「学び続けることが重要」と言う人がいるが、それは習慣の話に過ぎない。学びで重要なのは「日々ハードルを上げていく学び方」だ。学びは義務でも権利でもなく、覚悟である。

名称や形態は変遷したが、30代後半から本業とは別に私塾を主宰してきた。オフィスから西へ歩いて15分、緒方洪庵の適塾が保存されていて、よく訪ねたものだ。足を踏み入れると、学び心が横溢した当時の空気が偲ばれる。「輪講」という会読兼討論の方法について強く触発された。
適塾の輪講で最優秀だったのが福沢諭吉。『学問のすゝめ』や『福翁自伝』をよく読み、また『適塾の研究』(百瀬明治著)では、江戸末期に比べて現代人の学びが甘すぎることをあらためて思い知らされた。
何事もすでにある程度わかっていたら理解は容易である。Aについてすんなりとわかるのは、Aと照合できる知識を持ち合わせているからだ。わからない、難しいと感じるのは、自分の知識と照合できないからである。ここで学びをやめると何も身に付かない。一かけらでも齧っておくと、次なる未知と出合う時に、照合可能なヒントになってくれる。
幼児は知らないことばを一つずつゆっくりと習得していく。初耳の単語ばかりなのに必死で聴こうとしているうちにことばが増えていく。効率が悪そうに見えるが生まれて2年もすれば大人たちの会話が理解できるようになる。成人の学びも基本は一つずつ。やがて知のネットワークが形成されて、ある日閾値を突破する。
適塾では絶対的な勉強量が他塾と違っていた。難しいことをおもしろいと感じる塾風があった。蘭学塾だったから学びの狙いははっきりしていた。しかし、蘭学を蘭学だけで終わらせず、世事一般に生かそうとする学びの姿勢があった。
目先のハウツーを追い求めるようでは本物の学びにはならない。学びの向こうに立身や報酬を目指さず、小手先の技術に偏重せず、人間や社会に目を向ける。本物の学びは元々「無私的」なのである。