風流と野暮

三日月

何年か前に撮った三日月の写真がある。雲を引き連れて、見えない風が流れている。風の流れ、すなわち風流が感じられる。今夜も三日月だが、見えている三日月には少しぼかしが入っている。残念なことに、今夜のぼくの位置取りが三日月を風流と無縁にしてしまった。

眼がくらむドラッグストアの煌々こうこうと照る蛍光灯 三日月かすむ /  岡野勝志

街中の店の灯りに節操がない。目立てばいいのだと全店が利己的に思えば、黄昏時の景観も褪せる。眼を患うのではないかと思うほど眩しいだけである。とりわけドラッグストアの店の明るさには閉口する。あそこまで明るくするのは野暮ではないか。品性がなく、調和や周囲への気遣いを欠いて、ただひとり派手に酔っているかのようだ。

芭蕉が「わが門の風流を学ぶやから」(遺語集)ということをいっているが、風流とはいったいどういうことか。風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である。
(九鬼周造『風流に関する一考察』)

風流が日常の世俗から離れることであるなら、俗世界に留まるのが野暮だろう。ドラッグストアを便利に使う身ながら、足を運ぶたびに、軽めの世俗から重くて深い世俗に入り込む感覚に襲われる。


風流は「もの」の属性ではない。感受者の内に芽生えるみやびな趣である。団扇片手の浴衣姿に一応の風流を感じるにしても、浴衣と団扇の色や柄、手足の動きの一部始終がさらに観る者の心の動きに関わってくる。後ろ姿に風流を観た。しかし、前に回ればスマートフォンを操ってポケモンGOでは俗すぎる。

風物の風情は風流に通じる。暑い夏にはせめて精神の涼をとばかりに、平凡なものに向き合う時にも風流の演出に工夫を凝らしていた。西瓜などはその典型だ。何の変哲もない果物扱いしてもよかったはずだが、夏の風物詩には欠かせない存在となった。西瓜の切り方・食べ方も風流と野暮を線引きする。切って食べる前に品定めもある。ぼくの爺さんは八百屋の店主と一言二言交わしてから、西瓜をひょいと持ち上げて左手に乗せ、耳を当てがって右手で鼓を打つようにポンポンと叩いて音を聞き分けていた。子どもの目にさえ粋な所作に映った。爺さんの買ってきた西瓜にはずれはなかった。

古い時代の京都にも、避暑ついでにうりの畑を見物する習わしがあったと聞く。今のように果物何でもありの時代と違って、瓜は貴重な夏の逸品だった。瓜畑を眺めることを「瓜見うりみ」と呼んだ。瓜見すれば、当然一口いただきたくもなる。避暑の道程から少し寄り道して一服。風流である。今日、俗っぽく生きるのはやむをえないが、心の持ち方をスパッと変えて、風流に感応する時と場を工夫してみるのがいい。

「可能性」について考えてみた

〈可能性〉という表現は悩ましい。誰かが「可能性がある」と言っても、どの程度なのかがわからない。降水確率のように数値化できるものでもない(いや、降水確率のパーセンテージにしても、たとえば30%40%の違いを感知しているわけでもない)。『新明解』は可能性を次のように解説している。

未知の事柄の実現について、(絶対不可能だと判断するだけの根拠を欠き)ある程度(十分に)可能だと予測される状態にあるととらえられること。

悩んだ痕跡が窺える定義だ。「不可能」が基準になっている点に注目したい。絶対不可能と言い切れないなら可能と言える、というわけである。可能は、「できる!」と胸を張れるような状態ではなく、むしろ「できそうもないが、絶対できないとは言い切れない」というニュアンスに近い。不可能は可能から派生したはずだが、可能の度合をはかるにあたってひとまず不可能を持ち出さねばならない。

やまとことばに可能ということばはなかった。明治以降に生まれた和製漢語だ。可能は“possible”で、不可能は“impossible”。対義語の関係にある。ところで、『アリス・イン・ワンダーランド――時間の旅』の一場面で、チェシャ猫が“unpossible”という表現を使った。辞書には載っていない。字幕では「非可能」と訳されていた。

可能性

絶望的に可能でないことを不可能(impossible)とするなら、非可能(unpossible)はどんな意味になるのか。人間らしいが“human”で、冷酷で非人間的なのが“inhuman”、しかし、“unhuman”は人間らしくない、つまり、“human”とは関係のない、という意味だ。幸せな(happy)の対義語は“unhappy”だが、これは絶望的な不幸ではない。「ハッピーな気分じゃない」というほどの意味だろう。以上のことから、非可能(unpossible)は、可能でもなく不可能でもなく、もっと言えば、可能性云々とは無関係な状態と考えられる。


閑話休題。「可能性がある」とは、ほとんどの場合、一縷の望みがあるという程度の状態なのである。そうあって欲しいという願いに近いかもしれない。英語では可能性を“possibility”(<possible)という。しかし、もう一つ、英語学習者があまり使わない“probability”(<probable)という似た表現がある。これも可能性のことだが、区別するために〈蓋然性がいぜんせい〉と訳す。もし、「できる確率の大きさ」を期待したいのなら、こちらのほうを使うのが妥当である。起こる確率は“probable”のほうが“possible”よりも大きい。

“Sure, it is possible, but how probable is it?”という表現を大学生の頃に覚えた。「なるほど、それは理屈上は可能。しかし、はたして実際にできる確率はどうなんでしょう?」という意味。「度合もわからない漠然とした可能」に対して、“probable”は「ありそうなこと、できることの確からしさ」を問題にする。だから、できることを前提にした話をする時は、可能性よりも蓋然性のほうが適切なのである。

ダイヤル番号がわからない金庫を開けるのは、一握りの金庫破りにとっては可能(possible)だが、ふつうは不可能(impossible)である。しかし、たとえ鍵がかかっていても木製のドアなら、金庫に比べて開けることができそうである(probable)。理論上の可能性と現実に起こりうる蓋然性の違いである。授業中に“possible”“probable”の違いを説明した夏目漱石のエピソードがある。「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」。切れ味のある説明だ。

今日も酷い暑さである。目の前のペットボトルの水を頭から浴びることはできる(possible)が、そんなことをするはずがない(not probable)。しかし、帰宅した直後にシャワーを浴びるのは大いにありそうである(probable)。可能性の議論や考察よりも、蓋然性のほうに関心を向けたい。口先だけで「できる」とほざいても何事も解決しない。気を紛らわせるだけに終わる。できることの確からしさをしっかりと考えなければならない時代である。

もう一つの読書体験

読書体験なのだから、本を読むのは当たり前。しかし、読むことだけが体験になるわけではない。読書体験には未読の本を既読に変える以外のものがある。紙を何百枚も綴じた立体物としての本を買ったままで放置しておくと、後ろめたさが物量的にし掛かってくる。新たに次の本を買えば、さらにプレッシャーが増す。電子書籍の場合、姿かたちが見えないからこんな気持ちにはならない。買って読まなくても平気でいられる。

二冊の本

古書店に行く時点では狙いすました本などない。棚を眺めてみないと何を買って帰るかわからないし、何も買わないこともよくある。先日、『ガウディを〈読む〉』と『生きものの建築学』の二冊を買った。置かれていた場所は別々で、書架はだいぶ離れていた。

数年前にバルセロナを訪れて以来、ぼくのガウディへの関心は高まるばかり。だから、前者を手に取ったことに不思議はない。手にしたまま古書店内をしばらく渉猟しているうちに、後者の本を見つけた。タイトルに魅かれたわけではない。表紙にサグラダファミリアのスケッチが描かれていることに心がざわめいたのだ。

『生きものの建築学』は「動物の建築と人間の巣」と題されて専門誌に連載された記事を収録している。著者があとがきで次のように書いている。

(……)たとえばこの本の場合、ガウディの壮大な建築を突拍子もないことに、白蟻(マクロターム)の驚くべき「建築」の上にモンタージュしてみることができるのではないか、とふと考えついた時、私はすでに足手まといな故郷や家族のことを忘れて、知らない土地を歩く旅を楽しみはじめていたに違いない。


ガウディ建築の断片が白蟻の巣の上に重なるように再構築されるとはおもしろいではないか。何も建築に限った話ではない。モンタージュでもブリコラージュでもいい、異種どうしが結び付くことに好奇心が掻き立てられる。生きものとガウディが著者の内で重なり合ったように、古書店の違う棚で別々の本が共鳴していた。偶然のこんな発見が、ある種の知的サスペンスを誘発することがある。

仕事で何日も出張することはあっても、まとまった日にちを取って旅に出掛けることが少なくなった。書物は旅から遠ざかっている自分の中に生じる「穴」を埋めてくれる。強い印象を受けたり大いに啓発されたりする一冊がある。しかし、旅に似た楽しみは、むしろ複数の書物どうしが即興的に編み出すエピソードのほうだ。つまり、どの一冊を買うかよりも、どれとどれを買うかのほうに意味を見い出す。

二冊の本をクロスオーバーしながら深読みすれば、随所にモンタージュを見つけたり、つながりを連想したり、相互参照したりするのだろう。この二冊はタイトルに共通項があるからきっとそうなる。しかし、適当に買ってきたジャンル違いの本なのに、パズルのピースのようにぴったり填まる時もある。まったく予期していない分、驚きは増幅する。リンカーン大統領にケネディという秘書官がいたのを知った後、ついでにケネディ大統領の秘書官を調べてみたらリンカーンという秘書官がいたのを発見した――これに似た知的サスペンスは併読に固有の体験である。

七月の風物の記憶

七月が終わる。振り返ってみると足早に過ぎた一ヵ月だった。逃げるのは二月だけ、去るのは三月だけに限らなくなった。ぼく固有の感覚なのか、それとも誰にも働いている感覚なのか。

昨日まで企画の指導をしていた。「昭和ノスタルジー」をテーマにした班があった。寂れた駅前をシニアの便宜を図るために再活性化しようとする案。紫煙くゆらす喫茶店や雑居ビル一階の食いもん横丁などの雑談をしているうちに、昭和と暑い七月固有の風物が重なり始めていた。ぼくの記憶の在庫棚には各種風物・歳時が並んでいる。金魚や西瓜はすっと取り出せるが、正確には八月の暦に記される風物である。


思い出さなくてもいいのに、つい思い出してしまうのが忌まわしい蚊にまつわる体験だ。マンションの高層階まではやって来ないので、最近は蚊に食われることはほとんどない。しかし、子どもの頃は蚊に吸われ放題だった。梅雨明けの頃から、蚊は大量に発生した。年寄りたちはそれを「蚊が湧く」と表現した。

蚊取り線香
蚊取り線香(絵:岡野勝志)

蚊を「追いやる」のがかつての線香だったらしい。しかし、線香の火が消えて煙が出なくなれば蚊は戻ってくる。湧くようにいるのだから、追いやってもきりがない。蚊はやっつけるべき憎き存在となり、線香には「蚊取り」という攻撃性が加わった。

子どもはある時から火をけたがるようになる。花火に着火して持ちたがる。蚊取り線香もしかり。便利な使い切りライターがなかった時代、徳用マッチを擦った。手際が悪いとうまく火が点かず、二本目のマッチを取り出した。

蚊取り線香は大した発明である。渦巻きの美学の凝縮形と言っても大げさではない。火種が曲線的に動き、緑から灰色に色が変わり、灰色が下に落ちる。蚊はしばし逃亡している。蚊を追い払いやっつけるはずの煙を自分が大量に嗅いで吸いながら、渦巻きに見入って飽きない。蚊取り線香の煙の向こうには、もちろん蚊帳が吊ってあった。

ことばの冒険、ことばによる冒険

企画の指導をしている経験から、企画力が二つの重要な要素を基礎にしていることを疑わない。一つは着想であり、もう一つは言語である。いずれも欠くことができない。企画の手法や構成にはある種の「型」が存在する。わざわざ編み出さなくても、いくつかの型を習得して組み合わせてみれば体裁は整う。しかし、アイデアは変幻自在、アイデアを生み出す習慣を身に付けるには何度も試行錯誤の場数を踏むしかない。アイデアを得ても、次にことばをどうするかという難関が待ち受けている。アイデアはいいが、ことばが拙いために値打ちのない企画に成り下がることはよくある。

冒険

ありきたりなことばの表現に安住してはいけない。ことばは未知を照らす灯りである。ことばの担い手は冒険家でなければならない。ことばで表現することに勇気は欠かせない。人類はことばを発明してことばによって生き、そしてことばそのものを生きてきた。生きるとはことばの飽くなき冒険にほかならない。

冒険には行動が伴う。だが、ほとんどの行動は偶然の思いつきの所産ではない。ホモサピエンスの出アフリカ以来数万年、行動はしたたかに計画されたと考えざるをえない。計画はことばによって練られたはずである。ことばそのものが冒険であり、ことばこそが冒険という行動を可能にするのである。ことばをないがしろにして鈍感になり始める時、人は冒険心を失い行動の幕を引く。


ことばは止まらない。「ことばは継がれて絶えず、しかももとのことばにあらず。巷間に語られしことばは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」。聞き覚えのあるくだりに似ているだろう。『方丈記』をもじってみた次第である。

ことばは生まれ、ことばは消える
ことばが浮かばない、そして茫然とする
ことばを諦めれば、ことばは隠れる
ことばを疎外すれば、ことばがきみを疎外する
ことばに挑めば、ことばは生きる
やがてことばどうしが結ばれて
見えなかったものが見え始める

壁は扉になるか?

壁が扉になる

オフィス近くの寺の掲示板に「壁が扉になる」としたためられた貼り紙が出ている。今月の標語だが、言いたいことは重々承知の上で、軽く冷やかし気味に遊んでみたい。

この歳になるまで、さなぎが蝶に変態したのを見たことがなければ、壁が扉になるのを目撃したこともない。何時間も何日も見つめなかったぼくの忍耐不足のせいだったかもしれない。さなぎの変態は教養として知っている。ある朝突然、人が虫になる可能性はカフカに教えられた。しかし、壁が扉になることはこれまで誰にも教えられなかった。

壁が扉になるのなら、壁のあちこちに錠を付けないといけない。鍵をかけ忘れたら泥棒が入り放題だから。錠だらけの壁はきっと壮観だろう。ところで、ぼくの目の前で壁が扉になったことはないが、稀に扉が壁になったことはある。帰宅したらポケットに入れていたはずの鍵がなく、当然ドアは開かない。ドアがまさに壁になる瞬間である。

XYになる」という構文はわかりやすい。「秀吉が関白になる」というのも同じ。もちろん秀吉自身が物質的に変化したわけではなく、関白という立場に就いたという意味である。「XYになる」が成立するかどうかをチェックする方法が論理学にはある。〈対偶〉がそれ。対偶は「YにならなければXではない」という命題表現をとる。元の命題が成立するなら、この対偶も成立しなければならない。「壁が扉になる」の対偶は「扉にならなければ壁ではない」である。リフォームすればともかく、こう言い切るには無理がある。


くだんの寺の僧侶が、生物学や物理学や論理学の観点から「壁が扉になる」と書いたのではないことは承知している。工夫を凝らした比喩である。何かと何かを隔てたり閉ざしたりしている心理状態にあっても、ある日突然開かれるという意味だろう。それなら日常茶飯事だ。また、心を開いていたはずの誰かが、前触れもなく壁を設えて引きこもることもある。と、書いているうちに、壁や扉はどうでもいい、むしろ「~になる」という自動詞が曲者なのではないかと思い始めている。

何人かで居酒屋に入った時のこと。焼酎をボトル一本注文し、若い従業員に「ロックグラス一つ」とお願いした。しばらくしてグラスを持ってきてこう言った、「こちらロックグラスになります」。ふつうのグラスが手品のようにロックグラスに変わることはない。「ロックグラスになりますって、今の状態がすでにロックグラスだけど」とつぶやいたが、本人はツッコミだと気づかない。自動詞「なる」は何らかの変化を示すと理解しているので、元からのロックグラスは、落として粉々にでもならないかぎり、無変化のままロックグラスのはずである。

客の「ロックグラスもらえる?」に対して、「はい、こちらロックグラス!」では愛想がない、何か足すなら「です」かもしれないが、「はい、こちらロックグラスです」では拍子抜けしてしまう。業界であれこれ考えた挙句、座りのいい言い回しとして「はい、こちらロックグラスになります」に落ち着いた、と類推できる。

「壁が扉になる」を弄んだが、「壁が扉になります」に比べたら哲学的な貫禄を感じてしまう。もっとも、「こちらの壁が扉になります」だと勇み足になる。これでは、大掛かりなマジックが始まるのではないかと人だかりができてしまう。昔、山伏の恰好をした大道芸人が、大きな石が空中浮遊すると言ってお題目を唱えている光景に出くわしたことがあるが、今か今かと待てども石は地上から浮くことはなかった。石は勝手に動かず、壁も勝手に扉にはならないのが常である。

“Yes”に潜む危うさ

議論では”イエス”と”ノー”の両方に出番がある。イエスばかりでは馴れ合いになり、ノーばかりでは衝突してしまう。この国ではイエスの頻度が高く、ノーは毛嫌いされる傾向が強い。ノーと言われて気分がよいはずもなく、またノーと言えば相手も心地よいはずがない……という空気がある。その場をイエスで収めておくのが大人の作法というわけだ。ところが、これは自分が当事者として関与しているからであって、自分と関係のない状況に際してはノーと言う。たとえば、交渉で弱腰になっている政府や言いたいことを言わない友人のことになると、「強くノーと言えばいいんだ」と高飛車に出る。

ホンネがノーならノーと言うべきだ、もっと強く出てしかるべきだという意見がないことはない。かつての『「NO」と言える日本』などはその手の主張であった。もっとも、「ノーと言える可能性」と「ノーを行為として言う蓋然性」は違う。遠吠えでいいのなら、誰だってノーくらいは言える。知己や親しい相手に面と向かってイエスとノーを使い分けてはじめて、意思無きイエスマンから脱却できる。

ノーなのにイエスと言わざるをえない空気は、力学決着という風土ならではだ。長いものに巻かれたり上司の顔を立てたりするのが習慣化すると、鈍感になって何とも思わなくなるのだろう。ノーを押し殺してイエスに魂を売るのが朝飯前という人たちを五万と見てきた。彼らは、悔しさに涙をのむということさえしない。見解の相違だからなあ、時間が解決するはず、まあ何とかなるよという類いもイエスの変種と言えるだろう。吉田兼好は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」と言った。思っていることを言わないでいると腹が膨れてくるような気になるという意味だが、それが嫌ならはっきり言えばいいのに、それでもめったにノーを言明しない。


YES□ NO☑

相手の質問に対して即座に返答できない時――つまり、イエスかノーに迷った時――ノーと言うのが議論や交渉の原則である。ノーを選択する勇気がなく、イエスでその場をしのいでも、いずれノーと言わねばならない場面がやってくる。その時のノーは一事が万事になりかねない。もっと早くノーと言っておけば事態はそこまで深刻にならなかったはず。

最初に言いたいことを言う、ノーならノーと言っておくのはディベートの教えである。早めのノーが危機を未然に防ぐ。しかも、ノーからイエスへの転換もしやすい。イエスからノーへの変更には一触即発の危うさがある。

日本社会でも、誰もが曖昧な意思決定を良かれと思っているはずがない。しかし、理念はそうであっても、現実はイエスとノーを明言しない。どちらかと言えばイエスに傾く。日本人に頷きが多いのもその表れだろう。頷いているからと言ってイエスとは限らないから、世界から見れば日本人は曲者に映る。英語で“Yes or no?”と迫られて困り果て、おざなりに“or”と答える日本人……というジョークのネタにされてしまう。中間や折衷も好きなのである。

「ノーのすすめ」を何十年も説いてきたが、受けがよくない。身近な批判のことばであるノーが行き詰まりを打開し己を鍛えてくれると言っても、理解してもらうのは難しい。ノーは有益なのだが、それを実感する前に不愉快になるからである。

あまりにも多くの人々が、他人のアイデアを批判しないように、と教えられてきました。それはまったくの誤りです。よいアイデアは批判にも堪えられるものです。また、悪いアイデアの欠点を指摘する人がいなければ、よくなりようがありません。
全員が同じ知識、背景、見解を持つ画一的な集団では、変化が生じたとき、柔軟に対応できないことがわかっています。にもかかわらず、いまだに「ノー!」と言い合えない会社やチームはたくさんあるのです。

『スウェーデン式「アイデア・ブック」』(フレドリック・ヘレーン著)からの引用である。「イエスよりノー!」という一節で、批判はアイデアを磨くという趣旨をわかりやすく書いてくれている。ノーに光を当ててくれていて、ぼくの代弁にぴったりなので紹介した。ノーがたいせつということよりも、ひとまずイエスまみれの危うさを知っておくのがいい。

思惑外れ

いつ壊れても不思議じゃない「壊れかけのRadio」が何年も壊れず、つい昨日まで機嫌よく動作していた外付けのハードディスクが何の前触れもなく突然スイッチが入らなくなって壊れる……。人間側からすれば思惑が外れているのだが、機械のほうには機械の、人には計り知れない事情と寿命があるようだ。

思惑が外れないようにする唯一絶対の方法がある。都合のいい見通しを立てたり算盤を弾いたりしないことである。思惑通りにいかない時の苛立ちと不幸を免れるにはこれしかない。想定は想定内に収まらず、むしろ想定外に落ちるものと相場が決まっている。


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いつぞや友人とこじゃれた喫茶店に入った。ぼくがコーヒー、コーヒーを飲まない友人はトマトジュースを注文した。彼は「トマトジュース」とフルネームで告げた。にもかかわらず、注文を受けた女店員はカウンター越しに「トマジュー」とマスターにリレーした。時にことばの省略・短縮は消費価値の低減になる。よく目を凝らせば、マスターは冷蔵庫からデルモンテかカゴメの缶を取り出してグラスに注ぎ氷を放り込んだ。一丁上がり。なるほど、これならトマトジュースではなくトマジューだ。思惑などあったわけではないが、ちょっとがっかりして思惑が外れたような気分になった。

大多数が願っていないことが現実になるという思惑外れもある。一人ひとりの思いを単純に足せばノーという帰結だったはずなのに、不思議な作用が働いて総意がイエスになってしまう。英国のEU離脱決定はそんな感じだったのだろう。「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とは、共和党の大統領候補にトランプ氏が確実になったのを受けてつぶやいたある市民の声である。

TPOまでよく考えて悩みに悩んで買ったスーツ。仕立て上がったのを着たら気に入らなかったということはよくある。挙句の果てに、ほんとうはこの色のスーツは欲しくなかったのにと愚痴る。愚痴の矛先は仕立屋にではなく自分に向いている。トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。

対人関係のスキル

何事かを上手にやり遂げる技能や技術をスキルと呼ぶ。スキルは実践や練習の場で何度も繰り返して身につくものだ。先例や経験から学ぶと同時に、すでにスキルを習得した人たちから教わるということもある。不肖ながら、ぼくも企画やコミュニケーションなどの分野で助言側に立たせてもらっている。そういう立場にある者の良識として、最強スキルだの万能スキルだの必勝スキルだのという言い回しは控える。そんなものはめったに存在しないからである。

「めったに存在しない」とは、つまり、「たまに存在する」を意味する。自分と学習対象以外に対人関係のパラメーターが介在しない場合は、ある程度有効なスキルを身に付けることができる。たとえば、上手な本の読み方がその一つである。あるいは、情報を効率的に分類したりまとめたりする技術も該当するかもしれない。他人と競わない、あるいは他人との相対的関係が前提されない場合、努力次第で相応のスキルが習得できるのである。

対人関係があり、他人との優劣がついてしまうようなスキルがある。交渉や説得や議論に関わるスキルである。このようなスキルを求める人たちを一堂に集めて指南すれば、矛盾を抱え込むことになる。「聞き上手」や「傾聴」のスキルを学ぶ者は、まず相手の話を聞くことを教わる。聞くためには相手が話さねばならない。だから、A君もBさんも話そうとしない。こうなるとまずいから、相手に話させるために質問を投げ掛けることを教わる。すると、二人は同時に質問をすることになる。応用力あるスキルどころか、マニュアルを絵に描いたようなシーンが現れる。


要するに、同じ人から同じスキルを教われば、お互いの手の内がわかってしまうのだ。それでも、そこに優劣の差がつくのは、スキルによるものではなく、持ち合わせている臨機応変力であったり言語的な自力に違いがあるからである。交渉や説得や議論をA君だけにマンツーマンで教えて、Bさんやその他の人たちには教えない。こうして初めてA君がそのスキルで優位性を築けるのである。

メビウスの輪

同じ商圏の同業者を集めて、競争優位の戦略を指南するのも同じ結果を招く。どんなに平等に教えたとしても、ビジネスでは差がつく。まるでメビウスの輪のような不可解な帰結が待ち受ける。ぼくだけに有効だと思ったスキルなのに、きみにとっても有効なスキルだったとは……。もしかして、みんながハッピーになれるスキル? いや、そんなものはありそうにない。もしこのような対人関係の内に必勝法に近いスキルが編み出されたとしても、それはすぐに広まってしまう。広まればもはや独占的スキルとしての価値を失う。教える側も学ぶ側も目覚めないと、根なし草のような安直なスキルにしがみつき続けることになる。実際、そうなっている。

交渉などの実践的スキルでは、以上のような矛盾が生じる。ディベートのような教育的スキルでも対人関係が含まれるが、ディベートスキルには他者とは無関係に向上させることができるスキルが含まれる。エビデンスの集め方や読み解き方がそうであり、立論の組み立て方や反対尋問のマナーがそうである。誰にとっても有利なスキルは交渉には存在しないが、ディベートにはありうる。その理由は、法則性や約束事がディベートに多く、交渉に少ないからである。ルールのある学習対象は他人と関係なくスキルに習熟できる。対人関係的変数の少ない学びは席を同じくしてできるが、変数が多い学びはこっそり一人でおこなうものなのである。

もたれ合うアイデンティティ

あるもののアイデンティティをそのことだけに関して、その内においてのみ語ることはできない。たとえば、さくらんぼのアイデンティティをさくらんぼそのものだけに限定して説明することは不可能だ。さくらんぼという果実は、その他諸々の果物との対比によってどんなものかが明らかになる。そして、果実群にあって差異化され自己同一的フルーツとなる。

「右」とは何か? もし「左」という概念を用いずに定義しようとすれば、「明という漢字の月が書かれている側」とでもするしかない。実際、『新明解』にはそう書いてある。しかし、これで右が自己同一性を保障されたわけではない。なぜなら、「では、日の書かれたほうは何?」と知りたくなり、それを知らないままでは右がわかった気にならないからである。結局、「日と書かれている側は左である」と補足せざるえない。

右をはっきりさせる上で左は欠かせない。右と左という二項は対峙して、相互依拠しながら意味のありかを照射している。白は黒に、男は女に、父は母に、夢は現実に――それぞれその逆でも――もたれ掛かっている。

知のネットワーク

二項間の差異が明確になってこそ、一項がアイデンティティを持つ。ものや概念やことばは、それ一つだけでは意味を明示できないのである。このことは二項だけに限った話ではない。「池」は他の類似概念との差異によって独自の位置を得ている。たまたま池を中心に据えた〈差異のネットワーク〉を示したが、もしここに田や沼を置けば、川や海を消して「潟」や「砂洲」を加えることになるかもしれない。


日本や日本人について語る場合も同じである。これまで読んだ日本論、日本人論のすべてが、日本と日本人の特性を他国と外国人と対比して描き出していた。日本以外の国、日本人以外の人々との比較をせずに日本と日本人のアイデンティティを語るのはほとんど不可能なのだ。絶対不可能と書かずに「ほとんど不可能」と書いたのは、日本と日本人を地域的または歴史的に細分化して語ることができるからだ。現代と江戸、現代人と万葉人を相互参照するように。

マックス・ウェーバーの「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない」という言にいたく感心したことがあった。よくよく考えてみれば、これはもっともな説で、シーザーが自分自身を他の誰とも対比せずに理解できるはずもない。「シーザーを理解するために、シーザーであってはならない」というほうが的を射ている。

ぼくの嗜好品であるコーヒーは、他の飲物がまったく存在しない時、たぶん意味もないだろうし、アイデンティティに出番もないだろう。水やジュースや紅茶があってこそのコーヒーある。概念は他の概念とネットワークを形成し、その中で意味を持つ。概念を表わすことばもしかり。差異と類似、そして連想やつながりによって機能している。もの、概念、ことばの意味とアイデンティティは、互いにもたれ合っている。だから、何かがある程度理解できたと思えるのは、その何かだけを突き詰めるたからではなく、別の何かとの対比をおこなったからなのである。