センスとは何か

「自分の身についた関心から選ぶのがいい(……)」と中村雄二郎が『読書のドラマトゥルギー』の中で語っている。読書がテーマなので、これは本の選び方についてのヒントである。しかし、読書指南だけにとどまらない。それが何であれ、あることについて語る時、自分の関心事――少しは分かっていると自覚している事柄――から話を始めるのが妥当である。と言う次第なので、「語学のセンス」からセンスの話を始めることにする。語学はぼくの関心事であり、他に齧ってきたものとは比較にならないほど時間を費やしてきたからである。

どの外国語でもいい。必要に応じて目先の表現を探すような学び方では、言語を「思考と連動した文章意味的に」習得するのは難しい。たとえば「これはいくらか?」とか「どこどこへはどう行けばいいのか?」などの観光・ショッピング的表現を組み合わせても、その後の想定外のやりとりに対応はできない。「こんな場面ではこの言い回し」というような、アルゴリズム表現はたどたどしく、かつ硬直的である。「語らねばならない」と「語りたい」が一つになり、ことばと考えが結び付いて身体的感覚が覚醒する。当為としてのメッセージと欲求としてのメッセージが重なってはじめて自己表現のセンスが身につくのである。

語学のセンスは習慣の賜物であり、それ以外の何物でもない。小さく身についた関心が好奇心へと連鎖する。先の中村雄二郎は続ける。

「自分の好みや関心をありのままに認めることは、私たち一人一人の一種の全人間的な欲求からそれを蔽っているタテマエやかまえをとり払うことにほかならないのである。」

語学という部分だけではない。全人間的な欲求なのだ。つまり、一般教養であり経験であり、身体的繰り返しなのである。では、母語である日本語でこのような欲求を逞しくして日々繰り返しているか。読み書き話し聴くというリテラシーを強く意識しているか。語学のセンスは、母語でも外国語でも根は同じである。よく書きよく読めば文がまとまる。よく話しよく聴けば語感が響く。


センスのいい服、ユーモアのセンスなどという場合のセンスも、語学のセンスのセンスと違いはない。欲求であり経験であり、繰り返した結果身につく、その分野の物事を微妙に感覚できる働きだ。ここで大切なことに気づく。センスは独りよがりな感覚ではなく、コモンセンスということばが示す通り、思慮や分別の拠り所となる共通感覚でもあるという点だ。いや、むしろ、この共通感覚上に立ち現れるのが個々のセンスと言うべきか。一部の辞書はセンスを能力と規定しているが、そうではなく、教養、経験、想像の作用であり、習慣の積み重ねなのである。

これまで生業としてきた企画という仕事は、才能でもなく専門知識でもなく、センスに大きくその質を左右される。好奇心、目新しさへの志向性(あるいはマンネリズムに安住しない姿勢)、かつて考えなかったことを考えること、異種の組み合わせ、愉快がること……これらが企画のセンスの養分である。ここまで話すと、企画志願者は尋ねてくる、「どうすれば養分を摂取できるのか?」と。驚くほど簡単である。企画とはことばを縦横無尽に駆使して考える仕事であるから、それに最も近い習慣を形成すれば済む。派手ではなく地味で、甘くはなく渋くて、だが苦しいばかりでなく愉しく、そして怠惰や下品と縁遠い習慣行動。それは読書である。

語学と企画という、ぼくがまずまず身につけてきた関心事を中心にセンスについて書いてきて、読書という処方箋に辿り着いた。我が田に水を引くような展開となった。あらためて整理しておく。物事を微妙に感じる働きがセンスであるなら、どんな物事であれ、やがて自分を取り巻く世界にまで広がる。自分と世界との関係を見つけ、関係の意味を感じ取ることへと到る。一冊の本を読むという体験がそのシミュレーションになってくれるのである。

図書獨娯

元旦に参拝した神社の裏門の手前に献梅碑がある。王仁わに博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったエピソードにちなむ。

難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

王仁博士はわが国に『論語』と『千字文』を伝えた人物として知られる。『論語』は知の原典として、『千字文』は書のお手本として、古来知識人の教養に大いにあずかった。彼らがどのように読書に親しんだのか想像しづらいが、津野海太郎の近著によれば、読書は個人的な行為であり、それゆえに「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていはじぶんの部屋で……」ということになる。この仮説に基づいて、日本人と本の読み方の歴史が探られる(『読書と日本人』)。

〈書評輪講カフェ〉という読書会を主宰して久しいが、本の読み方については自分自身がまだ試行錯誤を重ねている。故事成句の「読書三到」は、声に出して読む「口到」、よく目を開いて見る「眼到」、心を集中して理解する「心到」の三つを指す。今風に言えば、音読、黙読、熟読ということになるだろうか。では、なぜ本を読むのか。「読書万巻を破る」は大量に本を読破せよと教えるが、十を知って一を語ることを奨励している。人は一しか知らないのに十を語ろうと見栄を張るものだ。それを戒めている。一冊だけ読んで十冊読んだような振りをするぼくなどはまだまだ二流の読書人である。


それでも、自分で読みたい本を選び、万巻からは程遠いが、独りでこつこつと読む。最近はこの傾向がますます強くなった。身近な人と交わって骨のある話を語るという機会がずいぶん減ったのが理由の一つ。たまに会っても同じ話題ではつまらないし、この歳になってもまだ現役で仕事をしているから、どうでもいいような話に時間を割くのが惜しい。だから本を読む。遠い時代の賢人の思想やことばに触れていれば、落胆させられることはあまりない。これがいわゆる「読書尚友」の意義である。

あまりなじみのない「図書獨娯」を書き初めの文字に選んだ。「としょひとりたのしむ」と読み下す。この熟語が生まれた頃の図書とは書画のことである。詩文やそれをしたためた書、墨絵などは独りで鑑賞して楽しむのがいいという意味だ。広く解釈して読書を含めてもいいだろう。本を読んだり美術を鑑賞したりするのは、個人的な体験であり、集団でおこなうよりも娯楽価値が高いと思われる。作品には独りで向き合うのがいい。

初硯は愚直に一回勝負を貫く。書き損じがあっても書き直しはしないことにしている。ああ、線が細かったか、バランスに少々難があるかなど、毎年筆を置いてから顧みる。ともあれ、独りとはもとより孤独のことではない。邪魔が入らないというのは至福の歓びなのである。

過剰だが豊饒ではない

話をしたりものを書いたりする時、ちょうどよい程度というのが難しい。後で振り返れば過剰になっている。不足を戒めるゆえの過剰である。もちろん「過ぎたるはなお及ばざるが如し」の教えも重々心得ている。しかし、長年にわたる習い性ゆえ過剰側に傾く。そんな人間だが、今時の情報の過剰ぶりは見るに堪えない。見るに見かねて嘆いては多弁を弄することになり、過剰の連鎖が続く。

何かにつけて注意書きやくどい説明が必要になった。説明箇所を読んでもらわねばならぬ、誤解があってはいけないなどの理由から、注意書きへと誘導する注意書きが補足されたりする。目を通させるための工夫を凝らせば、文章はどんどん増える。商品まわりの説明はこうして膨らみ続ける。文芸にもある。ちょっと良識を働かせれば、そのエッセイがパロディないしは冗談だとわかるのだが、「ふざけるのもいい加減にしろ!」とクレームをつける者が出てくる。触らぬクレーマーに祟りなしであるから、「この本の内容はフィクションでありパロディ仕立てになっておりますのでご了承ください」と断り書きを入れる。過剰な情報が作品を台無しにする。

「心から出たことばは心に響く」と誰かが書き、それだけを書いて後を続けない。こんなふうに一文だけをぽつんと置かれると、「なるほど」と頷けないし易々と諭されない。「心から出る」などということがまずわからない。短い文章だが呪文なのである。情報不足ゆえに悟ったかのように見えるこんな文章を見ると、黙ってやり過ごせない。戦闘意欲が湧いてつい饒舌気味に検証してみたくなる。他方、「千年ロマンへと想いをはせ、海の幸、山の幸、自然豊かな宇佐のチカラの恵みを未来へと紡ぎ広める条例」の過剰には疲労感を覚えて口を閉じる。大分県宇佐市の日本一長い条例名である。結局、「千年ロマン宇佐条例」などと略されることになるのだろう。


プリントアウトした資料を年末に処分し、必要なものは整理して残す。特に物持ちがいい人間ではないが、処分したワープロの遺影のような印刷資料は念のために残してある。残された資料に新たな書類が加わるから、毎年同程度の作業をすることになる。過剰なまでに情報と接し、過剰なまでに文章を綴った過去をそこに見る。しかし、どれほどの役に立ったのか。そのつど役に立ったと思っていても、記憶は薄れあるいは消滅し、ただ判読不能な足跡だけが残る。

研修があるたびにテキストを用意する。知恵を絞って書き何度も編集するからテキストの内容はほぼ記憶再生できる。テキストと同じフォルダーには受講生のアンケートも綴じてある。彼らのうち、いったいどれだけの人たちが研修の断片だけでも覚えているだろうか。「大変満足」に✔を印し、詳しく感想を書いたその人が書いた感想を覚えているとは思えない。情報化社会では、情報が溢れるのみならず、過剰に垂れ流しされている。昨日、溜まっていた新聞のクリッピングに23時間費やしたが、知の豊饒とは程遠い、惰性的習慣に思えてきた。

この拙文は〈世相批評〉というカテゴリーに属するが、実は「自己批評」である。今年も例年同様に、自らが情報発信源となって数百枚以上の雑文を書き、ほぼ同数のテキストを編集し、ほぼ同数のパワーポイントスライドを作成した。書いたばかりではなく、過剰に話した。情報の受信はどうか。こんな比ではないから驚く。どちらかと言うと、おぞましい驚きである。

跡形も残らない情報に晒され、コントロール不能な冊数の本も手に入れた一年。どれほどの知の新陳代謝があったのか。買い求めたままの未読の本、読みかけたまま放置した本が背後霊のようにプレッシャーをかけてくる。漠然と何とかしなければならないと焦るだけではなく、具体的な工夫を凝らさねばならないと思う。近影写真を填め込んで決意の証とし、誓いを立てることにした。

断り書き

オフィスの隣りは市立高校。その道路向かいに運動場がある。運動場は壁で囲まれていて、壁に沿って花壇が設けられている。その花壇に最近樹木の苗木がかなりの本数植えられた。苗木は愛らしくていいのだが、残念なことに標識も一緒に埋め込まれている。「ポイ捨て禁止」「駐輪禁止」……。標識ばかりが目立って花壇の見栄えが悪い。自動販売機と並んで、言わずもがなの標識は景観価値を低める要因である。

以前、『陳腐なことば』と題して、ありきたりのスローガンや公共の場での注意書きを批判したことがある。今時のスローガンには無難な「ふれあい」が目白押し。「ふれあい天然温泉」に「ふれあい広場」。「ふれあいトイレ」なるものも出現するに及び、いったい何を奨励しているのかさっぱり理解できなくなった。美しく整備された芝生なのに、まるでその美観を台無しにするような「芝生に入るな!」の立て札もよく見かける。

商品パッケージや説明書には、使用方法や効能書きよりも、注意書きや禁止事項のほうにより多くのスペースが割かれている。エネルギーや関心が注意書きに向いているのだ。売り物への自負や情熱が足りないわけではないだろうが、傍目にはコンプライアンス意識過剰の裏事情が見え隠れする。十年程前の食品偽装事件以来、また、クレイマーの存在がとやかく言われ出した頃から、あらかじめ注意を促したり断りを入れたりする傾向が強くなったような気がする。


「容器の底に一部成分が沈殿する場合がありますが、味や品質にはまったく問題がありません」などという説明に苦し紛れを感じる。しかし、添加物や不純物でないのなら、つまり成分自体が天然素材で、それゆえに沈殿という現象が生じるのなら、いちいち但し書きをしなくてもいいではないか。この方面の表示ルールに疎いのでそんなものいらないと胸を張って言えないが、一消費者としてはわざわざ弁解してもらわなくてもいい。

これはSchweppes(シュウェップス)のずいぶん前の広告である。写っている人物は同社のCEO。十数年にわたって広告で起用された。見出しは三行で次のように書いてある。

“You can see the lemon in Schweppes Bitter Lemon. That’s because Schweppes uses whole, fresh lemons. Juice, pulp, peel, everything.”
(シュウェップスのビターレモンにはレモンが見えます。丸ごと新鮮なレモンを使っているから。果汁、果肉、皮、すべて。)

この広告を見て感心した。果汁も果肉も皮も一部は液体から分離して沈殿物になる。瓶を逆さまにしてその沈殿物がさまようのを見つめている。沈殿物があるという断り書きの代わりに、丸ごとの新鮮レモンを訴求している。本文文末に小さな文字で断り書きを入れるのは野暮だ。堂々と見出しにしてしまうことに共感する。

人のおこない、人が作るものには元々ファジーな要素がある。それを杓子定規に法で縛ることに無理がある。悪意も偽装もなく、善良な精神で品質を作り込んで形にしていることを断り書きにすることはない。コンプライアンスに怯えて断り書きを掲げ、断り書きさえしておけばそれで済むと考えることが信頼性の証明ではないだろう。

タクシードライバー

昨日、あまりなじみのない場所に所用で行くことになった。スマートフォンでチェックすると駅から1.2キロメートル。タクシーを拾おうかと思ったが、行き先を間違う恐れはないし急ぐ必要もなかったから、歩くことにした。約15分。途中「タキシーメーター」と書かれた、年季の入った看板が目に入る。タキシードみたいに見えて可笑しかったが、誤字ではない。かつてタキシーメーターという表記が標準とされた時代があったのだ。

ぼくは車を所有したことがない。それどころか、運転免許証がない。だから、車を運転しない。徒歩か自転車か公共交通機関で移動する。これらの手段で賄えない場合はタクシーを利用する。タクシーにはよく乗るほうだと思う。タクシーに乗れば、タクシードライバーと狭い空間でしばらく時間を過ごすことになる。ドライバーは初対面の客に背中を向けている。よく考えてみると、異様な構図だ。いくら経験を積んだ人でも緊張感を免れないだろう。

対人関係の仕事は大変である。その最たる職業がタクシードライバーではないか。マニュアルではいかんともしがたい融通性が求められる。あの狭い空間で、水先案内、会話、金銭授受、安全配慮など一人何役もこなさねばならない。乗車から降車までのサービスに合格点を出せるケースがほとんどだが、それで当り前だと思っているからめったに感謝感激することはない。むしろ、気分を害した経験ばかりが悪い印象となって残る。善良なるタクシードライバーには気の毒な話だが……。


タクシードライバーと言えば、ロバート・デ・ニーロ主演の同名の映画を連想する。腐敗した街を、すさんだ心の人を浄化しようと行動する男の話。デ・ニーロ扮するドライバーは無口だった。喋り過ぎも困るが、無口はもっと困る。初対面の二人だけの狭小空間の数秒は恐ろしく長い。お喋りか無口かというのは変えづらい性格であるが、そのつどの相手によっても変わる。話題によっては無口がよく喋り、お喋りが黙ることになる。先日、関西有数の観光地でタクシーに乗った。「どうです、観光客は増えていますか?」と尋ねたら、「さぁ~」とドライバー(福原愛か!?) 客に仕事のことを聞かれて「さぁ~」はない。よろしい、そう応じるのなら、目的地に着くまで話し掛けないぞと決め、ずっと黙り通した。ドライバーのほうが沈黙空間の苦痛を味わったはずである。

十数年前の話。大阪の中心街Aでタクシーに乗った。ドライバーは40歳前後。当時住んでいた郊外のCを告げた。声が消え入りそうな生返事。走り始めて間もなく、「Cかぁ……Cねぇ……」とドライバーが独り言でつぶやく。しばらくして、また同じようにつぶやく。そうか、C方面への客を歓迎していないのだと察知する。こんなドライバーとあと半時間以上走るのはまっぴらだ。「Cに行っても帰りの客はないだろうし、行きたくないのなら、ちょっと先のBで降ろしてもらってもいい」と言った。瞬時に喜色満面になり、「そうなんですよ、Cは帰りがねぇ……」とドライバー。人生初のタクシー乗り継ぎとなった。

「ありがとう」も「すみません」もないので、リベンジだけして降りることにした。千円札を二枚渡し、釣銭を受け取る時にわざと取り損ねるという企み。数枚の硬貨が手のひらから落ちた。間髪を入れず、「おい、気を付けろ!」と威喝気味に叱責した。おとなしい客だと見てなめていたのだろうが、かなり怯えた様子がうかがえた。ドライバー、恐る恐る「すみませんでした」と言った。

降車したBのタクシー乗場へ移動して並ぶ。次は初老のドライバーだった。今しがたの一部始終を話したら呆れ果てていた。お客にも同業者にも迷惑をかける存在だと嘆いていた。ところで、その夜、めったにないことが起こった。タクシーに向かって手を挙げる人の姿が目に入ったのだ。「運転手さん、ほら、お客さんですよ」と言い、自宅マンションの手前だったが、そこで降ろしてもらった。客捨てるドライバーあり、客拾うドライバーあり。

観察とトリミング

しばし立ち止まって物事に目を凝らすこと、街角に目を向けること、人や車の動きに注視すること。考えることに先立つのが観察である。観察して初めて着眼点が見つかり、そして考えるようになる。よく観察しなければ考えることは浅く狭い。

目の前の「現実」を認識する。どこを切り取って現実と呼ぶのかは人それぞれである。現実を観察すると言うものの、あるがままの現実と観察による表象との間には誤差があり、自分と他人との表象にも相違がある。観察は客観性と結び付くように思われがちだが、実はそうではない。観察の時点ですでに主観や個性が観察対象に介入している。観察して何かを観測したとしよう。そこで得られるデータはすでに観測者の存在によって一定ではなくなっている。十人の観測者は十色の見方をする。

写真画面の一部を省いて構図を整えることや縁取りすることをトリミングという。トリミングにかくあらねばならないというルールも法則もないから、主観が反映される。同時に、観察がアレンジされることになる。写真のトリミングという行為は切り取りによってある対象を拾っているが、他方、切り取った以外の背景の図を捨てている。あるものを拾って別のものを捨てるという点で、対象に対して主観的な抽象と捨象がおこなわれているのである。


パリのオペラ座の衣装展示室から窓外をじっと眺めたことがある。窓枠に填め込まれたような光景を雑念もなく虚心坦懐に眺めたつもりだが、この時すでに現前しているオペラ座前の通りと建物の構図は、別の窓から覗くのとは異なっている。「オペラ座前の通り」と呼べば、それはぼくの見える主観的な光景にほかならない。

次いで、ポケットからデジタルカメラを取り出して撮影する。この時点で撮影者であるぼくは「ある全体」からお気に入りの対象を切り取っている。カメラによる撮影は観察である。そして、観察自体がトリミングという行為になっている。

撮影した写真をさらにトリミングする。実際は縦に長い構図であったが、下段に写り込んでいる、ぼくにとって余分な対象を捨てた。撮影前に窓を選び、撮影後に切り取った。つまり、二度トリミングしたのである。いや、もっと言えば、別の建物から眺めて「オペラ座前の通り」と呼ぶ選択肢もあった。そう、オペラ座に入館したことがすでにトリミングだった。さらに遡れば、パリへの旅を決めて別の街への旅を諦めたこともトリミングではなかったか。

きれいな花の写真がある。現実はそのすぐそばにゴミ箱があったかもしれない。何かが拾われ何かが捨てられる。トリミングは写真撮影の専売特許ではない。今こうして文章を書く作業もトリミングの連続である。「書きたいことのすべて」があるとして、全体のうち限られた表現によって限られた一部を綴り、一部の文章を編集する。ぼくの思いを「現実」だとすれば、ここに並ぶ文章群は「現実を変形させた観察結果」と言うほかない。観察には個人的な事情が含まれる。それは抽象と捨象がせめぎ合うトリミング行為なのである。

ピクトグラム考

コンピュータ画面上で表示されるアイコンはファイルやアプリを図案化したものだ。ファイルやアプリの機能を一目で分かるように工夫しているのだが、意味が伝わる保障はない。アイコンの名称をことばで補足するか、図案が何を意味するのかをあらかじめ利用者に知ってもらわねばならない。マークという記号も概念のイメージであるシンボルも、取り決めた意味を知らなければ、表現される対象を推測するのはむずかしい。xという記号がyを示すというのは約束事であって、そのつどの推測によるものではない。

アイコン、マーク、シンボルのそれぞれのニュアンスは異なるが、ひっくるめて〈ピクトグラム〉と呼ぶことにする。ピクトグラムは絵や図などの視覚記号である。伝えたい対象を文字で表現しようとすれば言語の数だけ表示が必要になるが、視覚記号ならユニバーサル仕様にできるというのが意図だ。しかし、意図はあくまでも意図であって、現実的には万人に伝わるピクトグラムなどはありえない。記号表現とそれが意味する対象の関係は文化と無縁ではない。言語もピクトグラムもローカル色の強いものなのである。

ピクトグラムは一部の特徴を象徴することによって対象を表わそうとする。対象のすべての特徴を表現することはできない。たとえばバターを塗ったトーストのピクトグラムを想像できるだろうか。イチゴジャムならトーストを赤く塗ればいいのか。カラーなら赤い色紙に見える。カラー印刷しないで白黒にすればただのダークグレーの色紙になる。カラーついでに言うと、虹は文化によって認識される色数が異なる。誰もが七色に見えているわけではないのだ。月の表面の模様しかり。わが文化では餅をつくウサギに見える模様が、別の文化では大きなはさみのカニに見え、本を読むおばあさんに見える。どんなに工夫を凝らしても、ピクトグラムが世界の共通記号になることは不可能に思える。


温泉は日本文化固有ではないが、古代から日本人は他の文化とは異なる独特の関わり方をしてきた。その温泉の所在を示すマークにもすっかりなじんでいる。三本のS字状の記号は湯ぶねから立ち上がる湯気を表わす。ところが、それでは都合が悪いということになった。「外国人には温かい料理を出す施設と解釈される恐れがある」というのが経済産業省の弁。想像力を欠いた安易な判断である。「外国人」という一般化が粗っぽい。それに、「温かい料理を出す施設」と言うが、解釈はそれだけではないだろう。

経産省は国際規格案を検討し、併記で表示する方向で検討している。国際規格案というのがこれである。このピクトグラムに変えれば、経産省が想定する「外国人」たちが「温泉のある施設」と解釈してくれるのか。一部はイエス、しかし、残念ながら、別の解釈も生まれる。外国人それぞれの文化的背景が異なるからである。温泉だと分かったうえで混浴と思うかもしれない。温水プールだと思って水着で入るかもしれない。人食い人種が日本観光するのは考えにくいが、彼らなら温かい人肉料理を出す施設と解釈する可能性がある。

日本独自の温泉マークと国際規格の併記は、ますます混乱を招くことを経産省は分かっていない。思惑通り、国際規格案を見て「外国人」が温泉施設であると認識できたとしよう。それでもなお、日本独自の温泉マークのほうは依然として温かい料理を出す店という解釈のままではないか。つまり、併記表示すると、当該施設は必ず温かい料理を出さねばならなくなるのだ。温泉施設のある冷やし中華専門店には適用できない。

もし“Spa”“Hot spring”が万国共通なら、ピクトグラムに頼るまでもなく、英語表記すれば済む。しかし現実は英語表現が誰にでも通じないので、形態ないしは動作を視覚記号化しようとする。一言のことばで意味や対象を伝えることに誰もが日々苦労している。一絵による以心伝心も至難の業であることくらい察しがつく。世界は多種多様の文化で成り立っている。そして、言語も記号も「ゆらぎ」や「ずれ」を特徴としている。ユニバーサルな統一記号には所詮無理がある。一切学習せずにピクトグラムと対象を一致させるのは不可能なのだ。この国では♨が温泉を表わすピクトグラムであることを理解してもらえるように啓発努力をするしかない。

恣意的な分節

気象庁によれば、今年は秋が短かったそうだ。職員全員が肌身で感じたはずもなく、あくまでも数字上の判断に違いない。10月上旬までは夏を引きずるような余熱があり、10月下旬に冬を予感させる兆しが観測された。風土の四季を誇らしく思うのが日本人。しかし、不幸にして、今年は秋を存分に堪能できなかったことになる。夏から冬へと気候は急変した。何とも慌ただしい話である。

急変はデジタル的である。デジタルは「01」、変化前と変化後の中間がない。あやもない。瞬時に切れ目が入る。急変、一変、豹変、激変など、いずれの表現にもゆるやかな時間の経過は実感できない。ある季節がゆるやかにフェードアウトし、別の季節がゆるやかにフェードインしてこその四季である。消えるほうと現れるほうとの境界に「ゆらぎ」が生まれ重なり合う。途切れのない時の流れを認識するために、春、夏、秋、冬というラベルを付けた。しかし、あまりにもゆるやかなので、この風土ではさらにラベルを細分化した。二十四節気という分節である。アナログ的変化の便宜上の微分と言っていい。

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分節せずに「木」と呼ぶだけでもよかった。しかし、木は木という一つの概念だけに留まらず、根、幹、枝、小枝、葉と部分に分けられた。厳密に言えば、もっと細かいラベルが付いている。人は自分を取り巻く世界の諸々に便宜上の境界を想定する。ラベルはことばだ。モノを分けたのではなく、ことばで分節して理解しているのである。

その時々の思いつきで自然や時間や概念を細かく分けた。分節は風土や文化圏の中で恣意的におこなわれた。最初に普遍的な法則ありきならば、分節のしかたやことばのラベルは風土や文化をまたいで共通のはずである。しかし、言語が違い、それぞれの言語で指し示す対象の間にズレが生まれた。


「雪」という大きな概念だけで十分に伝え合うことができる砂漠の風土文化がある一方で、初雪、白雪、細雪、残雪、粉雪、ぼたん雪などと何十もの小さなラベルを付けないと気が済まないわが風土文化がある。イヌイットの雪のラベルはさらに細かく分節されているという。

先日、回転ずしに行った。外国人で賑わっていた。目の前を流れる皿と皿の間に立て札があり、そこに“Yellow Tail”の文字を見つけた。イエローテイル(黄色い尻尾)に併記されている日本語は「ハマチ」。英語が分かるとして、はたしてどれだけの人が現物のハマチを連想できるだろうか。ハマチは出世魚の家系である。ツバス→ハマチ→メジロ→ブリと出世する(関東ではワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ)。釣りマニアだった父などは見事に判別していた。いや、経験によって魚の大きさと魚名を照合することができたと言うべきか。

ちなみに、出世魚などという概念はわが国に固有である。そんな概念がない文化圏の人々に伝えようとすれば、“fish that are called by different names as they grow old”と苦し紛れの英語で説明をすることになる。直訳すると、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる魚」。一部の外国人は、「ハマチ」ではなく、「成長にともなって異なった名称で呼ばれる黄色い尻尾の魚」を食べさせられることになる。分節は風土文化圏ごとに編み出される大きな概念の小分け作業であり、ことばによるラベル化にほかならない。そして恣意的であるがゆえに、なぜそうなったのかを分析することはほとんど不可能なのである。

よい問いがよい答えを導く

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『反対尋問』(ウェルマン著)という名著がある。原書は1903年の発行。わが国で翻訳された初版は1979年に出ている。一度ディベートから遠ざかっていた頃に偶然手にした。1990年代に入ってディベート指導の依頼が一気に増え、何度か読み返した。ぼくが主宰するディベート交流協会のメンバーがこの本に興味を持ったが、すでに絶版になっていたらしい。貴重な一冊だったわけで、ひっきりなしに貸してほしいということになった。そのせいでかなり表紙は傷んでいる。

法廷で実際におこなわれた反対尋問例と弁護士である著者のノウハウが紹介されている。スリルとサスペンスのほどはどんな推理小説もかなわない。文庫本ながら600ページを超える大書だが、一度読み始めるとなかなか本を閉じることはできない。問うことと答えることの意味と機能についてこの本から大いに学んだのである。言うまでもなく、生活や仕事の場面で反対尋問そのものの出番はめったにない。それでも、ぼくなりにヒントを得た。それは自問自答に通じるということだ。「よき問いはよき答えを導く」、つまり、上手に問うことが上手に考えることにつながることを知った。

さて、久々にお粗末なものを見せてもらった。先週の東京都議会定例会の本会議での代表質問の場面がそれだ。この種の質問は事前通告が慣例とされる。代表質問する都議はあらかじめ都知事に「こんなことを聞きますよ」と伝え、都知事は担当部門に回答文を用意させるのである。裁判の反対尋問の一発勝負・即興性からすれば、ある種の出来レースではある。それはともかく、自民党の都議は慣例を破って非通告の質問をおこなった。小池知事はしどろもどろになった。予期せぬ質問にもスマートに答えて欲しいところだが、大いに同情の余地はある。なにしろ、質問が28という驚きの数だったのだ。


ディベートになじんできたぼくなどは、質疑応答や反対尋問は、ある程度の準備をするにしても、いったん始まれば即興のやりとりになることを心得ている。だから、慣習を破った今回の非通知質問それ自体に異議はない。質問数28の非常識には呆れるが、問題の本質はそこにもない。知事は9問しか答えられなかったらしいが、これも大したことではない。もし全問に答えたとしても残る問題がある。世の中に十把一からげのような28の質問を記憶できる者がいるのか。どこの誰が、それぞれの質問に対する28の応答を正確に照合できるというのか。質問してそのつど答えるという一問一答をしなかった点こそが問題であり、大罪なのである。

当事者間だけの質疑応答ならまだしも、場所は議会である。どの質問とどの応答が対応しているのかを的確に都民に伝えるのも説明責任の一つになる。お名前は? 住所は? 職業は? というやさしい3問なら答えと照合できる。しかし、取り上げる話はもっとゆゆしく複雑なのだ。複数の問いをまとめて投げ掛けるとはどういうことか。もし問いの順番に意味があるのなら、誰も一括質問などしない。一問ずつするはずである。もし順番に意味はなく、単に複数質問しただけなら、答える側は律儀に順番通り対応することもない。答えやすい質問から答え始めれば済む。

一問一答で質疑をおこなえば、前の問い・前の問いへの答えが次の問い・答えとつながる。臨機応変の流れになる。仮に準備をしていたとしても、想定通りにはいかない。やりとりは即興のライブの様相を呈する。矛盾も露呈されるだろうし、隠れていた事実が見えてくるだろう。それでも、形式的な質疑応答などよりは傍聴者にもわかりやすく、何よりも緊張感が高まるのである。一問一答だからこそ当面のやりとりに集中できる。複数質問の後に複数の回答などというのはぬるま湯だ。おまけに事前通知であれば、真剣勝負になるはずがない。

前掲書にリンカーン大統領が弁護士時代におこなった反対尋問が紹介されている。証言者の偽証を暴く場面である。この本に先立って、ぼくは別の本でそのくだりを原文で読んでいた。『問いの技術』と題されたセミナー用に、付帯状況を簡略化した上で脚色して訳した文章が残っている。実際とはかなりかけ離れているが、一問一答の凄みと効果がわかるはずである。

Q あなたは被告人がドアから飛び出して逃げていくのを見たのですね?
A はい。たしかに見ました。
Q あなたは被告人とは親しく、彼の顔はもちろん、背格好も立ち居振る舞いもわかっておられる。そうですね?
A そうです。
Q あなたは庭の木陰からその場面を見たとおっしゃった。間違いないですね?
A その通りです。
Q 部屋の明かりはついていましたか?
A いいえ、消えていました。
Q そうでしょう。ふつう犯罪者は事に及ぶときは明かりを消しますからね。では街灯は? 点いていましたか?
A 街灯はあの家にはありませんよ。
Q ほう、よくご存じで。ところで、一番近い木陰でもドア付近まで二十メートルの距離はありますよ。
A 測ったことがないので、私にはわかりません。でも、私は数十メートル先にいる牛の違いだってわかるほど視力には自信があります。
Q なるほど。しかし、それは昼の話ですな。夜だと話は別でしょう。部屋の明かりも街灯もなかったわけですから。
A 月明かりですよ。月の明かりがしっかり被告人の顔を映し出していました。
Q 二十メートルの距離で月明かりですか。たしかにあなたのような視力のいい人なら見えるかもしれませんな。
A ええ、見えますとも。
Q もう一度確認しますが、あなたが目撃したのは昨年×月×日の午後九時。たしかそう証言されましたね?
A 間違いありません。
Q (一冊の本を取り上げ、証人に見せながら) これは何だかご存じですか?
A 年鑑のようですが……。
Q おっしゃる通り。この昨年の年鑑の×月×日のところに天気の情報が記載されているのです。「×月×日午後九時、月は欠けており、闇夜だった」とね。
A ……
Q 以上で、反対尋問を終わります。

いつもの

テレビの『笑点』の大喜利で司会者がお題を出す。お題によっては出演者に小道具が配られることがある。司会者が「山田君、例のものを持って来てください」と言うと、山田君が「かしこまりました」と返事して小道具を配る。小道具の名前を言ってもよさそうだが、「例のもの」と言う。例のものとは何か。それは両者で事前に了解済みである。仕事上でも「例の件ですが……」と持ち出された相手は何の件かわかっている。見知らぬ相手に「すみません、例の件でお尋ねしたいんですが」と言っても通じない。

「例の」の代わりに「いつもの」と言える場合がある。「いつもの何々」と言えば、お互いにわかっている「もの・こと・場所」などを表わす。仲間内で「いつもの」で通じるのは、何を意味するかを取り決めているからである。あるいは、何度もみんなが使ってきた結果、暗黙裡に了解されているからである。ところで、「いつも」は繰り返されるという点でマンネリズムに違いない。変わり映えしないというニュアンスがある。他方、安心感があり、変わらぬよさという意味にもなりえる。


オフィスから近い場所で待ち合わせることになった。喫茶店Aである。相手の彼とはよくそこに行った。稀にそこ以外の喫茶店Sに行くことがあったが、年に一度あるかないかだ。「じゃあ、いつもの喫茶店で」と伝え、念のために「角の店」と付け加えておいた。いつものとは喫茶店Aである。十数分待っても彼は来ない。携帯に電話した。めったに行かない方の喫茶店Sの前で待っていると言う。「いつものと言えばそこじゃないし、だいいちそこは角の店ではないよ」と言いながら、念には念を入れて固有名詞で伝えなければならない相手だったと反省した。

長ったらしい名前や言わずもがなのことを同質性の高いグループ内では省略する。ブレンドコーヒーとメープルシロップたっぷりのホットケーキを毎朝2枚注文する人は、「おはよう、いつものね」で済ませる。新しいことばでネーミングするまでもなく、意味が共有されているのなら、もの・こと・場所を具体的に特定せずに「いつもの」で十分に伝わるのである。

「今度の忘年会は何々町のいつもの場所」と十数名に声掛けしたところ、全員が所定の日時にそこにやって来たら、大いに感心してしまう。このグループはかなりツーカーの仲が深く、共通言語が定着していると思われる。

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ところが、同質性の高さは必ずしもいいことづくめではない。「わかっているつもり」になると、わざわざ検証したり深読みしたりしないから、意味を左から右へと流してしまうことになりかねない。『いつもの場所とこ』という居酒屋がある。ここがいつも飲み食いする店であれ、初めて利用する店であれ、ことば不足の説明は誤解を招く。日時の次に、ぽつんと「場所:いつもの場所とこ」とだけ書いて、はたして案内状を読んで何人が判読できるだろうか。