タクシードライバー

昨日、あまりなじみのない場所に所用で行くことになった。スマートフォンでチェックすると駅から1.2キロメートル。タクシーを拾おうかと思ったが、行き先を間違う恐れはないし急ぐ必要もなかったから、歩くことにした。約15分。途中「タキシーメーター」と書かれた、年季の入った看板が目に入る。タキシードみたいに見えて可笑しかったが、誤字ではない。かつてタキシーメーターという表記が標準とされた時代があったのだ。

ぼくは車を所有したことがない。それどころか、運転免許証がない。だから、車を運転しない。徒歩か自転車か公共交通機関で移動する。これらの手段で賄えない場合はタクシーを利用する。タクシーにはよく乗るほうだと思う。タクシーに乗れば、タクシードライバーと狭い空間でしばらく時間を過ごすことになる。ドライバーは初対面の客に背中を向けている。よく考えてみると、異様な構図だ。いくら経験を積んだ人でも緊張感を免れないだろう。

対人関係の仕事は大変である。その最たる職業がタクシードライバーではないか。マニュアルではいかんともしがたい融通性が求められる。あの狭い空間で、水先案内、会話、金銭授受、安全配慮など一人何役もこなさねばならない。乗車から降車までのサービスに合格点を出せるケースがほとんどだが、それで当り前だと思っているからめったに感謝感激することはない。むしろ、気分を害した経験ばかりが悪い印象となって残る。善良なるタクシードライバーには気の毒な話だが……。


タクシードライバーと言えば、ロバート・デ・ニーロ主演の同名の映画を連想する。腐敗した街を、すさんだ心の人を浄化しようと行動する男の話。デ・ニーロ扮するドライバーは無口だった。喋り過ぎも困るが、無口はもっと困る。初対面の二人だけの狭小空間の数秒は恐ろしく長い。お喋りか無口かというのは変えづらい性格であるが、そのつどの相手によっても変わる。話題によっては無口がよく喋り、お喋りが黙ることになる。先日、関西有数の観光地でタクシーに乗った。「どうです、観光客は増えていますか?」と尋ねたら、「さぁ~」とドライバー(福原愛か!?) 客に仕事のことを聞かれて「さぁ~」はない。よろしい、そう応じるのなら、目的地に着くまで話し掛けないぞと決め、ずっと黙り通した。ドライバーのほうが沈黙空間の苦痛を味わったはずである。

十数年前の話。大阪の中心街Aでタクシーに乗った。ドライバーは40歳前後。当時住んでいた郊外のCを告げた。声が消え入りそうな生返事。走り始めて間もなく、「Cかぁ……Cねぇ……」とドライバーが独り言でつぶやく。しばらくして、また同じようにつぶやく。そうか、C方面への客を歓迎していないのだと察知する。こんなドライバーとあと半時間以上走るのはまっぴらだ。「Cに行っても帰りの客はないだろうし、行きたくないのなら、ちょっと先のBで降ろしてもらってもいい」と言った。瞬時に喜色満面になり、「そうなんですよ、Cは帰りがねぇ……」とドライバー。人生初のタクシー乗り継ぎとなった。

「ありがとう」も「すみません」もないので、リベンジだけして降りることにした。千円札を二枚渡し、釣銭を受け取る時にわざと取り損ねるという企み。数枚の硬貨が手のひらから落ちた。間髪を入れず、「おい、気を付けろ!」と威喝気味に叱責した。おとなしい客だと見てなめていたのだろうが、かなり怯えた様子がうかがえた。ドライバー、恐る恐る「すみませんでした」と言った。

降車したBのタクシー乗場へ移動して並ぶ。次は初老のドライバーだった。今しがたの一部始終を話したら呆れ果てていた。お客にも同業者にも迷惑をかける存在だと嘆いていた。ところで、その夜、めったにないことが起こった。タクシーに向かって手を挙げる人の姿が目に入ったのだ。「運転手さん、ほら、お客さんですよ」と言い、自宅マンションの手前だったが、そこで降ろしてもらった。客捨てるドライバーあり、客拾うドライバーあり。

時間の自浄作用

何ヵ月か前に故障していたフランス製の掛け時計が偶然動き出し、機嫌よく動いていたが、数日前から時の刻みが遅れ出した。現在37分の遅れである。何に対して遅れているのかと言えば、「正規の時間」に対してである。しかし、この時計、遅れていることを気にしているようには見えない。堂々とした遅れぶりである。

今日は月曜日。自宅にいて養生している。先週水曜日の出張明けに喉の痛みがあり、大事に到らないようにと在宅で仕事をすることにした。翌日の木曜日、オフィスで仕事をして早々に帰宅した。金曜日に休み、土曜日と日曜日を挟んで今日である。大した症状でもないのに、これほど自宅で時間を過ごすのは何年ぶりだろうか。仕事は職場のほうがはかどる。しかし、在宅ワークには、疲れたら横になれるという長所がある。

ふだんとは違う時間がある。「時間が流れる」という表現があるが、時間に目盛りなど付いていない。時計は時間の流れを感知できない人間の発明品である。数日間独りの時間に向き合うと、時間感覚の変化を体験する。時計による時間経過の確認ではなく、たとえば窓外の明から暗への移り変わりに時間を認識する。そして、「ああ、あっという間に時間が過ぎた」などとも思わず、また、ろくに仕事ができなかった数日間への悔悛の念もなく、時間が時間そのものを自浄していることに気づく。常日頃正規品の時間に生きている者が自分の時間に救われるかのようだ。


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先日古本屋で買った『時の本』をめくってみた。文章1に対して写真やコラージュが2という、絵本のような構成である。中身は絵本とはほど遠く、小難しい理屈が綴られる。「過去はもう去ってしまった。未来はまだ来ていない。この今は短すぎる。時間はいったい何を残してくれるのだろう」というアリストテレスの言がいきなり出てくるという具合。今日は理屈を読み解くほどの熱意がないから、写真やコラージュばかり眺め、時折り各章の冒頭の数行だけ読む。シティローストしたインドモンスーンの濃厚なコーヒーを淹れてみた。

語り続けるには情熱がいる。しかし、独りの時間にあっては語ることはない。自覚したことはないが、たぶん独り言をつぶやいたりしていないだろう。語ることに比べれば、書くための情熱は小量でよい。その代わり、集中力を高めなければならない。集中力は時間を忘れさせるだろうか。いや、逆に時間を意識することになる。意識した時間は整い始める。ちょうど姿勢を意識すると背筋がピンと伸びるように。時間が整った気がする時点で、書いていた文章が終わりかける。コーヒーと時間には強い関係がありそうだ。

アリストテレス風に言えば、書いていた時間はもう去ったし、この先の時間がどうなるのかは分からない。しかし、アリストテレスと違って、この今の時間を短いとは思わなかった。ましてや、今過ぎた時間がいったい何を残してくれるのだろうかなどと問いもしない。ただ、一つの自浄作用が完了したことを実感している。コーヒーカップが空になり、文章が打ち止めとなる。

ひげの話

ひげを漢字に変換すると、髭、髯、鬚の三つが出てくる。どれを使ってもよいのだろうと思っていたが、念のために調べた辞書には、髭は口ひげに、髯は頬ひげに、鬚はあごひげに使うと書いてある。よく似たことばがあるのは、それぞれに他とは違う意味や用途があるということだ。ともあれ、いずれも難字だから書くのは面倒、しかも読んでもらえなければ意味がないので、「ひげ」か「ヒゲ」としておくのがよさそうだ。

昨年暮れまで一緒に仕事をしていたスタッフはひげが濃く、休みの日に二日剃らずに放置しておくと、髭・髯・鬚が生え揃って顔の80パーセントが青黒くなると言っていた。彼からすればぼくなどは薄いのだろうが、一週間ほどあればひげをたくわえることはできる。二十代前半に約2年間、三十代から四十代にまたいで34年間生やしていた。現在の「第三世代」はかれこれ78年になるだろうか。

このご時世でもひげがご法度の職業やコミュニティがある。幸い、ひげが理由で仕事を拒絶されたことはない。仕事の依頼があったものの、しばらくして断りがあったケースは何度かある。もしかすると、ひげのせいだったかもしれないが、知る由はない。古今東西、ざくっと言えば、ひげは「威信の象徴」だった。ヨーロッパに「ひげがすべてならヤギでも牧師」という諺がある。そうそう、「ひげは哲学者をつくらない」というのもあった。人は見かけによらない。ひげを生やしているからと言って偉くなんかないぞと言うことだろう。言われなくてもわかっている。手持ちぶさたな時になにげなく文具をいじったりするように、所在なさそうな顔になにげなく印をつけているようなものだ。


もう四半世紀も前の話。久々に会った学生時代の友人がひげをアラブ系の男のように立派にたくわえていた。彼は大手電機メーカーに勤めていて、数年間のサウジアラビア駐在から帰国したばかりだった。今の事情は知らないが、当時は中近東に駐在する日本人は国内での直前研修の間にひげを伸ばし、ひげをたくわえてから現地に赴任した。友人のように数日もあれば体裁が整う人はいい。しかし、欧米人やインド人、アラブ人に比べれば日本男子のひげは薄いから、生やしたくても生えない悩みの駐在員もいたに違いない。

ひげを生やして何が変化するのか。いろいろあるのだろうが、あまり気にならない。ただ一つ、大きな変化に気づいている。それはひげの剃り方である。ひげを満面生やしていても、頭髪と同じように手入れしなければならない。口ひげとあごひげだけの顔にも細やかな手入れが必要なのである。生えぎわに沿ってカミソリをあて、生やしているひげ以外の部分を毎朝剃らねばならない。生やしていない時にはカミソリとシェービングクリームを適当に買って使っていた。しかし、生やすようになると、きわを剃るトリマー付きのカミソリが変わった。そして、クリームも変わった。どう変わったか。高級なものになったのである。

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ひげを生やしていなければ、極端な話、花王石鹸でもいい。今使っているのは写真のシェービングクリーム。英国製だ。なんと2,000円もする。ピーナツ一粒分を指で取り、手のひらの上で水でなじませて伸ばしてやると細かな泡になる。きわがきれいに剃れるばかりでなく、剃り心地がとてもいいのである。毎朝、ていねいに56分かける。そのわずかな時間はリフレッシュのひと時だ。至福の時間などと言うと大げさかもしれないが、一日の始まりに欠かせないルーティーンになっている。そうだ、ひげを生やしているのは、威信のためなどではなく、このプライムタイムのためなのだ。

何杯のコーヒー?

以前、コーヒーに関するアンケートの中に「あなたはコーヒーをよく飲みますか?」という質問があった。これはよくない質問の代表例なので、論理思考の講義で取り上げたことがある。

「よく」というのが曲者の曖昧語だ。一日10杯なら「よく飲む」ということに誰も異論はないだろう。では、34杯ならどうか。よく飲むと言えそうだし、いや、その程度ならよく飲むレベルではないとも言えそうだ。まったく飲まないか、飲んでも12杯の人たちに囲まれていれば、34杯はよく飲む派に属する。他方、周囲も自分と同程度に飲んでいるなら、よく飲むと回答しないかもしれない。

調査というものに疎いので、集まったデータの生かし方がぼくにはよくわからない。アンケートを実施した当事者にはどんな人がどれだけコーヒーを飲んでいるのかというデータは役に立つのだろう。それなら、もう少し上手に問いを立てるべきだった。「よく飲みますか?」ではなくて、「一日に何杯飲みますか?」のほうがよかった。これでもなお、集まるデータの生かし方のイメージは依然湧かないが、少なくとも答える側は考え込まずに即答できる。

しっかり目覚めているように、
日に四〇杯のコーヒーを飲む。
そして、暴君や愚かな者どもといかに戦うかを、
考えて、考えて、考えるのである。

『バール、コーヒー、イタリア人』(島村菜津)から引用した。哲学者ヴォルテール自身が綴った文章だから間違いはないのだろう。一日40杯は尋常ではない。と言うか、強度のコーヒー中毒である。ある本にはヴォルテールの一日の最高記録は72杯と書かれていた。呆れ果てるしかない。ヴォルテールの尺度に照らしてみれば、この世の中にコーヒーをよく飲む人などは存在しないことになる。


ベートーベンは日に5杯程度らしかったが、一つのこだわりがあった。一杯のコーヒーに使う豆を60粒と決めていたのである。この数が多いのか少ないのか、ぼくにはわからない。なにしろ挽く前に豆を数えたことなどないから。実は、これで出来上がりはやや薄めになるそうである。それにしても、飲むたびに60粒をきちんと数えたベートーベンに愚直なマニアの姿が重なる。コーヒーの愛好家はおおむね精度にうるさい。大げさに言えば、煎る時間や淹れる時間には秒単位で、湯温には1℃単位でこだわるのだ。

さて、ぼく自身は何杯飲んでいるのだろうか。あらためて振り返ってみた。多い日で5杯。朝の1杯だけという日もある。平均すると3杯というところか。目新しいカフェに足を運んでコーヒーの話をたまに書いたりもするけれど、豆をセレクトし焙煎する側に立てる身ではなく、あくまでも自前で挽いては淹れて飲むアマチュアである。もちろん、もっとおいしく飲むヒントはつねに求めているし、同じ飲むなら少し知識があるほうがいいと思っている。しかし、コーヒーにうるさい知人の凝りようを見ていると、ぼくなどはほんの少し味がわかる消費者に過ぎない。

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日課のように飲むコーヒーもあれば、なにげなく飲むコーヒーもある。その気はなかったが、縁あって飲むコーヒーもある。アンケートを取る人やヴォルテールには申し訳ないが、何杯飲むか、何杯飲んだかなどはどうでもいい。何杯も飲むことを前提にした飲み方ではなく、できれば「一杯一会いっぱいいちえ」とでも言うべき至福を喫してみたいと思う。同じ種類のコーヒーだけを飲み続けて香味の深遠に到るもよし、何種類かの豆を蓄えておいて飲み比べするもよし。後日に思い出せるような印象深い一杯をどう飲むかに意味を見出したい。

ところで、ぼくが思い出す一杯のコーヒーのほとんどは、ベートーベンの好んだのとは違って、深くて苦くて濃いものばかり。そういうのがコーヒーなんだといつかどこかで刷り込まれたに違いない。

オムニバス

フランス映画『アスファルト』を観た。オムニバス仕立てだが、知り慣れた構成とは少し違う。通常のオムニバスは、いくつかの独立した短編を順に並べて一つのテーマを貫く。『アスファルト』は三編をまとめながらも、その三編が関連付けられる。三編をABCと呼ぶなら、ABCABC→……という具合で、ミルフィーユのように繰り返し重ね合わされる。リーフレットに「愛は、突然降ってくる」と書いてある。たしかに宇宙飛行士が集合団地の屋上に降ってくる。彼は数日間居候させてもらう部屋の主、アルジェリア系フランス人の熟年女性に「(宇宙は)暗黒。暗黒の向こうに眩しい光がある」と語る。「愛」は「小さな喜び、小さな幸せ」に読み替えできそうだ。

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毎朝トーストを食べていて、バターと蜂蜜を塗る。ジャムはめったに使わない。ある日、トーストを齧りながらジャムのことを思い浮かべた。買ってきたばかりのイチゴのジャム。ジャムは壜入り、壜の蓋は強く閉まっているものと決まっている。蓋はなかなか開かない。壜を回しながら栓抜きで蓋のふちをトントンと叩いてやる。それでたいてい開く。それでも開かない時は、輪ゴムを二、三本蓋のふちに二重、三重に巻いてから試みる。これで開く。できなかったことが、一つか二つの工夫でできた時、小さな達成感が得られる。

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十数年前、水性マーカーを買い込んで数十種類の色を揃えたことがある。大きな絵を描くとあっという間にインクが減るので、もっぱらハガキ判の画用紙に描いた。自分でも驚くほど量産した。仕事が一番忙しい時期だったのに、よく描けたものだとつくづく思う。新しいマーカーを買ってきては色を試してみた。やがてマーカーの色試しだけでも愉快になった。そんな一枚が残っている。作意のない無造作な形と色の配置による模様。さっさと捨ててしまってもよかったはずなのに、残っているのが不思議である。

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昨日映画を観た帰りに古本屋で『それでも人生は美しい』という本を手にした。題名からはちょっと想像できない内容の本。著者太田浩一は物理学者。著者が十六人の物理学者とゆかりの街を実際に訪ねて綴ったエッセイ集だ。抑制のきいたモノクロの写真がふんだんに使われ、手抜きのない品格のある文章に好感が持てる。「それでも」という一語が、必ずしも満足ばかりでなかった人それぞれの昔日を彷彿とさせる。

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遅い朝食。トーストと卵焼きとハム以外に懐かしの蒸しパンも半分食べた。午後2時になっても空腹感がやって来ない。午後3時にようやく何かつまみたくなった。半分残しておいた蒸しパンがちょうどよい分量だった。

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久しぶりに水性マーカーを引っ張り出したが、半分以上は色がかすれる。と言うわけで、文章を書こうと思い、今書いている。絵を描くのと文を書くのはまったく別の行為のようだが、行為を下支えしている動機とテーマは案外似通っている。書くことには何らかの自壊作用が伴うが、自浄作用が上回るから書く気になれるのだ。

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やるせなさやせつなさは大きな悲しみの前段階なのか、それとも大きな悲しみが過ぎ去った後の余韻なのか……。やるせない、せつないと言う知人がいる。「それでも人生はまんざらでもない」と気付けばいいのに。小さな喜びに巡り合って人は救われる。仮に絶望的な陥穽に落ち込んだと思っても、何かをしているかぎり救われている。ごろごろだらだらの身に光は照り射さない。小さなことでもいいから没頭できる対象と、ほんのわずかでも没我できる時間があれば、アスファルトのような無機的な日々もそうではなくなってくる。

なんとなく木曜日

今日が金曜日であることを知っている。けれども、木曜日について書こうとしている。その前に……。

あることに気づき、縁を感じてしまって、なんとなくわくわくすることがある。特に理由があるわけではない。たとえば、今朝調べものをしていた時のこと。一冊目の本の索引で目当ての用語を探したら「131ページ」と出ていた。別の本で別の用語を索引で引いたら、そこに「46, 131, 139……」とページ番号が出ていた。ただこれだけのことで、もう131という数字に心が動いてしまうのである。帰路に「1丁目31番地」などの住所表示に出合ったらちょっと昂揚するかもしれない。

二十代前半に勤めていた職場に、あずまさんとみなみさんという女性がいて、「ここに西か北がいたらおもしろいなあ」と思っていたら、驚いたことに西にし君が入社してきた。「これで北がいたら麻雀ができる」と冗談を言っていたら、別の部署から喜多きたさんが配属された。揃ってしまったのである。わくわくしないはずがない。左近さこんさんという人と初めて会った日の夕方に行った整形外科が右近うこんだった時も愉快だった。


週間カレンダー

サラリーマン時代は休みが日曜日だけだったので、土曜日が待ち遠しかった。土曜日の朝、「今日一日頑張れば明日は休みだ」と言い聞かせて出社したものだ。

三十代半ばで独立し、二年目にスタッフも十数名になったので隔週土曜日を休日にした。次いで、出勤土曜日を半ドンにし、ほどなく完全週休二日制に移行した。すると、どうなったか。金曜日が「わくわく曜日」に変わったのだ。なお、「月曜日の憂鬱マンデーブルー」はサラリーマン時代にはひどいものだったが、自分で会社を興してからは、月曜日のイメージが激変した。自己責任と多忙の度合に反比例するかのように、新しい週を機嫌よく迎えることができるようになった。

多忙なのに余暇との棲み分けもうまくいく。わくわく曜日が土曜日から金曜日に繰り上がり、そして今、木曜日になんとなくわくわくするようになっている。終身現役を宣言しているので、この調子だと、やがてわくわく曜日は水曜日、火曜日へと移行する可能性がある。七日ごとにやってくる曜日への期待感が年を追って変わることに、まんざら悪い気がしない今日この頃である。

風流と野暮

三日月

何年か前に撮った三日月の写真がある。雲を引き連れて、見えない風が流れている。風の流れ、すなわち風流が感じられる。今夜も三日月だが、見えている三日月には少しぼかしが入っている。残念なことに、今夜のぼくの位置取りが三日月を風流と無縁にしてしまった。

眼がくらむドラッグストアの煌々こうこうと照る蛍光灯 三日月かすむ /  岡野勝志

街中の店の灯りに節操がない。目立てばいいのだと全店が利己的に思えば、黄昏時の景観も褪せる。眼を患うのではないかと思うほど眩しいだけである。とりわけドラッグストアの店の明るさには閉口する。あそこまで明るくするのは野暮ではないか。品性がなく、調和や周囲への気遣いを欠いて、ただひとり派手に酔っているかのようだ。

芭蕉が「わが門の風流を学ぶやから」(遺語集)ということをいっているが、風流とはいったいどういうことか。風流とは世俗に対していうことである。社会的日常性における世俗と断つことから出発しなければならぬ。風流は第一に離俗である。
(九鬼周造『風流に関する一考察』)

風流が日常の世俗から離れることであるなら、俗世界に留まるのが野暮だろう。ドラッグストアを便利に使う身ながら、足を運ぶたびに、軽めの世俗から重くて深い世俗に入り込む感覚に襲われる。


風流は「もの」の属性ではない。感受者の内に芽生えるみやびな趣である。団扇片手の浴衣姿に一応の風流を感じるにしても、浴衣と団扇の色や柄、手足の動きの一部始終がさらに観る者の心の動きに関わってくる。後ろ姿に風流を観た。しかし、前に回ればスマートフォンを操ってポケモンGOでは俗すぎる。

風物の風情は風流に通じる。暑い夏にはせめて精神の涼をとばかりに、平凡なものに向き合う時にも風流の演出に工夫を凝らしていた。西瓜などはその典型だ。何の変哲もない果物扱いしてもよかったはずだが、夏の風物詩には欠かせない存在となった。西瓜の切り方・食べ方も風流と野暮を線引きする。切って食べる前に品定めもある。ぼくの爺さんは八百屋の店主と一言二言交わしてから、西瓜をひょいと持ち上げて左手に乗せ、耳を当てがって右手で鼓を打つようにポンポンと叩いて音を聞き分けていた。子どもの目にさえ粋な所作に映った。爺さんの買ってきた西瓜にはずれはなかった。

古い時代の京都にも、避暑ついでにうりの畑を見物する習わしがあったと聞く。今のように果物何でもありの時代と違って、瓜は貴重な夏の逸品だった。瓜畑を眺めることを「瓜見うりみ」と呼んだ。瓜見すれば、当然一口いただきたくもなる。避暑の道程から少し寄り道して一服。風流である。今日、俗っぽく生きるのはやむをえないが、心の持ち方をスパッと変えて、風流に感応する時と場を工夫してみるのがいい。

思惑外れ

いつ壊れても不思議じゃない「壊れかけのRadio」が何年も壊れず、つい昨日まで機嫌よく動作していた外付けのハードディスクが何の前触れもなく突然スイッチが入らなくなって壊れる……。人間側からすれば思惑が外れているのだが、機械のほうには機械の、人には計り知れない事情と寿命があるようだ。

思惑が外れないようにする唯一絶対の方法がある。都合のいい見通しを立てたり算盤を弾いたりしないことである。思惑通りにいかない時の苛立ちと不幸を免れるにはこれしかない。想定は想定内に収まらず、むしろ想定外に落ちるものと相場が決まっている。


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いつぞや友人とこじゃれた喫茶店に入った。ぼくがコーヒー、コーヒーを飲まない友人はトマトジュースを注文した。彼は「トマトジュース」とフルネームで告げた。にもかかわらず、注文を受けた女店員はカウンター越しに「トマジュー」とマスターにリレーした。時にことばの省略・短縮は消費価値の低減になる。よく目を凝らせば、マスターは冷蔵庫からデルモンテかカゴメの缶を取り出してグラスに注ぎ氷を放り込んだ。一丁上がり。なるほど、これならトマトジュースではなくトマジューだ。思惑などあったわけではないが、ちょっとがっかりして思惑が外れたような気分になった。

大多数が願っていないことが現実になるという思惑外れもある。一人ひとりの思いを単純に足せばノーという帰結だったはずなのに、不思議な作用が働いて総意がイエスになってしまう。英国のEU離脱決定はそんな感じだったのだろう。「ひどい連中が撤退していった結果、一番ひどいのが残った」とは、共和党の大統領候補にトランプ氏が確実になったのを受けてつぶやいたある市民の声である。

TPOまでよく考えて悩みに悩んで買ったスーツ。仕立て上がったのを着たら気に入らなかったということはよくある。挙句の果てに、ほんとうはこの色のスーツは欲しくなかったのにと愚痴る。愚痴の矛先は仕立屋にではなく自分に向いている。トマトジュースやスーツから政治経済に至るまで、思惑は外れるもの。慎重な意思決定や自信たっぷりの洞察力の程をよくわきまえておくべきだろう。

街中の「雑景」

目的地に応じて交通の手段は変わる。外国に行くなら飛行機に乗る。乗らざるをえない。飛行機は目的地到着という結果だけを重視する手段。窓側に座れば、離陸直後と着陸直前に風景は見える。しかし、大半の移動時間中は窓外の雲か決まりきった客室光景を眺めることになる。飽きるから眠るか音楽を聴くか映画を観るという、お決まりの過ごし方をするしかない。飛行機は離着陸の地点を結ぶデジタル的装置にほかならない。つまり、移動手段としては、つまらない。

それに比べれば、列車の旅では目的地に向かう途上でいろんなものが見える。『世界の車窓から』と題した番組が成立したのは列車だったからで、飛行機なら長寿番組になりえなかった。飛行機のようにまっしぐらの一目散でないところに列車の旅の値打ちがある。いや、もっとよそ見を楽しみたければ、列車や車ではなく、歩くのに限る。エリアは限定されるものの、四囲の様々な対象が視界に入ってくる。見たくないものまで見えるが、それも目的至上主義から脱線する妙味だと思えばいい。

情趣不足気味の都会暮らしの身だから、街歩きしていると情報過多を肌で感じる。情趣の代わりに情報が氾濫している。情報は「雑景」にこびりついていて、時には土着的な匂い、また時にはおかしみを醸し出す。いつもの散歩道なのに新しい発見があるし、何度も見ているのに居直ったような陳腐さに異常なまでに感心する。雑景を通り過ぎた後も、振り払おうとして振り払えない滑稽な余韻を引きずることもある。今日は看板という雑景を拾ってみた。


けつねうどん

「きつね」は、そう発音した本人の思惑と違って、他人には「つね」に聞こえることがある。ローマ字表記上では[kike]の変化で、[i]をなまくらに発音して[e]になったに過ぎず、この変化に大それた秘密はない。

上方落語の噺家ははっきり「つねうどん」と言っている。しかし、文字で「けつね」と表わし、それを派手な看板に仕立てるところが大阪的だろう。この手の仕掛けに地元民は慣れている。しかし、地元民と言えども、「飽きがくるほどアゲガデカイ!」には少々意表を衝かれる。ふつうは何度食べても飽きがこないとPRするところだ。味がワンパターンで飽きるのではなく、けつねのアゲが大きくて飽きるのである。「アゲガデカイ!」というカタカナの表記がばかばかしさを増幅している。

看板2 男性かつら刃物とぎ

ピンクのテントに白抜きの文字。遠目には目立たない。店舗はいかなるカラー戦略を目論んでいるのだろうか。

それはさておき、日本語であるから、文字が伝えている内容はわかる。理美容の器具を扱っていて、化粧品も扱っている。行間を読まなくても――そもそも行間などないが――一般向けではなく業務用だということもわかる。この店は理美容店向けの商材を扱うディーラーである。カミソリやハサミを扱っている手前、二行目の刃物とぎサービスにもうなずける。

と、ここまで理解しても、独特の空気を放つ「男性カツラ」の文字が虚勢を張っているように見える。シャッターの落書きが店じまいを暗示している。

ベルギービールと焼き鳥

焼き鳥をつまみにビールを飲む。ハイボールでも日本酒でも合うけれども、ビールで何の不思議も不満もない。週に二度も三度も店の前を通り過ぎる。そして、いつもつぶやく、「焼鳥屋らしくない」と。

“BELGIAN BEER & YAKITORI”のアルファベットにヨーロッパのどこかの街の、日本人以外のアジア出身のオーナーが経営する店が重なってしまう。鶏肉が不器用に串に刺され、あまり舌に快くないタレが想像できる。

もう一度書くが、ビールと焼き鳥の組み合わせに文句はない。では、このぼくの居心地の悪さはどういうわけか。ベルギービールのせいである。ベルギービールがうまいことは知っている。しかし、ここは単純に「ビールと焼き鳥」でいい。ベルギービールと焼き鳥がハモっていないのである。

桜のアンビバレンス

花の情緒がさほどうるわしくない街に住み、働いている。そんな街でもこの季節になれば、通りや公園や校庭は桜の花で満たされる。手元の歳時記の四月三日のページには「かげろう」とある。漢字で「陽炎」と書くように、地面から気が炎のように立ちのぼり、その向こうの物体や景色を揺らめかせて見せる。ぽかぽか陽気の春ならではの現象だ。今日の昼前はまずまずの温かさだったが、かげろうが立つほどではなかった。

刺激の少ない、単調で単純な生活を送っていると、脳がそのパターンに適応する。変わらぬ光景を日々見慣れているうちに感動は薄まってくる。もし桜が年中咲いていたら……と想像してみよう。ずっと咲いているのだから、いつ咲くのかと待ち焦がれない、開花時期が気にならない、散り際に居合わせることはできない。今日見損なったら明日見ればいい。酒と弁当を手にして花見をしようと思わなくなる。桜を巡る感情は緊張と繊細さを失う。

さっと咲いてさっと散るからこその桜なのだ。桜はもちろん現実の花である。だが、この国では桜は他の花々とは比較にならないほどシンボル的でありイメージ的存在であり続けてきた。今も桜には「プラスアルファ」が被せられる。はかなさを思う人がいて、宴に心を弾ませる人がいる。「同期の桜」が秘める情念には好悪の思いが交錯する。「桜は概念」だとぼくは思うのだ。


桜花は趣の深い「あはれ」を秘め、ある時には爛漫を謳歌する。おびただしい詩歌がそのように桜を扱ってきた。ところが、ひょんなことから孤高の気分に襲われたりすると、桜の花はあはれでも華やかでもなくなってしまう。萩原朔太郎は孤高かつシニカルに感じ、その心情を詩篇にした。「憂鬱なる花見」は、桜をおぞましく嫌悪している。

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
(……)

ここまでやり込めなくてもいいだろうと思う反面、桜の色とイメージに憂鬱を誘う何かが潜んでいそうな気がしないでもない。人が賑わえば賑わうほど、宴の声が高まれば高まるほど、桜をうとましい存在に感じて遠ざかりたくなることがある。人を鬱陶うっとうしくさせるフェロモンを桜が出しているはずがない。ただ、はかなさから来る桜のイメージに不安心理を重ねてしまうのだろう。

中大江公園の桜4

ぼくが訪れた公園はと言うと、満開間近の風情だった。一本の木が咲かせる桜花の密度が際立っていた。遠目に淡い色を見るもよし、近づいて枝花を見上げるもよし。しかし、アンビバレントな桜の観賞はつくづくむずかしいと思う。静かに一人で眺めている分にはいい。いったん人混みに紛れたり集団花見を強いられたりすると、気が詰まり息苦しくなることがある。そのちょっと先に萩原朔太郎の厭世観があるのかもしれない。