番狂わせへの期待

ブログを書いているくせに、あまりインターネットで検索しない。必要がある時はもっぱら各種辞典で調べている。従来から仕事の現場ではよほどのことがないかぎり調べない。仕事の一つである講演や研修の最中に調べていたら奇妙である。オフィスにいても同じことだと思う。仕事とはアウトプットすることにほかならない。調査が本業でもないかぎり、仕事中にインプットしているようでは修行が足りぬ。なので、めったに調べものをしない。辞書類や参考文献は自宅のほうが充実している。インプットは人目につかぬようにするものだろう。

「番狂わせ」の語源が気になった。四の五の言わずにウィキペディアを手繰れば書いてあるのかもしれないが、こういうことに関してぼくはいささか保守的である。知らないことについて調べるのだから、当然初見の情報に出くわす。知らないのだから信憑性を問える力も資格もない。がせねたに騙されるかもしれない。同じ騙されるのなら、匿名的ウィキペディアよりも編集責任者が明記されている辞典類のほうがましである。「ウィキペディアにこう書いてあった」と紹介して間違っていたら恥さらしだが、「広辞苑によれば」と言っておけば、仮に怪しげなことが後々に判明しても、岩波書店の責任にしてしまえばよい。

と言うわけで、気になった「番狂わせ」を広辞苑で引いてみた。「①予想外の出来事で順番の狂うこと。②勝負事で予想外の結果が出ること」とあった。この程度の定義なら想定内、わざわざ調べるまでもなかった。関心はこの表現の語源なのだが、他の辞書でも見当たらない。いまこうしてブログを書きながら、画面の上のほうのグーグルバーで検索したら、さぞかし諸説がぞろぞろ出てくるだろうとは思う。だが、触手を伸ばさない。知らなければ知らないでいいのだ。知らなければ、脳トレを兼ねて類推すればいい。

広辞苑にもあるように、番狂わせの「番」は「しかるべき順番や順位」のことだろう。つまり、その順通りであることが秩序(または正統)、その順が狂うことが混沌(または異端)。ちなみに、英語では混沌・混乱のことを“upset”と言うが、まさにこの「アップセット」が、試合やゲームでの予想外の敗戦や結果を意味している。番狂わせとは、正統派にとっては「あってはならないことが起こってしまうこと」であり、異端分子にとっては「絶対にありえない功を成し遂げてしまうこと」なのである。


勝つことを絶対視されている側が、番狂わせに期待を抱くはずがない。番狂わせを歓迎するのは、負けて当たり前の弱者、愉快・痛快を求める傍観者、あるいは秩序崩壊によって利に浴することができるギャンブラーたちである。先のワールドカップでの番狂わせと言えば、スイス対スペインの試合が真っ先に浮かぶ。シュート24本を乱れ打ちしたスペインが0-1で敗北したあの試合である。そのスペインが優勝したのだから、たしかに大番狂わせのレッテルは正しい。あの試合の前に「番狂わせはない」と言えば、それは疑いもなくスペインがスイスに「万有引力の法則」ほど確実に勝つことを意味したはずだ。しかし、リンゴは木から落ちずに空へと上がってしまった。

実は、番狂わせはぼくたちの想像以上によく起こっている。なぜなら順番や順位や優劣評価が本来ファジーだからである。あるサッカー通が言った、「サッカーというのはそういうゲームなんだ。他のスポーツに比べて、番狂わせが起こりやすい」と。先日の日本対アルゼンチンもそうだったのか。と同時に、基礎体力もなくシュートも打たなければ番狂わせはありえないだろうとぼくは思うのだ。実際、スペインの3分の1ではあるが、スイスは8本もシュートを打ったのだ。そのうちの一本が決まったという次第である。

実社会での仕事の場面はスポーツ以上に状況が複雑である。だから、番狂わせの頻度が高まる。しかし、サッカーの「基礎体力とシュート」に相当するものを決定的に欠く弱者に番狂わせは絶対にやってこない。この二つに相当する資質だけはつねに磨いておかねばならないのだ。言うまでもなく、この二つは職業ごとに異なる。

ところで、番狂わせの概念などまったく持ち合わせていない、冷徹な存在がいる。彼にとっては番狂わせも何もない。ただひたすら勝つべき者が勝つと予告する。何を隠そう、あのドイツのタコ「パウル君」のことである。

食べたり空を見上げたり

題材に困らない話と言えば、食事と天気である。なにしろ、ぼくたちは毎日何度か食べるし、よほどのことがないかぎり、日々天気予報を見聞きし空模様や暑さ寒さも気にする。一般の会話では、ごぶさたでも親しい相手には食、さほどでもない相手には天気が定番である。会話だけではなく、日記やブログにも当てはまる。マンネリさえ我慢すれば、この二つの話題については無尽蔵で書けるのだ。ただ、ブログだけに限定すると、毎度毎度同じような話を読まされたら読者は少しずつ離れていくだろう。

読者を想定しようとしまいと、マメでありさえすれば、誰にでも日々の食事内容と天気を徒然なるままに記録することができる。実際、かぎりなくこれに近いプロのエッセイストもいるのだ。但し、喫茶店でのモーニングを常食している場合、「今朝は、厚切りトーストにゆで卵、ホットコーヒー」と毎日同じことを書くことになる。これでは情けないと感じるだろう。そこで、一昨日ぼくが書いたように、お昼には時々ロコモコ丼やタコライスなどの「異変」を経験してネタづくりに励まねばならない。

いや、自分の食事の記録だけにこだわらなくてもいい方法がある。日々コメントに変化をつけることができ、なおかつ長続きする方法だ。手配りやポスティングされる店のチラシを捨てずに取っておき、精細に分析するのである。一ヵ月で何十枚ものチラシが手に入るから食のネタに事欠くことはない。店名、メニューと価格、店の雰囲気、チラシの文面・デザインなどの要素から一品一品の味を想像してみるのもよい。一年後には『チラシに見る料理店の魅力』と題した一冊の本が出来上がっているかもしれない。


昨日おもしろいものを見た。日曜が定休日らしきその店のシャッターに「カキフライ定食」と大きく書いた貼り紙がしてあった。二行目に「○○付き」と書いてある。さて、何と書いてあったか。定食なのだから、ライスや味噌汁やお新香などと念を入れるはずがない。「千切りキャベツとポテトサラダ付き」または「タルタルソース付き」はありそうだが、いずれもカキフライには黙ってセットされるものだろう。

実は、そこにはなんと「酢豚付き」と書いてあったのだ。「酢豚定食 カキフライ2個付き」ではなく。ぼくにとっては驚きの主客逆転情報である。ただ、時間が経って冷静に考えてみたら、原価や訴求面では「カキフライ定食 酢豚付き」としたくなる店側の趣向にも頷けた。これからが旬のカキを主とし、いつでも食べれる酢豚を客にするシナリオはありうる。

さて、次いで天気の話。体育の日の今朝、窓を開けて空を見上げると、抜けるような青が広がっていた。この空について、今日の天気について何を書くことができるか。天気模様を表現する語彙が比較的豊富な日本語だが、おおむね快晴、晴、曇、雨、雪があれば間に合い、たまに「時々」と「のち」で組み合わせれば済む。すぐに飽きてしまうので、天気についてもっと長く語ろうと風や気圧や波へと話題を広げる。とりわけ、気温を最高と最低で表現することによって天気の話がさらに膨らむ。

今夏のような酷暑が続けば、話し下手な人もネタに悩まない。天気がらみの話が周辺で飛び交い、どこに出掛けても「暑さ」が会話の主役であった。気象予報士にとってやりがいのある夏だったに違いない。ところで、「平年に比べて明日は……」と彼らは頻繁に言う。「明日は平年に比べて蒸し暑いでしょう」と予報してもらっても、あまり参考にはならない。なぜなら過去30年の平均値である平年の温度などアタマも身体も覚えていないからだ。「今日に比べて明日は……」だけでいいと思うが、どうだろう。

地下鉄線に沿って

「へぇ、こんなものがあるのか」と驚いた。

大阪市外に住んだ時期も二十数年ほどあったが、ほんの数年間を除けばつねに大阪市内で働いていた。仕事は転々としたが、いつも市内の職場に通っていた。今は職住ともに大阪市中央区。自宅と職場は徒歩15分足らずなので、勤務に地下鉄は使っていない。数年前までは地下鉄に必ず乗っていたし、ライフスタイルは車を持たない主義なので、どこかへ行くとなれば最寄の地下鉄駅が起点になる。近くを谷町線、堺筋線、鶴見緑地線という三つの地下鉄が走り、自宅から徒歩5分圏内にそれぞれの路線の駅がある。

地下鉄をよく利用してきたし詳しいつもりでいた。だが、初めてそれを見て少し驚いた。「それ」とは、大阪市交通局が発行する『ノッテ オリテ』9月号。漫才師のような雑誌名だ。隔月刊のフリーマガジンらしいが、こんなものがあるとはまったく知らなかったのである。手にした9月号では「大阪旅 坂の町をゆく」と題した特集を編んでいて、上町、七坂、天王寺の風景が紹介されている。しょっちゅう散歩しているなじみの街並みだ。

大阪城から南方面に広がる一帯が高台の上町台地。山あり谷ありは大げさだとしても、起伏があるので坂の多い光景を呈している。天満橋てんまばしにあるぼくのオフィスのすぐそばを谷町筋が通り、大川の手前、土佐堀通とさぼりどおりの南側の傾斜が大阪の由来になった坂と言われている(大阪はかつて大坂、つまり「大きな坂」だった)。上町から見れば谷町たにまちは「谷」だから、狭い街中にあって高低感をよく表わす地名になっている。

さて、交通局が発行するその雑誌。巻頭に若手作家の万城目学まきめまなぶが『谷町線おもいで語り』と題してエッセイを書いている。谷町九丁目に住んでいた話、天満橋の小学校へ地下鉄で通っていた話、谷町線特有の紫のラインカラーの話などを懐かしく綴っている。次のくだりを読んで、思わずにんまりとしてしまった。

「(……)これまで数えきれぬほどの難解な漢字の組み合わせを見聞きしてきたであろうに、『いちばん難しい漢字四文字の組み合わせを答えよ』と問いかけられたなら、反射的に『喜連瓜破』の四文字が浮かぶ(……)」


ありきたりの文章だ。この文章に対して思わずにんまりしているのではない。「きれうりわり」と読ませる四文字の響きがたまらないのである。ここには何とも言えない、また知らない人には説明のしようのないおかしみがこもっている。喜連瓜破は、おそらく商売繁盛と並ぶほどの、大阪色たっぷりな四字熟語なのである。ちなみに、喜連瓜破は地下鉄谷町線の駅名の一つ。そして、この谷町線は、珍しいほど路線をくねらせて走っている。

谷町線を南から北へと辿ってみよう。八尾南やおみなみ長原ながはら出戸でとへと上がり、喜連瓜破きれうりわりで西へと向きを変え、平野ひらの駒川中野こまがわなかの(この近くに大学生頃まで住んでいた)、田辺たなべふみさと阿倍野あべの天王寺てんのうじへと達する。ここで再び北へと進路をとり、四天王寺前夕陽ヶ丘してんのうじまえゆうひがおか、谷町九丁目、谷町六丁目、谷町四丁目とくどい駅名が続き、天満橋へ。ここからまた西へ向き、南森町みなみもりまちを経て、息つく暇もなく、東梅田ひがしうめだ中崎町なかざきちょうと北上。天神橋筋てんじんばしすじ六丁目(日本最長で有名な商店街の最北地点)からは東へと走り、都島みやこじま野江内代のえうちんだい関目高殿せきめたかどの千林大宮せんばやしおおみや太子橋今市たいしばしいまいち守口もりぐち、そして終点の大日だいにちへと到る。実に四文字の駅名が五つもある。


喜連瓜破の他にも、生粋の大阪人が「おかしみのツボ」に嵌まる地名がある。さしずめ放出はなてん杭全くまた天下茶屋てんがちゃやはトップブランドだろう。「どうしておかしいのですか?」と他府県びとに聞かれても困る。おそらく語感と場所柄のイメージが複雑に絡み合ってそうなったはず。とにかく、これらの地名が脳内に響いただけで鼻から漏れそうな笑いの息をこらえたり実際に笑ってしまったりする人たちが少なからずいる。なお、今日の夕方、ぼくはさっき紹介した関目高殿で講演をおこなうが、一つ手前の駅の野江内代がちょっとやばい空気を醸し出しているのに気づいた。要注意だ。要注意とは、地下鉄の電車内で一人にんまりとすることへの警鐘という意味である。

貨幣には意図がある

円高と市場介入の話ではなく、もっと身近なお金の話。先日、鶏料理の店に「二人」でランチに行った。同じ定食、700円のものを注文した。食べ終えてぼくが先にレジへと立ち、財布から「千円札」を出して店員に手渡した。ポケットから小銭入れを出さなかったし、出そうとする素振りもせず、ただ千円札を出して勘定を待った。それなのに、その店員は「ご一緒ですか?」と尋ねたのである。

一人五百円のワンコインランチなら、そう聞いてもいいかもしれない。二人分ならきっちり千円だから。けれどもランチは700円。千円では二人分はまかなえない。ゆえに、千円札を出した後に小銭を足さなかったぼくが自分一人分を払おうとしたことを、店員は即座に察知するのが当たり前だった。黙って百円硬貨3枚のお釣りをくれたらいいのである。

機転がきかないのは、「ご一緒ですか?」が口癖になっているからなのだろうか。かもしれない。しかし、だいたいにおいて、ランチの勘定が別々か一緒かは、レジでの客の振る舞いや空気でわかるものだ。レジ係なら読まなければならない。いや、そんな大げさな話ではなく、視野をほんの少し広げるだけで、ぼくの後ろの連れも財布を手にして勘定を待っていたのが見えたはず。加えて、ぼくの千円札の出し方を見れば別々の支払いというのは一目瞭然だった。「ご一緒ですか?」と聞かれて、「えっ、これ(千円札)で二人分にしてくれるの?」と切り返してもよかったが……。


論理クイズの一種に次のようなものがある。

場所は小劇場の切符売場。この小劇場には普通席と指定席があり、普通席1300円、指定席1800円の料金設定になっている。一人の客が売場で二千円を出したら、係が「普通席ですか、それとも指定席ですか?」と尋ねた。客は「普通席をお願いします」と答え、係は700円のお釣りを差し出した。続いて別の客が来て、同じく二千円を窓口に出した。すると、今度は係は何一つ尋ねることなく、「指定席ですね」と確認してから200円のお釣りを渡した。係は同じ二千円を出した二人の客に対してなぜ別々の応対をしたのだろうか? これが問題。

金持ちそうな身なりから判断した? いや、そんなバカなことはない。五千円札か一万円札を出されたら、係は「普通席ですか、指定席ですか? 何枚ですか?」と聞いたはず。これがヒントだ。


切符売場係のこの人には紙幣と硬貨の内訳パターンができているので、会話を交わさずとも出された貨幣の種類を見ただけで何枚いるとか普通席か指定席かがわかることがある。実は、最初の客が差し出した二千円は千円札二枚だった。だから、客が告げないかぎり、1300円の普通席か1800円の指定席のどちらを求めているのかはわからない。それで、聞いたのだ。ところが、二人目の客が出した二千円の内訳は千円札と五百円硬貨二枚だった。普通席なら千円札と硬貨一枚でいい。つまり、指定席を求めたことが即座にわかる。

別に大それたスキルなどではない。初歩的な推理能力である。しかし、お金を総額でとらえて貨幣の内訳で判断しない人間には、単純なお釣りの引き算すらおぼつかない。鶏料理店の店員はこのことをよく学ぶ必要がある。

諸説紛紛ある時

旅や出張で見知らぬ土地にいて不案内なことがあれば、たいていの人は誰かに尋ねる。誰かは観光案内所のスタッフであったりタクシーの運転手であったり住民らしき通行人であったりする。当地で評判の食事処を聞き出し、半日で回れる観光スポットを尋ね、所要時間や乗り継ぎ情報を知ろうとする。尋ねる相手がその道の権威とはかぎらないが、少なくとも自分よりもわかっているはずと見なしている。

知識不足を補おうとすれば、ガイドブックやネットでもいいが、もっとも手っ取り早いのは人というメディアだ。旅や出張はつねに「アウェイ」なのだから、「ホーム」の人たちに問い合わせるのは理に適っている。ぼくはそうしている。実は、一昨日の夜に山口に入り昨日研修をして帰ってきた。日本全国たいていの所を巡ってきたが、不思議なことに研修で山口から声が掛かったのは今回が初めてだった。

新山口という新幹線駅での下車も初めてである。到着したのが遅かった。食事処にホテル内の中華料理店を選んだ。観光する時間は到底ないから、名所旧跡について聞くことはない。ぼくの最大関心事は、宿泊ホテルから会場のセミナーパークまでタクシーでどれくらいの時間がかかるかである。だから、ホテルのフロント係の女性に尋ねた。「そうですね、早ければ30分。渋滞で混んだりしますと、40分かかるかもしれません」と彼女は言った。手慣れた応答に、ぼくはひとまず彼女を信用した。


しかし、「何か変」を直感したので、翌朝、念のために会場でぼくを待ち受けてくれる担当の方に電話をした。ホテルではこう言っているが、ほんとうにそんなにかかるのかと聞けば、「20分あれば十分です」とおっしゃる。おまけに「20分にタクシーに乗ってください」という助言までいただく。やっぱり40分もかかるはずがない。なぜなら、午後4時に終了して午後441分の新幹線には間に合うと聞いていたからだ。そこで、早めにタクシー乗り場に行き、タバコを吸っていた運転手に聞けば「10分ちょっとだ」と言う。乗り込んだタクシーの運転手は「15分」と言った。

あいにく同じ見解がないから多数決というわけにはいかない。しかし、この場合、諸説紛紛に戸惑うことはない。研修担当の方の意見に従っておけばいいのである。もちろん、遅れては話にならないから、フロント係の40分に従って早く着いておくのも悪くはない(実際の所要時間は行きが15分、帰りが20分弱だった)。ところで、食事処のお薦めが諸説に分かれたらどうするか。これはさらに簡単で、好きなものを食べればいいのである。

一年ちょっと前に会読会で取り上げた『足の裏に影はあるか? ないか?』の中のものさしの話を思い出した。二本の30センチのものさしの目盛りが微妙にずれているのである。どっちが正しいのか。たくさん集めて多数決を取るか、製造元の鋳型を調べるか、さらにもっと権威筋のパリ近郊に格納されているメートル原器を調べるか……。諸説から真らしきもの、より信頼できるものを引っ張り出すのは労力を要する。諸説に悩んだら――実は、悩むこと自体、すでに理詰めの選択ができない状況であるから――気分か気合で決めるしかない。ぼくはそうしている。できれば一番余裕のありそうな説に与しておくのがいい。

ないものはない、あるものはある

♪ 探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中も机の中も探したけれど見つからないのに (……) 

ご存知の通り、『夢の中へ』の冒頭だ。まったく同じではないが、土曜日の夜、これとよく似た事態が発生した。場所は福井駅。大阪行き特急サンダーバードのチケットの変更をし終えて数分後のこと。いや、ぼくに生じた事態ではない。福井開催での私塾に大阪から参加した塾生Mさんの身の上に起こった一件である。なお、ぼくたちは居酒屋で焼酎を二杯ずつ飲んでいたが、決して酔っ払ってなどいなかった。

隣りどうしで帰阪しようと、ぼくはチケットを変更し、直後に彼が同じ窓口で指定席を買い求めた。その後、目と鼻の先の立ち食いそば屋に入った。店を出て改札に向かいかけた時、彼の挙動の異変に気づく。必死にカバンやポケットの中を探しているのだ。

♪ 探しものはチケットです 見つけにくいものではないのに カバンの中もポッケの中も探しているのに見つかりません (……)

もう一度みどりの窓口に戻り、窓口担当に発券を確認し、念のために落とし物窓口もチェックした。ない。「Mさん、胸ポケットの中は見た?」と聞けば、「はい」と言う。彼の胸ポケットにはアイフォンが入っている。彼はいくつか仕切りのあるカバンを何度も探し、本や資料の隙間に入っていないかを調べた。財布の中にはチケットを買ったクレジットの利用控えはちゃんと入っている。その財布の中は3回以上見直している。窓口で交渉したが、切符は金券扱いゆえ再発行などしてくれない。


緑色の証明書をもらってひとまず改札を入ることはできた。紛失していれば車中で切符を買い直さねばならない。車掌から買った後に紛失した切符が見つかれば、払い戻しをしてくれる。しかし、見つからなければお金は戻ってこない。特急に乗り込み福井駅を出発した。Mさんは座席に腰もかけずに、立ったままで再びカバンと財布とポケットの中を、それこそありとあらゆる隙間や凹のある箇所を「大捜査」している。冬場でも汗をかくほどの彼だ、まるでサウナに入っているように顔面から汗が噴き出して滴っている。

ぼくは作戦を立てていた。彼のカード利用明細控えが唯一の証拠、これを使いぼくが証人として車掌を説得できるかどうか、運よく温情にあふれた車掌ならば事情を察して何とかしてくれるかもしれない……などと考えていた。しかし、チケットを探している彼を横目で見ながら、こんな交渉がうまくいくはずがないと諦めもしていた。「失っていたらない。ないものは、ない」と心中でささやく。彼も探すのを諦めようとしていたその時、念のためにこう言った、「Mさん、胸ポケットは見たの?」 

胸ポケットからアイフォンをつまみ出したら、あっ、一緒に切符がついてきた! 切符は、胸ポケットという、一番ありそうなところにあったのだ。彼はカバンと財布を必死になって探してしていたが、胸ポケットには視線を落として一瞥しただけだった。黒色のアイフォンと同じサイズの切符、しかも磁気のある裏面は黒っぽい。横着したから重なって見えなかったというわけである。ないものはないが、あるものはある!

ところで、井上陽水はあの歌の半ばで次のように歌っている。

♪ 探すのをやめた時 見つかることもよくある話で (……)

エピソード学入門

エピソードとは逸話や挿話のこと。時の人物、物事、現象に関しての小さな話題であり、一見すると本筋ではないのだが、黙って自分だけの占有で終らせたくない小話だ。薀蓄するには恰好のネタにもなってくれる。また、どうでもよさそうな内容だけれども、案外記憶に定着してくれるのは、肝心の本題ではなく、こちらのほうだったりする。

雑学? いや、ちょっと違う。昨今の雑学はジャンル別になったり体系化されてしまったりしてつまらない。話がきちんと分類された雑学の本などがあって、襟を正して学ばねばならない雰囲気まで漂ってくる。雑学クイズはあるが、エピソードはあまりにも固有体験的なので、クイズの対象にならない。〈エピソード学〉という造語が気に入っていて、数年前から講義で使ったり、何度か『最強のエピソード学入門』というセミナーも開催したことがある。きちんとした定義をしたわけでもないので、用語だけが先走ったのは否めない。

「十人十色」と形容されるように、人はみな違い、みな固有である。同時に、「彼も人なら我も人なり」という教えもある。諺や格言を集めてみれば、森羅万象、相容れない解釈だらけだ。このような相反する価値観にエピソード経由で辿り着く。おもしろい、愉快だ、なるほど、これは使えそう、馬鹿げている、非常識……エピソードに対して抱く感情は、ぼくたちの思想や心理の鏡でもある。日常茶飯事はアイデアと創造につながるエピソードに満ちている。ぼくたちはそのことにあまり気づかないで、フィクションや夢物語ばかりをやっきになって追いかける。エピソードには、まるで虚構のような真実も隠れている。


情報を知ってハイおしまいなら、世間一般の雑学と変わらない。エピソードの良さは、考える材料になり、自作としてアレンジでき、そしてジョークにも通じるような、誰かに語りたくなる感覚を味わうことにある。

ある時、駅構内で「インドネシアからお越しのクーマラスワーミーさま、クーマラスワーミーさま、ご友人がお待ちですので駅長室までお越しください」というアナウンスが聞こえてきた。ぼくが聞き取れたのだから、インドネシア語ではなく日本語であった。日本語でクーマラスワーミーさんに呼び掛けた? そうなのである。呼び出されたその人が日本語を解する人だったのかもしれない。しかし、それはそれ。日本語で外国人に丁重にアナウンスすること自体に可笑しさがある。

同じく駅のアナウンスで「ただいま2番ホームに到着の列車はどこにもまいりません」というのがあった。ホームに立ってじっと見ていた、これまた外国人が、動き出した列車を見てこう言った。「ドコニモイカナイトイッタノニ、ドコカヘイッタジャナイカ!?」 たしかに。列車は車庫へと向かったのである。

次はアメリカ人のエピソード。

「鶏ガラを使ったスープを私は飲まない。タマゴは食べるけど、それ以外の肉食系たんぱく質はとらない」という女性がいた。ベジタリアンであった。「なぜタマゴはいいの?」と聞けば、「タマゴはどんどん生まれるから」と答えた(何? 鶏だってどんどん育つではないか)。野菜ばかり食べる彼女は慢性のアトピーに悩まされていた。しかも、肉食に何の未練もないと言い張りながら、肉を模した豆腐ステーキを食べたがるのである。枝豆にしておけばいいのに、こんがりと焼けたステーキを「偽食」したいのである。

偶然外国人がらみのエピソードばかりになったが、必ずしも偶然とは言えない面もある。ことばや文化や考え方の異質性や落差がエピソードの温床になることが多いからである。もちろん、日本人・日本全体においても多様性が進み異質的社会の様相が色濃くなってきたから、一見ふつうの人間どうしの交わりからもエピソードがどんどん生まれてくる。敷居学、室内観相学、路上観察学などはすでにそれなりの地位を築いている。人間が繰り広げる行動にまつわるエピソード学もまんざら捨てたものではないと思うが、どうだろうか。

また別の機会に……

まとまった休みを前にして、おそらく世間の誰もがそうするように、ぼくもあれをしようこれをしようと前もって行動を定める。この日に何々などの無理算段は決してしないが、5日間なら5日間でやってみようと思うことを大まかにスケッチはしてみる。ところが、夏真っ盛りの盆休みも年末年始の正月休みも、そして昨日までの大型連休も、季節は変われどもいっこうに変わらぬ自分がいる。毎度毎度、想定したほどの行動をやり遂げることはめったになく、成果もせいぜい七、八分止まりなのである。

そんな後味の悪さを残すくらいなら、何も考えずに、いっそのこと無為徒食を決め込んで居直ればいいのに、その勇気さえ持たない。予定を立ててもしっくりいかないていたらくなのだから、行き当たりばったりの惨状は推して知るべしだろう。結果が思惑違いになろうが、弱い精神の持ち主にとっては何がしかの小さな計画は一敗地にまみれないためのせめてもの抵抗なのである。

と言いつつも、悔やんでも悔やみきれない休暇を過ごしたわけではない。読もうと思って手元に置いた本にはだいたい目を通したし、自宅から東西南北すべての方向へと数時間ばかり散策もしてみた。うまいものも食った。人混みに辟易してすぐに帰ってきたが、ある日の午前中には行楽地へも出掛けた。『不思議の国のアリス』の原本との違いと連動性を確かめるべく、3Dではないが『アリスインワンダーランド』も観てきた。ついでの力を借りてルイス・キャロルの『不思議の国の論理学』も再び拾い読みしてみた。予定した以外の時間にもそれなりにやっただけの意義はあったかもしれない。


「また別の機会」はめったにないと思っている。いま疑問に思ったことを調べなければ、明日以降に調べてみようと思い立つ確率は間違いなく小さくなる。食べたいものは食べたいときに口に運ぶべきで、チャンスを逃すと永遠の先延ばしスパイラルに陥ってしまう。調べものも食事も、その他すべてにおいてこのことわりは生きている。

とある本に、本題から脱線した話が出てきた。その脱線話を途中まで書き綴っておきながら、著者はふいに閑話休題として話を元に戻す。このエピソードはおもしろいのだが、これ以上語り続けると、この文章のテーマから外れてしまうから、また別の機会に譲りたい、と著者はやめてしまうのだ。おいおい、それはないだろう、そこまで言っておいて読み手を興味津々にさせながら、別の機会とかわされては困る。いったいぼくは別の機会にあなたが書くであろうその話にどうすれば巡り合えるのか。あなたの書くエッセイをずっと追い続けるのは非現実的ではないか。

読書の世界で別の機会はないだろう。読んでみたいという衝動をいま満たさずして、後日縁があればお読みいただきたいでは納得がいかない。そう言えば、「この話は別のところでも書いたので繰り返さないが……」という言い回しにもよくお目にかかる。悪いけれど、あなたの本をそんなにたくさん読んでいるわけではないから、けち臭いことを言わずに概略でも繰り返せばいいではないか。熱心な読者ばかりではないのだ。

この話をもっと書きたいが、「また別の機会」にしたい。こうぼくが書いてもさほど問題はない。今のところ、ぼくの駄文発表の本拠地はこのブログだけであるから、近いうちに続編をお読みいただけるはずだ。「近いうちに」も「またの機会に」も同じことかもしれないが、書店に行ってぼくの著作を探さなくてもよい分、こういう逃げ方はさほど罪深くはないだろう。 

ぼくは恐いおじさんである

久しぶりにまずまずの陽射しに恵まれた先々週の土曜日、いつものように散歩に出掛けた。くねくね歩き続けているうちに、とある雑貨店の前に出た。店の前にいわゆる「ママチャリ」が止めてあって、その傍らに幼稚園児らしき女の子が固まったように立っている。不安そうにも見えた。こういう状況に出くわすと、知らん顔できない性分なのである。

「何歳くらいかな? 6歳くらい?」と聞くと、首を振り「5歳」と答えた。「6歳くらい?」と尋ねたのは、その子が大柄だったからだ。「5歳だったら、幼稚園でも大きいほうだね」と言えば、うなずいた。その表情には緊張感が走っている。とは言え、不安そうな緊張感はぼくが店に近づく前から遠目にうかがえた。「お母さんはお店の中?」などと確かめる。どうやら買うものが決まっている母親が、少々の時間外で待たせておいたような雰囲気である。ぼくは店に入り、商品を物色しながらもしばらくその女の子を気に止めていた。

その雑貨店で何かを買おうと思ったわけではないが、店内を奥へ進めばアロマコーナーがあった。時々ヒーリングインセンスなるお香を部屋で用いるものの、アロマポットは持っていない。驚くほど安いアロマポットが置いてあり、買うことにした。アロマオイルも何種類もあるので、テスターを順番に嗅いでいた。ちょうどその時である。店の外で堰を切ったような女の子の泣き叫びが轟いた。間髪を入れず、「どうしたの!?」という母親の響く声。たとえわずかな時間とはいえ、一人店外で母親を待つ不安でいっぱいだったのだ。泣くのはしかたがない。ともあれ、母親の買物が終ったようで一安心だ。


外の様子はぼくには見えなかったが、泣きじゃくる娘に話しかける母親の声はよく聞えてきた。耳を傾ければ、どうも様子が変なのである。「誰かに何か言われたの!?」とか「何か変なことされたの!?」と詰問しているではないか。そんな時間が数十秒続いただろうか、やがて女の子の泣き声は遠ざかっていった。この時点でぼくは合点がいったのである。

女の子は一人にされて母親を待つことにこわばっていたのではない。ぼくが遠目に見た女の子の不安な表情は、女の子がぼくを遠目に見た結果だったのである。陽射しが強かったその日、ぼくはサングラスをかけていたのだ。このサングラスは他人が見れば濃いのだが、ぼくが見る景色や物などの色合いは肉眼とさほど変わらない。帰宅しても普段の眼鏡に替えないでそのままかけていることさえあるほどだ。ぼくは自分がサングラスをかけていることをすっかり忘れていた。

女の子は遠目に見たサングラス姿のぼくを恐いおじさんと感知したのである。ぼくに限らず、サングラスはどんなひょうきん顔でもコワモテに変貌させる。ぼくには恐いおじさんのアイデンティティはないはずだが、その子にはそう見られた。誰にどう見られても気にしないほうだが、ここはそうも言っておれない。人は見かけによらないし、人は見かけ通りであったりもする。人は一つのスタンスで生きているつもりながら、他者からは多種多様なスタンスの人間に見られている。

この小さな一件はなかなか意味深長である。子どもは正直に喜怒哀楽を表してくれるが、大人は人間関係上我慢してノーをイエスと言っている。「恐いおじさん」や「変なやつ」と思っていても、ふいに泣き出したり逃げ出したりしないから、状況不変だからといって安心してはいけない。大人の世界では泣きや怒りはなかなか顕在化しないのである。

「一生に一度は」という軽さ

先週、久しぶりにTBS『世界遺産』を見た。劣化が著しかった壁画『最後の晩餐』。その大修復は1999年に完了した。要した歳月はなんと22年! しかも、その修復を手掛けたのはたった一人の女性であった。その女性が歴史上の名画誕生と再生のエピソードを語った。

教会の壁画のほとんどは漆喰の上に顔料を塗って仕上げるフレスコ画で描かれる。半永久的に保存可能だ。但し、漆喰が乾ききる前に手早く絵を描かねばならず、また色の種類にも制約がある。レオナルド・ダ・ヴィンチは遅筆だったため、フレスコ画を苦手としていた。しかも、丹念に多色を重ねられないのも彼の嫌うところだった。したがって、当時としては珍しく晩餐をテンペラ画で描いたのである。見る人すべてを唸らせる名画になりえたが、手法的には完全に失敗だった。描いてから数年後には絵具が剥がれ始めたのである。

番組を見ていて、200610月のミラノを思い出した。『最後の晩餐』見たさにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会まで足を運び、案の定「予約なしでは入れない」と断られた話。本ブログでもその話を書いた。番組で女性ナレーターが「一生に一度は見ておきたい名画」とさらりと言うではないか。その通り、今度ミラノに行く機会があれば、準備万端何ヵ月も前に日本で予約しておこうと思っている。


と同時に、別のことも頭をよぎる。そのような「一生に一度は」と修飾すべき体験の数々を強く願いながら、どれだけ未体験のままにしてきたことか。怠慢もあるだろう、時間不足もあるだろう。いや、そんな一生に一度の願いが分不相応に多すぎるのだろう。事は、世界遺産クラスの対象ばかりではない。一度は訪ねておきたい、一度は食しておきたい、一度は見ておきたい、一度は読んでおきたい……数え上げればキリがなく、歳を重ねるごとにそのような願望が増え続けるばかりである。

トランジットしたことはあるが、ぼくは上海の街を訪ねていないし、ドリアンなる果実を食べていない。『モナリザ』は見ているが、『最後の晩餐』を見ていないし、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでいない。こんなことを言い出すと、訪ねていない、食していない、見ていない、読んでいないほうが圧倒的に多いから、途方に暮れてしまう。加えて、「一度きりでほんとうにいいのか」と問いかけてみれば、「できれば、もう一度」という願望も膨らみ続けていることがわかる。「一生に一度体験」と「一生にもう一度体験」を足してみれば、一生ではとても足りないのである。

好奇心は飽くなきまでに「せめて一度」を求める。そして、そのような体験を望みながら、既決ボックスの件名数を未決ボックスの件名数が凌駕していくのを傍観している自分がいる。気がつけば、貴重な時間を費やすべき価値ある「一生に一度」がとても軽くなっているではないか。一生に一度という最上級の評価が安値になってしまっているのである。五万とある一生に一度の願望をうんと目の細かいフィルターにかけて、希少体験を絞り込むべきなのだろう。

 そうしてみた時、それでもぼくは『最後の晩餐』の鑑賞へとおもむくだろうか。