一行と一冊の比較

読みやすく、すうっとアタマに入ってくる本は心地よい。文章表現が大いに関係する。けれども、どんなに平易な文章で書かれていても、不案内の事柄は難解である。読んでいてわかりやすいと感じるのは、書かれている内容にすでに精通しているからにほかならない。

「知っている」という確認だけに終わる読書であっても、記憶の強化には若干役立つだろう。しかし、知を広げるためには「知らないこと」に挑まなければならない。知らないことが書かれている本は、読んでも内容がアタマに入ってこないし、なかなか辛抱して読み続けることができないし、すぐに眠気も催してくる。これらの本は悪書かもしれないので、「さっさと読むのをやめてしまいなさい」という読書の専門家もいる。

しかし、少々読んでもわからないのは、その方面の知識に弱点があるからだ。ギブアップしていたら、永久に縁も取っ掛かりも生まれない。取っ付きにくいという理由だけで書物のセレクションをしていれば、永久に知らないことは知らないままである。時には、わからないのは自分のせいであると、己の識見に警鐘を鳴らしてみることも必要ではないか。


ところで、ぼくは本をよく買う。買った本のすべてに目を通すような精読をしているわけではない。基本は拾い読みで、多読と併読である。多読・併読を経て再読に値する書物だけを月に一冊ばかり取り上げてじっくりと読む。そのときはノートも取るし批評もする。できるかぎり自分の過去の、ちっぽけかもしれない知の体系に照らし合わせて縦横無尽に読む。但し、これは多読・併読という分母の大きさがないとうまくいかない。

こうして読書をしているうちに、一冊の書物中に一冊全体の重みと等価と思える一行の文章なり箴言に出くわすことがある。一つの文章、一つの語句との邂逅が〈知軸の転回〉を生じさせたり〈知圏の磁場〉を動かせたりする。重々承知していることであっても、たとえばフランツ・カフカの「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる、性急な焦り」ということばによって、認識がさらに深まる。

しかし、短文テクストを読み解くときは注意せねばならない。ぼくたちは自分の都合に合わせて「勝手読み」するからだ。ことわざや格言や座右の銘の本意を理解するのは、案外手間暇のかかることなのである。場合によっては、一冊の本を文脈コンテクストとして絡め取らねばならない。点は付き合いやすい一方で、点ゆえに位置取りを見極め、他の点と繋ごうとする努力も怠れない。一行の読み方と一冊の読み方には関与の仕方に大きな違いがあるように思う。

語句の断章(12) 腰

「重要」という文字を書くたびに「腰」という文字が浮かぶ。そこに「かなめ」があるからだ。人の身体部位のうち、重さと軽さ、強さと弱さ、高さと低さという特徴をすべて比喩的に使えるのは頭と腰だけではないか。つまり、腰は豊かな表情を備えた〈かなめの文字〉なのである。

☆    ☆    ☆

腰が重い 疲れから腰あたりが何となく重く感じる。そんな症状ならマッサージである程度改善できる。深刻なのは、無精ゆえに機動力がなくなるという意味での腰の重さのほうだ。ぐずぐずして腰が重くなる症状は、中国整体でも指圧でも鍼灸でも治せない。

腰が軽い では、機動力をつけようと腰を軽くするとどうなるか。今度は落ち着きがなくなってしまう。身の軽やかさという意味がなくもないが、軽率というニュアンスが強くなる。「腰軽こしがる」は決して褒めことばではなく、「尻軽」に近づいて淫らになってしまう。

腰が高い 「足が長い」と言う代わりに、「腰高である」と遠まわしに足の長さを自慢する人がいる。とても図々しく響く。それもそのはず、腰が高いとは他人に対する態度が尊大で横柄なことを意味する。「が高い」の類義語である。

腰が低い 腰の位置が低い人は、身体特徴的には足が短いということになる。しかし、性格態度的には低姿勢となり、謙虚さをうかがわせる表現になる。なお、念のために付け加えておくが、短足の人が謙虚だという証明はまだ成されていない。

腰が強い 白鵬は腰が強い。しかも、強敵相手にも易々とは屈しない。肉体としての腰の強さだけではなく、氣が横溢する強靭さすら思わせる。これが転じて餅やうどんの粘りやアルデンテを意味するようになった。

腰が弱い うどんなら、ふにゃふにゃで粘りや腰がないさま。人好き好きだから、この種のうどんも好まれる地域がある。但し、腰の弱い人間はいただけない。信頼性に乏しいからだ。外圧に抗うすべもなく、意気地がなくうろたえる。

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あらためて腰という文字を眺めてみる。にくづきに要、つまり「身体のかなめ」。上半身と下半身のくびれている部分を、その昔はこしと呼んでいた。と言うことは、くびれのない身体には腰がないことになる。腰が腹に吸収合併されることを、現代では「メタボ」と呼ぶ。

語句の断章(10)脱衣

もう二ヵ月前だろうか、テレビで珪藻土から足マットを作った左官屋さんが紹介されていた。梅雨の季節、風呂から上がって布か樹脂のマットに濡れた足を置く。脱衣場のじめじめしたマットは決して気持のいいものではない。その代替に珪藻土を固めたマットを作った。「マットは柔らかいもの」という固定観念へのチャレンジだ。

それにしても、「脱衣場」とは奇妙な表現である。銭湯でも家風呂でも、服を脱いでから湯に入る。脱衣とはまさにこのことを指し示すことばである。しかし、風呂から上がれば、そこはもはや脱衣場ではない。一糸まとわずに風呂に入っていたのだから、それ以上脱ぐものは何もない。ゆえに、風呂から上がれば、そこは「着衣場」でなければならない。着衣せずに銭湯から帰ってくると猥褻行為で逮捕されてしまう。

着衣の場でもありながら、なぜ脱衣の顔だけを立てるのか。おそらく、こと風呂に関するかぎり、着ることよりも脱ぐことに注意が向けられている証拠だ。あるいは、かつて番台が客の着衣行為よりも脱衣行為に大いに関心を寄せた名残りかもしれない。

ところで、アパレルの店では「試着室」という。ここでは、関心が着ることに寄せられている。着るのを試してもらい買ってもらわねばならない。しかし、あの狭い空間でいきなり試着することはない。まず身につけているものの一部を脱がねばならない。脱いでから試着するものである。

脱いだからには着なければならず、着るためには脱いでいる状態が前提になる。したがって、銭湯も洋装店も、これからは「脱着衣場」あるいは「脱着衣室」と呼ぶべきだろう。

語句の断章(11) 観照

何となくわかるので、わかったつもりになって何十年も放っておいた単語、それが「観照かんしょう」である。

現象学の哲学者がよく使う。美術の本にも出てくるし仏教関係の本でも何度か見ている。一番理解に苦しんだのが、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の一節、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」だ。「観察して照らしている」から、本質をよく捉えることだろうくらいの理解で済ませていた。

よくよく考えたら、ダ・ヴィンチ自身が観照という日本語を使ったわけではない。だから翻訳文の理解に悩むくらいなら、原典にあたるのがいい。まさか原本が手元にあるはずがないので、英語版の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(Notebooks of Leonardo da Vinci)を調べたら、「観照する」に相当する用語が“contemplate”となっていた。「凝視する」とか「注意深く観察する」という意味だ。英和辞典には「熟視」と訳しているのもある。

この動詞は現代イタリア語では“contemplare”で、辞書にはちゃんと「観照する」という訳も掲げられている。「瞑想する」という意味もあるが、これはダ・ヴィンチの手記の一節の訳としては当てはまらない。そして、この動詞からラテン語に遡ってみると、「吉凶を占う場所で十分に観察する」というのが原義であることがわかった。吉凶を占う場所とは「天空が開けている場所」を指す。

するとどうだろう、「感性は地上のものである。理性は観照するとき感性の外に立つ」と言ったダ・ヴィンチの真意が何となく理解できるではないか。感性の外とは地上ではなく天空のことなのに違いない。「理性は感性の限界を補う俯瞰や見晴らしをもたらす」というような意味のように思われる。

なお、ぼくはことば遊びをしているだけであって、衒学的追究をしているのではない。念のために付け加えておくと、このように執拗に単語の意味を追い求めても文章の意味がわかる保証などないのである。個々の単語が文意を担うのはたしかだが、それ以上に文章や段落が単語の意味を変容させる。これはまるで個人(単語)と組織(文章)の関係にそっくりだ。

語句の断章(9) 知見

わざわざこんな単語を使わなくても他のやさしい類語でいいのではないかと感じる時がある。いぶかしんで意図を突き止めたくなる。「知見ちけん」もその一つだ。

別に意見や見解や見識でもいいのではないかと言いたくなるが、意見と見解を分別できている自信はない。〈意見⊃見解〉、つまり意見が見解の上位集合らしきことは何となくわかる。見解のほうがフォーカスしている感が強い。見識は、見解に質の高い判断力を足したようなイメージだろうか。

少々小難しい本を読んでいると、著者が「私の知見では」などと言う。「私の意見では」とするのはダメなのか。辞典を調べて本の文脈にあたってみると、「なるほど、ここは知見でなくてはならない」と納得する。そんな著者は適語を選択しており語感もすぐれているのだろう。そうでない著者はたぶん「見せびらかし」に酔っている。

知見は「見聞に裏打ちされた意見」のことである。必ずしも体験でなくてもよさそうだが、実感が漲っていて「よく身につけている自信」を感じる。意見と知見を対比させると、意見は私見に近くて揺らぎそう。それが証拠に、発言直後にすぐ取り消されるのが意見の常だ。知見には筋金が入っていそうである。以上はぼくの”愚見”である。

なお、愛用している類義語辞典では、〔意見――ある物事について持っている考え〕を共通の性質として、次のような単語が列挙されている。

考え、論、意見、けん、所見、見方、観、見解、知見、了見、見識、一見識、一家言、私見、私意、貴意、高見、卓見、達見、達識、愚見、卑見、管見、浅見、探見、定見、偏見、僻見へきけん僻目ひがめ謬見びゅうけん臆見おっけん、創見、先入観、先入主、成心、色眼鏡、異見、異存、異議、異論、故障、主観、人生観、世界観、史観、政見。

どうだろう、知らなかった、知っていたが使えそうもないのがかなりの数あるに違いない。驚いたのは「故障」だ。故障とは「異議や反対意見」のことらしい。たしかに、「機械の故障」は機械による異議申し立てであり持ち主に対する反対意見ではある。

上記の中では「創見」が新鮮に見えた。「独創的な新しい考え」のことである。さっそくどこかで使ってみようと思うが、話しことばで使うと「総研、送検、壮健、双肩」などと同音異義語が多いからまず伝わらない。「爽健美茶」の略語と思われる可能性すらある。

問いは人を表わす

1月の会読会でメンバーの一人が問題解決のためのヒューマンスキルの本を取り上げた。彼の書評の中に「重要なのは答えることではない、問うことである」という引用があった。まったくその通りである。問いと答えはワンセットだが、答えは問いに従属するのである。そこで、「問わなければ答えは生まれない」という一行も付け加えておきたい。

問いの中身と形式を見れば、問う人がわかるし、答える人との関係もわかる。ある日突然、仲の良い同僚があなたに「オレは誰?」と聞いてきたら、穏やかではないことがわかる。だいたい二、三問ほど聞いていれば人がわかる。ちなみに、「お元気ですか?」は疑問文だが、めったなことでは実際の健康状態を尋ねてはいない。これは挨拶の変形である。若者の「元気?」は「こんにちは」に近い。英語を学習し始めた当初、“How are you?”に対して、いちいち“Fine, thank you. And you?”とアルゴリズムに忠実だったが、ぼくの問いに答えないネイティブも少なからずいて、これが挨拶の一つであることを知った。

「旅行はどうでしたか?」と聞かれるとぼくは困る。問いが大きく漠然としているからだ。だが、こんな問いには適当に答えておけばいいのである。この問いは社交辞令的な問いであって、興味に揺り動かされた素朴な問いではない。「ありがとう、よくぞ聞いてくれた。ものすごいよかったよ!」と言っておけばよろしい。おそらく相手もこう言うだろう、「へぇ~、それはよかったですね」。


インド料理店で「ナンまたはライスは食べ放題」と書いてあって、ナンを注文した。「または」だから、ナンと決めたらずっとナンだと思っていたが、食べ放題ならどっちでもいいのではないかと思い、ライスを頼んでみたらちゃんと出してくれた。メニューには「ナンとライス」と書くのが正しい。「または」や“OR”は相手に選択を迫る問いだから、「何でもあり」の食べ放題に「または」はめったに使われない。食べ放題でよくあるのは、「または」ではなく「但し」だろう。「当店はテーブルオーダー方式の食べ放題です。但し、食べ残しがございますと……」という場合。いつでも「但し」ほど恐いものはない。

「パンにされますか、それともライスですか?」は希望を尋ねている。希望を聞くのはオプションをいくつか用意できているからであり、また相手に強く関与しているからである。とは言え、オプションが多すぎると、「ランチのパスタは何にされますか?」と聞かれ、「何がありますか?」と尋ねると、50もの種類の写真メニューを見せられて困惑する。多すぎるオプションは、逆に無関心の表われになってしまう。「焼き加減は、どうされますか?」という問いは、通常、レア、ミディアム、ウェルダンの三段階の希望を聞いている。選択肢が二、三に絞られていて、なおかつ聞いてくれるときに、問う側の自分への関心と誠意を感じるのである。

一見すると、「ABか?」は二者択一を迫って険悪な空気を漂わせる。しかし、選択肢であるABが同格同等、かつ満足に関わる時、この問いは相手に対するおもてなしになる。どうでもいい相手や関心の薄い相手に、人はこのような聞き方をめったにしない。もちろん聞くこともある。その時は、どちらを選んでもマイナスになりそうとか、ジレンマに陥って答えられないなどの問いである。「転勤するのか、やめるか、いったいどっちなんだ?」などはこの一例だが、明らかに問う者はいじめかパワハラのつもりである。

語句の断章(8) 剽窃

学生時代、アルファベット順に英単語を覚えようと何度か試みた。今にして思えばバカらしい方法ではあるが、大まじめに取り組んだ。ところが何度も頓挫するから、気持ちを入れ替えて再び最初の“a”から始める。その結果、“abandon”という動詞だけをみんなよく覚えたはずである。この動詞、ぼくはこれまで英語の原書や雑誌で二、三度しか出くわしていない。あまり頻出しない単語なのである。

剽窃ひょうせつ」も頻出語ではない。しかし、どういうわけか覚えている。剽とは「かすめ取ること」、窃とは「盗むこと」。ゆえに、剽窃とは盗みのダブルなので強い意味になる。「へぇ~、こんなことばがあるんだ」と驚いたのは三十代半ばだったろうか。よく類義語辞典を引いていた頃だ。ほとんど盗作と同じ意味なのに、なぜわざわざ剽窃という表現を使う必要があるのかと疑問を抱いたのを覚えている。

死語にならずに生き残っている類義語には、それぞれの存在理由がある。盗作でなく剽窃でなければならない理由もある。うまく説明はできないが、単純なコピー&ペーストが盗作で、他人の作品の一説や学説そのものをいかにも自分のオリジナルであるかのように発表するのが剽窃のようである。共通概念は「パクリ」である。

情報は極限まで自由貿易され無償公開されるようになった。もはや何でもありの様相を呈している。したがって、原典の流用であるか変形であるか、インターネットからの引用であるか、はたまた「他に類を見ないオリジナル」なのか、剽窃などではなく偶然の一致であるのか……などを判じることができなくなっている。

いずれにしても、ぼくたちの誰もが「その知識はオリジナル?」と聞かれたら返答に困ってしまう。素性を明らかにできるほど知識が確かではないから、情報源を遡ることははなはだ困難だ。ぼくたちの知のトレーサビリティは、信頼できる無農薬野菜ほど高くはないのである。学んだ引用先も示さず無断で薀蓄を傾けている知識の大部分は、「剽窃だろ?」と迫られれば、素直なぼくなどは「は、はい」と言ってしまいそうだ。

剽窃と疑われたくなければ、固有経験的なオリジナリティを用いなければならない。あるいは、少なくとも誰からどのように知りえたのかの経緯または出典を示すべきだろう。わざわざ知識の起源まで調べることはないし、そんなことをしてもキリがない。ただ、できるかぎり自分がその知識といつどのように出合ったのかという記憶をまさぐってみせるのが良識というものだ。

最後にずばり書いておく。ぼくの知識の大半は剽窃でありパクリである。人の話、書物、マスコミなどからやってきたものである。但し、ぼくの意見と論拠は大部分ぼくに由来するものだと自負している。そして、意見と論拠は他者によって「知識」と呼ばれて誰かに剽窃され、稀に微かに役立ってもらえるのだと思う。人類の知の歴史は剽窃の伝承によって成り立ってきたのである。

棘のあるコミュニケーション

「批判される」の能動形は? ふつうは「批判する」。当たり前だ。否定形は「批判されない」。では、「批判は受けるもの」の反対や逆は? 「批判は受けないもの」? いや、おもしろくない。もう少しひねってみよう。一方的に批判を受けるのではなく、言い返したり反論したり。批判からたいかわす方法もありうる。しかし、とりあえず、「批判は受けるものである。決して受け流してはいけない」と言っておこう。

体を躱したついでに、批判や反論の矢から逃れることはできる。知らん顔したり黙殺したりすればいい。しかし、逃げれば孤立する。さわやかな議論であれ真剣勝負の論争であれ、当事者である間は他者や命題と関わっている。逃げてしまえば、関係は切れる。ひとりぽっちになってしまう。本来コミュニケーションにはとげと毒が内蔵されている。にもかかわらず……というのが今日の話である。


「みんな」とは言わないが、大勢の人たちが錯覚している。親子のコミュニケーションや職場のコミュニケーションについて語る時、そこに和気藹々とした潤滑油のような関係を想定している。辛味よりは甘味成分が圧倒的に多い。フレンドリーで相互理解があって明るい環境。コミュニケーションがまるで3時のおやつのスイーツのような扱われ方なのである。コミュニケーションに「共有化」という原義があることを承知しているが、正しく言うと「意味の共有化」である。このためには、必ずしも批判を抜きにした親密性だけを前提にするわけにはいかない。差し障りのない無難な方法で「意味」を扱うことなどできないのだ。

家庭や行政にあっては、たとえば子育て。職場にあっては、たとえば顧客満足。いずれも人それぞれの意味がある。子育ての意味は当の夫婦と行政の間でイコールではない。顧客満足の意味は社員ごとに微妙にズレているだろうし、売り手と買い手の意味が大いに違っていることは想像に難くない。意味の相違とは意見や価値観の相違にほかならない。互いの対立点や争点を理解することは意味の共有化に向けて欠かせないプロセスであり、単純な賛成・合意の他に批判・反論も経なければならないのである。棘も毒も、嫌味のある表現も、挑発的な態度もコミュニケーションの一部である。これらを骨抜きにしたままで信頼できる人間関係は築けるはずもないだろう。


Aは賛否両論も踏まえたコミュニケーションをごく当たり前だと考え、強弁で毒舌も吐けば大いに共感もする。誰かに批判され反論されても、どの点でそうされているのかをよく傾聴し、必要があれば意見を再構築して再反論も辞さない。要するに、Aは酸いも甘いもあるのがコミュニケーションだと熟知しているのである。

ところが、Bはお友達関係的であることがコミュニケーションの本質だと考えている。意見の相違があっても軽く流して、極力相手に同調しようと努める。こんな等閑なおざりな習慣を繰り返しているうちに、安全地帯のコミュニケーションで満足する。ちょっとでも棘のあることばに過剰反応するようになり、次第に先のAのようなタイプを遠ざけるようになる。このBのようなタイプにAはふつうに接する。むしろ距離を縮めて議論を迫る。しかし、BにとってAはやりにくい存在だ。

Aを敬遠するBは議論の輪に入れず孤立するだろうか。いや、この国の大きな組織では孤立してしまうのは、むしろAのほうだ。残念ながら、コミュニケーションを正常に機能させようとする側がいつも貧乏くじを引く。それでも、言うべきことは言わねばならない。相手に感謝されるか嫌がられるかを天秤にかけるあまり、言うべきことを犠牲にしてはいけないのである。

語句の断章(7) 万端

この歳になるまで、「万端ばんたん」を単独で使った用例にお目にかかったことがない。単独用法があるのかもしれないが、ぼくの知るかぎり、準備万端か用意万端のいずれかである。類義語に「万般ばんぱん」があるが、これも「万般の準備を整える」のように使い、辞書には「万般にわたるご支援」という用例もある。しかし、「万端にわたってお世話になり……」などは見たことも聞いたこともない。「万事」は万般に近く、事柄のすべてを意味する。しかし、万端は事柄だけでなく手段も含んでいそうである。

彼はメールで「万端を排してやり遂げる」と書いた。「そこは万端ではなく、万難だろう。万難を排して、だろう。万難とは困難や障害のことだから、排除したり克服したりする。万端には悪い意味など微塵もない」と指摘した。彼は何かのきっかけで「万端を排す」と覚えてしまったらしいのである。むずかしく考えることなどない。万難は「すべての困難」、万端は「すべてのはし」である。

自分が心得ている慣用句や用法が正しくても、そこに居合わせる自分以外のその他大勢に「あなた、間違っている!」と言われたら、なかなか説得しにくくなる。あまりお利口さんでない人や勘違いしている人たちがいるところでは、辞書を携えているのが望ましい。かく言うぼくも誤用のまま使ったりうろ覚えしたりしていることが時々ある。彼のミスを「他山の石とせねばならない」と思う。この用法はおそらく正しい。

語句の断章(6) 注文

今さら取り上げるまでもなく、〈注文ちゅうもん〉の意味は明々白々である。「カツ丼を注文する」「飲み物の注文を取る(または注文を聞く)」などの用例が示す通り。注文する、注文を取るという段階ではすでに対象が特定されている。カツ丼を注文して親子丼が出てくることはない。なお、飲み物や食べ物だけではなく、希望や条件を注文することもある。この場合、「注文をつける」という使い方をする。注文をあれこれとつけられる側は「小うるさい」という印象を持つ。

宮沢賢治に『注文の多い料理店』という短編がある。客に対して店側から注文がつけられるのだが、それがうまい料理にありつける条件と思いきや、実は客が食材として料理されてしまうという話。

出張先でチェーンの牛丼店に入った。久しぶりだった。そこで目撃したのは「注文の多い客たち」であった。食事時間わずか10分ほどの間に、誰かが「つゆだく」と言い別の誰かが「つゆなし」と注文をつけた。次いで聞こえてきたのは初耳の「タマネギ抜き!」だ。タマネギを抜いたらもはやそれは牛丼とは呼べないのではないか。以前、天丼の店で「上天丼。海苔とシシトウ抜きで」と注文をつけた男がいた。これは並のエビ天丼にエビが一尾トッピングされたものにほかならない。

何でもかんでも小さなニーズに細かく対応することが店のサービス方針になってしまっている。客も客なら、店も店なのである。メニューに載っているものを注文されたら、味加減も含めて自慢のレシピで料理を堂々と出し、客は出されるままに口に運べばいいではないか。牛丼店には望むべくもないが、物分りがよくて融通が利きすぎるのも考えものである。