エレベーターよもやま話

エレベーター.jpg直近のニュースを持ち出すまでもなく、便利で身近なエレベーターにも時々悲劇が起こる。便利と慣れにかまけて、エレベーターへの注意がなおざりになってしまうのも事故の原因の一つだろう。

狭小な閉じた空間であることとボタン一つで上下に移動することをあらためて認識してみれば、エレベーター内および乗降時に油断してはいけないことがわかるはずだ。但し、今日の記事は、悲劇や危険にまつわる深刻なものではなく、ぼくたちとエレベーター利用につきまとう日常的な考察に基づくよもやま話である。

1.ニアミス
一昨日マンションのエレベーターが1階に着き、ドアが開いて出ようとしたら、5階のがさつな三十代男性住人とぶつかりそうになった。ドアが開いた瞬間、男がぼくに気づかず乗り込もうとしてきたからだ。ぼくは透明人間ではないから、前方に目をやれば見えたはずである。エレベーターは電車と同じで、中から外へ出る動作が優先される。つまり、ぼくが出るのを見届けてから男が入るのである。
なお、エレベーターも車もボートも、「有事ゾーン」の移動手段とされているので、レディファーストのしきたりに従うならば、乗る時は男が先に乗ってから女性を導き、降りる時は先に女性を降ろす。
2.よく起こると実感すること
エレベーターというものは、急いでいる時には乗ろうとしている階の近くにはないものである。たとえば1階から乗って上層階へ行こうとするとき、2基が備わっている場合でも、2基の両方が上層階へと動いていることが多い。
3.矢印の意味
エレベーターホールには〔▲〕と〔▼〕のボタンがある。この矢印についてぼくは説明を受けたことがないが、今いる階よりも上に行きたければ▲、下に行きたければ▼を押すことを承知している。つまり「願望ボタン」なのである。
しかし、教わったことがないのであるから、高齢者の中には「命令ボタン」だと思い込んでいる人がいる。〔▲〕が「この階に上がってこい」、〔▼〕が「この階まで下りてこい」という意味だと思っているのである。どちらを押してもエレベーターはその階へやってくるが、そのまま乗ると、下へ行きたいのに上へ行ってしまうなどということが起こってしまう。
4.
昔のエレベーターには「釦」という一文字の漢字が書かれていた。小学生頃まで何のことかわからず、また知ろうともせずに乗っていた。「ボタン」と読むのだとわかったのは中学生になってからである。
5.アメリカンジョーク的クイズ
高層マンションの23階に住んでいる男がいる。朝、自宅を出るとき、彼は1階まで直通で下りる。しかし、帰宅時は21階でいったん降り、そこから2階分だけ階段を上る。なぜだろうか?
〈答え〉降りる時の押す1階のボタンは低い位置にあるが、昇る時に押す23階のボタンの位置は高い。男は背が低く、23階に手が届かず、ギリギリ届く21階のボタンを押す。

スリという稼業

かつて植木等が「 サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」(ドント節)と歌った。ありきたりなことを書けば、気楽なサラリーマンもいれば、過労死に追い込まれるサラリーマンもいる。稼業が気楽かどうかは本人が決めるものだ。ぼくはと言えば、楽に収入を得た仕事がなかったわけではないが、「気楽な仕事」に巡り合わせたことは一度もない。

スリの話.JPG

スリは漢字で「掏摸」と書く。まず書けそうもないが、ふつう読める人もあまりいないだろう。「掏」とは他人が身に付けている金品を気づかれないように取ることであり、「摸」は手探りすることだ。現実的には、時間をかけて手探りしていては気づかれてしまうから、軽快かつ敏捷でなければスリという稼業は務まらない。

全国ニュースにはなっていないと思うが、紹介する一件はスリ稼業の「 わかっちゃいるけど、やめられない」(スーダラ節)を象徴している。新聞記事によれば、住所不定・職業不詳の姉80歳と妹72歳がペアで現金をかすめ取ろうとしたところを現行犯で逮捕された。二人合わせて152歳。ぼくが記者でもこれを見出しにする。もう50年以上の「キャリア」があるから、捜査員とも顔なじみ。苗字の一字から「駒姉妹」と呼ばれていたという。明らかに「こまどり姉妹」をもじっている。

姉は「デパートの店内を見ていただけ」と容疑を否認し、妹は姉をかばって「一人でやった」と容疑を認めた。年齢的にはテクニックのピークも過ぎ、発覚の確率も高まっていたはず。それでもなお、この稼業で食うしかない。スリ側に共感するはずもないが、悲哀が浮き彫りになる話ではある。

かつては商売人が多かった大阪にスリが多く、技術も際立っていたという。上着に入れていた鎖のついた金時計の蓋を外し、中の金製文字盤だけを抜き、蓋を閉めてポケットに戻したという、スゴ技のエピソードもある。警察に届けを出した被害者に、「この仕事をしたスリの腕は見事だが、これだけの手探りをされても気づかなかったあんたもすごい」と刑事が言ったらしい。この話、確か桂米朝の落語のまくらで聞いた記憶がある。

スリは人口過密都市でなければ成り立たない犯罪だ。満員電車、混雑するデパートが標的になる。ヨーロッパでも地下鉄やバスにスリが出没するが、だいたいは集団犯罪である。ふつうに注意していればそれとわかる。自慢してもしかたがないが、器用さにおいてわが国のスリはパリやローマの同業者の比ではない。ただ、二人合わせて152歳などではなく、あちらのスリは合わせても40歳代にしかならないあどけない女子三人組が多い。しかも例外なく可愛い。テクニック不足をそのあたりでカバーしているのである。旅行する人、油断禁物。

見巧者であれ

サラリーマン時代は、今のようにランチタイムを自分なりにフレックスに過ごせなかった。わずかな昼休憩の間にコーヒーも飲みたいから、仲間と出掛けてはそそくさとランチを平らげ、喫茶店に場を移して雑談したものだ。

ある日、行きつけの喫茶店が混んでいたので、店探しに少し足を延ばした。通りがかった喫茶店の前で同僚のTが立ち止まり、「ここにしよう」と残りの三人を促した。見ればドアに「夏はやっぱり愛す♥コーヒー」とマジックインクで書いた紙が貼ってある。

Tさん、ここはないでしょ。この店構え、貼紙の文言や文字のセンスを見たら、完全にアウトですよ」とぼくは言った。だが、「時間もないし……」とTは譲らず、先導して店に入ってしまった。結論だけを書くと、店に入るなり埃の匂いがした。置いてあるソファは赤で場末のスナックから運んできたような代物だった。ソファのスプリングが不良で、座ればドーンと背中まで埋もれてしまった。見るに堪えない夜の化粧のオバサンが一人。アイスコーヒーは……愛すどころか、口に運ぶのも勇気がいるような味だった。

この一件から、「やむをえないという理由で選択肢を広げて妥協などしてはいけない」という教訓を得た。まったく不案内なことについて、ぼくたちは判断しなければならないときがある。蕎麦屋でも喫茶店でもいい、まったく知らない街で二軒の店があり飯を食うかお茶を飲もうとするとき、店のたたずまいや店名など、ごくわずかな情報から優劣判断をするものだ。どんな判断をするにしても、優劣がつけば優の格付けをした店に賭ける。しかし、二者択一ではないから、「劣劣」と思えば消去法的に選ぶことなどないのだ。義務も義理もない。


ジャズとお好み焼き.jpg

先月、「ジャズとお好み焼き」を謳い、コテをモチーフにしたチラシが貼ってある店の前を通り掛かった。かつての同僚Tなら喜々として立ち寄る店だ。ジャズと蕎麦の店にはぼくも行ったことはある。しかし、演歌の流れるフレンチには行かない。ジャズとお好み焼きはぼくの感覚域には属さない。コテを手にして熱々のお好み焼きを頬張りながら、どんなふうにジャズを聴くというのか。しかも、生演奏なのである。聴くほうのセンスも疑うが、演奏する者のセンスにも異議ありだ。

見巧者みごうしゃ〉なる演劇の表現がある。上手に観劇する力のある観客のことだ。舞台は演じる者の技量だけで成り立つのではなく、観劇者にも同等の観賞眼が求められるのである。芸術一般の鑑賞にも当てはまり、店や料理にも広く敷衍できるだろう。上手は一方によってのみ存在せず、上手の本質に呼応する他方があって初めて生かされる。

下手は下手どうしで持ちつ持たれるの関係を続けるだろうが、上手と出合いたければ自らも上手の眼を養わねばならない。見巧者への道は試行錯誤の連続だが、日々の小さな判断力の積み重ねがやがて暗黙知を授けてくれるようになる。とは言うものの、店選びに関しては今も10回に一、二度は騙されてハズレを引く。

知遊の精神で粘る

知遊亭粋眼 扇子.jpg自慢するわけではないが、当年ぼくは「還暦プラス1」である。羨ましがるには及ばない。元気でさえいれば誰にでも平等にその日がやってくる。

後を追ってくる年下の皆さんに先輩面しておこう。頭と遊び心を腐らしてしまうと、つらい人生が待ち受ける。やれ疲れた、あちこちが痛いなどというのは日常茶飯事だが、それでも、頭が働いているという実感さえあれば何とか切り抜けられるものだ。さらに、人生まんざらでもないと思うためには、愉快がることが不可欠である。世の中、おもしろいことは尽きないのだから。笑いはエコなエネルギーである。
 
おもしろさには二つある。共感的に愉快を楽しむのが一つ。もう一つは、バカバカしく呆れ果て、チクリと批評のトゲを刺す楽しみ。後者は薬と毒の境界にあってたやすくはないが、これも齢を重ねることによって修行ができてくる。キザに言えば、クールな遊び心である。
 

 ぼくの仕事のテーマの基本に概念がありコミュニケーションがある。適当でアバウトだとお金をもらえないので、好き嫌いを問わず、知的に処理せねばならない。反知性主義者からは生意気で格好をつける奴と評されてきたが、ぼくの素顔を知らぬ者の早とちりだと切り捨ててく。仕事は知的でも、全人生を賭して「知遊的」でありたいと願う。そんな思いから、二年前に〈知遊亭ちゆてい〉というアマチュア一門を旗揚げした。川柳や洒落やギャグなどのことば遊びを通じて、アタマを使って愉快精神を横溢させる勉強会だ。
 
最近ごぶさたしているが、当意即妙で競わねばならないから脳トレには効く。写真はぼくの芸名「粋眼すいげん」を刷り込んだ扇子。門弟は十人ちょっといて、彼らにも芸名がある。大笑いは取れないが数をこなす「小笑こわらい」、どんな笑いを披露しても大勢に影響のない「巴芹ぱせり」、場違いな笑いで大汗をかく「汗多かんた」、ギャグ一つ言うのも時間がかかって緊張する「小肝こぎも」……。
 
先日、ブラジル好きの還暦オジサンが入門したので、「伯剌西ぶらじ」という名を与えた。伯剌西爾の「」を取ったのは、「すべる」の「る」を連想させるから忌み嫌ったため。もうお一人、長い冬を強いられる北海道北端にお住まいの先輩には、「冬短ふゆたん」を差し上げた。「冬よ、短くな~れ」という願いを込めて、サッポロラーメンの「古潭こたん」と人気の「しょこたん」のイメージを重ね合わせた。フェースブックで〈知遊亭〉グループを作ろうという話が持ち上がっているが、さて、どうなることやら。

美味しさと不味さ

Barbaresco2006 Fontanafredda web.jpgのサムネール画像イタリアのピエモンテ州には「ワインの王様」と称されるバローロという有名なワインがある。これに対して、同じくピエモンテ産のこのバルバレスコは「ワインの女王」と謳われる。決して安物のワインではない。店にもよるが、4,000円から5,000円くらいするのではないか。
通常2,000円までの安くてうまいワインを探し、プロにも勧めてもらっているぼくとしては、ブランドと価格の両面で大いに期待した一本である。先週、来客が来ることになり、直前に冷蔵庫に入れた。しかし、みんなほろ酔いになり、これには手がつかないまま。いったん冷やしたワインを常温に戻すのはご法度である。次の来客を待たずに封を切ることにした。

封を切った当日。飲む直前に冷蔵庫から取り出したせいか、よく冷えていて香りが弱い。つまみは赤ワイン向きのものを用意していたが、チーズとの相性も思ったほどではない。体調のせいか、室温のせいか、やっぱり冷えすぎていたせいか、いや、そもそもこんな感じの味なのか……原因などわかるはずもないが、買い手としては期待外れの印象を露わにしづらく、複雑な心理状態に陥った。グラスに二杯飲んで、再び冷蔵庫に収めた。
翌日。メインをぶっかけうどんにして、和を中心のおかずを用意した。そして、前日に引き続き飲んでみることにした。するとどうだ、コルクが抜かれて一晩過ぎたせいかどうか知らないが、打って変わって芳醇なうまさが口で広がった。さすがバルバレスコだという調子で賞賛はしなかったものの、満足のゆく香りと味であった。理由を求めても意味はないが、いったいどういうことなのだろうか。
美味おいしいものは美味しい、不味まずいものは不味い」でいいはず。ところが、美味しいものは美味しいでいいのだが、美味しいはずのものが期待外れに美味しくないとき、いや、むしろ不味いとき、不味いものは不味いでケリをつけにくい。なぜ不味いのか、なぜ不味く感じるのか、何が不味くさせているのかなど、つい理由が欲しくなってしまうのだ。不味さの科学は美味しさの科学よりも、おそらく不可解であり不確実なのだろう。

切り落とし

カステラの切り落とし web.jpg一見わかりにくい写真だが、これはカステラの切り落としである。地域によっては「切れ端」や「端っこ」と呼んでいるらしい。肉の場合はだいたい切り落としと命名されているようだ。国産黒毛和牛のロースの切り落としなどと書いてある。もちろん、本体のブロック部分を切り分けたものよりも価格は安く設定されているが、切り落としでもグラム800円などというのはざらにある。

外側にあろうが内側にあろうが、成分と中身は同じである。ただ、パッケージに合わせたサイズと形の規格があるから、不揃いに焼き上がるカステラなどは規格に合わせて整えねばならない。そのときに不要な端っこが必ず切り落とされる。繰り返すが、定価で売られる本体もこうして規格外になった部分も味に変わりはない。贈答用と自宅用と用途に応じて買えば、安上がりだ。
ぼくの場合はカステラを贈答用に送ることなどないので、買う時はつねに自分用か親類用である。質よりも量を求める親類が多いのは幸いである。これまた幸いなことに、十数分も歩けばカステラ工房があって、そこの店先で切り落としを売っている。薄いのもあれば厚いのもあるが、目方を測っているから重さは同じ。散歩の途中で買って、自宅でのコーヒーのおやつにちょうどいい。

小難しい話にする気はないが、この規格品と切り落としの関係から〈中心と周縁〉という概念を思い浮かべる。中心必ずしも重要ではなく、周縁必ずしも瑣末でもない。「彼は会社の中心人物だ」という評価があっても、冷静に考えてみれば、いなければいないで何とかなる場合がある。そう、彼は中心ではあっても本質ではないかもしれない。
カステラの場合、中心も周縁も相互に支え合っているように思われる。周縁が本質的ではないからといって、周縁を始めからなくしておくわけにはいかない。高級なカステラなど結構、つねに切り落としで十分と考えるぼくは、オール切り落としを製造してくれたらいいと思っている。
あの割れおかきも全部最初から割っておいてくれたら安くなる(ひょっとすると、そうしているのかもしれない)。そう言えば、時々ランチに行っていた鉄板焼きの店でも、サーロインステーキ定食はほとんど売れず、誰もが切り落とし定食を食べていた。

実録「生肉を喰らう」

実録なので、デフォルメしない。淡々と事実と意見を書くことに徹する。

焼肉店ではユッケや牛刺しを出さなくなった。先週の土曜日、6人で焼き肉を食べに行った折、注文係のK氏はレバ刺しと生のセンマイを頼んだ。焼肉店では内臓の刺身なら出すくせに、赤身の刺身を出さない。発端となった例の「食中毒事件」の経緯など諸般の事情を理解しつつも、解せない話である。

焼肉用のロースやカルビを買ってきて、自宅で細かく切ってユッケのように仕立てて食べるのは自由だろう。これを禁止する条例はなく、自己責任のもとで食べればよい。「これはいい肉である」と判断したら、ぼくは焼かずに適量を生で食べる。何事も起こったことはない。

よく行く焼肉店も、例の事件前までは、焼肉用の心臓ハツを注文すると、必ず「生でもいけますよ」と付け加えていたものだ。ましてや熟成赤身肉の上とくれば、ほとんど生で食べるのが暗黙の了解のようになっていた。その日も、半分ほど生食するつもりで熟成赤身を注文した。


焼肉はワイワイガヤガヤと賑やかにというイメージだが、ぼくの持論は違う。じっくりと肉質を見ながら絶妙に焼き、そして静かに食べるべきものだと思っている。しかし、その日は、少々お酒も飲み話も弾んでいた。箸でつまむ熟成赤身肉をろくに見もせずに、一切れをワサビで、もう一切れを塩で食べたりしつつ、「おや、いつもと少し違う食感……」と思っていた。そして、三切れ目をつまんだ瞬間、それが注文した熟成赤身肉でないことに気づいたのである。

よく見れば、それはツラミだった。繊維が少なくて赤身に少しよく似た、上ツラミだった。結論から言うと、店が熟成赤身を上ツラミと間違えたのである。聞き間違いするには発音が違い過ぎる。何のことはない、別の客の注文と混線したという次第だ。それはともかく、初めて上ツラミを生食し、気づいた時には二切れはすでに胃袋に収まっていた。

上ツラミの生の味は格別であった。そして、腹痛も中毒も起こらなかった。

焼肉店でユッケを禁じるのは理不尽であり滑稽な話である。しかし、文句を言ったり逆らったりする暇があったら、スジや脂身の少ない良質の肉を買ってきて、自宅で調理して食べればいいだけの話だ。同じ値段で店で食べる量の3倍はいける。

paris ハラミのユッケ web.jpg昨年1123日、パリ滞在中のアパートでの食事。右下に見えるのがバスティーユの朝市で買ったハラミ。ユッケよりも大きくぶつ切りにして200グラムほどたいらげた。ハラミの生肉は日本ではまず賞味できない。

買う、忘れる、見つける、喜ぶ

財布に一万円札が入っているとする。当たり前のことのようだが、よくよく考えるとありがたいことである。だが、ありがたいことではあるが、うれしくて感極まってしまうことはないだろう。

では、その一万円を失くしてしまったらどうか。がっかりである。がっかりするが、容易に諦めきれないから、当然家のそこらじゅう、たぶん机の上や引き出しの中、封筒の中までも探すはず。ぼくのようなマンション住まいなら、共用部分の廊下や踊り場、それにエレベーター、今帰ってきた道中をしばらく逆に辿るかもしれない。いや、きっとそうする。だが、探すのに疲れておそらく諦めることになる。やがて月日が流れて、忘れる。

しかし、天災と朗報は忘れた頃にやってくる。何かの拍子に、その一万円札を本と本の隙間に見つけてしまうのだ。そして、はしゃぐように喜ぶ。最初から財布に入っている一万円札を見つけるのとは天と地ほど違って、狂喜のあまり小躍りしても不思議ではない。

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GAUDI~2.JPG怠けているわけではないが、「今度の週末こそは……」と先送りしているうちに、二ヵ月以上が過ぎた。土産物だけは手渡したが、バルセロナとパリで買った本や絵葉書、集めてきた資料やパンフレットに入場券や切符、それに写真の類はほとんど帰ってきた時のままで、手つかず状態である。

少し反省したのが一昨日の日曜日。手始めにB4サイズほどの紙袋の中を整理しようと、ガサっと取り出した。ずしりと重く手のひらにあたったのがこのガウディの図録である。もちろん買ったのを覚えているから、失くした一万円札を見つけるときほどの驚きはない。

しかし、ページを繰ってみてあらためてガウディの天才ぶりに驚嘆した。写真が鮮明で、とてもきれいな図録である。

海外でこの種の図録を買うとき、語学ができるできないにかかわらず、ぼくは現地語バージョンを記念に買う。バルセロナで買ったこの図録、当然スペイン語(カスティーリャ語)でなければならない。ところが、ミラ邸のギャラリーでスペイン語版は売り切れていた。それならば英語にしておけばいいものを、ぼくはバルセロナの公用語であるカタルーニャ語版を買い求める暴挙に出たのである。

それでも、固有名詞を頼りに読んでいくと三分の一くらいは何となくわかる。もちろん、「何となくわかること」と「はっきりわかること」は全然違う。それでも、写真を中心にカタルーニャ語を追うだけでも、値打ちがあるように感じる。そう、買って、忘れかけていたが、袋の中に見つけて大いに喜んでいるのだ。最近どうも感動が足りないと思うのなら、いったん忘れるか失くしてしまうことをお勧めする。

ブリュッセルからの絵はがき

20111121日。午前10時過ぎ、パリ北駅から特急タリスに乗ってブリュッセルへ。日帰りの旅だ。

パリと同じくらいの温度だったが、少々底冷えしていた。すぐに電車やバスに乗ると身体が温まらないから、こんな時ほど歩くに限る。街の中心街の歴史地区までは地下鉄に乗ったが、あとは数時間あちこちをそぞろ歩きした。

これに先立つ1週間前のバルセロナ、さらに3日前にパリに着いてからも絵はがきを書いていないことに気がついた。友人や親類には書かないが、海外に出ると、留守番をしているスタッフには便りをするようにしている。ここまではがきを投函しなかったのは、他でもない、切手が買えなかったからだ。


ブリュッセルからの絵はがき.JPG

切手などどこででも売っていそうなものだが、実は、スペインでもフランスでもワインを買うよりもむずかしい。もちろん郵便局で買い求めればいいが、郵便局があちこちにあるわけではない。ふつうはタバコ屋で買う。だが、国際切手を置いていないところが多い。

運よく切手を売っているタバコ屋があり、その店でついでに絵はがきも買った。それでカフェに入り、カフェベルジーノを飲みながら、ささっとボールペンを走らせた。たわいもないことしか書いていないので、クローズアップされると恥ずかしい。近くのパッサージュのような通りに郵便ポストがあると聞いたので、投函しに行った。

そこにあるポストは壊れかけたような代物で、無事に集配してくれそうな雰囲気がまったくない。通りがかりの学生風の男性に聞いたら、これがポストだと言う。「だけど、1日に午後4時半1回きりの集配だけだから、明日になるね」と彼は付け加えた。時計は午後5時を回っていた。翌日の集配になるわけだし、何よりも信頼を寄せられない雰囲気のポストだ。と言うわけで、絵はがきを書いたという証明のために投函前に写真を撮ったのである。だから、消印が押されていない。

この絵はがき、投函日の4日後には大阪に着いていたらしい。つまり、集配してから3日後というわけだ。みすぼらしくて頼りないポストだったが、ブリュッセルの郵便局、案外しっかりしているではないか。

立つか座るか

ブログを始めてから3年半。これまでは最長でも5日ほどしか空かなかったが、初めて1ヵ月もごぶさたしてしまった。海外に出てiPadからアップすればいいと気軽に思っていたが、思ったほどうまくタッピングできない。そもそも長い記事を書くタイプなので、23行書いて「ハイ、おしまい」で片付けられない。億劫になって、手軽に投稿できるfacebookのほうを重宝した。

帰国後ずいぶん反省して一念発起したのだが、それからすでに1週間以上も経っている。ネタ不足か、行き詰まりかと自問するも、そうでもない。書きたいことや少考してみたいことはいくらでもあるのだ。よくよく考えて、どうやら息の長い文章を綴る習慣が元に戻らないという結論に落ち着いた。徐々に取り戻そうと思うが、同時に、この機会にあっさりと書くスタイルに変えてもよさそうな気もしている。


閑話休題。イタリアでもフランスでもそうだが、喫茶店(バールやカフェ)でコーヒーを飲むときに、立って飲むか座って飲むかという選択肢がある。カウンター内のバリスタに注文し、カウンターの上に出されたエスプレッソやカフェラテをその場で飲むのが立ち飲み。座って飲むのは、日本の通常の喫茶店のスタイルと同じ。まず気に入ったテーブルに座り、注文して運んでもらう。

同じものを飲んでも、座って飲めば料金は立ち飲みの2.5倍か3倍になる。テーブルでは席料が加算されるシステムなのだ。観光名所近くのカフェに入ると、強引に観光客にテーブル席を勧めてくる。店にとっては当然の作戦。カウンターで飲めば180円ほどのカフェ・クレームがテーブルでは520円になる。というわけで、よほどゆっくりとくつろぐ気がないときは、ぼくはカウンターに直行して注文する。

カフェの朝食メニュー.JPGパリ3区のボーマルシェ通りに面したカフェの看板。最初の行には「カウンターでのプチ・デジュネ」とあって2ユーロ。ホットドリンクとトーストとジュースのモーニングセットをカウンターで飲んで食べれば210円とは格安だ。トーストがクロワッサンかブリオッシュに、ジュースが搾りたてのオレンジに少々格上げされるものの、ほとんど同じメニューをテーブル席で注文すると6ユーロと3倍になる(ちなみに一番下の8.9ユーロのメニューはビュッフェ、すなわち食べ放題)。

毎日同じカフェにやってくる常連は、仕事の前にさっと立ち飲みして1ユーロ前後を置いて出ていく。観光客やカップルはだいたい座っている。座って通りを眺めたりお喋りしたり本を読んだりしても、普通のカフェなら250円か300円だから、日本の喫茶店よりもだいぶ安い。なお、チップを置いていくという習慣もここ数年でだいぶ薄れてきたような印象がある。