新年早々、雑感と予感

大晦日、夕方から惰性でテレビを視聴。自宅の会読会で残った日本酒を一杯、二杯目にウィスキーをジンジャーエールでハイボールにして飲んだ。11時頃までもぐもぐとつまみを口にしていた。酒豪とはほど遠く、毎日酒を嗜むなどという習慣とも無縁だが、大晦日だけはここ十年ほどそのような過ごし方をしている。元旦の昨日、午前7時に目が覚めて、窓を開ける。この冬一番の寒さだった。透き通った冷たい空気に肌が瞬時に反応した。

昨年もブログ始めは12日。とある神社で引いたおみくじは三十六番だったのを覚えている。今年もその神社に行くことにした。ついつい日当たりのよい道を探し求めてしまう。神社方面は通りのこちら側なのだが、敢えて朝の陽射しを求めて通りの向こう側を歩く。神社ではセルフだが御神酒を振る舞っている。小ぶりな柄杓で樽からすくってコップに注ぐ。昨年のおみくじが三十六番だと覚えているのはほかでもない。直前に引いた男性が三十六番で、続いて引いたぼくのも三十六番だった。筒をしっかり振ったにもかかわらず、同じ番号が出た。

巫女さんに「去年は三十六番だった」と言えば、「よく覚えていますね」とにっこり。今年は同じ番号を引くまいと念入りに筒を振る。そして、適当に「十二番!」と予告すれば、驚くなかれ、十二番のみくじ棒が出てきた。こんなときは、だいたい「凶」と出るのが相場である。案の定、凶であった。縁起でもない! などと立腹せずに、メッセージを拝読。「自惚れたり過信するとよくないぞ」というようなことが書かれてあったので、ありがたく受け止めることにした。


足を伸ばして名のよく知れた別の神社を通り抜け、さらに南下して、これまた有名な名門の寺をくぐった。神仏の熱心な信者でもなく有神論者でもない日本人の多くは、このように神社仏閣のハシゴができるのである。年中行事的には教会も加わるから、まことに都合よく神仏を活用するものだ。

ところで、おみくじの十二番。もしあの番号が昨年と同じ三十六番だったら、別の驚きを覚えたに違いない。三十五番か三十七番なら、「おっ、去年と一番違い」と驚き、一番や七番や八番だったらそれぞれに縁起を感じようとしたに違いない。確率論を学んでいた頃によく感じた不思議がある。三桁の000から999までの数字のどれかが出る確率は同じ。たとえば169777のどちらも千分の一の確率で出てくるのだが、なぜ同じ数字が三つ並ぶと驚いてしまうのか。確率にではなく、数字が揃うことに感動しているのである。

もう一つの驚きは予感や想定と一致することによるものだ。十二番と考えたから十二番に驚くわけで、何も考えていなければそんなことに注意は向かない。何事かの前に予感を膨らませたりイメージを掻き立てたりすることは楽しい。外れてもショックはないが、当たると直感の冴えに喜びを覚えることができる。この通りのあの角を右へ曲がれば愛らしい小犬がいるなどと想像して、ほんとうにそうであるケースはめったにないが、その通りであったらもうたまらない。あれこれと雑感を膨らませればわくわくする予感も芽生え、予感のいくつかが的中して快感につながる。

「決め」の時、年末

その年が良くても悪くても、時は流れて年は変わる。カレンダーがあるかぎり、節目と決別することはできそうもない。何はともあれ、今年の舞台に幕を降ろさねばならないし、降ろすや否や新しい舞台の幕が開く。うやむやの幕切れは新年に憂いを持ち越すから、反省も含めた気持の決算、近未来を見据えての気持の決心をしっかりしておくに越したことはない。そう、「決め」ておかねばならない。

決めと言えば、野球のピッチャーなら「決め球」と答えるだろう。ご承知の通り、全球が決め球だと決めの効果がない。一人の打者に決め球は一球のみ。いや、勝負どころでは1イニングに一球ということすらあるかもしれない。早すぎる決め球は功を奏さない。また、遅すぎる決め球というのは存在しない。決め球は一球しかなく、その一球で決められなかったら、その後はない。「決められなかったので、もう一度決めます」という言い逃れもありえない。決めるとなれば、決めるしかないのだ。

格闘技なら「決め技」ということになる。そうそう、「決め台詞ゼリフ」というのもある。特定の場面で何度も繰り返され、観客が心待ちにしているフレーズも決め台詞と言うが、「そろそろ出るぞ」と予感でき、かつ「待ってました!」とワクワクするようなら、決め台詞などではなく「決まり文句」と呼ぶのがふさわしい。座右の銘に近いものは決め不足なのだろう。決め台詞にはタイミングと、場合によっては、即興性がなければならないと思う。


年越しそばなどいつ食べても同じはずなのに、晦日に食べるとなると「決めそば」になる。年越しそばには、これにて打ち止め、以上、終わりというようなニュアンスが出てくる。しかも、タイミングは絶対条件だ。クリスマスの日に年越しそばは落ち着かない。ところで、そんなに押し詰まってからの食事ではなく、ぼくには日々、今日のランチは「これしかない」という、「決めランチ」がある。もちろん、決めランチと言うくらいだから、毎日あってはいけない。多くても週に一回、できれば月に二回くらいが望ましい。

たいてい前日の夕食後に「明日のランチはこれだ!」と浮かぶのが決めランチ。あるいは当日の朝食後に「今日のランチは、つべこべ言わずに、あれで決まり!」という具合。前の週に「来週の金曜日はビフカツ」というインスピレーションが湧き立つ時さえある。決めランチの日の午前中に誰かから電話があって、別のランチを食べる破目に陥ることもある。決めランチを楽しむのは基本的に一人なので、誰かと一緒になればそこまで意地を張れない。「ランチ? いいよ。でも、今日は絶対○○を食べるつもりだから、それでよければ一緒に行こう」などと注釈つけるのは大人げない。

決めランチのつもりで店におもむくのだが、店のほうで出すメニューがぼくの期待に応えて見事に決めてくれるとはかぎらない。だが、これはやむなし。先週か、昨日か、今朝に、あの店であのメニューを食べようと決めにかかったぼくの責任である。自慢するわけではないが、ぼくが決めランチをして訪れる店はだいたい寿命が長い。つまり、そのような店はおおよそ評判がいいのである。惜しいことに、よく決めそばをしていた蕎麦屋が閉店を決めた。勝負に出る決めとは違って、勝負を諦める決めには哀愁が漂う。 

運勢占いのメッセージ

自分の星座が何であるかぐらいは知っている。水瓶座である。家族の星座もかろうじて言えるが、何月何日生まれが何座になるかはわからないし、星座の順番を正しく言うことはできない。ぼくはこの歳になって恥ずかしいことなのかもしれないが、干支にもあまり関心がない。正しい順番に十二支を言えるとは思うが、そらんじようとしたことは一度もない。もちろん、自分の干支は知っている。

ニュースを目当てに朝にテレビをつけることが多いが、支度と朝食をしながら聞き流す程度である。どこのチャンネルでも星座占いの時間帯があって、あなたの今日の運勢を「予知」している。最高の日であるか最悪の日であるかをきっぱりと告げているのには感心する。一昨日の朝、いつもとは違ってちょっとしっかり聞き、実際に画面上の文章も読んでみたのである。いやはや、とてもおもしろいことに気づいてしまった(熱心な星座ファンには当たり前のことなのだろうが……)。

○○○座の今日の運勢が「今日も一日笑顔で人に接しましょう」という内容であるのに対し、□□□座が「パソコン操作のミスに注意しましょう」だったのである。十二の星座すべてを同一人物が占星しているに違いない。にもかかわらず、この二つのメッセージ間の異質性は高い。前者は老若男女どなたにも当てはまる。ところが、後者はパソコンを使う人に絞ったメッセージになっている。□□□座でありながらパソコンを常習的に使わない人たちは何を占ってもらったのだろうか。


昨日と今朝も見てみたら、チャンネルによって占星術のスタイルが違うことがわかった。恋をよく芽生えさせたり失恋させたり、会議をうまく運営させたり、意外なところからお金が入ってきたりと占ってみせる。出勤前の若い女性をターゲットにしている傾向が強いと見た。関心事は金運、恋愛運、仕事運に集中している。いや、よく考えたら、それ以外に占ってもらうことなどそんなにないような気もしてくる。

毎日十二の星座を占うということは週5日としても60種類のメッセージになる。一年にすれば膨大だ。たとえ週間占い専門でも年間で数百種類に及ぶ。繰り返しのパターンやひな型があるのかどうか知らないが、それにしてもその日やその週の運勢を一、二行でコピーライティングするのは生易しい仕事ではない。察するに余りある。

人類を4種類や12種類に分類すること自体に無理があるのは誰もが承知している。八卦のほうではそのことをわきまえて「当たるも八卦、当たらぬも八卦」と謙遜するのだろうか。別に皮肉っているつもりはない。それどころか、多数のサンプルをいくつかに分類して傾向や特徴を示すのは、別に占いの世界だけにかぎらず、心理学でもマーケティングでもやっていることだ。ちなみに今日のぼくの運勢を数値化すると76点だった。一日を振り返ってみたら、ぴったり76点のような気がしないでもない。 

また一年が巡った……

先週取り上げたオフィス近くのお寺の「今月のことば」が新しくなった。そのメッセージには、おそらく誰もが「あ、イタたたた……」とつぶやき共感するはずである。

「そのうちそのうちといいながら 一年がたってしまいました」

耳が痛いどころではない。後悔と反省が身体じゅうのすべての神経を逆撫でする。「一年」、つまり365日だからこたえるのである。これが「あっという間に一時間が過ぎた」だったら平気だろう。その一時間が24倍になる一日でも、「今日は早かったなあ」でおしまい。一日や一週間の時間の流れで猛省するほど、ぼくたちはヤワではない。ヤワではないは、褒めことばではなく、「鈍感」という意味である。

話が一週間の50倍、一日の365倍になってしまうと、もはや「ドキッ」では済まない。相当やばいことであると思ってしまう。たとえば、新聞に気に入った記事があれば、その日のうちに切り抜いて手帳にはさんでおけばいいのに、明日に先延ばし。明日になれば、また明日。ええい面倒だ、今度の土曜日にまとめてクリッピングだ! こうして一ヵ月、二ヵ月分の新聞が溜まる。それでも忍耐強く記事を探して切り抜いた時期もあった。今では、そっくり処分して、「いい記事などなかったのだ」と自分に言い聞かせている。


新聞の切り抜きをサボるくらい何ということはない。しかし、この「そのうちに」という癖の伝染性は強くて、他の課題や目標にも影響を及ぼす。こうして年がら年中、「今日の一瞬一瞬」を適当に流し、明日があるさと期待して、やがて来週、来月となって「そのうちそのうち」と二度繰り返し、気がつけば一年が経っていた、というストーリーが完結する。

さらに、もっとすごい恐怖が将来にやって来る。「そのうちそのうちといいながら十年、二十年が経ちました」と意気消沈しなければならなくなるのだ。一年くらいなら年末に忘年会でスカッと忘れ、正月を迎えて知らん顔しておけばいいが、十年、二十年になるとさすがに焦る。いや、焦るなどという甘い表現では追いつかない。もはや「取り返しがつかない無念」にさいなまれる。

「悟りを求める前、一年はあっという間に過ぎ去った。悟りを求めようと努めたら、一年はゆっくりと過ぎていくようになった。やがて悟りに達したあと、一年はあっという間に過ぎ去るようになった。」

これはぼくの創作。悟っても一年があっという間に過ぎ去るのなら、悟らなくてもいいのだ――こう手前勝手に解釈してもらっては困る。悟りの前の一年に中身はない。悟りを求めているときは意識するので、一年が充実して長くなる。悟りに達したあとは、一年も永遠も同じ相に入る。いつも至福の瞬間だからあっという間に過ぎ去るのである。こんなメッセージを自作して自演するように心掛けているのだが、「そのうちに」と棚上げした事柄が少々気になる年末だ。悟りへの道は長く険しい。

少々苦心する年賀状テーマ

師走である。師走と言えば、年末ジャンボ宝くじ、流行語大賞、M1などの新しいイベントが話題をさらうようになった。昔ながらの風物詩は息が絶え、街も人心も季節性と縁を切っている様子である。忘年会は景気とは無関係にそこそこ賑わうのだろうか。ぎっしり詰まった忘年会のスケジュールを自慢する知り合いがいる。年末に10数回も仰々しい酒盛りをするとは、忘れたくてたまらない一年だったのだろう。何度でも忘年会に出るのは自由だが、その数を威張るのはやめたほうがいい。

かろうじて粘っている年代物の風物詩は紅白歌合戦と年賀状くらいのものか。いずれも惰性に流れているように見える。惰性に同調することはないのだが、年賀状をどうするかという決断は意外にむずかしい。紅白はテレビを見なければ済むが、年賀状は双方向性のご挨拶だ。自分がやめても、年賀状は送られてくる。数百枚の年賀状をもらっておいて知らん顔する度胸は、今のところぼくにはない。というわけで、年賀状の文面を考えるのは今年もぼくの風物詩の一つになる。正確に言うと、その風物詩は今日の午後に終わった。

ぼくの年賀状には10数年続けてきた様式とテーマの特性がある。四百字詰め原稿用紙にして5枚の文章量に、時事性、正論、逆説、批判精神、ユーモアなどをそれぞれ配合している。敢えて「長年の読者」と呼ぶが、彼らはテーマの癖をつかんでいるだろうが、来年初めて受け取る人は少し困惑するはずである。即座に真意が読めないのは言うまでもなく、なぜこんなことを年賀状に書くのかがわからないからである。同情のいたりである。


一年間無為徒食に過ごしてこなかったし、後顧の憂いなきように仕事にも励んできたつもりだ。だから、生意気なことを言うようだが、書きたいテーマはいくらでもある。にもかかわらず、昨年に続いて今年もテーマ探しに戸惑った。先に書いたように、逆説と批判精神とユーモアをテーマに込めるのだから、くすぶっている時代に少々合いにくい。「こいつ、時代や社会の空気も読まずに、何を書いているんだ!」という反感を招かないともかぎらないのだ。だからと言って、ダメなものをダメとか、美しいものを美しいと唱える写実主義的テーマも文体も苦手なのである。

思いきってスタイルを変えようかとも思った。ほんの数時間だが少々悩みもした。しかし、腹を決めて、昨年まで続けてきた流儀を踏襲することにした。そうと決めたら話は早く、今朝2時間ほどで一気に書き上げた。テーマを決めたのはむろんぼく自身である。しかし、前提に時代がある。自分勝手にテーマを選んで書いてきたつもりだが、このブログ同様に、テーマは自分と時代が一体となって決まることがよくわかった。

今日の時点で年賀状を公開するわけにはいかない。というわけで、二〇〇九年度の年賀状(2009年賀状.pdf)を紹介しておく。大半の読者がこの年賀状を受け取っているはずなのだが、文面を覚えている人は皆無だろう。それはそれで何ら問題はない。気に入った本でさえ再読しないのに、他人の年賀状を座右の銘のごとく扱う義務などないのである。さて、年初から一年経過した今、再読して思い出してくれる奇特な読者はいるのだろうか。

値段がクイズになる会話

K氏が知人からゴルフ会員権を買った話を氏にしている。ぼくはゴルフとは縁のない人生を送ってきたので、会員権が何百万とか何千万とかいう話が飛び交っても感覚がよくわからない。耳を傾けていると、かつてマンションと同じくらいの価格だった会員権を20分の1で買ったと言うのである。それも、ふつうに語るのではなく、安く買ったことを鼻高々に弁じているのである。典型的な大阪オバチャン的キャラのK氏のことだ、おそらく今日に至るまで方々で吹聴してきたに違いない。

「大阪人は変だね。なんで安く買ったことを自慢したがるのかわからない。東京じゃ、むしろ高く買ったことに胸を張るよ」と関東出身のS氏が呆れ返る。大阪人であるぼくも、S氏に同感である。このブログで拙文に目を通していただいている大阪以外の地域の読者が7割。想像してみてほしい。大阪人ならほとんど自らが出題者になり、また回答者にもなった覚えのある日常会話内のクイズが、「これ、なんぼ(いくら)やと思う?」だ。身に着けている商品ならそれを指差して値段を推測させるのである。K氏もまったく同じように、「会員権、なんぼでうたと思う?」と尋ねていた。

「これ、いくらだと思う?」と切り出すのは、驚くほど安い買物をしたことを自慢する前兆である。「いくらかなあ、五千円くらい?」と言わせておいて、にんまりとして首を横に振り、「いや、たったの千円!」とはしゃいで見せる。まるでバナナの叩き売りをするオヤジ側の口調みたいなのである。もちろん、自慢したり自慢されたりの関係にあっては、安い値段を聞いて「へぇ~」と驚く。そのびっくり具合を見て当の出題者は勝ち誇る。


だが、会話がそんなにスムーズに運ぶとはかぎらない。なにしろ値段を当てさせようと出題した時点で、思いのほか安かったというヒントが見えているからだ。的中してしまうと出題者は少し残念そうにする。しかし、実際の値段よりも安く答えられるともっとがっかりし、やがてムッとして「そんなアホな。そんな安い値段で売ってるはずないやん!」と吐き捨てる。気分を害してしまうと、正解も言わずに会話を終える。大阪人に「これ、なんぼやと思う?」と聞かれたら、推定価格の数倍で答えておくのがある種の礼儀かもしれない。高めに回答し、してやったりの顔で正解を言わせ、仰天してみせる。場合によっては「どこに売ってるの?」と興味を示せば、完璧な会話が成立する。

日曜日の昨日昼過ぎ、出張から帰阪した。地下鉄のホームに降りて電車を待つ目の前で七十半ばの老人二人が話している。二人は知り合いで、バッタリ会った様子である。男性のほうが、デパートの地下食料品街でおかずを見つくろって買った話をしている。「あんたは何してたん?」と聞かれて、瞬発力よろしく女性が反応する。「私? 私はお茶をうただけ。お茶、三百円」。出題こそしなかったが、物品購入時にご丁寧に値段も暴露する。これが大阪人のDNAのようである。

必勝法と適用能力

成功法則があるのかないのかは微妙な問いである。「万人に当てはまる絶対的な成功法則」はたぶん存在しない。世間には「成功の何とか法則」とか「何々をダメにする悪しき習慣」などの本があり、そういう類のセミナーも開かれる。かく言うぼくの講座やセミナーにも「成功法則20」と副題のついているものがある。きっちり20という数字になること自体が怪しくて嫌なのだが、主催者側が「このほうがいいですよ」と主張するから逆らわない。「数ある法則のうち主な20」と読んでもらえればありがたい。

江戸時代の剣術の達人だった松浦静山まつらせいざん。そのあまりにも有名な「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」に従えば、おおよそ勝利の方程式は不確実であり、敗北の原因は特定できることになる。ぼくのような凡人は、はっきりしやすい敗因に学び反省するのが一番と割り切っている。一桁も二桁も能力上位の人間が成し遂げた成功に憧れて真似てみても、いったい成功要因のどれを学べばよいのかわからない。いや、もとより不思議な成功に要因があったのかどうかすら定かではない。松浦静山には「一時の勝ちは終身の勝ちにはあらず」という格言もある。勝利や成功には一過性の要素があり、ゆめゆめ美酒体験に安住してはならないと肝に銘じておきたい。

一方が勝ち他方が負けるという一対一の敵対関係において必勝法は存在しないように思われる。必勝法が発見された瞬間、ゲームであれビジネスであれ、もう誰も負け側に立って戦おうとはしないだろう。ところが、理屈はそうなのだが、現実世界では戦いは続けられる。お互いが必勝法のさらに上を行く絶対必勝法に向かおうとするからである。「意見の相違がなければ競馬は成立しない」と言ったのはマーク・トウェインだ。プレイヤー全員が一頭の馬に賭けたら、その馬が勝っても妙味がなくなるから、もはや馬券を買わなくなる。しかし、必勝法が一着になる馬の予想に限定されているかぎり、プレイヤーは二着馬や三着馬の組み合わせに賭けるから、おそらくゲームは続けられる。


必勝法について考えているとおもしろいことに気づく。どこかのサイトに掲載されていたが、ジャンケンの必勝法を考えている人が少なからずいて驚いた。「最初はグー」と掛け声してからジャンケンをすると、「パー」が出やすくなる。ゆえに「チョキ」にすれば勝ちやすいというのだ。この勝利の確率がパーやグーに比べて高いのならば、必勝とまではいかなくても勝利の方程式の一つにはなりうるかもしれない。但し、この必勝法を公開すれば、みんなが「最初はグー」の後にチョキを出すようになるから、チョキでおあいこになる可能性が高くなる。決着がつかず、やがてはチョキでおあいこの次の法則を見つけなければならなくなる。

宝くじの必勝法はありえない。一等当選の数が限定されているのだから、必勝本を読んだすべての人が当選するわけにはいかない。つまり、宝くじは必勝法以外の、「神のみぞ知る法則」によって支配されている。実際、宝くじのコマーシャルでは神が登場しているではないか。同様のことは、必勝法を伝授するセミナーにも当てはまる。「絶対に成功するプレゼンテーションの秘訣」を学んだ二人がコンペに挑み、いずれか一方のみが採択されるとき、他方は失敗することになる。「絶対に成功する秘訣」は一方で証明され、他方で否定される。これが「矛盾」の由来でもあった(最強の矛と最強の盾は同時成立しない)。

必勝法にすがっても別の要素が入り込んで勝敗を決する。同じ専門知識をもつ二人の人間に差がつくのは、専門知識自体によってではなく、その他の要素との掛け合わせによってである。とりわけ、運用する能力や技術が鍵を握る。そうなのだ、必勝法や絶対成功法則が存在したとしても、すべての学び手が完璧に運用する能力と技術を備えているわけではないのである。必勝法や絶対成功法則と呼べなくとも、世の中には「うまくいくだろうと思われるヒントや事例」はいくらでもある。同じように学んでいても、うまく活用できるかどうかは本人次第。したがって、普遍的な必勝法や絶対成功法則はないが、個別的にはありうるということになるかもしれない。 

テレビという情報源の使い方

論文でもディベートでもいいが、論拠や裏付けに用いる情報源がテレビというのはちょっとまずい。何年か前の経営者ディベート大会での話。証拠に事欠いて、NHKの番組の一こまを紹介した人がいた。彼は記憶を辿って”引用”したが、準備をしていたわけではなかったから、文言が正確であるはずもない。相手に正確な引用を求められ、さらには発言者の氏名・専門性や証言者の権威まで尋ねられて対応に窮して万事休す。

テレビはすべての人々に公開され公共性も高い媒体で、専門筋の権威たちが発言している機会も多い。それにもかかわらず、正確に引用しても公式の証言としては認められにくい。音声ではなく活字になって、しかるべき信頼性の高い出版物として紙に印刷されてはじめて証拠価値が高まる。

最近めっきりテレビを観る回数も時間も減った。原因はよくわからない。ここしばらく腰痛のため、ソファに座るのが苦痛のせいかもしれない。ぼくの書斎はテレビの置いてあるリビングルームのすぐ隣りで、いつもドアは開けっ放し。だから軽い仕事をしている時は、画面を観ずにラジオのように音声だけを聴いている。時々耳がピクピクとする情報が入ってきて、これは雑談のネタになりそうだ、というものもある。ニュース性のある一次情報としては新聞や雑誌と比べても遜色はない。


新聞紙上で活字として再生されるものは、記事を読めばよい。たとえば百歳以上の高齢者が四万人を超えたニュースなどはテレビを最終情報源とするのではなく、活字で子細を確かめるべきだろう。後日印刷物にならない、たれ流しの情報にこそテレビの価値がある。聞き漏らしたら縁はなし。ふと耳に引っ掛かった情報が「少考」のきっかけになることがある。

サンデーモーニングで国際政治学者の浅井信雄がオランダの新聞に載っていた話を紹介していた。日本の政権交代の記事で、「自由民主党」についてのコメントだ。「〈自由〉もなく、〈民主的〉でもなく、〈党〉でもなかった。それは派閥の集まりに過ぎなかった」というふうな記事だったらしい(英字新聞なんだろうか。調べたけれどわからなかった)。ちなみに自由民主党の英語名は“Liberal Democratic Party”だ。一語一語を否定したのがおもしろい。

月曜日の朝。民主党の新しい国会議員の女性が元風俗ライターであることを隠していたというニュース。いや、これはニュースなんかではない。ただのゴシップだ。経歴詐称ではなくて伏せていたという話だ。別にいいではないか。まったく大した問題ではない。国会議員としては未来形で未知数だが、風俗ライターとして「いい仕事」をしていたのなら、誰かがつべこべ言うべきではない。「現」よりも「元」が気になる体質は民度の低い日本人に染みついているようだ。「いい仕事をした元風俗ライター」よりも、むしろ「やることをやっていない現職の国会議員」に対して難癖をつけるべきだろう。

二次、三次のメタ情報としての価値はさておき、一次情報としてのテレビの役割は捨てたものではないと思っている。 

「嫌いの顔」が立つ

あることにおいて好きと嫌いが同居し拮抗するとき、ほぼ間違いなく「嫌いの顔」が立つ。半分好きで半分嫌いはプラスマイナスゼロ、つまり「どっちでもない」という感情にはならない。それはほとんど嫌いを意味する。たとえば、ちゃんこ鍋に十の具が入っていて、そのうち九つの具は好物または「嫌いではない」。しかし、一つの具だけは許せないほど嫌いである。この時、どんなにわがままな人間でもみんなで鍋を囲むときは耐えるだろうが、自分が一人の時にその一人ちゃんこ鍋を注文することはありえない。

ある何かやある誰かを嫌う人のエネルギーは、別の何かや別の誰かを好むエネルギーよりも強い。同一人物において、嫌悪の情は愛好の情よりもほぼつねに優勢である。食べたくてしかたがない料理を我慢して見送ることはできても、嫌いでしかたがない料理を我慢して口に放り込むことはできない。好きから嫌いへと価値観を変えるのは容易だが、その逆は困難だ。「嫌いだから嫌い」は、「ダメなものはダメ」と同じように、反論する気すら起こらないほど鉄壁の論理なのである。


何年前だったろうか、昼下がりのとある中華料理店での珍事である。食事を終わりかけていたぼくの隣りのテーブルに還暦前後のご婦人が一人。メニューをじっと睨んだまま動かない。固まったのではないかと心配したウェイターがテーブルに近づいて注文を取ろうとする。「これ(エビ天定食)とこれ(麻婆豆腐定食)の二つを頼んだら、多いかしら?」 そりゃ、一人で定食二つは多すぎますよ、というぼくの独言とハーモニーを奏でるようにウェイターが言う、「そうですね、多いですね、お一人だとね……。」

ご婦人、「やっぱりそうかあ。困った……」とつぶやいて、再び悩みの世界に戻っていく。この店にはエビ天と麻婆豆腐が好きな人にターゲットを絞ったような定食がある。別にそこまで困らなくても、その定食にすればいいのに、と内言するぼく。と同時に、やっぱり店の人も同じことを考えるもので、「こちらの定食には少しずつ四品入っています。エビ天と麻婆豆腐が入っていて、他に豚肉炒めと鶏の甘酢も付いています」とフォローした。

そんなこと承知済みと言わんばかりの顔をして、「私、鶏がダメなのよね~」とご婦人。聞き耳を立てなくてもご婦人の声はよく通る。エビ天と麻婆豆腐は大好物なのである。なにしろ二種類の定食を注文しようと覚悟したくらいだ。しかし、鶏が苦手、嫌いなのである。そう、これこそ嫌いが好きを押さえ込んだ「ワザあり」の瞬間。そして、ご婦人はまたまた選択の迷いに没する。傍観するぼくは、この帰結を見届けないで立ち去るわけにはいかなくなっている。

しばらくして、しびれを切らしたウェイターが提案を持ちかけた。「鶏以外は大丈夫ですか?」「ええ、鶏だけが苦手で……」「わかりました。その四品の定食にしてください。鶏の甘酢の代わりに別の一品を入れますから」。こう言って、ウェイターは厨房の方へ行き注文を通した。もうここまできたら、ぼくも一部始終の顛末を見届けなければならない。数分待つ。例の定食がご婦人の前に出てきた。代品は、ゴージャスな「ふんわり仕立てのカニ玉」だった。「ワザあり」が「一本」になった瞬間である。ご婦人は満面の笑みを湛えていた。「嫌い」の引きは何と強いのだろう。

プロ顔負けの健康談義

会読会が開かれる土曜日の午後、少し自宅を早く出て会場の二駅手前で地下鉄を降りた。古本探しのためである。二駅の区間を歩くというと驚かれるが、さほどでもない。ふだんの休みの日には自宅からこのあたり、さらにはもっと遠方まで歩くことがあるので、45駅分の距離を往復していることになる。古本屋でいい本を二冊見つけた。まだ時間がある。ぶらぶらと会場近くまで歩き、以前何度か来たことのある喫茶店に入った。自家焙煎の豆なので、ここのアイスコーヒーはコクがあって味わい深い。買いたての本を少し読み始めた。

ぼくの左手、テーブルを二つほど置いて一人の女性客がいる。男性が店に入ってきて、先に来てタバコをふかしているその中年女性の前に座った。その後の会話でわかったのだが、夫婦である。いま「その後の会話」と書いたが、別に聞き耳を立てていたわけではない。ぼくが手に取っている本の内容よりも、ご両人の展開のほうがずっとテンポよく、しかも遠慮や抑制もほとんどなく談義を進めていくので、こっちは読書どころではなくなったのである。

夫がコーヒーを注文し、まもなく会話が始まった(妻の前には一冊の本が置かれている。会話の流れから、それは健康に関する本に間違いない)。妻のほうが切り出した。「やっぱり、水。水が決め手」。「水を向ける」とはよくできた表現だとつくづく思った。この妻の一言が「誘い水」になって、健康談義は縦横無尽に広がった。もしかしてこの二人は夫婦などではなく、医師とサプリメントの専門家なのではないかと疑ってしまう始末だった。


塩の話。かつて天然の粗塩を使ってきたのに、日本人が戦後摂取してきた塩はダメ。食塩の主成分である塩化ナトリウムがよくなかった。次いで硬水の話。さらにはマグネシウムの話。死にそうになっている金魚を起死回生で元気にさせる話。やがて「血管学」に至っては、もはや聞きかじりというレベルを超えた専門性を帯びている。この二人はつい最近何かのきっかけで健康に関心を抱いたのではなく、相当年季が入っていると見た。なお、二人ともあまり健康そうには見えない。

そう言えば、昔そんな人が一人いた。ある得意先での企画会議。会議がずっと続き、昼食休憩の時間も惜しいのでコンビニで弁当を買ってきた。ところが、話を続けながらも、一人だけ弁当に箸をつけない人がいる。外部スタッフの彼は、「この弁当の添加物はよくない」と言った。「健康のためですから」とも付け加えた。「健康のためなら死んでもいい」というギャグを思い出す。手段と目的が混同し、本末転倒を招いてしまう何かが「健康問題」には潜んでいる。なお、この彼も健康とはほど遠く、いかにも病的に映った。

さて、喫茶店の談義はさらに熱を帯びる。時々妻がテーブルに置かれた本を手にしてペラペラめくる。同意したり反論したりしながら、どうやら二人が落ち着いた先――健康の決め手――は硬水のようである。こういう会話の流れは何かに似ている。しばらく考えて、わかった。競馬談義にそっくりなのである。あの馬だ、この馬だと議論し、専門的なデータを交換し、やがて二人はある馬を本命に指名する。めでたし、めでたし。ところで、「健康志向の強い人間はユーモア精神に乏しい」というのがぼくの確信である。