久しぶりにまずまずの陽射しに恵まれた先々週の土曜日、いつものように散歩に出掛けた。くねくね歩き続けているうちに、とある雑貨店の前に出た。店の前にいわゆる「ママチャリ」が止めてあって、その傍らに幼稚園児らしき女の子が固まったように立っている。不安そうにも見えた。こういう状況に出くわすと、知らん顔できない性分なのである。
「何歳くらいかな? 6歳くらい?」と聞くと、首を振り「5歳」と答えた。「6歳くらい?」と尋ねたのは、その子が大柄だったからだ。「5歳だったら、幼稚園でも大きいほうだね」と言えば、うなずいた。その表情には緊張感が走っている。とは言え、不安そうな緊張感はぼくが店に近づく前から遠目にうかがえた。「お母さんはお店の中?」などと確かめる。どうやら買うものが決まっている母親が、少々の時間外で待たせておいたような雰囲気である。ぼくは店に入り、商品を物色しながらもしばらくその女の子を気に止めていた。
その雑貨店で何かを買おうと思ったわけではないが、店内を奥へ進めばアロマコーナーがあった。時々ヒーリングインセンスなるお香を部屋で用いるものの、アロマポットは持っていない。驚くほど安いアロマポットが置いてあり、買うことにした。アロマオイルも何種類もあるので、テスターを順番に嗅いでいた。ちょうどその時である。店の外で堰を切ったような女の子の泣き叫びが轟いた。間髪を入れず、「どうしたの!?」という母親の響く声。たとえわずかな時間とはいえ、一人店外で母親を待つ不安でいっぱいだったのだ。泣くのはしかたがない。ともあれ、母親の買物が終ったようで一安心だ。
外の様子はぼくには見えなかったが、泣きじゃくる娘に話しかける母親の声はよく聞えてきた。耳を傾ければ、どうも様子が変なのである。「誰かに何か言われたの!?」とか「何か変なことされたの!?」と詰問しているではないか。そんな時間が数十秒続いただろうか、やがて女の子の泣き声は遠ざかっていった。この時点でぼくは合点がいったのである。
女の子は一人にされて母親を待つことにこわばっていたのではない。ぼくが遠目に見た女の子の不安な表情は、女の子がぼくを遠目に見た結果だったのである。陽射しが強かったその日、ぼくはサングラスをかけていたのだ。このサングラスは他人が見れば濃いのだが、ぼくが見る景色や物などの色合いは肉眼とさほど変わらない。帰宅しても普段の眼鏡に替えないでそのままかけていることさえあるほどだ。ぼくは自分がサングラスをかけていることをすっかり忘れていた。
女の子は遠目に見たサングラス姿のぼくを恐いおじさんと感知したのである。ぼくに限らず、サングラスはどんなひょうきん顔でもコワモテに変貌させる。ぼくには恐いおじさんのアイデンティティはないはずだが、その子にはそう見られた。誰にどう見られても気にしないほうだが、ここはそうも言っておれない。人は見かけによらないし、人は見かけ通りであったりもする。人は一つのスタンスで生きているつもりながら、他者からは多種多様なスタンスの人間に見られている。
この小さな一件はなかなか意味深長である。子どもは正直に喜怒哀楽を表してくれるが、大人は人間関係上我慢してノーをイエスと言っている。「恐いおじさん」や「変なやつ」と思っていても、ふいに泣き出したり逃げ出したりしないから、状況不変だからといって安心してはいけない。大人の世界では泣きや怒りはなかなか顕在化しないのである。