七月が終わる。振り返ってみると足早に過ぎた一ヵ月だった。逃げるのは二月だけ、去るのは三月だけに限らなくなった。ぼく固有の感覚なのか、それとも誰にも働いている感覚なのか。
昨日まで企画の指導をしていた。「昭和ノスタルジー」をテーマにした班があった。寂れた駅前をシニアの便宜を図るために再活性化しようとする案。紫煙くゆらす喫茶店や雑居ビル一階の食いもん横丁などの雑談をしているうちに、昭和と暑い七月固有の風物が重なり始めていた。ぼくの記憶の在庫棚には各種風物・歳時が並んでいる。金魚や西瓜はすっと取り出せるが、正確には八月の暦に記される風物である。
思い出さなくてもいいのに、つい思い出してしまうのが忌まわしい蚊にまつわる体験だ。マンションの高層階まではやって来ないので、最近は蚊に食われることはほとんどない。しかし、子どもの頃は蚊に吸われ放題だった。梅雨明けの頃から、蚊は大量に発生した。年寄りたちはそれを「蚊が湧く」と表現した。
蚊を「追いやる」のがかつての線香だったらしい。しかし、線香の火が消えて煙が出なくなれば蚊は戻ってくる。湧くようにいるのだから、追いやってもきりがない。蚊はやっつけるべき憎き存在となり、線香には「蚊取り」という攻撃性が加わった。
子どもはある時から火を点けたがるようになる。花火に着火して持ちたがる。蚊取り線香もしかり。便利な使い切りライターがなかった時代、徳用マッチを擦った。手際が悪いとうまく火が点かず、二本目のマッチを取り出した。
蚊取り線香は大した発明である。渦巻きの美学の凝縮形と言っても大げさではない。火種が曲線的に動き、緑から灰色に色が変わり、灰色が下に落ちる。蚊はしばし逃亡している。蚊を追い払いやっつけるはずの煙を自分が大量に嗅いで吸いながら、渦巻きに見入って飽きない。蚊取り線香の煙の向こうには、もちろん蚊帳が吊ってあった。