カフェの話(6) 街の表情

パリやローマの街を歩いていると、「えっ、こんなところに!?」と驚くような場所にカフェやバールが出現する。路地裏にも、人気ひとけのない閑散とした通りにも、絶対に採算がとれないであろう街外れの一角にも。もしかして条例によって数十メートル四方につき一軒の立地が義務づけられているのではないか。そう勘繰りたくなるほどだ。

ぼくが生まれ育った大阪の下町も、昭和30年代から40年代にかけてはそんな風情だったのかもしれない。住宅が密集する町内や商店街の入口に、喫茶店が二軒、三軒と立ち並んでいたものである。しかし、イタリアの小さな、たとえば人口1万人ほどの街でもそんな光景に出くわす。バールを一軒通り過ごしても、ほんの少し歩けば別の店が現れる。

その街の人々には決まって行きつけの店がある。その店に行けば顔馴染みがいる。中には新聞を読んだり無駄話をしたり長居をする客もいるが、立ち飲みカフェやバールでは、挨拶と注文を一緒にして一言二言交わし、コーヒーを飲んだら再び挨拶して店を出て行く。その一言、二言はどこの街でもよく似通っていて、「いつまでも綺麗だね」とか「アントニオはどうした?」などの類い。常連たちはマンネリズムに平気である。

『パリ 旅の雑学ノート』はパリ通の玉村豊男のエッセイ。冒頭、いきなり「カフェの構造と機能」で始まり、カフェの話だけが100ページ以上続く。パリを知らなければマニアックな切り口だと思ってしまいそうだ。ちなみにこの本のサブタイトルは「カフェ/舗道/メトロ」なのだが、数あるパリ名物の中でもこの三点にぼくは納得する。街の表情の主役はもちろんカフェだが、通りと地下鉄も興趣をそそる。

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どこを歩いてもよく見かけるパリの街角カフェ。
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ソルボンヌ近くのカフェ。歩道とテラスに境目がない。
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まるで街路や舗道と一体化したようなカフェ。
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メトロの出入口。このような風情を残すにはたいへんなエネルギーがいる。

カフェの話(5) 老舗の名と味

すでに紹介した老舗カッフェ・フローリアンには、水際の広場のカフェというところに水都ヴェネツィアならではの趣があった。

この店のような超有名カフェのほとんどはガイドブックやネット上に掲載されている。「名物に旨いものなし」とよく言われるが、そこまで極端ではないにしても、著名であることと内容が伴っていることは往々にして比例しない。たとえ伝統ある老舗であっても、オーナーが変われば品性も変わり、ブランドの上にあぐらをかいた利益主義の経営に走ることが稀にある。昨年7月、日本人観光客が、ローマはナヴォナ広場近くの老舗リストランテに暴利をむさぼられた事件は記憶に新しい。

ナヴォナ広場から西へ少し歩けばパンテノンがある。その北側のロトンダ広場の一角に構えるのが、ガイドブック掲載常連の老舗カフェ「ラ・カーサ・デル・タッツァ・ドーロ(La Casa del Tazza d’Oro)」。ちょうど二年前、ローマ滞在中にアパートのオーナーが連れて行ってくれた。この一帯にはかつてコーヒー焙煎所が立ち並んでいたらしく、このカフェも元々はその一軒だった。今も焙煎しているから、店の入口近くにまで挽きたての香りが立ちこめている。

何年ぶりかで出くわした「粘性液状」のコーヒー。小さなカップにほんの2センチほど入った濃厚エスプレッソは、一気に一口で味わう。と言うか、それ以外の選択肢はない。この店の名前は「金のカップ」。はたしてそんな器で出てきたのか。店構えも焙煎光景もカップも写真に撮り収めていないのでわからない。

パリには名立たるカフェがいろいろあるが、実際に訪れた有名店は「カフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)」のみ。文豪たちが長居をして文章を綴ったり哲学者たちが激論を交わしたことなどで名を馳せたカフェ。日本でも大阪と東京に出店していたが、大阪長堀の地下街にあった店は今はない。ギャルソンと呼ばれるウェイターの立ち居振る舞いや調度品がパリと同じでちょくちょく通っていた。コーヒーがテーブルに運ばれた直後に会計を済ませる方式もパリそのまま。レジを置かない、あの方法をぼくは気に入っていた。

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サン・ジェルマン大通りに面したカフェ・ド・フロール。店には一度しか行かなかったが、近くのホテルに3泊していたので、この界隈をくまなく歩いたものだ。

カフェの話(4) コーヒーとティー

言うまでもなくカフェとはコーヒーのことである。しかし、店の形態としてのカフェのことをわが国では長らく喫茶店と呼んできた。珈琲店や珈琲館とも言うが、一般的に親しまれた呼び名は喫茶店であった。文字面だけを追えば、お茶を飲む店である。コーヒーを主とするカフェで紅茶を飲むこともできるし、名前が喫茶店であっても紅茶ではなくコーヒーを飲むことができる。「お茶にしようか?」と言う時の「茶」は日本茶や紅茶とはかぎらず、コーヒーも含めたソフトドリンクの代名詞である。

ローマのバールでエスプレッソを飲んでいたら、イタリア系でも英米系でもないカップルが入ってきた(見た目では中欧系で片言の英語だった)。女性のほうが何かを注文した。バールのお兄さんは棚からタバコを一箱取って差し出した。タバコは、らくだのイラストで有名な、あのキャメル(Camel)だった。女性は慌てて「ノー、ノー」と言っている。入れ替わって男性のほうが何事かを告げた。お兄さんは無愛想にうなずいて、リプトンのカモミール(Camomile)のティーバッグを引き出しから取り出した。「キャメル」と「カモミール」の言い間違いか聞き間違いだったという話。

イタリアのバールで紅茶を注文するのは邪道? いや、決してそんなことはない。ちゃんとメニューにも掲げられている。けれども、カップにティーバッグを入れて熱湯を注いで出すのを目の前で眺めていると、エスプレッソやカプチーノと同じ値段にしては、まったくお得感がないように思われる。ワインとコーヒーを自慢とする国で、わざわざビールと紅茶を頼むことはないだろうと思うし、そうぼくに薀蓄を垂れたイタリア人もいた。

岡倉天心の『茶の本』に茶とワインとコーヒーとココアを対比する箇所があって、こう書かれている(イタリック体は岡野)。

There is a subtle charm in the taste of tea which makes it irresistible and capable of idealisation. Western humourists were not slow to mingle the fragrance of their thought with its aroma. It has not the arrogance of wine, the self-consciousness of coffee, nor the simpering innocence of cocoa.

ご存知ない方のために説明すると、上記の文章は日本語から翻訳された英文ではない。天心の『茶の本』は “The Book of Tea” が原題で、もともと英語で書かれたのである。

「茶の味には繊細な魅力があり、それが人を引きつけ想像をかき立てる。西洋の(風流な)ユーモリストたちは、ためらうことなく自分たちの思想の香気と茶の芳香を融合させた。茶にはワインのように思い上がったところはなく、コーヒーの過剰な自意識もなく、ココアの作り笑いした無邪気さもない」(拙訳)。

茶のさりげなさと対比するための極端な誇張だろうが、天心によればコーヒーは「自意識が強すぎる」らしいのである。意味深長である。今から「自意識を一杯」飲んで少し考えることにしよう。

ここに紹介する写真は、通りかかった折に「雰囲気」を感じてカメラを向けたパリ界隈のカフェ。

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セーヌ河北岸、ノートルダム寺院近くのカフェ。
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エッフェル塔から東へ少し。店を取り囲むように何十というテーブルが置かれている。
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ボージュ広場の回廊にあるカフェ。この並びに紅茶を専門に扱う小売の老舗がある。 

カフェの話(3) 苦味の魅力

espresso.JPGその名も”Espresso”という題名の本がある。香りの小史やカップ一杯の朝という項目が目次に並ぶ。コーヒー文化とエスプレッソのバリエーションに関する薀蓄が散りばめられており、高品質の写真もふんだんに使われている。

この中に、詩人でノンフィクションライターのダイアン・アッカーマンの『感覚の自然史』から引用された一文が紹介されている。

「つまるところ、コーヒーは苦く、禁じられた危険な王国の味がする」。

う~ん、どんな味なんだろう。何となくわかるような気がして、喉元までそれらしい表現が出てきそうで出てこない。ことばでは描き切れない味だ。

紀元前から醸造されてきた長い歴史を誇るワインに比べれば、コーヒー栽培の起源はかなり新しい。自生種を栽培種として育て始めたのが13世紀頃だし、ヨーロッパの一部で流行の兆しを見せたのが17世紀だ。アッカーマンが比喩している「危険な王国」とはどこの国なのだろうか。エチオピア? それともアラビア半島のどこか? 野暮な類推だ。仮想の国に決まっている。

いずれにせよ、ぼくたちは「禁じられた味」をすでに知ってしまった。だから、大っぴらに飲んではいけないと言い伝えられたかもしれない頃の禁断のイメージを、今さら浮かべることは容易ではない。ただ、高校を卒業した頃に喫茶店で飲んだ最初の一杯からは、たしかにレッドゾーンに属する飲料のような印象を受けた。コーヒーの味は誰にとっても苦い。子どもだから苦くて、大人だから苦くないわけではない。「おいしい? おいしくない?」と子どもに聞けば、おいしいと言うはずがない。子どもに気に入ってもらうためには、コーヒーの量をうんと減らしミルクと砂糖をたっぷり加えてコーヒー牛乳に仕立てなければならない。

苦味が格別強いエスプレッソには、ブラック党でもふつうは砂糖を入れる。イタリアのバールでは、小さなカップにスプーン一杯の砂糖を入れて掻き混ぜ立ち飲みしている。話しこまないかぎり、さっと注文してさっと飲んで出て行く。なにしろ立ち飲みなら一杯100円からせいぜい150円の料金だ。

ところで、砂糖を入れるのは苦味を抑えるためなのか。苦味を少々抑えたければミルクの泡たっぷりのカプチーノのほうが効果がある。カプチーノを頼んでも30円ほどアップするだけだ。実は、砂糖を入れても苦味はさほど緩和しない。むしろ砂糖の甘みが、ストレートの苦味とは異なる別の苦味を引き出すような気がする。説明しがたいが、何となくそんな気がする。

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エスプレッソのダブル(シエナのカンポ広場)。イタリアのバールでは”カッフェ・ドッピオ”と注文する。
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パリのカフェの店内。パリのカフェでは通常一杯のエスプレッソがイタリアのダブルよりも分量が多い。
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シニョリーア広場のカフェ(フィレンツェ)。観光客が朝から夜まで絶えない有名な広場だが、光景を眺めているだけで飽きることはない。このようにテラスのテーブル席に座ると、コーヒーの値段は倍になる。

カフェの話(2) BGMとコーヒー

コーヒーと音楽は切っても切れない関係にある。カフェとくれば洋楽だが、常連ばかりが集まる場末の喫茶店では稀に演歌が流れていたりする。コーヒーの香りが「炙ったイカ」に変じるわけではないが、味わいが微妙になるのは否めない。そう言えば、ボサノバのCDをかけているイタリア料理店でも違和感が漂う。かつてよく通ったその店で「カンツォーネを流さないの?」と尋ねれば、「正確に言うと、うちは地中海料理なので」とオーナーシェフ。地中海だからボサノバというのがよくわからない。店名がイタリア語だからシャンソンも合わないだろう。素直に「ぼくはボサノバが好きなんです」と答えておけばいいのに。

入りびたるほどではないが、月に一、二度行く喫茶店はプレスリー専門。オーナーが長年のファンで詳しい。どちらかと言えば、バラード調を中心に編集している。ところで、お気に入りの音楽には聞き耳を立てる。お気に入りでなくても、一人でコーヒーを啜っているときは音楽がよく耳に入る。読書に注意が向いているときは、BGMは途切れ途切れにしか聞こえない。しかし、本からふと目をそらしたりペンを休めたりする瞬間、メロディへと注意が向く。昔のジャズ喫茶ではコーヒーよりも音楽が主役だったのだろう。あるいはタバコをくゆらすためのコーヒーだったかもしれない。行ったことはないが、歌声喫茶ではみんな一緒に歌ったと聞く。コーヒーの味など二の次だったのではないか。

ヨーロッパのカフェやバールではあまりBGMを流さない。会話の邪魔になるから? かもしれない。生演奏のカフェで印象的だったのは、ヴェネツィアはサンマルコ広場のカッフェ・フローリアン(Caffe Florian)。創業者のファーストネームであるフロリアーノ(Floriano)に由来する、ヴェネツィア随一の老舗カフェだ。なにしろ創業が1720年。広場の一隅のオープンテラスでカフェラテかカプチーノかを飲みながら四重奏風仕立ての旋律に耳を傾けた。ふつうのバールならエスプレッソ10杯分に相当する値段。せっかくの旅なのだから、けち臭いことは言わないほうがいいか。

晴朗きわまる空と海、世界一美しいと評判のサンマルコ広場と寺院、聳え立つ鐘楼、ドゥカーレ宮殿、行き交う観光客……ゆったりと目で追いながら音色を楽しみコーヒーを口に運ぶ。昼間の屋外のカフェは実にのんびりできる。春でも秋でも夜になると急激に冷え込んでくるが、黄昏時の広場にはラグーナからの海の匂いが入り込み、散策気分を演出してくれる。テーブルに座らず――つまりコーヒーを注文せずに――広場に佇めば、カフェの生演奏の競演をただで楽しむことができる。題目の大半はイージーリスニング系だ。

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広場の一角を占めるカッフェ・フローリアンのテラス。もちろん室内でもコーヒーを飲める。右手の回廊から建物内に入れば、古典色の強い調度品に囲まれて喫茶を楽しめる。
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見ての通りのパイプづくりのテーブルに椅子。座り心地は決してよくないが、タキシードを着用した男前のカメリエールにはチップをはずむことになる。
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ラグーナ側から見るサンマルコ広場付近。建物と建物の間のアプローチを抜けると広場が広がる。カッフェ・フローリアンは鐘楼のすぐそば。ご覧のような海際との位置関係だから、高潮(アックア・アルタ)になると膝下まで海水が溢れることがある。そんなとき軽量のパイプ椅子やパイプテーブルだと片付けが楽なのだ。
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夜になっても生演奏が続く。これはカッフェ・フローリアンの向かいのカフェ。広場に面するカフェは同時に演奏しない約束になっているようである。

カフェの話(1) エスプレッソの香り

数年前に家庭用のエスプレッソマシンを買った。どういうわけか、冬の時期にはあまり使わない。少し暖かさを感じ始める頃から一日に一杯飲むようになる。それが秋の深まる季節まで続く。自宅で飲まない日でも外で飲む。必ずというわけではないが、オフィス近くのカフェで飲む。ランチの後はだいたいエスプレッソ。朝一番の場合はカプチーノかカフェラテにすることもある。ただエスプレッソ至上主義ではないので、ふつうのブレンドコーヒーも二、三杯飲む。

寒い時期は、知らず知らずのうちに大きなカップ一杯の熱いコーヒーで温まろうとしているのだろう。ご存知のようにエスプレッソはごく少量の濃いコーヒーで、器もそれに応じて小さい。出来上がってから1分でも時間を置こうものなら、あっという間に温度が下がる。自分で作っても店で出されても、好みの分量の砂糖をさっと入れ素早くかき混ぜてぐいっと飲み干すのがいい。

エスプレッソの焙煎・熟成は微妙だ。同程度に微妙なのが挽き具合。蒸気を噴きつけるのでできるかぎり細かく挽くのがいい。家庭で飲む分には、市販で挽いてあるのが便利だが、封を開けてからは徐々に劣化が進む。だから自前でそのつど挽くのがいいのだが、市販のように細かく挽くのがむずかしい。

エスプレッソの季節がやってきた。昨日たまたま通りかかった、輸入品を多種扱う有名スーパーで豆を買い、レジで挽いてもらった。「これはいい豆だ」と直感した。まったくその通り、自宅で封を開けたら濃厚な香りがたつ。いつものようにいったんイリィの缶に入れ替えた。久々に秀逸のエスプレッソに巡り合った。なお、イリィとは、1930年代にエスプレッソマシンを開発したフランチェスコ・イリィゆかりの名称。バールで飲むエスプレッソと同じように挽いた粉が缶入りで売られている。何度か買ったが値が張るので、リーズナブルでおいしいものをいつも探している。

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イリィのバール(ヴェネツィア)。カウンターの中で手際よくエスプレッソを作る。注文してから待たせないのが職人バリスタの腕の見せ所だ。
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店と歩道の境目がないカフェ(パリ)。季節が暖かくなってくるとカフェのテラス部分にはテーブルが置かれ、客たちは競って通路そばのテーブルに陣取る。

フンデルトヴァッサー・ハウスの遊び心

昨日アサヒビールの大山崎山荘美術館に行った。大正時代から昭和初期にかけて建てられた英国風の洋館。地中に展示室がある新館は安藤忠雄の設計で、そこに睡蓮を含むクロード・モネの5作品が展示されている。年季の入った本館は見所が多々あって興味深い。帰路に立ち寄った古書店で『見える家と見えない家』という本を見つけた。著者の一人が先般亡くなった動物行動学の日高敏隆だ。この人の本は3冊ほど読んでいる。買って帰った。

長年住み慣れた郊外のマンションを売却し、現在ぼくは交通至便な大阪都心の一室に仮住まいしている。腰を据える住居を探さねばならない身ではあるが、だいたいが暮らしに贅を求めない性分なので、寝食さえできれば十分という住宅観しか持ち合わせていない。ところが、古い建築や他人が住んでいる住居には目を配る。実際に生活してみたいとまでは思わないが、見ているだけで何がしかの主題を訴えてくる佇まいにすこぶる強い関心を抱く。その最たる存在は、ウィーン都心のフンデルトヴァッサー・ハウス(Hundertwasserhaus)だろう。

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ハウスはフリーデンスライヒ・フンデルトヴァッサー(1928 – 2000)の手になる公共住宅だ。彼はもともと画家であり、やがて建築家となった。その建築思想や住宅ビジョンを哲学的と称する評論家もいる。フンデルトヴァッサーはハウスの設計を1977年に受託したものの、その設計そのものや建築理論を巡って意見や批判が噴出し、建築施工に着手するまでに6年も要してしまった。自然との共生をテーマにした住宅は、ついに1986年に完成した。いろいろあったが、ハウスの人気は入居倍率の高さによって市民が証明することとなった。

シティ・エア・ターミナルであるウィーン・ミッテ駅から東へ徒歩10分のエリアに立地している。すぐそばにドナウ運河、その外にドナウ川、新ドナウ川、旧ドナウ川が流れている(ドナウと呼ばれる川がこんなにあることをウィーンに行って初めて知った)。余談になるが、この場所から北西に直線で4キロメートルのシュピッテラウに、フンデルトヴァッサーが手掛けたゴミ焼却場(1991年)がある。これを先行範例として建設したのが、舞洲の大阪市環境局のゴミ処理工場(2001年)である。

フンデルトヴァッサー・ハウスは類い稀な公共住宅だ。難しい多色を使って遊びながら、植物と住宅を合体させている外観はどこから見ても斬新な現代作品である。にもかかわらず、どんなきっかけかは覚えていないが、恥ずかしいことにぼくはハウスが19世紀の終わりか20世紀初頭の建築だと思い込んでいた。そして、後日、1980年代の建築と知って少なからず驚いた。完全な認識間違いであるが、錯誤ついでに居直るならば、フンデルトヴァッサー・ハウスは19世紀末に建つこともできたと今でも思っている。カラフルでリズミカルで遊び心をモチーフにした住宅の出現が遅すぎただけの話である。

ウィーンの寒い朝の思い出

大阪の寒さなどたかが知れている。明日は冷え込むと天気予報が報じるので備えて外出すれば、何のことはない、日向ではポカポカしていたりする。講演や研修で全国に赴くが、冬場はだいたいシーズンオフになる。とりわけ雪国への真冬の出張はほとんどない。山陰や北陸で豪雪に見舞われて列車遅れを経験した程度だろうか。ぼくは厳冬の雪降る北国をまったく知らないのである。

もっとも凍てついたのは3月上旬のウィーンの朝だ。前日の午後5時頃に街に入った。時差のせいか感覚が鈍っていたのだろう、さほど寒さを感じることもなく街をうろついていた。ところが、翌朝、ホテルの窓外の光景が白へと一変していた。ビュッフェで腹ごしらえした後に外に出てみたら、昨夜の気温とはまったく違う。ありったけの服を重ね着して万全の防寒態勢で地下鉄駅へ向かった。

目指したのは8駅か9駅西南西方向に位置するシェーンブルン宮殿。ハプスブルク王朝の離宮である。同名の地下鉄駅を降りて雪道を歩く。宮殿の入口までほんの数分なのだが、この時に感じた凍えがぼくの生涯一番である。ウィーンは北緯43度の札幌より5度も北に位置する。つまり、北海道最北端よりもさらに北である。にもかかわらず、3月のウィーンの平均気温は最低が3.5℃、最高が10.2℃で、札幌の-4.0℃(最低)、4.0℃(最高)よりもはるかに暖かい。しかし、あの凍えようは尋常ではなかった。


シェーンブルンとはドイツ語で「美しい泉」を意味する。マリア・テレジアの時代の1693年に完成している。この宮殿内では美しく花が咲き誇るので、ほとんどの写真や絵葉書は春先から夏にかけて撮影されるようだ。実際、手元に残っている入場券には緑に囲まれた宮殿が写っている。それはそうだ、ここは「夏の離宮」なのだから。しかし、ぼくにとってシェーンブルン宮殿はすっかり冬のイメージと連動してしまった。

凍てついた分、宮殿内のカフェで飲んだミルクたっぷりのメランジェ(ウィーン版カプチーノ)は温かくて格別にうまかった。

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早朝、ホテルの窓を開けてみた。透明な冷気に触れると同時に、一変した冬景色が目に飛び込んできた。
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地下鉄駅への道すがら。歩道に雪は積もっていないが、静けさと相まって突き刺すような寒さが襲ってくる。
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宮殿の入口。
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全長200メートル近くある建物の中央部分。
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噴水も花壇も真っ白になっている宮殿の裏手。小高い丘の上にグロリエッテがある。ここにはレストランとカフェがあるらしく、また屋上から俯瞰する宮殿方面の景観が絶景らしい。さすがにこの雪では歩けない。夏場に坂を上がった人は、猛暑でばてたと言う。寒すぎるのも暑すぎるのも困る。

ドビュッシーとパリ近郊の街

一昨日のことである。ふと旋律が浮かんだ。ドビュッシーの『夢』。題名を知らなくても、誰もが一度や二度は耳にしたことのあるメロディだ。ドビュッシーには、他によく知られた作品として『月の光』や『アラベスク』がある。テレビドラマの挿入歌としても使われていたらしい。たしかに、クラシック音楽としてはイージーリスニング系に属すのだろう。肩の凝らない小曲だからBGMにも向いている。

少し前のバージョンのiPodも持っているのだけれど、ほとんど使っていない。最近はあまり音楽を聴かないし、聴くときは気まぐれに取り出したCDをかけている。ジャンル分けもせずに適当に収納しているCDがおよそ600枚。本は買って一度も読んでいないのが5冊に一冊くらいあるが、CDは買った直後に聴く。どんなにハズレのCDでも一度は聴いているので、縁あってもう一度聴けばだいたい旋律を覚えている。読書に比べたら聴覚記憶はだいぶよさそうな気がする。

たしかあったはずのドビュッシーのCDがどこにも見当たらない。この場所以外にまぎれこむ可能性などない。もしかしてオムニバス編集のうちの数曲だったのだろうか。いや、そんなことはない……。やがて思い出し、ひとつの確信を得た。中学高校時代に買い集めたレコードのうちの一枚だったのだ。中学2年生のときに、クラシック音楽好きの友人に誘われて「コンサートホール」なる頒布会に入会し、数年間で数10枚ほどLPを買い漁った。コレクションはすでにとうの昔に処分してしまった。


昨年31日、土曜日。パリ11区はサンタンブロワーズ(St-Ambroise)のアパートを午前10時に出て地下鉄経由でリヨン駅(Gare de Lyon)へ向かった。そこで高速郊外鉄道(RER)に乗り換えて一路西北西へ。わずか半時間ほどのうちにパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー(St-Germain-en-Laye)に到着した。あのルイ14世ゆかりの垢抜けた近郊の街。セーヌ川が流れている。

ドビュッシーは1862年にここに生まれ、パリ音楽院に入学する10歳まで育った。駅から教会に向かって歩いてすぐの所にドビュッシーの像がある。小ぢんまりとした街中の通りを歩いてみた。色合いも佇まいもセンスのいい街だ。小さな避暑地のような観光風情もある。通りを隔てたすぐそばに城があり、現在は国立考古学博物館に転用されている。店頭で売られていた小さなパンを口に運び、カフェに寄って濃厚な一杯を楽しむ。

ドビュッシーの旋律から一年半前のパリ近郊の街へタイムスリップしてしまった。

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教会
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ドビュッシーの銅像
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街角
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店の看板
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考古学博物館の外観
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中庭の景観
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RER線を走る列車。フランス国旗のトリコロールをモチーフにしたデザイン。

イタリア紀行54「アリヴェデルチ、ローマ」

ローマⅫ

通りの名もわからない、場所も定かではない。名所であれ無名の街角であれ、歩いてはカメラを構え、時々バールに入って地図を確認する。写真ファイルを見ていると、まったく思い出せない光景が、まるで勝手に撮り収められたかのように現れてくる。これはローマに限った話ではない。自分の記憶と照合できない対象――珍しいもの、おもしろいもの、落ち着いて見えるもの、何となくいいもの――は無意識のうちに写真として取り込んでいるものだ。

アルケオバスでアッピア街道を二周した後に、バールに入りエスプレッソで神経をなだめる。アパートに戻ってリフレッシュしてから再度外出した。目指す先は、市内を眺望できるジャニコロの丘。数年前、ローマ在住の知人に車で連れてきてもらった。晴天に恵まれ、ローマ市街地とその彼方に広がる郊外を一望して感嘆した。その時の再現を目論んだ。アパートを出てサンピエトロ広場を横切り、さらに裏道の坂を上って遊歩道を進むこと小一時間、やっと丘の上に到着した。しばらくして大きな虹が出た。

ローマを唄う、バラード調で少しペーソスのきいたカンツォーネがある。“Arrivederci, Roma”(アリヴェデルチ、ローマ)という題名だ。「さようなら、ローマ」。語りの出だしがあって、そのあとArrivederci, Roma. Goodbye, au revoir”と唄い始める。イタリア語と英語とフランス語の「さようなら」を並べている。テーマは「さようなら」だが、想い出を記憶にとどめて「あなた(ローマ)のことを決して忘れない」と締めくくる。

ヴァチカン地区クレシェンツィオ通りに面した建物。大きな門を入ると、この敷地の一角に一週間快適に滞在したアパートがある。どこに行くにも便利なロケーションだった。出発の日の朝7時すぎ。アパートの責任者のフランチェスコが、とても上品なお父さんを伴って見送りにきてくれた。銀行家でシスティーナ礼拝堂の仕事にも関与しているそうだ。システィーナを紹介するポジ写真が入ったプレゼンテーションキットをプレゼントしてくれた。

旅から帰って再び旅をする。帰った直後に旅をして、半年後にまた旅をする。そして、ローマの旅から一年半経った今、また旅をしている。一回の旅で、繰り返し何度も記憶の旅を楽しめる。そして、そのつど「アリヴェデルチ、ローマ。グッバイ、オルヴォワー」と口ずさむ。

ところで、トレヴィの泉で硬貨を投げてこなかったが、ぼくは再びローマに「戻れる」だろうか。 《ローマ完》

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一週間滞在したアパート。
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理由は不明だが、当時の写真にはこの種の構図が多い。
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遠近法に忠実な、こんな無名の通りも気に入っている。
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ジャニコロの丘はローマ市民の散歩道になっている。
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ヴァチカンから南へ1.5キロメートル、そこがジャニコロの丘。上りはきつく散歩感覚どころではない。この日の夕景は幻想的に刻一刻変化した。
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遊歩道を上りつめると小高い丘のガリバルディ広場に出る。ここが絶好の展望位置。前に来た時のパノラマに惹かれて再び街を一望。旅立ちの前日、黄昏前の雨上がりの空に虹が架かった。

ローマの最終回、そして「イタリア紀行」の最終回。訪れながらもまだ取り上げていないイタリアの都市がいくつかある。気の向くまま折を見て紀行記を綴りたいと思う。