説明の加減

加減とは調ととのいとしつらえの状態を表わす。あることの具合が快ければ「良い加減」と言い、プラスの意味になる。しかし、「いい加減」となると意味はマイナスに転じる。おざなりで、でたらめで、中途半端なさまだ。

昨今将棋の人気が高まっている。おびただしい将棋ソフトが開発され公開されている。最上級のソフトは最先端の人工知能を搭載し、プロをも脅かすほどのレベルに達した。そのレベルには到らないものの、アマ上級者が太刀打ちできない無料ソフトがいくらでもある。先日、アマ二級~初段レベルのソフトを見つけ、指してみたら余裕で何連勝かした。将棋のルールが3ヵ条に要約されて説明されている。

1   王を取ったら勝ち
2   取った駒は好きな場所に打てる
3   敵陣に入ったら成ることができる


将棋を嗜む者にとっては、上記の3つのルールは説明されるまでもない。こんなルールよりもパソコン上での駒の操作のほうが重要だろう。他方、将棋の入門者はこの3つのルールを知っても将棋は指せない。何ヵ月か熟達者の指導を受けないと、このソフトが使るようにはならない。

1 たしかに王を取れば勝ちだが、王の取り方がわからない。自陣の駒の動かし方がわからなければ、王を取るどころか、敵陣にも入り込めない。
2 取った駒は好きな場所に打てる? いや、好きなマス目に必ずしも置けないのだ。飛車と角と金銀はどこにでも打てるが、敵の駒がある所に重ねて置けない。歩と香車と桂馬は盤の最上段には置けない。
3 敵陣に入ったら成ると言うが、この「成る」という意味が初心者には理解しがたい。成るとは駒が裏返って本来の能力をアップすること。なお、王は敵陣に入っても成ることはできない。

以上のように補足しても将棋は指せない。良い加減の説明が難しい。駒の動かし方は基本の基本だが、覚えてから将棋を指せるようになるまでの道のりが長いのである。そんな将棋を4、5歳までに覚え、小学生でアマ高段者の大人と互角に戦うようになるプロのタマゴの天才ぶりは驚嘆に値する。

エコとエゴ

環境保護という四字熟語に絶対的信頼を置かないほうがいい。エコ、エコ、エコと繰り返される日々だが、エコがこだましてエコー状態だ。エコを叫ばなくてはならないのは、エコが「使い捨て文化」とセットだからである。

なぜ使い捨て文化になるかと言えば、買い過ぎるからであり、安直なものを買って壊れるからであり、飽きるからであり、モノの価値が執着するに値しなく思えるからであり、修理するよりも買い替えるほうが安くつくからだ。まず、エゴという名の、この悪しき文化的習慣を見直さねばならない。

欲しいわけでもないものを安いという理由で買う。気にも留めていなかったものを広告にそそのかされて衝動的に買う。いつ頃からこうなったのかという社会文化的分析をするまでもなく、個人的な経験を手繰って祖父母の時代とぼくらが生きている現在を単純比較してみれば、おおよその見当はつく。


使い捨て文化を改めるには、保有しているものを長く使う意識を根付かせるしかない。モノというのは捨てるものではなく、上手に長く使い、壊れたら直すという、かつての本能を思い出す。すると、財布のひもが堅くなるから、作り手も売り手も品揃えや安物を控え、たまにしか買ってもらえないが、長持ちする高価な商品に注力する。すると、モノが今のようには売れなくなり経済は縮小する。

いかにも、大経済から小経済、大商圏から小商圏、まるで町内でモノの売り買いをするような経済になり、シナリオ上は待望のエコ社会が実現するのである。必要以上に欲しがらず、したがって、売り手も濡れ手に粟を夢見ることはなくなる……。しかし、これを望んでいないのは、実は買い手であり使い手のほうなのではないか。

捨てないためには、捨てるものがないようにすればいい。つまり、次から次へと買わず、いったん買えば長く使うという習慣を身に付けるしかない。とは言え、すでに持ってしまったのである。持ってしまったものを捨てないからと言って、新たに買わないとはかぎらない。エコの精神はエゴの欲望の壁になかなか打ち克てない。

力(りき)む観光施策

街歩きは日課みたいなもので、人並み以上によく歩く。週末にはメトロで45駅の距離を往復する。居住地とその周辺は人口密度の高いエリアなので、大通りから裏通りまで四方八方道が走っている。つまり、目指す地点まで選べるルートは何十も何百もあるということだ。

どこを目指すにしても、気分転換のつもりで道順を変える。数ヵ月通らないと周辺の光景が変わり、見覚えのない街並みが出現していたりする。歩いていると前を行く人、後ろから来る人から聞こえてくるのは中国語や韓国語ばかり。その他のアジア人もよく見かけるし、カフェのテラスには西洋人がふつうに座っていたりする。

一目ホテルだと分かる建物もあれば、和風に設えた観光客向けのホステルがあったりする。

どんなふうに光景や街並みが変わっているか。新築マンションも建つが、何よりも目立つのが観光客をターゲットにした新しいホテルやホステル、民泊の類である。ワンブロックごとにホテルが一棟建っていることもある。増えたなあと言う印象では済まない。もはや乱立状態なのだ。宿泊施設に伴って近くの飲食店や販売店も装いを新たにする。店頭や店内の表示に日本語がほとんどないドラッグストアも珍しくない。何かもが観光客スペック。しかもオーバースペック。生活者仕様の場所を探すほうが難しい。


京都の知人が自民党総裁選の街頭演説に出くわしたという。安部首相は「訪日外国人観光客は就任当時800万人だったが、昨年は2800万人に増えた。観光を京都の成長の起爆剤にしていこうではありませんか」と訴えていたらしい。数値で観光の活性度を示そうとする発想がそもそも古い。

対して、石破氏の主張は「外国人観光客が京都府域で落とすお金の95%が京都市。舞鶴、宮津、伊根など、いろんな魅力がある。それをどうやって伸ばしていくかだ」というもの。観光の一極集中を嘆いているわけだが、これも多寡の話。地味かもしれないが、小都市の地道な質的取り組みの現状に気づいているのだろうか。

国家の唱える観光施策がりきんでいるように見える。観光を”ハレ”の現象として捉えている間はまだまだ本物の観光立国への道遠しと言わざるをえない。観光老舗の京都などは国家の認識よりもよく観光の何たるかを心得ている。これはパリやバルセロナやフィレンツェなどにも言えること。生活者の”ケ”としての街あってこその観光である。ケの母屋がハレに軒を貸しているという構造なのだ。

観光客のための街の整備や建築ラッシュなど目先を追っていると、やがては観光価値を失うことになる。よそ者がよそ者ではなく、滞在中に生活者と同じような視点で街を見ることができてはじめて、真の観光都市に値する。わが国家の感覚は未だに観光後進国的と言わざるをえない。

粋と野暮

粋の世界は難しい。今も昔も、上方の「粋」と江戸の「いき」はおそらく違っている。一般的に上方では漢字で、江戸ではひらがなで表記されることが多かった。人によっても使い方が異なる。九鬼周造のあの本は『「いき」の構造』である。

遠目に粋に見えていたものがクローズアップされたり身近に迫ってきたりした瞬間、野暮に映ることがある。何かしら妙味や面白味に欠けてしまって見える。その逆に、副次的なディテールがうまくいっても、大局を誤っていると話にならず、これもまた粋でなくなる。匙加減が微妙なのだ。


芥川龍之介に鹿鳴館を舞台にした『舞踏会』という短編がある。話の終わり近く、フランスの海軍将校が舞踏室の外にある星月夜の露台に明子を誘う。それに先立って明子が将校に「お国のことを考えていらっしゃるのでしょう」と尋ねるシーンがある。将校はフランス語で「ノン」と言い、何を考えているのか当ててごらんと返す。

露台からは赤と青の花火が見える。花火は闇を弾きながらまさに消えようとしていた。将校は明子の顔を見おろしながら言った。

「私は花火の事を考えてゐたのです。我々のヴィのやうな花火の事を」

少年の頃に読んだこの小説の、このくだりが鮮やかに記憶に残っている。気障ではなく、これをこそ粋と言うのだろう。

仕事場から徒歩圏内の天神祭が一週間前に終わった。毎年思うのだが、あの祭りにはギョーカイ的なクロウト臭が漂う。船に乗っている連中が橋の上の人々を見上げて、しかし見下げているような……。偏見かもしれないが、特権的な何か……。表向きは誰にでも開かれているようで、独特の閉鎖性を祭りに感じることがある。花火一つ取っても、ことばと空気が粋と野暮の分岐点になる。

最近耳障りな不粋はあのコマーシャルだ。「文字が小さすぎて読めない!」と怒って企画書を放り投げるのは筋違い。「オレの目のせいで字が読めない……」とうなだれて静かにつぶやくべきところではないか。おとなの粋がない。野暮である。少々どころか、キャストにはかなりがっかりしている。

プラス2円の面倒

たまにページを繰る切り絵のカードブックがある。自宅に置いていたのを今日オフィスの書棚に移した。ポストカード24枚を糊付けした一冊。イラストの図の形がいい。色の組み合わせのセンスも洗練されている。

ポストカードブックとでも言うのだろうか、この種の本を何冊か持っているが、糊で綴じた箇所を切り離すには少々勇気がいる。ばらして書簡として使ったのは日本手ぬぐいの絵柄をあしらったポストカード集一冊のみ。全部使うと表紙と裏表紙だけが残る。痩せ細った憐れな姿に一変するが、捨て切れない。

オフィスに持ってきたのは、イラストレーター山本祐布子という人の”Home and Form”という本。発行は2003年。すべてのポストカードの裏と奥付に「80円切手を貼って投函してください」という注意書きがある。そのことに今日はじめて気づいた。2018年現在、この注意書きを真に受けると2円不足になる。著者や発行者を批判してもしかたがない。郵便料金の変更にまで気遣えなかったのだろう。


封書の切手代が10円から15円に変わった。中学時代、当時流行った文通をしていたので記憶の片隅にある。調べたら1966年、当時は高校一年生だった。その6年後に20円に、さらにその4年後に50円に値上げされた。電子メール出現のはるか昔のこと、たまに手紙を書いていたから知っている。

1981年に60円になり、1989年に62円になった。手元に60円切手のシートが何枚もあったので、62円に強い中途半端感を覚えた。そのつど2円切手を足していたのである。言うまでもなく、2円という端数は消費税3パーセント分だ。1994年に80円になった。大幅な値上げだが、端数が消えてほっとしたのを覚えている。

その後の20年間はずっと80円。価格安定期に入った。件の本は2003年発行だからそのど真ん中にあたる。長い80円時代にかなりの量の記念切手をシート単位で買った。しかし、2014年に消費税が8パーセントになったため再度の値上げ。そして今の82円になった。また端数である。しかもその端数の2円に例のキモチ悪いウサギの絵の切手を貼り足さねばならない。あまりキモチ悪いので、最近は前島密の1円切手を2枚貼ることにしている。切手3枚になるので宛名面は見た目かなり煩雑である。

身近な誤情報

どちらかと言えば、取るに足らぬ一件である。言い間違いだったのか聞き間違いだったのか、勘違いだったのか、あるいはそれ以外の理由だったのかはわからない。結果的に誤情報だった。

愛用ノート用に書き味のよい水性ボールペンをずっと使っている。色はブルーブラック。大それた理由はない。黒や青よりも落ち着くから。太さは中細の0.5ミリ。太めの0.7や細めの0.38も使ってみたが、インクの出がスムーズで書き味がよいのは中細。紙質を選ばないのも気に入っている。

先日、卸売兼小売業態の、品揃え豊富な大手文具店で替え芯を探したが見当たらない。五万とあるから見落としもある。店員に尋ねたところ、「そのタイプには替え芯がありません」と言う。ブルーブラックはあまり人気がなさそうなので、製造中止になったのか。「本体はそのまま売っているが、替え芯がなくなった。つまり、使い捨て?」と念のために聞いたら、自信満々にうなずいた。


たしか替え芯が60円で、それを買えば本体はずっと使えていたのである。しかし、それも数ヵ月前の話、品切れのめったにない大手文具店がそう言うのだから間違いないだろうと思い、数日後にインクがなくなったので本体を捨てた。替え芯がなければ本体を持っていてもしかたがないからだ。

別の水性ボールペンを何日間か使ったが、インクは出るが調子が出ない。本屋に行ったついでに同じフロアーの小さな文具店に寄った。本体はすぐに見つかった。レジで差出し、「このペン、替え芯が製造中止になったらしいですね」とつぶやけば、「ありますよ、替え芯」と言うではないか。あの大手、在庫切れと言ったのか……いや、もう替え芯がないというニュアンスだったぞ……。

「じゃあ、替え芯もください」。レジの女性、「私の勘違いだと困りますから、もう一度チェックさせてください」と慎重に型番をもう一度照合してくれた。「間違いありません。替え芯は何本ご入り用ですか?」 商品があるのなら何本もいらない。本体と替え芯一本を買った。考えてみれば、欲しかったのは替え芯である。替え芯を使うために本体を買うという構図になった。

ハイコンテクストな標識

前々から気になっていた標識を取り上げて、その「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」について批評したい。そもそも標識やピクトグラムの類に伝えたいことのすべてを記号や文字で表わそうと期待してはいけない。どんなに頑張っても象徴にすぎない。象徴とはエッセンスを煮詰めたものであると同時に、合理的な省略の形でもある。

「みなまで言わなくてもわかってますよね文化性」という長ったらしい言い回しは、エドワード・T・ホールが〈ハイコンテクスト文化〉というコンパクトな術語で言い表わした。コンテクストとは、お互いのことばの意味を理解する上で必要な知識や経験、時代性や価値観を示す。コンテクストがハイとは、お互いよくわかっているということだ。つまり、同質のものを多く共有しているので、「みなまで言わなくてもわかってますよね」と、相手の理解力に甘える態度が醸成される。

ハイコンテクスト文化では、伝達者や表現者は意味や意図が通じることに楽観的である。何が何でもとことん言を尽くすという覚悟がない。この対極に位置するのがローコンテクスト文化だが、標識やピクトグラムは、風土の差異を超越して簡素化される傾向がある。ほとんどすべてがハイコンテクスト的なのである。


車の免許を持たぬ身である。人生のどこかで更新しなかったのではなく、免許を取得したことがなく、したがって車を所有したこともない。免許取得のための試験の中身も当然知らない。歩行者もしくは自転車利用者側として交通標識を見ている。この標識はこういう意味であると覚える試験対策とは無縁であるから、どんな標識もその標識だけを手掛かりにして読み解く。

運転はしないが、車に乗せてもらうことが少なくないので、すでにこの標識の意味は承知している。わかっているならつべこべ言わずに済ませばいいが、「標識文法」が無茶苦茶なので黙っているわけにはいかないのだ。まず「⇒」から一方通行が読み取れない。もっと言えば、「一方通行のみ・・」であり「反対方向がダメ」まで読まねばならない。一つの記号にここまでの意味を含ませるなど、普段の会話では考えられない。

次いで、「自転車を除く」とセットにして読み解いてみる。矢印が自動車運転手へのメッセージで、「ここは一方通行のみ、逆走はできません」という意味であり、「自転車を除く」が自転車利用者へのメッセージで、「但し、自転車は逆方向にも走れます」という意味である。知っているから――理不尽ではあるものの約束事だから――そう読むのだが、こんな曲解が成り立ってはいけないだろう。素直に読めば、「車は矢印方向に走ってよろしい、但し、自転車はダメです」という意味ではないか。自転車で走っていて、引き返そうと条件反射する者を嘲笑えるほど、この標識に知恵を絞ったとは思えないのである。

仮の話

「仮定の話にはお答えできない」は政治家の間で常套句になってしまった。「もし……になれば、どのように対処するのか?」と聞かれて、条件反射的に「仮の話には答えられない」と返すワンパターン。考えてみれば、とても奇妙ではないか。企画書も設計図も、今年の夏の旅の計画もすべて仮定である。答えなかったら話は前に進まない。

仮の話に答えられないが、問い次第では答えてもいいと言うのなら、答えられるのは確定した話か既定の話ということか。「今日は何月何日か?」には答えるが、「もし今夜外食するなら、何を召し上がるのか?」には答えないということか。

では、確定や既定の話ならほんとうに何でも答えるのか。「昨夜は何を食べたか?」と聞かれて、「そんな既定の事実をなぜわざわざきみに言わねばならないのかね」と言ってもいいはずだ。「今夜、もし外食するなら何を食べるつもりか?」……これは仮定の話なのだから、それを食べなければならない義務はない。適当に言っておいて何の問題もない。


大人になったら何になりたいかと聞かれて、「仮定の話にはお答えしない方針です」と子どもは言わない。よほどひねくれていないかぎり、大人になるという仮定に立って職業や趣味の夢を語る。子どもの頃、「100万円あったら何に使う?」と教師に聞かれた友達は「たこ焼きを好きなだけ食べたい」と答えた。そんな大金を持ったらたこ焼きなど食べないだろう。しかし、仮定だからそれでいいのである。

「もし100万円拾ったら何に使う?」 今度は「拾った」である。しかし、仮定の話なのだから、ネコババするという発想も自由。「交番に届ける」というのは現実に100万円を拾うという確定後の行為だ。まず100万円は拾わないし、誰も自力で空を飛べないし、透明人間にもなれないし、未来や過去にもワープできない。だが、そこらへんを想像したり空想したりするのが創造性への目覚めというものである。

「もし都心で大地震が発生したら……」と聞かれて、仮の話だと片付けてはリーダー失格。だから、「しかるべき分析と調査によって……」云々と答える。しかし、都合の悪い話には答えない。「もし円高がこのまま推移したら……」とか「もし日本製品に25パーセントの関税がかけられたら……」と聞かれて、対策の一つや二つを即答できないなら、都合よく「仮定の話にはお答えできない」で逃げるのである。

繰り返すが、仮定の話だからこそ答えられるのであり、答えるべきなのである。そう考えるほうが理にかなっている。明日納品するという仮定に立つから、今日も仕事に励んでいるのではないか。

却下する側、される側

仕事柄、企画書をしたためて企業に提案してきた。入札の場合、競合相手がある。競合に勝ち負けは必然。この30年、勝率は8割を超えているから上々の出来である。それでも2割は負けている。勝ち負けが逆になっていたら、たぶんこの仕事の今はなかった。

企画の規模にもよるが、短くても一週間、長ければ一ヵ月近く案を練って準備をする。不幸にして、却下の憂き目に遭うと心中は穏やかではない。しかも、ほとんどの場合、却下の理由は明かされず、またコンペを勝った競合相手の案の優れた点は知らされない。敗因分析しようにも、他の案がわからないので失望をなだめるすべはない。

昨年の今頃、コンペ参加の依頼があった。得意分野の研修テーマの実施計画だったので、余裕綽々、どんな相手でも勝てると踏んでいた。意に反して、結果は負け。研修会社経由の依頼だったので、プレゼンテーションはその会社がおこなった。案は良かったがプレゼンが下手だったと思うことにして、負けを引きずらないようにした。

入札する側を何度も経験し、また入札審査する側にも立つことも多い。審査し合否を決定する側のほうが気楽である。採用案に対しては評価点が最高点だったことを示し、その理由を型通りに告げればいい。しかし、却下された案にはほとんど却下の理由は示されない。数案のうち一案だけが選ばれるわけだから、却下された他の案には「ダメでした」という結果さえ伝えれば済む。


『まことに残念ですが……』という本がある。「不朽の名作への不採用通知160選」という副題が付いている。現在超名作とされている錚々たる小説が、書かれた当初は出版社に拒絶されていた。その不採用の旨を作家に送った手紙が収録された本だ。

「まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません。」

『大地』を書いたパール・バックはこのように告げられた。本のタイトルとなった、「まことに残念ですが……」とあるだけでもまだましなほうである。

アンネ・フランクの『アンネの日記』の場合はこうだ。

「この少女は、作品を単なる“好奇心”以上のレベルに高めるための、特別な観察力や感受性に欠けているように思われます。」

『タイム・マシン』でH.G.ウェルズは次のようにこき下ろされた。

「(……)たいして将来性のない、マイナーな作家だ。この作品は、一般読者には、おもしろくなく、科学的知識のある者にはもの足りない。」

却下する側の気楽さが窺え、却下された側のやるせない思いが伝わってくる。人が他人を評価するとはこういうことなのである。ある人間の評価と世間一般の評価が同じであるはずもない。諾否を決める評価者が人それぞれの基準を持っているのは当然のことである。

しかし、今から見れば理不尽かつ滑稽な断り状だとしても、これらの不採用通知には理由が書いてあった。理由があれば、それを読んで絶望すると同時に、立ち上がる勇気の種も手に入れることができるかもしれない。“No!”の言いっ放しで済ませている当世コンペ実施側の良識と応募者への敬意はどうなっているのか。切に問う次第である。

書名から考えた

三日前に年賀状をすべて投函した。テーマは〈架空図書館〉、書いた文章は2,246文字。一度は企画されたものの出版を見送られた本、途中まで書いたが絶筆になった本などを11冊紹介した。もちろん架空である。受け取る方は楽しみにしていただきたい。残念ながら、住所の知らない人にその年賀状は届かない。

配達される年賀状から派生しそうな話を「スピンオフ」として書いてみた。年始の本編に先立つ年末のスピンオフというわけだ。架空ではなく「実在の本」を取り上げた。暮れのこの時期、本腰を入れて批評しようと思い立ったわけではない。ぼくの本への――正確には書名への――常日頃の接し方である。書名を見て考えて、読んだことにしている。

『苦手な人もスラスラ書ける文章術』
熟読も完読もしていないが、拾い読みしたところとても読みやすい本である。ところで、文章を書くのが苦手なのは、これまで書かなかったからである。そんな人がこの本を読み一念発起して書き始めることができるだろうか。仮にできるとしても、書く習慣をこれからも続けるとは到底思えない。得意としている人でもスラスラ書けないのが文章というものだ。この本は苦手な人のためになるのではなく、書くのが好きな人のためになると思われる。

『企画書は一行』
言いたいことをシンプルかつコンパクトに言い表せという意図だとわかる。一枚ならぼくも実践しているからありえると思うが、どう考えても一行は無理ではないか。企画書の一番上に「○○企画」と書いたら、もうそれで一行だ。いや、表題無しにいきなり骨子に入るとしよう。唐突に一行だけ書いた一枚の紙を誰が企画書だと思ってくれるのか。「いきなりのこの一行、何のことかさっぱりわからん」ということになりかねない。

『困った人たちとの付き合い方』
一番最初に思いつく方法は付き合わないことだが、それでは本として成り立たないから、たぶんあの手この手で指南しているに違いない。「困った人」はおおむね理不尽である。「付き合い方」は理屈である。書名に理不尽と理屈が並んでいる。経験的には、困った人が変わってくれる可能性はきわめて低い。だから、こちらが折れて変わることになる。そんなことまでして、その困った人と付き合う必要があるとは思えない。

『すべてはネーミング』
ネーミングの重要性については大いに共感する。すべてと極言したい気持も理解する。しかし、やっぱりすべてではない。名付ける対象あってこそのネーミングなのだ。商品やサービスやイベントの企画以前に名称が先行することが稀にあるが、名称だけが一人歩きできるわけではない。ネーミングだけして知らん顔できるのなら――それで仕事になるのなら――ぼくなどはとうの昔に楽々億万長者になっていただろう。