仕事の中の寄り道

あまりノスタルジーに浸るほうではないが、仕事に集中しつつも考えがまとまらないときには過去に遡ってしまう。何かを調べるのではなく自力で考えようとしたら、アタマに頼るのは当然だ。そして、そこにあるのは未来の情報ではなく、おびただしい過去の情報である。

過去を再生すると、切ない光景や思い出も混じってくる。すると、本題から脱線してしまって仕事が座礁する。机まわりを整理し始めたのはいいが、写真アルバムに見入ってしまう体験が誰にもあるだろう。懐かしさは仕事の邪魔になる。

脱線はよくない。特に夕方以降にこんな状態になると、精神的にも疲れる。翌朝にもストレスを持ち越してしまう。とはいえ、まったく寄り道もしないような仕事は愉快ではない。


その日の寄り道はキャラメルだった。時々飴を転がすが、無性にキャラメルを舐めたくなってわざわざ買ってきた。紙をめくって一個口に入れる。箱から手のひらに乗るような小さなカードが出てきた。おまけ? G社でなくM社だからおまけではないだろう。ずいぶん昔っぽい濁ったカラーの岩だらけの風景写真。写真の下には「過去と歴史の違いは、何?」と、なんだか哲学めいた問い。クイズだろうか? クイズ好きだからそう思ってしまう。

「過去は現在から切り離された時間であり、歴史とは現在に連なる時間」と自答してみた。行き詰まったあげく休憩を兼ねてキャラメルに寄り道したのに、なんというアタマの使わされ方だ。と思いながらも、カードを裏返してみる。

裏面にはキャラメル名が印刷されていて、8本の線が引いてある。メモ欄? 表面の問いに対応するような文字はいっさいない。もしかして、別紙に何か書いてあるのかもしれないと、念のためにもう一度箱の中を覗いてみた。何もない。

おいおい、何のための問いだったんだ? 岩だらけの風景との関係はどうなんだ? カードの「企画意図」は? 「これだけは言っておく」と吐き捨てて何も言わずに去っていく新喜劇ギャグとかぶる。キャラメルの箱に向かってぼやいた、「答えも教えろ!」 

ノスタルジーを色濃く練りこんであるキャラメルは気分転換によくないことがわかった。こんなことを思い出しながら、今日の寄り道は目薬にしておいた。  

たまには小銭――感傷編

アイスコーヒー代を支払って、午後への繰越金は759円。さっきまでズッシリ感があった小銭入れがいくぶん軽くなっている。札入れやキャッシュカードだけを使い、預金通帳の数字をにらんでいるだけでは、このアナログ感覚はわからない。

正午になった。この研修では講師用の弁当は出ない。弁当が出ないからこそ、少しばかり心配していたのである。ランチタイムの食事処を教えてもらい、かけうどん350円、きつねうどん450円、喫茶店のピラフ650円などとそろばんをはじきながら歩く。

「コンビニに行けば悩むことなし」。わかっている。一日くらいおにぎり2個で我慢することもできる(いや、ランチそのものをパスしてもいい)。しかし、そんなことをすれば、朝のあの小銭への安堵と執着の体験価値が半減してしまうではないか。ここまできたら、小銭と対話しながら、その有り難味を噛みしめるべきだろう……かたくなにこう考えた。

普段は千円ちょうどか、少しお釣りのある程度のランチをいただく。オフィス近辺では平均すると値段はそんなものだ。あまりにも慣れてしまっているので、高いとか安いという値踏みはいちいちしない。


レストラン街に行って、とても驚いた。ぼくが立ち止まったほとんどの店のランチは700円~1000円だった。いや、別に驚かなくても、普段通りである。しかし、759円からすればことごとく贅沢な品々に見えてきた。ちなみに、ハンバーグ定食850円、トンカツ定食780円、海鮮丼1000円。どれも超豪華ランチに見えてきた。

価格720円以上には目を向けないようにした。昨今メニューはすべて消費税込みというのは常識。だが、万が一730円のランチを頼んで、お勘定時に「消費税は別になります」と言われたら、766円になってしまう。買物ゲームは7円でも超えたら、ゲームオーバーだ。

というわけで、根気よくひたすら600円台を探す。そして、ついに「肉じゃが定食619円」を見つけた。ちゃんと税込みと書いてくれている。一目惚れである。肉じゃがとお惣菜一品にではなく、この619円に惚れた。中途半端な619円に「愛情とやさしさ」を感じた。お釣りの円に対してまたもや「儲けた」という気分になった。

ご馳走さま。残りは759619140円。食事だけして会場に引き返すのも切ない。自販機で120円の缶コーヒーを買う。残り20円(10円硬貨枚、5円硬貨枚、円硬貨5枚)。こんな至近距離で硬貨をまじまじと見つめたのは何年ぶりだろう。

研修指導も無事に終えた。朝から夕方までの小銭にまつわるいろんな思い。小銭をにぎりしめて駄菓子屋に通った昭和30年代の、あの懐かしい光景が帰途につく電車の中で甦ってきた。 

たまには小銭――安堵編

研修指導初日の朝、駅のホームに降り立った。しばらくして上着のポケットに財布がないのに気づく。一瞬ドキッがあったのは認めるが、沈着冷静なぼくは自宅に確認する。財布は自宅に忘れていた。すられたり落としたりしたのではないということがわかって、ひとまず安心している自分がいた。

まだ時間の余裕はあるが、引き返すと間に合わなくなる。「初対面だけど、先方の担当者に借りればいいか」とか「ICカードのおかげで帰路の乗車賃は心配なし」などと思いながら、目的地に到着する頃にはもう割り切っていた。「千円ほど貸してもらえますか? 実は……」と脳裏でリハーサルまでしている自分がいた。

「もしかして」と鞄の外側のポケットを覗いてみた。小銭入れが入っていた。「地獄で仏」という、場違いで大袈裟な比喩をしている。そこは駅のコンコースだ。午前845分頃で通勤ラッシュの終盤。小銭入れから小銭をこぼさぬよう、ていねいに取り扱いながら「概算見積」してみる。五百円硬貨が目に入り、その他いろいろある。やった、千円はあるぞ! 大人げなく喜んでいる自分がいた。

安堵。こうなると身勝手なもので、「開始までまだ半時間以上ある。アイスコーヒーでも」と欲望がよぎる。当然一杯200円ほどのチェーン店カフェを探す。だが、近くにそれらしき店は見当たらない。やむなく会場近くの喫茶店に入ることにする。表にディスプレイがなく値段は不明であるものの、400円までだろうと見立てをした。

アイスコーヒーを注文し、一口含み、置かれた伝票を見ると390の数字。ほくそ笑んで10円儲けた気になっている自分がいた。再び小銭入れを宝物を扱うように取り出して、正確に数えてみる。1149円。ランチもしのげそうだといい気になっている。「11493で割り切れる」とアホなことを考えて、すっかり余裕を取り戻していた。こういうのを「現金なやつ」と形容するのだろう。

(続く)

招かれざる通信

もう二年も前から付き合っている。付き合いたくて付き合っているのではなく、馬鹿げた対応をさせられている。人間ではない、「間違いファックス」である。ファックスの差出人も、送り状に書かれている宛先も名の知れた企業だ。しかし、縁も接点もまったくない。控え目に間違いファックスと言ったが、ぼくにとっては招いた覚えのない「スパムファックス」に等しい。

さっき帰宅したら、着信していた。しばらくごぶさただったが、宛先は同じ、差出人も「前科一犯」であった。宛先はいつも同じだが、差出人は数ヵ所ある。

内容は注文表だ。差出人が宛先のメーカーに注文しているのである。と書いているうちに、腹が立ってきたので、菓子メーカーというところまで暴露しておこう。たいてい「至急」というところにチェックが入っている。ごていねいにも差出人に電話をした。「宛先間違いです。ずっと迷惑しています。何度も電話したりファックスを送ったりして促しています。まったく改善されません。迅速に対応してください」。そっちも至急だろうが、こっちも気分的には至急だ。

こんな電話をして、自分らしくないと嘆いている。ぼくを知っている人は、「そんなもの、放っておけばいいのに」と諭すかもしれない。しかし、キャンペーンシーズンか何か知らないが、年に数回は何枚も、それこそ週に2回も3回もやってくるのである。放っておいて、「注文したのに届かないだろ、ハハハ」と高笑いするほどもはや余裕はない。我慢には限界というものがある。

最初の頃はファックスで注意を促していた。効果がないので、担当者に直接電話をして「間違いファックス」であることを告げた。電話では見えないが、平身低頭で謝罪したので、もう大丈夫だろうと思った。それでもやってくる。たちが悪い。差出人が複数なので、これでは間に合わないと考え、宛先にメールを送った。広報か苦情係みたいなところにである。一年半くらい前のことだが、いまだに返信はない。

まあ、有名企業の対応なんてこんなものなのかもしれない。紳士的クレームに対しては機敏な対応を取らないのである。少し脅し気味に怒気を込め、文字にできないような侮蔑語や罵倒語をふんだんに連発しないかぎり、効き目はないのだろう。「お客さまサービス」や「パブリックリレーションズ」などお題目にすぎない。

ここまでずっと親切に紳士的対応をしてきた者として、企業名公表というような幼稚なリベンジはしない。こんなことで、自分の品格を落とすわけにはいかない。迷惑ファックスにからむ全企業の商品を買わず、サービスも利用しない――こんな地味なレジスタンスはどうか。実は、この地味な作戦が積もり重なっていくのが企業にとっては一番の恐怖なのだ。 

コマーシャルを楽しみ、学び、遊ぶ

「長持ちするやつか、遠くまで飛ぶやつか、今夜はどっちのキンチョールがええんや?」
「ヤラシイわ?」
「ヤラシイやろ」

「ヤラシイわ?」「ヤラシイやろ」が、ぼくの周囲の会話の中でポンポン飛び出す。簡単なやりとりなのだが、こんな絶妙な居直りの逃げ道があったのかと、つい感心してしまう。「すごいね?」に対して「すごいやろ」と自画自賛するほうが「ヤラシイ」。「ヤラシイやろ」と自嘲気味に居直るほうが、実は「ヤラシクない」ところがおもしろい。

ただ、コマーシャルほど好き嫌いの激しいものはなくて、ぼくがおもしろいと思うほどおもしろいと思っていない人も多々いる。そもそもインパクトの強いコマーシャルであるためには、賛否両論という要素が不可欠である。


印象に残っている78年前のコマーシャルがある。「カラシレンコン、イガラシレイコ」に覚えがあるだろうか? 「和イスキー 膳」をたしなむ真田広之が、あてのカラシレンコンから、語感の類似している昔の彼女「イガラシレイコ」を思い出す。赤いドレスに身を包んだ、プライドの強い高慢ちきなイガラシレイコ。「どう似合う?」と腰に手をあてがい、気取るイガラシ。そのポーズを見て、真田は、間髪を入れず無表情に言う。「全然(=膳膳)」。

その瞬間、つかえていたものがスゥーと下りていく快感。フラれた男性諸君の「ざまあみろ!」という声がテレビの中から響いてくるようだった。

何十か何百かに一つの確率かもしれないが、秀逸なコマーシャルは仕事に役立つし、コミュニケーションの凝縮性に学ぶことも多い。なにしろ1秒当りもっとも高価な無料の教材なのだから、あまりケチをつけるべきではない。来週もまた、誰かが喉の奥から「ヤラシイやろ」と絞り出して笑わせてくれるだろう。誰かの一人がぼくである可能性も否定できない。