抜き書き録〈2022/10号〉

「ことば遊び」と言うのは簡単だが、大いに遊んで楽しむには豊富な語彙と教養がいる。織田正吉著『日本のユーモア1 詩歌篇』にはハイブローな笑いとユーモアがぎっしり詰まっている。頭を使わされるので読後にどっと疲れが出る。同じ句を繰り返し使って詠う「畳句」などは単純でわかりやすい。偶然にして「じょうく」と読むのもおもしろい。

月々に月見る月はおほけれど月見る月はこの月の月 
(『夏山雑談なつやまぞうだん』より)

まもなく十三夜だから月を愛でながら呪文のように唱えてみるのはどうだろうか。


散る花は音なしの滝と言ひつべし   昌意しょうい
「花」を「滝」に見立てたものである、と説明するのも野暮だろう。

(尼ヶ崎彬『日本のレトリック』)

「見立てる」を辞書で引くと、最初に「いい悪いの判断をすること」みたいな語釈が書かれている。それなら、わざわざ見立てるなどと言わずに、判断や評価でいいのではないか。続く語釈は「何かを別の何かであるかのように扱うこと」。こちらのほうが見立て本来の使い方に近いと思われる。見立ては類比アナロジーに近いレトリックである。花と滝に類比関係を見出すのは見立てである。著者は次のように続ける。

「見立て」とは、常識的な文法や連想関係からは結びつかぬものを、類似の発見によって(ないしは類似の設定によって)結びつけ、それによって主題となっているものに新たな《物の見方》を適用し、新しい意味を(または忘れられていた意味を)読者に認識させるものである(……)


高橋輝次編『書斎の宇宙』には「文学者の愛した机と文具たち」という副題が付いている。収録されている石川欣一の「原稿用紙その他」からの一節。

原稿用紙に凝る人は随分多い。自分で意匠して刷らせている人が沢山あるが、僕の知っている豪華版は仏文学の鈴木信太郎君だ。何とも筆舌を以ては表現出来ぬほど立派なもので、我々の雑文を書くのには勿体ないが、コツコツと、マラルメなどの訳をうめて行くには、まさにふさわしい原稿用紙だろう。

プロの著述業ではないが、趣味でオリジナルの原稿用紙を印刷してもらっていた知人がいた。ぼくは大学ノートを使っていた。二十代前半の頃、書くのが好きという理由だけで何度か文芸誌に応募したことがある。文房具店でよく見かける原稿用紙では見映えが悪いと考え、紀伊國屋書店で売られていたちょっと高級な原稿用紙(四百字詰め用紙100枚で1冊)5冊ほど買った。あれから40数余年、まだ2冊が残っている。今も手元に残る原稿用紙を眺めていると、勘違いばかりしていた時代を思い出す。

秋気配を読む

どの季節にも言えるが、季節の始まりは触覚、視覚、聴覚、旬の味覚を通じて感知する。もう一つ加えるなら、その季節の風情をうたったり著したりした本の中に見つけることもできる。

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる (古今集)

視覚よりも聴覚が先に秋を知る。この時期、まだ葉は落ちず、また山なみを遠望しても秋色に染まる様子は窺えない。目に見えるものは同じでも、窓越しに台風の音を聞くと、夏の終わり、秋の始まりを察知する。たとえその後夏っぽさが戻るにしても、わずか一日でも気温が下がって「涼しい、蒸し暑くない」と体感したら、その時に秋が兆したのである。

秋の見方、感じ方は人それぞれである。ボードレール『巴里の憂鬱』の一節「黄昏」はどこか秋を思わせる。

日が沈む。一日の労苦に疲れた憐れな魂のうちに、大きな平和が作られる。そして今それらの思想は、黄昏時の、さだかならぬ仄かな色に染めなされる。

他の季節にはない、秋ならではの日の沈み方、物思いへの指向性、黄昏、色というものがある。秋は慌てず急がず、夏の高ぶりを鎮めるように、つつましく始まる。

動物学者の日高敏隆に『春のかぞえ方』という本がある。春が訪れると花が咲いて虫がそこに集うようになる。この本は、花や虫がどのように春を感知するのかについて研究したものだ。日高によると、生き物にはそれぞれの三寒四温の「積算方法」があり、季節は積算によって正確に計られるという。ならば、春をかぞえるのと同じように、動植物は秋もかぞえているはずである。前年の冬から毎日の温度や湿度を数え始め今年の夏までの全日を積算して、「よし、そろそろ秋!」と判断しているに違いない。

『第三版  俳句歳時記  秋の部』(角川書店)から「秋の雨」という一節。

秋といえば素晴らしい秋晴れを連想するが、むしろ天気は悪い方である。毎年九月中旬から十月中旬までは秋の長雨といわれる一種の雨期に入る。「秋雨」はどこかうそ寒く、沈んで浮き立たない。

次いで、秋雨や秋霖を詠む句がいくつか並んでいる。一句を拾う。

秋雨や地階まで混むビール館  高井北杜

真夏にぐいっと飲む生ビールはキンキンに冷えた液体であって、はたして人はビール本来のうまさを味わっているのかどうか。台風が去って暑さがやわらぎ、湿度が下がって空気が乾燥する。その時、ビールは熱を冷ます任務から解放され、客を味に集中させるミッションに就く。ビール党でないのに生意気を言うが、秋になるとビールのうまさが増す。そして、ビールと相性のよいつまみも増えるのだ。乾杯!

抜き書き録〈2022/09号〉

今月は科学者が著したエッセイと科学をテーマにした本を取り上げた。


私は虫の本を見て、チョウの翅の顕微鏡写真を知り、その微細さに驚くとともに、顕微鏡の歴史を知りたくなった。そして十七世紀、オランダの人、レーウェンフックと出会った。彼の生まれた街デルフトを訪ねると(もちろん本の上で)、そこにはフェルメールがいた。かくして私は、虫の虫から、本の虫、本業としては顕微鏡オタク、趣味としてはフェルメールオタクに至ったというわけである。
(福岡伸一『やわらかな生命せいめい』)

過去のどこかを切り取って何かに嵌まった経験を思い出せば、誰もが上記のような連鎖を綴ることができるはず。しかし、綴る人は少ない。発想や能力の差ではなく、観察と記録のマメさの違いだ。世の中には、思い出してはマメに記録する人と、記録するのを面倒臭がる人がいる。後者の人は記録よりも記憶に頼ろうとするが、残念なことに記憶力がよくない。


来年のNHK前期の連続テレビ小説は『らんまん』。植物学者の牧野富太郎と妻が主人公。たまたま新刊の『草木とともに 牧野富太郎自伝』を読んだ。二人のなれそめは牧野本人がこの本で書いている。研究生時代、牧野は下宿先の麹町から東大の植物学教室へ人力車で通う時、いつも菓子屋の前を通っていた。

この小さな菓子屋の店先きに、時々美しい娘が坐っていた。私は、酒も、煙草も飲まないが、菓子は大好物であった。そこで、自然と菓子屋が目についた。そして、この美しい娘を見染めてしまった。私は、人力車をとめて、菓子を買いにこの店に立寄った。そうこうするうちに、この娘が日増しに好きになった。

牧野は自分でプロポーズできず、石版印刷所の知り合いに娘を口説くよう頼みこんだ。縁談はうまく運び牧野は結婚した。草木の話もおもしろいが、小説のようなこの一文、「わが初恋」が印象深い。朝ドラではどんな脚本に仕上がるのだろうか。


漬け丼が売りの食事処に最近よく通う。昨日も昼に行った。注文したのは、鮪の中トロ、天然ハマチ、鰹、ハモ、そしてヒラメを乗せた海鮮丼。鮃はエンガワの歯ごたえがよく、また昆布じめにしても美味である。その鮃を丼に乗せるという贅沢。先日適当に読んだ本に鮃の記述があったのを思い出し、もう一度読んでみた。

(鮃の)脂質含量が一月に獲れた天然の寒鮃かんびらめでは筋肉100gに対して2.2gほど含むが、夏に獲れる痩せたものは0.8gである。寒鮃は夏鮃の二倍以上の脂質を含む。
(成瀬宇平『魚料理のサイエンス』)

筋肉のエキス窒素分が旨味と関係するらしいが、この例のように鮃は夏よりも冬がうまいという情報が刷り込まれるのも考えものだ。知識には体験が伴うべきで、また体験には知識の裏付けが望ましいなどと言われる。しかし、夏場でも鮃をおいしく食べようと思うなら、筋肉に占める脂質量のことなど知らないほうがいいのである。

抜き書き録〈2022/08号〉

都道府県別と全国合計のコロナ感染者全数把握。いつまで発表し続けるのか。ゼロになるまで? まさか。さてどうするか? 次の文章にヒントがあるような気がする。

数字は明らかに抽象であって、自分の目で確認した「事実」ではない。つまり意識の変形である。コロナによる本日の死者何名。この目線はいわば神様目線である。「上から」目線と言ってもいい。(養老孟司『ヒトの壁』)

なるほど。だから、「数字なんかいらない」と言うと神様に逆らっているようで言いづらいのか。しかし、神様の言うこともあてにならないことが多いのだ。


あまり手にしない類の本だが、手にしたのも何かの縁。アンディ・ウォーホルの『とらわれない言葉』は彼のアフォリズム集。一気に読んだ。

忙しくしていること。人生で一番素晴らしいのはそれだ。

退屈なことが好きなんだ。

別々のページで全然違うことを書いている。いったいどっち? と問うまでもなく、すぐに別のページの次の一文で納得させられる。

僕はこの世界に魅せられているんだ。

世界に魅せられているなら、多忙でも退屈でもどっちでもいい。すべての矛盾や意見の相違を飲み込んでしまえるいい言葉だ。応用できる。たとえば「ぼくはいつもその時々にしていること、していなことのどちらも好きだ」。


をかし・・・は)美的理念。感興をそそられる。王朝以降は「あはれ」がしんみりとした情趣に対する感動を表す語とみなされるのに対し、明るい対象や状態に触発された感動を表す形容詞とされる。(河出書房新社編集部『美しい日本語の究める やまとことば』)

王朝期ゆかりのやまとことばどころか、江戸時代の諺や明治の言葉遣いでさえどんどん減って絶滅を危惧されている。「をかし」も「あはれ」も、発音すれば現代語の「おかし(い)」と「哀れ」と変わらないが、書き言葉の印象と意味は繊細に異なる。をかしとあはれをぜひ復権させたい。


今日こんにちを特徴づけているのは、「活字離れ」ではありません。むしろ今日、読書という問題をめぐって揺らいでいるのは、本というものに対する考え方です。(……)本を読むということは、その内容や考えを検索し、要約するというようなこととはちがいます。それは本によって、本という一つの世界のつくり方を学ぶということです。(長田弘『読書からはじまる』)

春先に依頼されて、現在某所で「読書室」の企画と設計と選書に関わっている。まだ半年、いや一年以上続く。本を所蔵して貸し出す図書室ではなく、敢えて読書室と名づけた。ここに来て本を読む。オフィスの一室を読書室に作り替えてから4年と少し。その経験が役立っている。ここのところ選書作業で忙しい。

ところで、みんなが本を買わずに借りて読むようになると、出版社や書店はやっていけなくなる。本が発行されなければ図書館の所蔵図書のタイトル数が減る。出版文化維持のために、そして「本という一つの世界」がなくならないために、図書館で本を借りる人も3冊のうち少なくとも1冊は書店で買ってほしいと願う。

抜き書き録〈2022/07号〉

異常なほど暑い6月だった。7月も引き続き暑い日が続いている。この先も覚悟しておきたい。冷房を効かせば身体は楽になるが、本を読もうとしてもなかなか根気が続かない。それでも少しは読み、傍線を引き、抜き書きもする。再読の本が多い。

いみじう暑き昼中に、いかなるわざをせむと、あふぎの風もぬるし、氷水ひみずに手をひたしもてさわぐほどに、こちたう赤き薄様うすやうを、唐撫子からなでしこの、いみじう咲きたるにむすびつけて、とり入れたるこそ、かきつらむほどの暑さ、心ざしのほど、浅からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇も、うちをかれぬれ。
(清少納言『枕草子』)
【筆者超訳】かなり暑い日中に、暑さをしのごうと扇であおいでみても風はぬるい。氷水に手を浸してはしゃいでいたその時、立派に咲いたなでしこの花に真っ赤な和紙の手紙を結びつけたものを、取次の者が届けにきた。手紙をお書きになった時の暑さとお気持ちのほどが察せられて、飽きずに持っていた扇を思わず置いてしまったのだった。

平安時代も暑かったのだ。今ほど気温は高くなくても、場所は京都、湿度は高かったはず。暑い昼にラブレターが届く。書き手の飽くなき、恋心という名の精神力に驚く。赤い花に赤い手紙。ああ、想像するだけで体温が上がる。

「とこなつ」はれっきとした日本語らしいが、常夏という漢字と語感から南洋の島が刷り込まれてしまった。中西進の『美しい日本語の風景』に次のくだりがある。

「とこなつ」とは「永遠の夏」という意味。「とこ」は「常」という漢字が当てられたせいで、同じ「常」を当てる「つね」と混同されかねない。「つね」はふつう、標準という意味だからまったく別物である。
「とこ」は「とこしえ」(永遠)「とこよ」(永遠を極める年齢、また世界)のように、無限の時間をいう。

「とこ」としての時間・・は観念だから「無限の時間」という言い方がありうる。他方、「とき」はその時々の時刻・・を象徴するので現実的である。「無限の時刻」とは言わない。ちなみに、夏の間咲き続ける「なでしこ」は「永遠とこよの夏」とも呼ばれたそうである。

「からむし」という言葉がある。『八犬伝』の中の有名な芳流閣上の格闘の場に「ころは水無月みなづき二十一日 きのふもけふもからむしの ほてりを渡る敷瓦しきがはら」というように出てくることばであるが、(……)辞書でこの言葉をひくと「湿気がなくて蒸暑いこと」とある。この解は変ではないか。「蒸暑い」というのは湿気があって暑いことのはずだ。これは、「雨は降らないが蒸暑いこと」とすべきだろう。
(金田一春彦『ことばの歳時記』)

今年の梅雨は短く、あまり雨が降らなかった。それでも例年以上に蒸し暑かった。雨の日が多湿とはかぎらないことを除湿器を置いてから知った。先々週の半ばだったか、前日に雨が上がり気温も30℃を切った。エアコンが効いた部屋の湿度は低かったのに蒸し暑かった。

見ることができないものは、人間にとって、とても扱いにくいものです。しかし、多くの文明や文化は「見えないもの」を何らかの創意と工夫でとらえるようにしたところから生まれてきました。
(佐藤正彦『プチ哲学』)

感じることはできるが、湿度や気温という本来見えないものが、アナログ/デジタル的に計測して数字によって「見える化」した。しかし、数字で表しても見えたことにはならない。湿度と気温の数値を併せ読みしても、体感を表してはいない。それはそうと、最近は不快指数ということばを見聞きしなくなったが、どこに消えてしまったのだろうか。

抜き書き録〈2022/06号〉

空き時間に再読した「古典もの」の抜き書きを集めてみた。まずは福沢諭吉。有名なあの一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が象徴する啓蒙主義的言説に少々飽きてはいるが、やっぱり随所でいいことを書いている。

人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己いっこの定見なき者あり。(『学問のすゝめ』)
(見聞を広めるだけで人は立派にならない、読書に勤しんでも著名人と付き合っても自分の意見が持てない者がいる)

昔からのやり方に固守する儒者や洋学者にもこの類が多いと言う。読書はしないよりもする方がいいし、抜き書きもしないよりはする方がいいと思うが、効能の過信には気をつけたい。

「学問」つながりで、17世紀イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コからの青少年教育に関する抜き書き。

記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも、確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。(『学問の方法』)

近年、わが国の教育は記憶させることに偏重している、思考力にもっと力を入れるべきだと批判されてきた。ぼくもその主張に与した一人である。しかし、最近では、何が好きで何に適性があるかもわからない少年期は記憶力優先でいいような気がしている。青年になってどの方向に進むにしても、記憶力――ひいてはヴィ―コ言うところの想像力――が役に立たないはずがないからである。

吉田兼好に対しては立ち位置の取り方が難しい。ある段の話には四の五の言わずに共感するが、別の段には不快感を覚えることもある。あるいは、二律背反的な解釈の余地がある段も少なくない。たとえば次の一節。

筆を取れば物書かれ、楽器をとれば音を立てむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、さいをとれば打たむことを思ふ。心は必ず事に触れてきたる。仮にも不善のたはむれをなすべからず。事理もとより二つならず。外相げさうもしそむかざれば内證ないしやう必ず熟す。(『徒然草』第一五七段)
(筆を手にすると書きたい、楽器を手にすると奏でてみたいと思う。さかずきを手にして酒を思い、サイコロに触れると博打をしたくなる。物に触れるから心が動く。だからよろしくない遊びに手を出してはいけない。現れることとあるべきことは別のことではない。外に出てくることが道理に合っているなら、悟りはきっと熟してくる)

こんなふうに言われると、つい「なるほど」と感心させられる。しかし、思いついたことを記そうとしてペンを取り、一曲奏でようと思ってギターを弾くという、動機から行為へという流れもよくあるはず。ところで、酒とギャンブルを書や音楽と同列には語れない。酒飲みは何かにかこつけて飲むだろうし、金を持てば飲み、金がなければ金を借りてでも飲む。ギャンブル好きも同じ。どんな対象でも賭けの対象にする。そして、金を持てば賭け、金がなくなれば金を借りて賭ける。ギャンブル好きはサイコロがなくても馬が走らなくても困らない。とにかく賭博するのである。

抜き書き録〈2022/05号〉

つい半月ほど前に春を実感したばかりである。これから存分に春を楽しめるというのに、心配性は春が瞬く間に過ぎるのではないかと冷や冷やしている。

春を惜しむといえば、去りゆく春に手を挙げて別れを惜しむ趣だが、なにも晩春に限った感情というわけではあるまい。終わりよりも酣(たけなわ)においてこそ愛惜の思いの強いのが、春という季節のありようではないか。
(高橋睦郎『歳時記百話 季を生きる』)

惜春ということばがあるように、惜しむのはゆく春。人はあまり夏や秋や冬が去るのを惜しまないのだ。

わたしはあるときフト気がついた。
この世の仕組みはすべてズルでできあがっていると。
大悟というのだろうか。
(東海林さだお『人間は哀れである』)

この世の仕組みがすべて善行や善意で出来上がっていると言われるよりは、「この世はすべてズル」という主張のほうがよほど説得力がある。善はなかなか主役に躍り出ないが、ズルは堂々と、抜け抜けと、この世をわがものとして生きている。ほぼ一日に一度は何がしかのズルを目撃する。

文章を書くということは、一人の人間の能力全部を出し尽くすということである。テーマが与えられると、どこから光を当てるか、どういう立場に立って書くかを、まず決めなければならない。ばらばらの部分があるだけでは、全体につながらない。全体を貫く軸をみつけ出さないかぎり、部分は部分にとどまる。
(尾川正二『文章のかたちとこころ』)

文章を書くことの特徴が網羅され見事にまとめられている。但し、実社会では、テーマは与えられるばかりでなく、自ら見つけなければならない。職業的にものを書く人のみならず、仕事人は誰もがテーマを持っているし、テーマを主観的かつ客観的に理解するために筆記具を手にすることが多くなるはず。

みなさんも小さな子供が「なぜ」「なぜ」と繰り返し質問し、聞かれた大人が最後には「だからそういうものなの!」と会話を打ち切る場面を見たことがあるだろう。子供は物事が複雑であること、何かを説明しようとすると次々と新たな疑問が湧いてくることを、なんとなくわかっている。「説明深度の錯覚」は、大人が物事は複雑であることを忘れ、質問するのをやめてしまったことに起因するのかもしれない。探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解していると錯覚するのだ。
(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』)

“0”から“10”まで刻んだ理解の目盛りを仮定する。「知らない」は目盛りの“0”だが、「知っている」が“1”から“10”の目盛りのどこになるかは特定しづらい。「知っている」は人によって意味が変わる多義語なのである。「きみ、知っている?」「はい、そのつもりです」というやりとりで意思疎通できることは稀なのだ。自分の「知っている」のほとんどが「知っているつもり」である。無知を暴かれたくないのなら、あらかじめ「よく知らない」と言っておくのが無難である。しかし、「よく知らない」と控えめな人ほどものをよく知っていたりするから、話はややこしい。

四百字のアフォリズム

帯に「この一冊 余白はあなたのために! 現代日本のすぐれた知性がそれぞれ400字の中に圧縮されています」と書いてある。書名は『街頭の断想』(共同通信社発行、1983年)。表紙にはAPHORISM(アフォリズム)の文字がデザインされている。

錚々たる56人×400文字である。「アフォリズム=80年代へ・街頭の断想パンセ」というタイトルのもとに19809月から19834月まで綴られた。まず12名分が地下鉄千代田線「明治神宮前駅」のプラットフォームに掲示された。次いで、残りの著者分が新宿センタービル地下1階「水の広場」の4本の柱に順次掲示されていった。ちょっと考えにくい公開方法だ。

巻頭で本書への思いを書いた中村雄二郎は、56人の400文字の文章が〈アフォリズム〉だと言う。しかし、普段訳される「警句」や「箴言」というもったいぶった表現から受ける印象ではなく、「簡潔な圧縮された形で表現された人生・社会・文化などに関する見解」という広くて深い意味を感じさせる定義である(と、中村雄二郎はアフォリズムを捉えている)。

ここで引く一例選びに悩んだ末、作曲家、武満徹の400字アフォリズムを選ぶことにした。難解だが、じっくり文章を追ううちに刺すように響いてきたからである。「電話」と題された一文。

 窓を開ける。陽光ひかりが溢れる。変哲もない一日が始まる。この区切りもない棒状の文脈に、不意に電話のベルが不規則な律動リズムを付け加える。黒いビニール・コードで被覆されたラインの覚束なげな接触を通して齎らされるものは、確かな死の告知である。
 陽光ひかりで満たされた部屋に、真空の亀裂が太陽の黒点のように存在しはじめる。
 だが、生に韻律をあたえるのは、実はこのような、不意の電話であるのだ。
 静寂が支配する部屋に、感覚では把え難い超越的な意識の海が、光の飛沫となって充溢するのを感じる。
 この世界に、この部屋に、死によって明瞭に縁どられた生の形容かたちである私は、電話の声に耳を傾ける。


ツイッターの140文字以内では「線状の思い」を書くのは難しいと考えて、ブログで平均1,000文字を費やしていろいろと書いてきた。しかし、線はある程度表現できても、断線あり脱線ありで、未だにベストの文字数を割り出しあぐねている。本書は刺激になった。メッセージと表現の凝縮、ひいては意図された自在なアフォリズムの語りかけが、懐かしい「四百字詰原稿用紙」の響きを新たにしてくれた。おそらく400字は子どもの頃から刷り込まれてきた基本形なのだ。

抜き書き録〈2022/04号〉

木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしにわが身はなりぬべらなり
(『古今和歌集 』詠み人知らず)

「木でもないし、草でもない竹。わが身は、その節と節の間の中身のない端切れのようになってしまった」という意。空洞にもいいところがあるから、そこまで嘆かなくてもいいのに。それにしても、素材としての竹の力強さと柔軟さが生み出す造形美は他に類を見ない。その竹を木や草と呼ぶことにはたしかに抵抗がある。林に残ったままでも、切り出されて細工を施されても、竹は竹だ。

舌はキエフまでも連れて行く。
(『世界の故事名言ことわざ』)

ロシア正教の総本山だったキエフはよく知られていた。そこを目指す者は、道を知らずとも、出合う人に訊ねながら行けば無事に着けたのである。「舌」はことばや会話の比喩。某侵略軍がキエフに行けなかったのは不幸中の幸い。

徐々に空間を埋めていく快感は誰しも少なからず体験していることだろう。コレクションなども、すべて集め尽くさないと気が済まなくなる。一種の隙間恐怖症だ。
(松田行正『眼の冒険――デザインの道具箱』)

ジグゾーパズル熱もコンプリート願望も隙間恐怖症である。そう言えば、本棚が一段空いていたりするとぼくは落ち着かなくなり、古本を買ってきては並べる。オフィスの観葉植物も、置き場所を埋めていくうちに50鉢になった。そうか、病気だったのか。

唯一の証拠は、自分の骨身に沁み込んだ直感的な無言の異議申し立て、つまりは、今の生活状況の耐えがたいものであり、前はそうではなかったに違いないという本能的な感覚より他にない。
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

「フェイクだ、信用できない」と他人がほざこうとも、自分自身が――自分の肉体が――何もかも知っているのだ。ぼく自身とぼく自身の差異の感覚が、ぼくが信じてやまない証拠である。

「汝がうちに汝の心あり、また汝がまわりにかくも多くの星と花と鳥あるとき、何のゆえの書物ぞや」というアシジの聖者の言葉が時として美しく思われる(……)
桑原武夫「書物について」; 日本の名随筆『古書』より)

アシジを訪れたことがある。20013月のこと。この地で13世紀にカトリック教会を開いた修道士、聖フランチェスコへのオマージュだった。本や読書の前に、自分を見よ、自分を取り巻く自然に気づこう……このイタリアの守護聖人がそう告げている。漫然と本を読んでいる場合ではないと思うことが、時々ある。

読む前に読む

「飲む前に飲む」というコマーシャルがあった。先に飲むのが二日酔い防止ドリンク、次に飲むのがアルコール。「お酒好きの皆さん、アルコールを飲む前に二日酔い防止ドリンクを飲みましょう」と促すメッセージである。

「飲む前に飲む」が言えるのなら「読む前に読む」も言えそうだ。いきなり本を読まずに、本を開けずに題名と著者名と帯の情報から内容に読みを入れる。「書かれている文字や掲載されている図や写真を理解すること(①)」が読むこと。つまり、読書である。「手掛かりになる情報から意味を察知したり内容を推測したりすること(②)」。これも読むことである。読む前に読むとは、①に先立って②をやっておくことにほかならない。


効率とスピードアップを意識した読書法には速読、併読、拾い読みなどがある。しかし、もっとも効率がいいのは、ページを繰らずに読む「不読法」だ。古本をよく買うようになって、この不読法を時々実践している。たいていの古本屋の店頭や入口付近には均一コーナーが設けられ、そこには100円~300円程度で値付けされた古本が並べられている(時には乱雑に積まれている)。丹念に漁ってみると掘出し物が見つかることがある。

低価格なので、題名と著者名を見て「よさそうだ」と直感すれば、立ち読みせずに買う。そんなふうにして十数分で5冊ほど、多い日だと10冊ほど手に入れる。仮にハズレでも値段が値段だからガッカリ感は小さい。単行本を8冊買ったのが先週。一昨日、下記の3冊をいつでも手が届くところに置いた。そして、読む前に読んでみた。

『ビフテキと茶碗蒸し 体験的日米文化比較論』 

〈読む前の読み〉この本にはいろいろな「米国的なものと日本的なもの」を対比した小文が収められているに違いない。「ビフテキと茶碗蒸し」はその代表例であり、対比のインパクトが強いゆえに題名に選ばれた。なぜそう言えるのか。ビフテキと茶碗蒸しについての比較文化を200ページ以上論うことなどできないからだ。せいぜい5ページしか書けない。飲食比較なら他に「アップルパイと味噌汁」が考えられる。おふくろの味という共通点がある。装いなら「ジーンズと袴」についても書かれているかもしれない。体験的とあるので「カウボーイとサムライ」の記述はたぶんない。

『スイスの使用説明書』 

〈読む前の読み〉スイス好きのための、スイスの文化、歴史、風土、慣習などを、おそらく観光案内的に記した本である。永世中立の一章も、たぶんある。「使用説明」に深い意味はないと思う。『もっと知りたいスイスのこと』や『スイス通になるための手ほどき』でもよかった。編集会議で誰かが「ちょっと風変わりな題名にしよう」と提案したに違いない。その誰かはたぶん前日にスイス製のアーミーナイフかフォンデュ用の鍋を買い、その使用説明書を読んだのだろう。

『じつは、わたくしこういうものです』 

〈読む前の読み〉もうかなり長い時間考えているが、何が書かれているのかほとんど見当がつかない。「わたくし」というのが何かの見立てかとも思ったが、そこから先が読めない。クラフトエヴィング商會の本は『おかしな本棚』『ないもの、あります』『すぐそこの遠い場所』など読んでいるが、すべて独自性の強い不思議で愉快な本ばかりである。したがって、本書もそういう色合いのものだと想像がつく。この「わたくし」は著者のことではないだろう。著者の知名度が必ずしも高いわけではないから、自分のことについて一冊の本で告白しても、読者は「よっ、待ってました」と小躍りして買うとは思えない。「様々なわたくし」が登場するオムニバスストーリーというのが精一杯の読みであるが、まったく自信がない。