店じまいの戦術と現実

靴下を買おうと、店じまいと貼り紙してある肌着のディスカウントショップに入った。「店じまい」の文字を目にしてから数年が経つ。アパレルの卸売りや雑貨問屋が多い土地柄なので、閉店セールを年がら年中やっている店が少なくない。閉店と謳いながら閉店しない店ほど目立つ。

店頭で店じまいを通知するが、ほどなく無事に・・・閉店するのはごくわずか。ほとんどの店じまい宣言店は宣言後もずっと続く。これらの店では「店じまい」は「閉店しない」の同義語だ。「閉店を告げ、在庫一掃して安く売る」という恒常的な業態戦術である。これを閉店商法と言うが、万が一本当に閉まってしまうと逆に驚いたりする。

ギャグ①
「この閉店セール、いつまで?」
「うちが潰れるまでやりますよ」
ギャグ②
「閉店セール大好評につき、閉店は延期!」
ギャグ③
「お店、いつ閉めるの?」
「その時が来たらね」
ギャグ④
「毎週土曜日は閉店セール。年中無休」


本気で店じまいしようと安売りしたところ、話題になって客が殺到した。そんな日が毎日続いて、想定外の大きな利益が出た。閉店なんかしている場合ではない。こういう店は閉店を宣言したまま商売を続ける。「やめようと思ったし、今もそう思っているけれど、顧客満足優先です」。

冒頭のディスカウントショップでは、閉店セール中、レジカウンター内で社員がだいぶ先までの仕入れの話をしているのを聞いたことがある。やる気満々だ。

大阪に閉店セールで有名な店があった。何年どころではない。よく知る人によれば十数年ずっと「もうアカン!」という看板を掲げていたらしい。そしてついに閉店商法にピリオドが打たれ、正真正銘の店じまいの日がきた。大きなニュースになった。

コロナが蔓延して止みそうにない昨今、閉店商法はもはやギャグではなくなった。閉店セールの貼り紙は戦術ではなく現実なので、下手にいじることもできない。閉店商法華やかなりし日々は、ある意味でものがよく売れた平和な時代だったのである。

言いがかりや文句ばかり

想像以上に事態が長引いている。コロナである。もはやご丁寧に「新型コロナ」などと言わなくていい。すでに第5波と言うから、長引くという表現は生ぬるい。まだ感染拡大傾向にあるなら「こじれてしまっている」と言うべきか。厄介だが、個人で対処できることは限られている。

現実を受け止めるしかないが、受け止め方や反応はいろいろ、人もいろいろ。淡々と日々を送る人、じっと辛抱している人、開き直っている人、自暴自棄になっている人、ストレスをため込んでいる人、苛々を文句に換える人……。

この人、変わったなあと思う場面が増えた。これまでは温厚だったのに、相手不特定のまま言いがかりをつけたり文句を垂れたりするようになった人。何事にもハハハと笑い飛ばしたり大らかに処していたのに、今はSNSでもメールでも過激に吠えまくる人。わずか23行の言いがかりや文句だから、解決案も理由も特に書かれていない。

ステイホームでひきこもるのもストレスがたまる。仕事がキャンセルになる、延期になるのも当たり前。さっき電話があって、再来週の出張が10月以降に延びた。自分の思うようにならない。この機会に暮らしや生き方の見直しをしてみるのも一つの解決策である。一方、一部の人たちは、以前なら見過ごせた些事に不平をこぼし不満を募らせる。不平、不満は「不機嫌」と化し、やがて「不賛成」へと高じ、仮想敵と対立する。公開の場のクレーマーはたちが悪い。


本ブログに『世相批評』というカテゴリーを設けているが、理由付きの批評をしようと思ったら数行では無理で、経験的には少なくとも千字を要する。数行の世相批評ではモラルを欠くし、ことばを選ぶ余裕がない。ストレス解消のための自分勝手な言いがかりだけで終わる。それを主義主張だと思っているから、揚げ足を取っていちゃもんをつけ始めると止まらない。

ある種の素直な諦観がないと現状は曇って見えてしまう。企画研修でも一番難しいのは現状分析だ。企画初心者の分析のほとんどは現象面への文句に近い。現状の原因解明はかなりアバウトである。そんな思いつきのような分析からは解決策が出てくるはずもなく、仮に出てきたとしてもその出来は推して知るべしだ。と言うわけで、言いがかりや文句のメッセージが目に止まった瞬間、脳内シュレッダーで裁断している。

素人の評論は玄人の評論と違うべきであり、違うがゆえに素人の批評が意味を持つ。評論をなりわいとする批評家と違って、ぼくたちアマチュアの世相批評は言う人・書く人も聴く人・読む人も楽しまなくてはならない。言語的に過激になりがちなところをちょっと我慢して、ユーモアや愉快の味付けをしてみるのだ。

知人とのやりとりを元に本稿を書いたが、ユーモアや愉快の味付けができなかった。反省している。千字以上費やしても批評は容易ではない。

私的ニューズペーパー事情

新聞を購読する世帯がどんどん減っている。ここ数年特に顕著だ。購読者が減れば発行部数が減る。ちなみに、2020年の発行部数は2017年に比べて700万部も減少した。部数だけで価値を評価すべきではないが、他のメディアに比べて新聞への情報依存率が低くなったのは明らかである。

今のマンションに引っ越した2006年、一番に訪問してきた販売店の新聞を購読することにした。当時はまだ勧誘が活発で、初月無料や美術館チケットの配付などのサービスがあった。新聞にはよく目を通し、公私に役立ちそうな記事はマメに切り抜いて再読したりもした。しかし、34年前からあまり読まなくなった。そして、ついに20195――記念すべき令和元年早々に――購読をやめた。

新聞がないと情報オンチになるかもしれないと危惧したが、この2年、特に困ったことも不便もない。テレビとネットがあればビッグニュースには事欠かない。新聞ならではの小さなエピソードや夕刊にしか載らないようなローカル事情には疎くなったが、一大事ではない。但し、万事がオーケーでもない。ネットで情報渉猟しているうちに、読みたくもない記事に晒され、つい目を通してしまう。


新聞購読をやめてからテレビの情報ではさすがに物足りないと感じることがあり、そのたびに購読再開をちらっと思うこともある。しかし、購読をやめた直後の状況をもう一度思い起こしてみる。新聞のない朝が考えられないと思っていたのに、やめても何も変わらなかった。毎日読むのも記事をクリッピングするのも必要不可欠なルーチンではないこともわかった。

そうこう考えているうちにあることに気づいた。なぜ今まで気づかなかったのかが不思議である。実はマンションの二軒隣のビルの1階にコンビニのLがあるのだ。購読していた時は、寒い朝も慌ただしい朝も8階から玄関横のポストまで取りに行かねばならなかった。しかし、それを13年続けたのだから問題ない。なにしろわがポストからコンビニはわずか30歩なのだから。

コンビニならその日の気分でそのつど毎日、朝日、日経、読売、産経から選べる。場合によってはスポーツ新聞でもいい。読みたいか別に読まなくていいか、朝に決めればいい。あの話を詳しく読みたいという日に買うのでコスパがいいのである。夕刊が読めないことと購読に比べて一部20円ほど高くなることくらい大したことはない。

先月から実践し始め、土、日を含めて週に3回ほど買って読む。先週は土曜日に朝日、日曜日に毎日を買った。早朝にマスクをつけてコンビニに行くのにも慣れた。買うのは新聞だけなので手ぶらで行ってスマホ決済する。毎回「レジ袋はいかがいたしましょうか?」と「レシートはご入用ですか?」と聞かれる。これにはまだ慣れない。

「コード」という線引き

「スーツ2着買うと60%OFF!」
「創業祭につきジャケットとツーパンツが半額!」

こんな値段でいいのだろうかとこっちが心配してしまうA山やA木のような量販店ならよくあるキャンペーンだが、地元密着型の高級服専門店である。何度か利用しているから応援したい気持はあるが、不買癖がついた今、よくスーツを買っていた頃の半額以下と知っても、店に足を運ぶ気にはならない。もうスーツの出番がほとんどないのだ。

クールビズが浸透してネクタイが売れなくなったと紳士服店が嘆いたのもだいぶ前の話。売れ行きが悪くなったのはネクタイだけでない。スーツやジャケットの在庫も増える一方らしい。とりわけ夏スーツは売れない。大手企業でも行政でも4月~10月はノーネクタイは当たり前。年中ノーネクタイを推奨する職場さえある。そして、スーツ姿もどんどん減っている。

年中ノースーツ・ノーネクタイの、いわゆる「業界人」がいた。仕事が欲しいと言うから、ある企業幹部に引き合わせた。相手が客先で初対面という状況であるから、当然スーツ姿と思っていたら、カジュアルジャケットにノーネクタイで現れた。後で一言注意しておいた。「その服装では紹介者のぼくが困る。相手が服装に寛容か厳格かとは関係なく、初対面ではスーツにネクタイだ。大は小を兼ねるというのと同じこと」。


彼にはフォーマルとインフォーマルを分別する独自の〈コード(code)〉があるのだろう。よほどの自信がなければ貫けない。しかし、冠婚葬祭では礼服に白のネクタイを締めていた。やっぱり相手やTPOを気にしているのだ。

コードとは「規則」である。ドレスコードは服装に関する規則。その規則は時間帯、場所、場面、集まる人々に応じて微妙に変わる。規則に従順になるのは保守的だが、規則に逆らって自分流を貫くのも、ある意味で保守的だ。あるコードの否定は別のコードの肯定にほかならない。

二十代半ばの1年間、東京に赴任していた。アフリカのとある国の大使館主催のパーティーがあり、招待されていた上司が直前に参加できなくなったので代わりに出席することになった。わずか1年の滞在だったので身軽に引っ越していた。当然礼服など持っていない。上司は礼服で行けと命じる。月給の半分ほどもする礼服を買わされ渋々パーティーに行った。

会場に着いたら、開始時刻前なのにすでに飲み食いが始まっている。イブニングドレスの女性は何人かいるが、礼服を着ている男性はぼくを除いて誰もいない。主催者側に民族衣装が何人かいるが、出席者はほとんど普段着である。式次第なし、ドレスコードなし、名刺交換なし。誰かがテーブルへ誘ってくれて少し飲んだが、何も食べずにずっと面食らったままだった。1時間半ほど過ぎた頃、大使が現れ「お越しいただきありがとう」の挨拶でお開き。

どこからどこまでをコードとするか……線引きは難しい。

トッピングの作法

日常使われるようになって久しい〈トッピング〉。綴りは“topping”で、おなじみの“top”から派生したことばだ。名詞なら「頂上、先端、最高」などを意味する。動詞から派生しているので、トッピングには「付ける、覆う、乗せる、塗る」のようなニュアンスがある。

トッピングは料理や菓子の上に食材や調味料をふりかけたり乗せたりすることをいう。よく目にするのは、アイスクリームにチョコやナッツをふりかけること、ピザにベーコンやピーマンをあしらうこと、ケーキに粉砂糖をまぶすこと。トッピングが洗練になるか野暮になるかは紙一重。抑制気味にふりかけ、まぶし、あしらうかぎりは料理を下品にしない。しかし、盛り過ぎると残念なことになる。

デザートのケーキとフルーツにミントの葉をあしらい、粉砂糖をまぶす。

具だくさんになって主役の料理がぼんやりしたり、場合によっては台無しになることがある。麺類は昔はシンプルだったが、今は盛るのがはやりのようだ。麺が見えなくなるほどトッピングしたら野暮である。具を多くしたいのなら別皿にして食べればいい。麺類の主役はあくまでも麺である。但し、トッピングを特徴とする海鮮丼やピザはこの限りにはあらず。

有名なお好み焼き店がある。一度行ってみようと思っていた矢先、テレビ番組で紹介され、見ただけで嫌になった。お好み焼きに高級なイセエビやステーキを乗せるのである。お好み焼きは豚肉かイカか、せいぜい二つ三つの小さな具の組み合わせでいい。高級食材をトッピングするコンセプトはたいてい気まぐれだ。そんなことでお好み焼きが進化するわけではない。贅沢にして値段を吊り上げる店側のメリット以外にいいことは何もない。

食のみならず、暮らしや仕事にもトッピングの加減がありそうな気がして、暮らしや仕事のあり方についていろいろ試行錯誤してきた。何かにつけてまずシンプルを目指すのがよさそうだと思うようになった。過剰と不足の見極めが難しく、何事にもシンプルを徹底できているとは言えないが、迷ったら、ひとまず下手なトッピングや過剰を回避するようにしている。

メモと衣食住

大阪で3度目の緊急事態宣言が発出される前日の土曜日。もう少し先まで開催されるはずの小さなコレクション展は急遽その日が最終日になった。若い女性画家の展覧会である。入場料が無料の上に、小冊子と呼ぶには立派過ぎる、画家がセレクトした60ページの作品評集、それに画家自身のポートフォリオまでいただいた。

小冊子をめくる。図録から引用されたある画家の一文に目が止まる。

「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚してしまったところに盲点があった」

世の中、アヴァンギャルドな青少年ばかりではない。普通の少年なら衣食住優先の生き方がたいせつだと知らず知らずのうちに刷り込まれる。「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚……」という一文の「美術」の箇所には、衣食住に直接関わらないモノやコトなら何でも入る。思い当たることがいろいろある。

もう40年以上、何かにつけてメモを取ってきた。忘れないためだけでなく、メモにはペンを手にしてノートに向き合えば知恵を絞りだす効能があるからだ。長く習慣にしてきた者にとって、メモを取るのは苦痛でも何でもない。それは、ヘッドホンでいつも音楽を聴いている人と同じで、楽しい、なくては困る、生活の一部……と言うべき存在になっている。


このところよく言われる不要不急論と衣食住優先論はよく似ている。衣食住以外のたいていのことは、極論的に言えば不要不急なのかもしれない。いや、衣食住のうちにも不要不急扱いできるモノやコトが少なくない。しかし、生活は――つまるところ人生は――要か不要か、急ぎか不急かで線引きできるほど単純でないことは誰もが百も承知している。

ぼくが中高生の頃、「芸術なんぞでは食っていけない」という大人たちのことばをよく耳にした。衣食住では食が最優先されていた証だ。食っていくことを抜きにして、文化だの芸術だのとほざくわけにはいかんぞということだったのだろう。

文化芸術にしてそうなら、散歩も雑談も読書も当然衣食住に優先することはなく、ましてやメモを取るような行為がその上にあるはずがない。メモを熱心に取りながらも、まあ、なければないで困ることはないだろうと最初の頃は思っていた。ところが、そういう物分かりの良さ、大人の常識になびく事なかれ主義が、大変な錯誤だということにまもなく気づいたのである。

衣食住満たされてこそのメモと言えるなら、メモ取りができてこその衣食住とも言え、それで何の不思議もないではないか。「メモが取れなければ、生活も人生もなく、衣食住を考えるどころではない」という思いを、何を大げさななどと自ら言ってはいけないのである。

文化や芸術がなく、散歩も雑談もせず、その他諸々の不要不急を抜きにして、現代人はギリギリの必要条件を満たそうとするだけの衣食住生活を送ることができるのだろうか。

インバウンド―狂騒後の競争?

大阪ミナミの台所だいどことして庶民と繁華街の飲食店に食材を供給してきた黒門市場。年末になると正月準備の客で溢れる。テレビ中継も恒例。しかし、戦前から続く食文化の担い手は凋落傾向を示し始めた。十数年前のことである。商人が玄人客や通を相手にするような伝統的商売の雰囲気が残り、現代の客層には合わなくなっていたのかもしれない。

ところが、凋落に歯止めをかける幸運に恵まれる。観光ブームである。大阪のインバウンドは2011年頃から増え始めていた。何とかせねばと、外国人観光客に目をつけた黒門が仕掛けた。店頭売りの食材をその場で客の好みに応じて調理し、イートインできる仕組みを売り出したところ、外国人――主にアジア系、特に中国人の――観光客が大挙押し寄せるようになったのである。

あっという間に観光客が日常の買物客を上回り、ここ23年で、外国人観光客と日本人の比率は91になった。何度か「視察」に行ったが、人混みで思うように歩けなかった。これまでは店頭で品定めして魚介類を買ったりしていたが、店員が相手にするのは観光客ばかり。魚屋が彼らに大トロの寿司やカニを売り、店内に誘導して食べさせる。魚貝もそうだが、神戸牛の串焼きステーキなど、日本人が手を出しづらい値段のご馳走が飛ぶように売れた。「ぼったくり」と言ってもいい価格設定だった。


2019年の黒門への観光客は毎日3万人ペースだったらしい。全国的、いや、世界的にもインバウンドでもっとも成功した事例の一つだったのは間違いない。この勢いが新型コロナで急転直下、今年の2月、観光客が消えた。7月に現場検証に行った。全長600メートル弱のアーケードを歩くのはわずかに十数名。こっちの端から一番向こうの端が筒抜けに見えた。観光客がいなくなってもかつての常連客は戻って来ない。常連客を捨てて観光客のほうを選んだツケは大きい。

先週の日曜日、数か月ぶりに再び足を運んでみた。半分以上の店でシャッターが下りている。何年か前までおせち料理とまぐろの刺身を買っていた店がひっそりと営業していた。観光客がたむろしていた人気店だ。大間のまぐろのカマが300円、寿司が一貫200円。激安である。しかし、客がいない。観光客を避けていた日本人は、今はコロナを避けてやって来ない。帰宅して日本酒のつまみにカマをつつき、にぎりに舌鼓を打ちながら考えた。

商売は時代とともに変化する。自力では生み出せそうにない変化――別の言い方をすれば、乗っかってみるほうが楽そうな外的変化――に適応することも正しい選択になることがある。しかし、インバウンド頼みの黒門市場は、商売の原点とすべき精神性をもかなぐり捨てた。次の手となる作戦を練っているとの話を聞いたが、元に戻るのは容易ではないだろう。元に戻れないのなら新たな変化を生み出すしかないが、数年間ずっと無思考に近かったはずだろうから、これもまた難しい。

市場には歴史に育まれてきたルールが必ずある。「見えざる手」などは抽象概念で、そんなものは誰の目にも見えなかった。しかし、なぜあの時、なりふり構わずインバウンド相手の商売に走ったのか。そんなことはこれまで微塵も考えたことがなかったはずのに……。目先の実利を追いかけさせようと、やっぱり見えざる手が動いていたのだろうか。

テレワーク考

今から35年か40年程前に、通勤せずに自宅で仕事をするという発想が生まれた。コンパクトなパーソナルコンピュータが普及し始めた時期と重なった。わが国で現在「テレワーク(teleworking」と呼ぶ仕事形態のコンセプトはアメリカで最初に生まれたが、当時は「テレコミュート(telecommuting)」と呼ばれることが多かったように記憶している。

テレワークでは「仕事」に焦点を当てられ、テレコミュートでは「通勤」を重視する。つまり、会社から離れた場所で仕事をするのが前者、通勤しないで自宅で仕事をするのが後者である。「(tele)」には「離れた」とか「遠くの」という意味があり、テレビもテレフォンもそういう機能を持つ。「リモート」も同じような意味だ。

当時のテレコミュートはほぼ在宅での仕事を指していたが、昨今のテレワークの場所は必ずしも自宅とは限らない。出張先のホテルの部屋で仕事をすれば、それもテレワーク。家の近所のカフェで仕事をしてもテレワーク。どこにいても仕事ができる人、わざわざ出社しなくてもいい人がおこなうのがテレワーク。

さて、テレワークいいのか、テレワークいいのか、テレワークいいのか、テレワークいいのか……。人それぞれの思いがあるはず。


長い歴史の中で、人は孤立しては何事もできず、人と人は共に働き生活し、直接出合っていろんなことをこなしてきた。このことを持ち出してテレワークに異議を唱えると、速攻で「感覚が古い」と言い放たれる。しかし、テレワークだけで仕事の任務をすべてこなせるのは、10人に一人もいないというデータがある。テレワークではいかんともしがたい仕事・職種が世の中の大半を動かしているのだ。

都会はコロナで危険だ、ローカルのプチ別荘でリモートすればいい……トレンドに敏感な連中はこのように考える。考えるだけでなく、すぐに行動する。少なからぬ人たちがそうしようとするから、地方の空き家や古い別荘が値上がりし始めたらしい。慌て者が束の間のバブリーな流れを作ってしまう。

緊急に対応すべきはリスクであって、ライフスタイルやワークスタイルではない。歴史上に生活や仕事の大転換期は何度もあったが、変革は可逆的であり、反省や改良を通じてある程度元に戻る。二、三カ月自宅で仕事をした人も、やがては会社に呼び出されて以前と同じワークスタイルを再開する。

テレワークに期待しない立場は保守的かもしれない。しかし、ファックスやメールが普及しても顧客先への訪問機会は減らなかった。メールで送ればいい文章なのに、打ち合わせをしたいと呼ばれてスタッフは先月上京した。会うことには儀式性があり信頼と安心がある。どんな仕事であれ、人と人はある程度会わねばならないのだ。人と人が居合わせてわざわざ執り行う仕事を――その機微やニュアンスまで――ITが感じ取って画面とメールでこなしてくれるなら、もちろん、それはそれで歓迎しないわけではない。

じれったいジレンマ

二つの事柄が葛藤する様子をジレンマと呼ぶが、実際に葛藤しているのは人の心だ。ある人にとって二つの事柄が相反しているように見えても、別の人には両立する事柄であったりする。たとえば、生活と仕事のジレンマに苦しむ人がいれば、その二つは本来調和するのであって決してジレンマではないと平気な顔して言い放つ人もいる。

誰にでも同じジレンマがあるわけではない。二つの事柄が両立しないのみならず、片方だけでもうまくいかないこともある。思うようにならずイライラする。もどかしい。そう、事柄の問題ではない。ジレンマとはじれったい心理状態にほかならない。

理想と現実は二項対立としてよく語られる。たいてい一致しない。では、理想と現実が葛藤する状態はジレンマなのだろうか。現実を放棄するわけにはいかないから、頭の中のある種の「絵空事」を諦めるか描き直すしかない。理想に現実を近づけるのが難しいと判断すれば、いとも簡単に理想を捨てるのが人の常。では、懐疑と決断はどうか。この二つはジレンマの関係にあると思われる。同時に成り立ちがたく、また、迷ったり疑ったりしていると決心はつかない。他方、決断してしまうとあれでよかったのだろうかと後になって疑心が追いかけてくる。〈?〉と〈!〉の間を行きつ戻りつするのはジレンマだ。


昨今もっとも顕著なジレンマと言えば、”Go to トラベル”だろう。国民に旅してもらって観光を活性化させたい……しかし、新型コロナ感染が恐いのでほどほどに……密は困る、東京の人も困る、東京へ旅するのも困る……いや、ちょっと落ち着いたから、東京も、ま、いいか……。まるで駄々をこねる子どものような政策ではないか。したいとしたくないが葛藤している。

経済と安全、経済と秩序など、そもそも経済は「何か」と折り合わないのが相場である。経済には他の要因を抑え込んで強引に事をすすめていくところがある。経済はわがままな上司に似て、ペアを組んだら言うことを聞くしかない。したがって、コロナ対策と経済のジレンマ関係においては、有無を言わずに経済重視になる。コロナに一喜一憂しないという覚悟だ。いや、安全対策を講じると言うが、マスクと消毒液と人数調整以外に目を見張るような対策はまだない。

経済よりも観光や芸術や文化を優先して持続可能な安定を築いてきた時代や街もある。しかし、観光や芸術や文化もウィルスや病気には勝てない。しばらくはじっと我慢するしかない。我慢を続けられるかどうかは、ポリシーといくばくかの貯金次第。つまり、経済的メリットが出ている時にこそどう振る舞うかが問われるのだ。それはある種の危機管理でもある。

その値段とその欲望

今から約40年前のポーランド。食肉事情が激変した。肉の供給は難しくなり、食料品店の前では肉を求めて何時間も長蛇の列ができる日々。実際に食肉は大幅に値上がりした。しかし、ジョーク的にはそうではなかった。

ある婦人が店から出てきた。取材班がインタビューした。「奥さん、肉の値段はどうでしたか? かなり値上がりしていましたか?」 婦人が答えた。「値上がりなんかしてないわ。だってもの・・がないんだから」。

以上のような話が『食と文化の謎』(マーヴィン・ハリス著)で紹介されていた。なるほど、「もの」があるから値段がつく。それでこその物価だ。ものがないのなら、たしかに値段はつかない。つけようがない。

需要に供給が追いつかないと物価は上昇する。欲しい欲しいと言う人が増えているのに、品薄なのだ。逆に、いつでも手に入るようになると欲望が抑えられ、ものが過剰になり売れにくくなる。すると、物価は下落する。一般論ではこういうことになる。価格が上がると買う気も萎えるものだが、肉食文化にとって肉は必需品であるから、品薄であろうが高かろうが買いに行って並ばねばならない。


6月に鹿児島か宮崎かの国産鰻を買って冷凍しておいた。721日の丑の日はその鰻を家で食べた。ちなみに、丑の日に鰻の売り買いの現場をチェックするべくスーパーを覗いてみた。昨年から稚魚の養殖がうまくいったので、今年は昨年比で12割値下がりして買い求めやすいという。供給が増えれば値段は下がる。少々値が張っても丑の日には食べたい人が多いから、下がればなおさらのこと。売れる。

しかし、ちょっと待てよ。それならば、たまに行く近所の鰻屋も今年は値下げするべきではないか。ところが、値下げどころか、あの鰻屋は上うな丼2,800円を3,200円に「値上げ」したのだ。需要と供給の一般的なセオリーでは説明がつかない荒技をかけたのである。

鰻という市場をスーパーマーケット的なマクロでとらえれば、需給の法則はある程度成り立つ。けれども、件の鰻屋の主人と客であるぼくの一対一の関係においては、そんな法則は当てはまらない。値上がりしても通いたい消費者がおり、値上げしなければやっていけない商売人がいる。それぞれに事情がある。コロナで席数削減の折り、400円の値上げはある種のテーブルチャージなのだろう。