」が出てきた。待ち続けてチャンスに恵まれなかった例を多数知っているので、これはにわかに信じがたい。

しかし、次のフランスの格言、「落ち着いて待つ者は待ちあぐむことがない」が、まさに海鮮料理店での順番待ちに当てはまった。あの時のぼくは待ち人としては珍しく落ち着いていた。目当ての料理はカツオとハランボのたたきだった。藁焼きの香しい匂いが精神を浄化したように思われる。

夢に現れた駅

夢は唐突に始まり、話が飛躍して場面もころころ変わるもの。本来終わってはいけないところで突然終わって目が覚める。論理がでたらめでイメージもあいまい。と思いきや、妙に筋が通っているところがあり、ある場面のディテールが異様なまでに精細に描かれたりする。



その夢はぼくが駅舎に近づく場面から始まった。この場面に既視感デジャブを覚えたが、初めてかもしれない。寄棟よせむね屋根の複数の建物から成る、ちょっと古びた木造の駅舎だ。ホームは4番線ほどありそうに見えた。周辺の風景ははっきり見えなかったが、夕暮れ時の昔ながらの街の郊外のような雰囲気に思えた。

ところで、夢から覚めてすぐにフィリップ・K・ディックの『地図にない町』を思い出した。あの短編の冒頭では、定期券を求める乗客の小男が行き先を「メイコン・ハイツ」と告げる。しかし、窓口の駅員はそんな名前の駅も町も知らないと言う。しかも地図にも載っていない……。

夢に現れた駅の名はわからない。しかし、ここにやってきたのは家に帰るためだ。昨日ぼくは(おそらく)仕事か何かの用事でこの街を訪れ1泊した。そして夕方の今、この駅で復路の切符を買い求めようとしている。どこへ帰るかは当然わかっている。急行で2時間半の所がわが家の最寄駅だ。

窓口で行き先の駅名を告げて次の急行に乗りたいと言った。駅員は怪訝な顔をして首を傾げ、別の駅員の所に歩み寄り、小声で何かを確認している。戻って来た駅員は「本日の急行は終わりました。次の急行は明朝の午前330分になります。それでよろしいですか?」と言う。

「ちょっと待ってください。昨日の往路の時刻表では急行は1時間に1本か2本はありましたよ。復路だって同じことでしょう。満席ということですか?」とぼく。「満席も空席も関係なく、とにかく急行は明日の午前330分までありません」と駅員。

何かがおかしい。しかし、冷静に考えることにした。乗り継ぎや遠回りでもいい、目的の駅にさえ着けばいい……そして言った、「同じ行き先の別路線の急行なら他にあるでしょう。ちょっと調べてください」。駅員は不機嫌な表情をあらわにして、窓口を去り、ドアの向こうに消えた。10分、20分、30分……待てども駅員は戻ってこない。さらに時間が過ぎていく……。

ここで夢から醒めた。動悸が少し早くなっている。時刻は午前6時。夢の中で午前330分の急行に乗っていたら、ちょうど駅に到着した時間だ。夢の中で列車に乗り損ねた時の動揺は、現実の体験以上に大きく激しい。

当世ランチ外食事情

知人とのランチ談議をきっかけにランチ外食について書いてみた。

高級レストランではなく、仕事場近くでの日常の昼食なのに1,000円超えが当たり前になって久しい。メニューの数字を見れば最安が1,200円、上になるとその倍の値付けをする店も少なくない。

当世の物価事情を知っているので、値上げはやむをえないと思うし食事処の苦心に同情もする。しかし、この界隈で30数年間にわたり500円から1,000円未満で昼食してきた。その値段が刷り込まれているから、当世のランチの価格になじめない。たとえば、ミックスフライ定食を数年前に800円で食べていたのに、今では同じメニューが1,300円という変わりようだ。

社会の大勢たいせいが値上げに向かう中、あの手この手で工夫し薄利多売で頑張っている店がある。そういう店には常連がつくから、午前11時半には席が埋まる。会社もランチタイムをフレックスにして社員のサポートをしているように見える。


食事処1:初入店した時は、看板メニューの鶏の唐揚げ定食(950円)を注文した。大きめの唐揚げが6個。食後に仕事があるから、この量はきつい。後日知ったが、唐揚げを1個減らして5個にすれば900円、2個減らして4個にすれば850円にしてくれる。4個でも十分だ。同じ味付けの唐揚げでは飽きるので、竜田揚げ、南蛮などの日替わりも出す。唐揚げ好きなら週2で通える。席数約20、調理1人、ホール兼レジ1人、弁当担当1人。

食事処2:海鮮丼にミニ蕎麦とミニおでんと冷ややっこが付いている。これが680円。他にもロースカツ定食や幕の内など十数種類のランチメニューを提供していて、どれも600円~750円ゾーン。席数約60席、メニューが豊富。厨房はメインが1人、サブが1人。役割を決めていて手際の良さが伝わってくる。ホールとレジで2人。

食事処3:以前刺身定食を食べていたら、後から入って来た隣りのテーブルの客が鰻丼を注文した。運ばれてきた鰻丼が950円と知って驚いた。後日入店して鰻丼を注文した。ボリューム感のある大きさと厚み、肝串が1本付いている。中国産特有のくせをうまく消して調理してある。これは少なく見積もっても2,500円級ではないか。席数約50席、和洋メニューいろいろ。厨房不明、ホール3人。家族経営っぽい。

食事処4:カツとじ定食850円。大きめの汁椀の具だくさん味噌汁に小鉢が2つ。さらに、1145分までに入店すると50円引き。十分に満足できるのでライスのお代わりはしたことがないが、男性客の半数はお代わりをしている。「ライスの大盛りもお代わりも自由」とメニューに書いてある。懐が深い。米の高騰にどう対応しているのだろうか。

語句の断章(65) 付箋

英語の「ポストイットPost-it)」付箋ふせんと訳したのではない。また、付箋のことをポストイットという英語で言い換えたのでもない。付箋とポストイットは同じ機能を持つ同種の文具だが、付箋は一般語で、ポストイットは3Mスリーエムという会社の商標である。Post-itというロゴの右上にはのマークが印されている。


ポストイットが画期的だったのは貼っても簡単にはがせた点だ。脱着可能な糊が発明されてポストイットが1968年に発売された。もちろんそれ以前からわが国に付箋はあった。注釈や覚書を書いた紙を本に挟んでいた歴史がある。はさむだけでは紙片が落ちるから、糊で貼った。昔の古文書に付箋が貼られているのを展示会で見たことがある。

企画会議などではポストイットと呼ぶ人が少なからずいる。もちろん、付箋という、少々古めかしいことばを習慣的に使う人もいる(若い世代にもいる)。ところが、書くとなると、ポストイットが増える。理由は簡単。付箋の「箋」が書けないのだ。便箋の箋なのに、使う頻度が異常に少ない。便箋は使うくせに便箋という漢字はあまり書かない。生涯一度も書かない人もいるはず。箋の字が書けない人は「ふせん」または「フセン」と書く。

新明解国語辞典によると、付箋は「疑問の点や注意すべき点を書いて、はりつける小さな紙切れ」。そう、付箋にはすでに「紙」の意が含まれている。だから、付箋紙と言ったり書いたりするには及ばない。便箋のことをわざわざ便箋紙と言わないのと同じだ。

実は、付箋は人気のあるステーショナリーである。文具店を覗いてみると品揃えの豊富さに驚く。本を読み企画をし文章を書く仕事に従事していたので、一般の人の何十倍も付箋を消費してきたと思う。重宝して使っているうちに、差し迫った必要もなく在庫もあるのに買う癖がついた。

本家のポストイットに比べて百均の付箋は激安だ。そのせいで気軽に買うから、どんどん増える。増えたら使えばいいが、付箋というものは使っても使ってもいっこうに減らないのである。同じサイズ・色のものばかり使っていると飽きるから、在庫があるのにまた買う。文具好きの机の引き出しには付箋の束が詰まっているはずである。

抜き書き録〈テーマ:絵画〉

芸術の季節と言えば、通り相場は「芸術の秋」だが、たとえば「美術の春」があっても不思議ではない。春にどこかに出掛けて風景を眺めたり街中でたまたま展覧会の前を通り過ぎたりする時、美術の春を想う。春に目に入ってくる対象は明るい水彩画のモチーフになる。

ゴールデンウィークは近場に出掛けてよく歩いたが、どこの美術館も要予約。行き当たりばったりでは入館できない。と言うわけで、絵画に関する本で美術不足を補った。もっぱら鑑賞側の愛好家だが、久しぶりに絵筆をとってみようという気になっている。


🖌 読書画録どくしょがろく(安野光雅)

いわゆる画家が、自分を芸術家だと信ずるために、看板絵などを軽く見ることのすくなくなかったそんな時代に、場末の風俗や、安花火や、果物屋の店頭に、時代に先んじて美しさを発見し、
――つまりはの重さなんだな――
といわしめる一の檸檬を絵にしたのである。

画家である安野は梶井基次郎の小説『檸檬』を読んで、この作品を絵だと思ったと言う。小説の読後の感覚と絵画鑑賞の感覚に同等の感動を覚えたのだ。本書の表紙は安野自ら描いた京都三条と麩屋町ふやちょうの交差するところ。すぐ近くに丸善があった。当時、『檸檬』を読んでその余韻を求めてやって来た人が多かったはずと安野は思う。

🖌 『絵はだれでも描ける』(谷川晃一)

(……)上手な絵だけが絵画ではないし、上手ということがそのまま見る者を感動させるとはかぎらない。むしろ上手に描くことによって真の魂の創造的表現力が失われることもめずらしくないのである。
ここでいう「創造的」とは何か。(……)「創造美術教育」のリーダー的存在であった久保貞次郎は(……)創造的である作品の特徴を次のように分類している。
1、概念的でない。
2、確固として自信にあふれている。
3、生き生きとして躍動的。
4、新鮮、自由。
5、迫力があるか、または幸福な感情にあふれている。

上手でなくても絵の好きな児童が描く創造的な絵はおおむね上記の5つの特徴を満たしている。他人に認められるモチーフや技を過剰に意識し始めると条件からズレてくる。モチーフについては次の一冊が参考になる。

🖌 『千住博の美術の授業  絵を描く悦び』(千住博)

画家の場合、モチーフとの出合いは一生を左右します。だから私は、モチーフは自分で得たものではなくて、「与えられたもの」だと思うのです。従って、少し描いて飽きた、とか、一枚描いたらもう繰り返し描かない、などというのではなく、何枚でも何枚でも描くのです。

イタリアのボローニャに旅した折り、市庁舎内でジョルジョ・モランディの常設作品展をじっくりと見た。モランディは主に卓上静物というテーマに生涯取り組み、同じような作品を次から次へと生み出した。しかも晩年はボローニャから外には出ずアトリエに閉じこもって創作を続けた。どれも似たり寄ったりで、あまり好みの筆遣いではなかったが、記念に101セットの絵はがきを買った。買った当時よりも今のほうが気に入っている。モチーフに憑りつかれてこそ生まれる画風の個性なのだろうか。

ことばとモノの光景

🔃

行きつけの店の担々麺には半端ない量の肉味噌が入っている。麵を食べた後に、肉味噌の肉と鷹の爪とスープが鉢の底に残る。ミンチ肉を残すのはもったいない。だが、食べ切ろうとしてレンゲを使えばスープも鷹の爪も一緒にすくってしまう。
ある日、穴あきレンゲがテーブルに備えられていた。そうそう、これがいい……と思ったが、穴あきレンゲでもミンチ肉と鷹の爪は同居する。結局、レンゲに残った肉を口に運ぶには
箸で鷹の爪を取り除くことになる。スープがない分、穴なしレンゲよりも多少は食べやすいが、肉と鷹の爪を分別できるレンゲは開発されるだろうか。

🔃

「安っ!」と言うと、料理の値打ちが下がるので、「真心のこもりし御膳春盛り」などと五七五でつぶやくようにしている。
「夢を信じた若き頃 今を信じて生きる日々」などと
七五調でつぶやくと、深刻な話もリズムを得て軽やかになる。

🔃

「雲と空」と「空と雲」。どっちでも同じだろうと思ったが、書いてみたら違って見える。
雲と言うと、言外に空を感じる。だから「雲と空」と言わなくても「雲」とだけ言えばいい時がある。
他方、空と言うだけでは、雲のことは思い浮かばない。だから雲のことも言いたいのなら「空と雲」と言わねばならない。

🔃

大きな虹が出た。みんなが見上げた。鈍感な人も視野の狭い人もみんな見上げたはず。大きな虹は人々を分け隔てなく包容する。
虹が出ていなくても、時々空を見上げてみるものだ。空を見上げるのを忘れたら、目を閉じて空を想う。それを「空想」と言う。

🔃

風景や花を見る。見て何かを語る。対象と距離をおいて感じようとするから語れるのか、それとも、対象に分け入って交わろうとするから語れるのか。
ものの見方や語りは、やれ前者だ、いや後者だと、主張は二分されるが、白黒がつく話ではない。どちらもあるかもしれないし、どちらでもないかもしれない。

🔃

春の陽射しとそぞろ歩き

日光を浴び過ぎると皮膚に良くないという人がいる一方で、日光をほどよく浴びるとセロトニンが分泌されるという専門家もいる。どういうメカニズムかを調べて歩くのは野暮なので、セロトニンは何となくいいものだと思うことにして散歩に出掛ける。

北西というおおよその方向を目指す。自宅から北上する途中で二人連れや小グループの外国人に次から次へと出合う。このあたりの外国人観光客は大雑把に言うと西洋人である。彼らは観光地以外のオフィス街にも頻繁にやって来る。職場近くのお好み焼き店では日本人がぼく一人ということも稀ではない。

土佐堀川と堂島川に挟まれた全長3キロメートルの中之島公園もほどよく賑わっていて、ゲームに興じたり弁当を食べたりしているのはいい光景だ。ゴールデンウイークに渋滞の中をわざわざ遠方まで行かなくても、近場にいくらでもいい場所がある。イライラして移動するよりも、芝生に寝転んでセロトニンとやらをいただくほうが心身にやさしい。

黄モッコウバラ

ラ園はまだバラ園らしくない。「♪五月のバラ」という歌を思い出す。そう、バラの出番はおおむね五月だ。今は美術館の裏手の川沿いに咲く黄モッコウバラの生長が著しい。

東洋陶磁美術館前

緑が鮮やかだ。緑のグラデーションは目にやさしく、目薬要らず。緑ばかりが続くよりも所々に建物や構造物が点在する光景が気に入っている。

淀屋橋から東方面を望む

中之島公園の最東端から歩き始めて、川に沿って歩きバラ園と公会堂を過ぎると大阪市役所横に至る。いつも淀屋橋の欄干から今歩いてきた方角を振り返る。

「御堂筋パークレット」(別名、淀屋橋いちょうテラス)

淀屋橋から御堂筋を南下する。歩道と車道の間のスペースを生かして、23年前からウッドデッキやベンチやカウンターが設置されるようになった。カフェで休憩するのもいいが、この時期から来月中旬までならアイスコーヒーをテイクアウトしてパークレットでくつろげる。若かった頃の昔の御堂筋はそぞろ歩きする大人のイメージだったが、自分が大人になった今、車線も少なくなって、大通りだった御堂筋は垢抜けした通りになった。

「音」を紡ぐように二字熟語遊び

風は見えないが、樹々の葉が揺れ動く時に風を感じる。葉が揺れてれて木の梢から時々音が生まれる。見えないが、音は方々から聞こえてくる。音は物が振動して波になって奏でられる。また、音は文字としても紡がれる。音はおもしろい

音楽 おんがく 楽音 がくおん
(例)「何千人という学生を指導してきたが、音楽楽音の違いを的確に言えた者は一人もいない。音楽は芸術であり、楽音は楽器の音なのだ」」

少々苦し紛れの例文だと認める。解説は辞典の助けを借りることにしよう。
音楽とは「心の高揚・自然の風物などを音に託し、その強弱・長短・高低や音色の組み合わせによって聴者の感動を求める芸術」。聴き手が感動してこその音楽なのだ。他方、楽音とは「人間の耳に快感を与え一定の高さのものとして認識される、弦楽器・管楽器などの音」。これも快感を与えないといけないのだ。

大音 だいおん 音大 おんだい
(例)「もっと大音を響かせるようにして名乗りたまえ。君の声は音大卒とは思えないほど小さく弱々しいぞ」

辞典に大音という見出しはない(大音声や大音量ならある)。以前、何かの本で「大音を出す」という表現を見た。昔は「大音上げて名乗る」などの言い回しがあったという。
音大でボイストレーニングをすれば大音を響かせるようになれるだろうか。ところで、わが国には約80の音大があるそうだ。美大が30校だから、音楽という芸術の人気ぶりがわかる。

音波 おんぱ 波音 なみおと
(例)「ロマンを感じさせる文学的な波音は、実のところ、水中を伝わる音として知覚される、物理的な音波という波動にほかならない」

ものが振動すると音波が生じる。音波は空気中や水中を伝わる。水中を伝わる音波が波音だ。波は音を連れて、押し寄せては砕け、そして引いていく。上田敏の訳詩集の題になっている『海潮音』もまた波音。洒落た響きがある。

音声 おんせい 声音 せいおん
(例)「口と喉と胸を使って言語を形作るのが音声なら、声音はいったい何ですか?」「うーん、声音とは……こえ・・のことだよ」

音声は音がことばとして発せられて声になる。それなら声音も同じではないかと思い、辞書を調べてみたら「個々に、またその時々によって変わる声」と書いてあった。結論:音声も声音もこえ・・である。


〈二字熟語遊び〉は、漢字「AB」を「BA」と字順逆転しても、意味のある別の熟語ができる熟語遊び。例文によって二つの熟語の類似と差異を炙り出して寸評しようという試み。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になることもある。熟語なので固有名詞は除外する。

カタカナ語の記憶再生

カタカナ語に対する風当たりが強い時代があった。読みづらいし意味不明だとこき下ろされた。日本人なら日本語で書けとも言われたが、日本語に訳してもわからないものはわからない。それなら、原語の発音に近いカタカナで表記して別途意味を覚えるほうが手っ取り早い。カタカナが少々目障りなのは我慢するとして。

文化庁のサイトにカタカナ語の認知率/理解率を調査したデータが載っている。使用頻度上位10語は下記の通り。

■ストレス  ■リサイクル  ■ボランティア  ■レクリエーション  ■テーマ  ■サンプル  ■リフレッシュ  ■インターネット  ■ピーク  ■スタッフ

日本語として市民権を得たものばかり。ほとんどの成人は認知して意味を理解し、かつ自ら使えるはず。ところが、全120語中の頻度下位の10語になると一気に難度が上がる。

■モラルハザード  ■リテラシー  ■タスクフォース  ■バックオフィス  ■エンパワーメント  ■メセナ  ■ガバナンス  ■エンフォースメント  ■インキュベーション  ■コンソーシアム

英語ができて時事に少々精通していればある程度は認知できそうだが、日常生活では出番が限られた用語ばかり。しかし、ビジネスや高等教育の現場では時々出てくる。

記憶しづらいのは固有名詞だ。固有名詞はある種の記号なのでコトバとイメージを一致させる必要がある。興味のない人名、地名、店名などのカタカナ語は覚えづらい。他方、固有名詞の記憶が得意なオタクたちは、お気に入りの外国のスポーツ選手、俳優・歌手、街の名などは何十何百という単位で覚え、ものの見事に再生してしまう。


一度では覚えられそうにないワインや料理、植物、店名などを愛用の手帳にメモするようにしている。そのおかげでシッサスエレンダニカという観葉植物を覚えた。しかし、これは例外で、何度読み返しても忘れ、時間が経つとまったく再生できなくなるのがほとんど。

手帳のページを繰ったら、コスパのいい白ワインの名前が出てきた。

カンティーナ・ディ・モンテフォルテ/クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ 

調べれば「カンティーナ・ディ・モンテフォルテ」はイタリアのヴェローナに本部を置くワインの団体だとわかる。そこが手掛けた白ワインが「クリヴス・ソアーヴェ・クラシコ」。くっつけると長くて覚えにくくなる。名前を知らずともワインは飲めるから支障はない。なのに、なぜ名前を覚えるのか。人差し指で「これ」と言うだけではつまらないからだ。

別のページ。2年前に初入店したモンゴル料理の店の料理名が記してある。店の名前は覚えている。3文字なのに「グジェ(羊の胃袋)」は忘れていた。他に「チャンスンマハ(塩茹での羊肉)」と「ツォイビン(羊肉と麺の炒め物)」。カタカナを見たら思い出すが、自分では再生できない。

海外滞在中に自分が撮った街の写真を見れば街の名前が言える。店の名前も割と記憶できるほうだが、バルセロナで入った老舗バルの名前は何度確認しても忘れてしまう。最初“El Xampanyet”の綴りを見た時にXエックスつながりでXeroxゼロックスの綴りと音を連想して「エル・ザン・・パニェット」と読んだ。それが今も尾を引いている。正しくは「エル・シャン・・・パニェット」(スペイン語ではなく、カタルーニャ語の発音)。

カタカナ語は面倒だが、カタカナの名と写真を結び付けると覚えやすい。また、何度も見、何度も発音し、関連する表現をセットとして覚えると忘れにくい。以上、カタカナ語の月並みな覚え方のコツをまとめたが、これは語学全般に当てはまるコツと同じである。