〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。
イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。
〈ローマのパッセジャータ〉というシリーズでフェースブックに写真と小文を投稿している。ローマにはこれまで4回足を運んでいるが、最後の訪問からまもなく5年半。その時はアパートに一週間滞在して街をくまなく歩き、当てもなく同じ道を何度も行ったり来たりした。
イタリア語ではこんなそぞろ歩きのことを「パッセジャータ(passegiata)」と呼ぶ。イタリア人にとっては夕暮れ時の日々の習慣だ。
三年半近く続けてきた読書会〈Savilna 会読会〉が昨年6月を最後にバッタリと途絶えてしまった。別に意図はない。何となく日が開き、主宰者であるぼくがバタバタし、そしてメンバーからも再開してくれとの催促もないまま、今日に至った。ついに今夜から再開する。何でも「新」を付けたらいいとは思わないが、リフレッシュ感も欲しいので〈New Savilna 会読会〉と命名する。
それぞれ自分の好きな本を読んでくる。文学作品以外はだいたい何でもいい。そして、書評をA4判1、2枚にまとめて配付し、さわりを伝えたり要約したり、また批評を加える。「この本を薦める」という、新聞雑誌の書評欄とは異なり、「私がきちんと読んで伝えてあげるから、この本を読む必要はありません」というスタンス。カジュアルな本読みの会ではあるが、根気よく続けていれば一年で数十冊の本の話が聴けるという寸法である。
昨年までは毎回7~10人が発表していた。久々のせいかどうかは知らないが、今夜の発表者は4人と少ない。実は、ぼくは写真左の『身近な野菜のなるほど観察録』を書評しようと思っていた。おびただしい野菜が紹介されているが、夏野菜に絞って話をし、ついでに書評者自身の夏野菜論を語ろうと思っていた。しかし、4人とわかって、それなら少し骨のあるものをということで、写真右の『アリストテレス「哲学のすすめ」』を選択した。骨があると言っても、『二コマコス倫理学』などに比べれば入門の部類に入る。
読書についてよく考える。本を読む時間よりも本を読むことについて考える時間のほうが長いかもしれない。自分の読書習慣についてではなく、誰か他の人から尋ねられて考える。どんなことかと言えば、「どのように本を読めばいいか?」という、きわめて原初的な問いである。たいして熱心に読書してきたわけでもないぼくに聞くのは人間違いだ。もちろん歳も歳だから、ある程度は読んできた。だが、ノウハウなどあるはずもなく、いつも手当たり次第の試行錯誤の連続だった。
本ブログを書き始めて4年が過ぎたが、その間、読書についてあれこれと書いてきた。最近では、一冊一冊読み重ねていって〈知層〉を形成しようとするよりも、複数の本を併読して〈知圏〉を広げるほうがいいと思っている。一冊ずつ読んでもなかなか知は統合されない。一冊を深く精読することを否定しないが、開かれた時代にあっては「見晴らし」のほうが知の働きには断然いい。
複数の、ジャンルの異なる本を手元に置いて併読している。「内容が混乱しないか?」と聞かれるが、ぼくたちのアタマは異種雑多な知を処理しているではないか。現実に遭遇する異種雑多な情報や課題や問題を取り扱うのと同じように本も読む。精読や速読ばかりでなく、併読術も取り入れてみてはどうだろう。
「考える」ことも「ヒント」を授けられるのも三度のメシよりも好きなわけではない。だが、これら二つがくっついて「考えるヒント」になると、俄然目の色が変わってくる。うまく言い表せないが、仕事柄、この言い回しと語感に色めき立つ。自覚などしないが、もしかすると知への憧れとコンプレックスが錯綜する結果なのかもしれない。
数日前、食に関する本を10数冊そばに置いて、気の向くままにページをめくっていると書いた。まだ途中だが、昨夜はこの本の第一章と第二章を興味深く読んだ。
目新しいものやアイデアは、ある日突然、「無」のうちから出てきたりはしない。たいていは外部からの刺激や情報に突き動かされている。もし外部ではなくて、内なる触発であるとしても、脳がそれまでに絡め取ってきたことばや経験の知がきっかけになっている。
怠けてしまって読書会を10ヵ月近く主宰していない。名前を連ねてくれている20名近くのメンバーには申し訳ないと思っている。しかし、誰も何も言ってこない。遠慮しているのか、忘れてしまったのか、もう熱が冷めてしまったのか……真相はわからない。
この読書会は「書評会」もしくは「会読会」と呼ぶにふさわしい性格のものである。会読会にはみんなが同じ本を読むニュアンスがあるが、自分で選んだ本を読み、それについてA4一枚程度に書評をしたためて発表するという勉強会だ。出席するとなれば、必ず読まねばならない。よほどの読書家でないかぎり、このような動機づけがないと読書は長続きしないし、集中して読むこともできない。
決してそんな素振りをしたことはないが、ぼくは読書家だと思われている。思ってもらって結構だが、相当なまくらに読むタイプである。一冊の本を隅から隅まで読んでも、書いてあることなど覚えることは不可能である。読書はそんな、誰かの知を自分に移植するような作業ではない。だから、拾い読みして触発されることに重きを置く。ページに書かれていることをヒントや触媒と見なして、そこから自分なりに推論を働かせて考えるようにしている。読書をして知識を身につけるのではなく、読書しながら考えるというわけだ。

本をしっかりと読むことを否定しない。それも重要である。しかし、読書を思考の源泉と考えるのであれば、上記の写真のように切り抜きを1ヵ月分ほど束ねて、フラッシュバック的に次から次へと異なったテーマを迅速に読みこなしていく方法もありうる。写真は日本経済新聞の『あすへの話題』。別に他紙のものでもいい。スタッフがぼくのために切り抜いてくれるので、30枚ホッチキスでとめて、一気に読む。一枚が原稿用紙二枚弱、新書版に換算すれば40ページ程度だ。半時間あれば30のテーマに触れることができる。
「1テーマ1冊数時間」という集中的線的精読もあれば、新聞の切り抜きを束ねて読む「30テーマ30分」という集合的断片的多読もありうる。時には荒行のような読書をして脳の回路を活性化することが必要だろう。
レストランのメニューは勝手に決まらない。何がしかの意図に基づいて決まっている。その意図を〈編集視点〉と呼んでみると、同じようなことが辞典にも言える。辞典のコンテンツも適当に決まるのではなく、特殊な知識や文化などを背負った編集者が、ある種の編集視点からコンテンツを取捨選択している。
名言や格言、ことわざの類に大いに関心があったので、若い頃からいろんな書物や辞典を読みあさってきた。ただ、箴言しんげんというものはおおむね単発短文であるから、覚えてもすぐに忘れてしまう。記憶にとどめようとすれば、文脈の中に置いたり他の概念と関連づけたりする必要がある。しかし、別に覚えなくても、手元に置いて頻繁に活用していれば、自然と身につくものだ。
国語辞典の定義や表現にも編者の視点が反映されるが、名言格言ではさらに顕著になる。「世界」と銘打てばなおさらで、日本人が拾ってくる名言格言はフランス人のものと大いに異なる。写真の辞典はフランス人が編集したもの。索引を拾い読みするだけで、ぼくたちの発想との類似と相違が一目瞭然である。
まずギリシア、ラテン、聖書由来がおびただしい。中国・インド・アラビアがたまに出てくるが、この辞典の世界とは「西洋世界」と言っても過言ではない。それはともかく、おもしろいのは「各人は自己の運命の職人」というような長たらしい見出しが独立しているという点。名言格言をこの見出しにするとは、かなり主観的な視点と言わざるをえない。
「神」にかかわる名言格言はきわめて多い。「神」と「神々」を分けてあるし、「神の正義」という独立の項目もある。「ぶどう酒」に関する名言もさすがにいろいろと収録されている。「前払いをする」という項目は日本の辞典ではありえないだろう。
見出しの項目だけでも、日本人と西洋人の編集視点の特徴が見えてくる。ぼくたちにとって後景と思えるものが前景になっている(その逆もある)。世界というものへの視点がきわめてローカルだということも勉強になる。