語句の断章(5) 推敲

書きっぱなしにして胸を張れるほどの文才に恵まれないから、書く行為に続けて文体や表記を整える編集は欠かせない。但し、書くのと同じ視点で編集はおこないがたい。いったん書いた文章を突き放さなければならない。日本語ならまだしも、外国語の場合は徹底的に読み手側に立たねばならない。英文ライティングを生業としていた頃、文体や表記の厳密さに舌を巻いた。千ページに近い分厚いスタイルマニュアルで調べるたびに、よくぞここまで細かく規定するものだと感心した。

〈ウィドウ(widow)〉と〈オーファン(orphan)〉という、見た目に関する禁忌事項がある。ウィドウとは未亡人、オーファンとは孤児のこと。いやはや過激なネーミングである。日本語の「段落の泣き別れ」に近いが、もっと厳しい。ウィドウとは、段落の最終行が次のページの一行目にくる状態である。短い文章だと宙ぶらりんに見える。オーファンには二つある。一つは、ページの最終行が新しい段落の一行目になる状態。もう一つは、ページの最終行が短行になったり段落の最終行が一語だけになったりする場合である。いずれも孤立したように見えて落ち着かないし、可読性も悪い。

上記のことは編集上のルールなので、明快である。しかし、〈推敲すいこう〉と呼ばれる語句の練り直しに決まりきったルールがあるわけではない。作者自らが納得の行くまで表現や語感を研ぎ澄ます。五七五の余裕しかない俳句などにおいては推敲そのものが作品を形成すると言っても過言ではない。先日、古本屋で函に入った立派な『芭蕉全句集』を買った。前後して『日本語の古典』(山口仲美著)を読んでいたら、『奥の細道』にまつわる推敲のエピソードに出くわした。高校の古典の教師に聞かされたか別の本で読んだような記憶がある。

静寂な空間に大舞台を連想させる、「しずかさや岩にしみる蝉の声」が完成するまでの練り直しの過程が紹介されている。最初に「山寺や石にしみつく蝉の声」が詠まれ、次いで「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」と書き直された。これら二作なら自分でも作れそうだと思ってしまう。下の句の「蝉の声」だけ変化していないが、動詞は「しみつく」、「しみこむ」、「しみいる」と変化している。このように比較すると、「しみいる」が絶対のように見えてしまうから不思議である。なお、蝉の種類についてはアブラゼミかニイニイゼミかで論争があったそうだが、岩にしみいるのは「チー……ジー……」と鳴くニイニイゼミだろうという結論のようである。

「文章をチェックしました」よりも「文章を推敲しました」と言われるほうが信頼性が高そうに思える。「すいこう」という音の響きには文章が良くなったという印象が強い。推敲は「僧推月下門」に由来する。中国は唐の時代の賈島かとうという詩人の詩の一句だが、門をすの「推す」を「たたく」にするかどうかで迷っていた。韓愈かんゆの奨めで「推」を「敲」に変えたので、推敲が字句を練ることに用いられるようになったのである。

スタイルや表記の統一はある程度可能だが、こだわり出すと推敲は延々と続く。類語辞典を引いて、類語が三つや四つならいいが、何十とあると困り果てる。推敲は重要な作業ではあるが、語彙以上の表現やこなれ方を欲張ってはいけないのだろう。

語句の断章(4) 安い・安っぽい

ことばは〈差異のネットワーク〉だから、違いを踏まえて複数同時に覚えていくのがいい。一つずつ順番に覚えていくのは効率が悪い。新たな語を学ぶたびに、既知の語の意味を微妙に修正しなければならないからだ。中学英語で“cheap”を教わったときは、品質が劣っているというニュアンスまでは知らず、「安い」と覚えた。高校英語で“reasonable”(お手頃な)や“inexpensive”(低価格の)に出合ってから、“cheap”は「安い」と言うよりも「安っぽい」に近いことを知った。

かつて「安い」と「安っぽい」が同義の時代があった。中学で英語を学んでいた1960年代の前半、日本製品には「安かろう、悪かろう」のイメージがこびりついていた。「安っぽい」は値段は安いが品質も悪い製品を表わす表現であった。長らくの間、安価は高価に対して質的にも劣るというイメージを背負ってきた。

だが、「安い」と「安っぽい」は本質的に同じではない。5段階で言えば、かつてはクラスAに対して、安いはクラスE(=安っぽい)だったが、今ではクラスCやクラスBにまで地位を上げてきた。価格の差ほど品質の差がなくなってきたのである。

低価格で品質に不満がなければ、高価格・高品質が苦戦するのもうなずける。高価格・高品質組は、ステータスとブランド以外に何か訴求点を見つけないと、先行き危うくなるだろう。安っぽさと決別した「安さ」を侮ってはいけないのである。

粉飾するイメージ、言い訳する言語

JRのチケットをネットで買うが、あれを通販とは呼ばないだろう。予約の時点でカード決済するものの、手元には届けてもらえない。出張時に駅で受け取るだけである。注文したものが宅配されるという意味での通販は、最近ほとんど利用していない。ただ一つ、お米だけホームページ経由で買っている。そんなぼくが、デパートに置いてあったチラシを見て、衝動的にオンラインショッピングしてしまった。お買い得そうなワインセレクションである。カード決済はすでに終わっているが、手元に届くのは一カ月以上先だ。

会員登録したついでにメルマガ購読欄にチェックを入れた。それから10日も経たないのに、あれやこれやとメルマガが送られてくる。数えてみたら9通である。読みもせずにさっさと「削除済みアイテム」に落としていったが、件名に釣られて「珍味・小魚詰合せセット」のメルマガを開いてみた。重々わかっていることだが、見出しが注意喚起の必須要件であることを「やっぱり」という思いで確認した次第である。

さて、そのメルマガ情報だ。一つずつ順番に珍味と小魚の写真と文章を追った。そして、カタログなどでよくあることだが、あらためてそのよくあることが奇異に思えてきたのである。北海道産鮭とば、北海道産函館黄金さきいか、国内産ちりめんじゃこ、ししゃも味醂干し、国内産うるめ丸干しの五品が写真で紹介され、それぞれの写真の下に注釈がある。商品個々の特徴はレイアウトの真ん中から下半分のスペースにまとめて書かれている。


個々の写真の下の注釈を見てみよう。鮭とば――「画像は200gです」、さきいか――「画像は250gです」、じゃこ――「画像はイメージです」、ししゃも――「画像はイメージです」、うるめ――「画像は150gです」。いずれも画像に関しての注意書きになっている。「実際は異なりますよ」が暗示されている。

では、実際はどうなのか。鮭とば――200gではなく100g、さきいか――250gではなく125g、じゃことししゃも――実物がイメージとどう違うのか不明、うるめ――150gではなく100g。要するに、写真は実物をカモフラージュしているのである。実際の売り物とは違う写真を見せ、しかも「これらの写真は虚偽です」と種明かしをしている。あまりいい比喩ではないが、超能力者が空中浮遊してみせ、自ら「これはインチキです」と言っているようなものだ。

パソコンやスマートフォンの画面でも「画面ははめ込み」という注がついていることがある。上記の「画像はイメージです」も不可思議で、イメージには日本語で画像という意味もあるから、「画像は画像です」または「イメージはイメージです」と言っているにすぎない。ここで言うイメージとは何なのか。「実物ではないが、実物らしきもの。実物を想像してもらうためのヒントないしは手掛かり」という意味なのだろう。では、なぜ実物通りの写真を見せないのか。これが一つ目の疑問。次に、実物とは異なる写真を掲げておいて、なぜ実物の説明をするのか、つまり、なぜ相容れない要素を同一紙面で見せるのか。これが二つ目の疑問。

一つ目の疑問への答えはこうだ。実物が貧相なのである。だから実物よりもよく見える写真や実物の倍程度増量した写真を見せるのだ。これはイメージの粉飾にほかならない。二つ目の疑問への答え。格好よく見せることはできたが、注釈不在ではクレームをつけられる。だから「本当は違います」と申し添える。次いで、「本当はこうなんです」と実際の量を明かす。嘘をついた瞬間「すみません、ウソでした。本当は……」と告白しているだらしない人間に似て滑稽である。

写真もことばも嘘をつくが、広告においてはイメージの上げ底を文章が釈明することが多い。信頼性に関しては、文章に頼らざるをえないのだ。もっとも、こんなことを指摘し始めると大半の広告は成り立たなくなってしまうのだろう。だが、自動車の広告で写真を見せておきながら、「画像はイメージです」とか「画像はタイヤが四輪です」などはありえない。実物が超小型車でタイヤが二輪だったら、それは自転車であってもよいことになる。珍味・小魚だからと言って大目に見るわけにはいかない。ぼくには、「画像はイメージです」と言われっ放しの「ちりめんじゃこ」と「ししゃも味醂干し」の実物がまったく想像できないのである。だから、そんなものを注文したりはしない。

語句の断章(3) 際

「際立つ」では「きわ」、そして「間際」や「壁際」や「水際」なら「ぎわ」と訓読みする。この漢字を見て「きわ」や「ぎわ」と読んでいると、このように発音していることが不思議に思えてくる。この際という文字、いったいどんな意味なのか。「こざとへん」に「祭」だから、二つの村の人々が祭りに集まるような字源ではないかと類推できる。

「国際」の場合、際を「さい」と音読みする。国際的、国際性、国際力などはどの文脈にあっても、すでに〈きわ〉本来の意味を薄められているようだ。「諸国に関する」という意味に重点が移り、ほとんど万国や世界と同義になってしまっている。

ところで、一般的な感覚では〈きわ〉は何かと何かが接する境目だ。他には「果て」や「限り」という意味もある。このような、限界の様子を表わす点では「マージナル(marginal)」も当たらずとも遠からずである。一時はやったマージナルマンには文化境界的無党派のようなニュアンスがあった。なお、「周縁的しゅうえんてき」と訳すと〈きわ〉から少し離れてしまう。

生え際はえぎわというのがある。上記の定義に従えば、「毛髪とそうでない部分が接する境目」のことだ。あるいは、毛髪の果て、毛髪の尽きるところ。コマーシャルを思い出す。「生え際にプライド、生え際にポリシー」というあれだ。人がどこにプライドを持とうとポリシーを持とうと勝手だし、他人がとやかく言うこともない。つぶやくように疑問を呈するなら、外面そとづらにプライドやポリシーを漂わせるのは戯画っぽくはないか。できれば内面に湛えておいてほしい。

それにしても、毛髪とそうでない部分が接する境目にプライドとポリシーとは、なんて小さくて情けない話なんだろう。

語句の断章(2) 構想

企画を指導していて悩み多いのは〈構想〉の意味を伝えることである。構想というのはあるテーマの全体枠。枠そのものが未来を指向するシナリオであったり過去のリメークであったりする。

構想の中身は空想や想像でできている。空想も想像も「いま目の前にないものを思い描くこと」。但し、空想は脱経験的であるので、自由奔放であり、枠や時間という概念に強く縛られない。他方、想像は基本的には経験を下地にしている。経験したことから何かを思い浮かべようとすることだ。

さて、構想と言うと、漠然と未来を見据えようとしがちである。構想とビジョンは意味的に重なるが、「ビジョンをしっかり持て」と指示すると、どこにもないはずの未来を、たとえば天を仰ぐように見ようとしたり過去や現在から目を逸らそうとしたりしてしまう。どこかから未来を切り取ってくることはできない。過去や現在に知らん顔して未来だけを注視することなどできないのである。

実は、構想とは過去と現在を穴が開くまで見ることなのである。実際に経験したことからの連想なので、この点では空想よりも想像に近い。外や明日ばかり見ようとするのではなく、自分の〈脳内地図〉を見ることである。過去と現在を踏まえて、あるテーマについての願望をスケッチするのだ。過去の省察、現在へのまなざし、そして未来の願望を俯瞰して書き出す。構想とは事実の土台の上に希望のレンガを戦略的に積み上げる作業にほかならない。

構想が全体枠だと言うと、「全体=マクロ的」と考える人がいる。大きなことを考えてから小さなところに落とし込むのだと錯覚する。たとえば、樫の木からどんぐりを導くような感覚。そうではない。どんぐりから樫の木を構想すること自体が全体枠になる。「どんぐりはバーチャルな樫の木である」という発想こそが構想的なのだ。

語句の断章(1) 五色絹布

神社の本殿でよく見かける。賽銭箱の上方に本坪鈴ほんつぼすずがあり、そこから鈴緒すずおが下がっている。鈴緒と一緒に、場合によっては鈴緒の代わりに、五色の布がぶら下がっていることがある。

あの布の名称を知りたくて調べたことがある。わからなかったので、実際に神社で一度尋ねてみた。「さあ?」と首を傾げられた。当事者なのに「さあ?」はないだろう。その一言を最後にそれっきりになっていた。

五色が陰陽五行から来ているのは想像できた。木-青、火-赤、土-黄、ごん-白、水-黒というように五行と五色が感覚対比される。この場合、五色は「ごしき」と呼ぶのが適切である。但し、ぼくがよく見るあの鈴から垂れている布に黒色はない。これら五色の上位に最高色としての紫を置いたため、そのしわ寄せで黒がなくなったらしい。黒を含まない五色は「ごしょく」が妥当だろう。なお、七夕の短冊も青、赤、黄、白、紫の五色を使うのが一般的とされる。

確信とまではいかないが、あの布、どうやら「(鈴緒の)五色布」と呼ばれているらしい。「らしい」というのも変だが、鈴と布を売っているメーカーはそのように呼んでいる。しかし、ぼくは自作の「五色絹布ごしょくけんぷ」が気に入っている。たとえ絹製でなくても、こちらのほうが高貴で雅ではないか。

学校の国語、実社会の国語

いきなりだが、次の二つの段落にお付き合い願いたい。「次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい」という国語の問題ではないのでご安心を。

英語には、「自然」という言葉がある。ネイチュア nature がそれである。このネイチュアにあたる言葉は、日本語では「自然」という他、何も言いようがない。中国語やヨーロッパ語から借り入れたものではない、もともとの日本語をヤマト言葉と呼べば、ヤマト言葉に「自然」を求めても、それは見当たらない。何故、ヤマト言葉に「自然」が発見できないのか。

それは、古代の日本人が、「自然」を人間に対立する一つの物として、対象として捉えていなかったからであろうと思う。自分に対立する一つの物として、意識のうちに確立していなかった「自然」が、一つの名前を持たずに終わったのは当然ではなかろうか。「申す」と「言う」の観念の区別がない所では、その言葉の区別がない。「自然」が一つの対象として確立されなければ、そこにはその名前がない。

上記は大野晋『日本語の年輪』からの引用である。これらの段落の後に続く6つの段落までをテストとして出題したのが、今年の大阪府立高校の国語の入試問題だった。出題文全体を眺めて、「ほほう、中学三年生がこれを読解させられるとは、学校の国語、まずまずレベルを高く設定しているものだ」と感心した。但し、ぼくたちから見れば――表現やスタイルの好みを別とすれば――上記の大野晋の文章は論理的で明快な「標準的日本語」という見立てでなければならない。つまり、中学生なら少々苦労はしても、「標準的社会人」ならさらりと読み込んで当然のテーマと文章である。


ところで、ぼくの研修テキストも大野晋の難易度で書いているつもりなのだが、よく「難しい」と指摘される。高校入試級の国語を難解だと感じるようなら、ちょっと困った話である。ぼくの文章から寸法を測ると、少なからぬ現役の社会人たちが、大野晋の文章を難しいと感じ、取り上げられているテーマになじめなくなっていると推論できそうだ。高校か大学を離れてから「実用的な国語」に親しみすぎたせいか、安直なハウツー本ばかり読んだせいなのかは知らないが、かつて十代半ばのときに試験問題として出題された文章にアレルギー反応を見せる。興味のないテーマを疎ましい難解文として遠ざけ、「もっとやさしく、たとえば小学生新聞の記事のように書いてくれたら読んでもいい」と言いかねない。

ぼくらの大学受験時代、試験問題の花形は小林秀雄や丸山真男だった記憶がある。難しかった。何度読んでもわからなかった。設問に答えられずに半泣きになっていた。十年後に読んでも相変わらずわかりにくかった。この間、文章・テーマともに手ほどき系の本を多読していたから、国語の成長がなかったのだと思う。こんな反省から、二十年前、仕事に直結するだけの実用書を読むのをやめて、アタマを悩ませる書物や骨のある古典に転向する決心をした。するとどうだろう、しばらくすると、小林秀雄がふつうに読めるようになった。

かつて読めなかった文章が読めるというのは、実は当たり前の進化にほかならない。古語辞典片手に謎を解くように取り組んだ古典文学も、その後に学習を積み重ねたわけではないのに、辞典がなくても七、八割がた読めるようになっている。「知の年季」が入った分、ご褒美として推量も働くし文脈に分け入ることもできるようになっている。思考受容器の大きさと文章読解力はおおむね比例する。

実社会の国語にわかりやすさだけを求めるのをやめるべきである。中学生や高校生の時に格闘したはずの難文への挑戦意欲を思い出してみるべきだ。骨抜きされたわかりやすさにうんざりしようではないか。アタマを抱えもせず知的興奮もないような文章ばかりで脳を軟化させてはいけないのである。〈学校の国語>実社会の国語〉という構図は、コミュニケーションにとっても思考力にとってもきわめて危うい状況である。耳をつんざくほど警鐘を鳴らしておいてよい。

“Don’t give up”と「がんばれ」

日本人は何かにつけて「ネバーギブアップ」と言う傾向がある。和製英語ではなく、れっきとした英語(“Never give up!”)だから問題はない。しかし、もう一つ、“Don’t give up!” という表現があるのをご存知だろう。313日付の英国紙 The Independent ではこちらのほうを使っていた。

 “Don’t give up!” ではなく、なぜもっと強そうな語感をもつ “Never give up!” のほうを使わないのかと疑問を呈した知人がいた。この記事の英語を見て、同じような違和感を覚えた人は少なくないかもしれない。

The Independent.jpgこれがその記事である。日本に対しても東北に対しても「ドントギブアップ!」と呼びかけている。これを「がんばれ」と訳したのか、「がんばれ」という日本語を「ドントギブアップ!」に訳したのかはわからない。「がんばれ」についてコメントしたいことがあるが、その前に英語のニュアンスの勉強を少々。

「ドントギブアップ」と「ネバーギブアップ」の違いについて、マーク・ピーターセン著『心にとどく英語』の「英語の時間感覚」という項目の箇所に興味深い記述があるので、少し長いが引用しておこう。

とある日、東京でテニスの試合を観ていたとき、相手の速いサーブに圧倒されていて勝負をあきらめてしまいそうな外国人の選手を励ます掛け声として “Never give up!” というのを聞いて奇妙に感じたことがある。当然、いま頑張っているこの試合を「あきらめちゃいかん! がんばれ!」という励ましのつもりだとは分かったのだが、それなら、英語では “Never give up!” ではなく、“Don’t give up!” と言うのが普通である。“Never give up!” “Never” (=not ever)は、この力強い励ましを一般論にしてしまう。「人生は、やることを最後まであきらめずにやるものだ」と、試合中に言われても、選手の方も困るだろう。

いうまでもなく、never は、「いつであろうと~でない」という意味を表わす時間的表現である。“Never” をここで使ったのは、おそらく強調、つまり「絶対に」といったくらいのつもりだったのだろうが、このごく些細な例は、「時」に対する柔軟性に富む日本語と、「時」に対して神経質な英語とのすれ違いを象徴的に現しているように思えるのである。


“Never” にすると普遍的な教えになってしまうというニュアンスがわかるだろうか。「人生、何があろうとも、未来永劫、あきらめてはいけない」という教訓を、いまこの事態の最中で垂れるのは場違いなのである。直近の苦難を受けてのメッセージ、たとえば「おぞましいほど大変なことがあったけれど、あきらめないで! 応援しているから」という気持ちを速やかに伝えるには、“Don’t” のほうがふさわしい。

ところで、ぼくには「がんばれアレルギー」がある。つい先日も書いたのだが、ことばを失うほど深刻な状態にいる人々に「がんばれ!」などとは言えないのである。幼い子どもがフーフー言いながら階段を上がろうとするとき、「もうちょっとだ! ほら、がんばれ!」などと励ます。しかし、政治家の「がんばろう!」はしっくりこないし、周囲で叫ばれる「明日からがんばります」の声も醒めて聞いている。なぜだろうかと考えたら、「がんばる」と誓う人ほどあまり頑張ってくれず、また他人に「がんばれ」と声を掛けているわりには本人が頑張っていないことがわかった。要するに、「がんばる・がんばれ」があまりにも空虚なスローガンに終わっているのを見過ぎてきたのだ。

少なくとも、英語の “Don’t give up!” はそのまま「あきらめないで」でいいと思う。口癖のように、社交辞令のように、安易に「がんばれ!」と言う舌を慎みたい。では、ぼくがアレルギーになっている「がんばれ」に代えてどんな表現がいいだろうか。残念ながら、オールマイティな適語が思い浮かばない。ただ、「がんばれ」よりも実体がよく見える、志向的なことばを適時適所で使いたいと思っている。

ダジャレの人々

自分ではダジャレの一つも作れないくせに、他人のダジャレを小馬鹿にする連中がいる。しかし、ダジャレ人間を侮ることなかれ。ダジャレを吐くには語彙力がいる。語彙力だけではない。音と状況をかぶらせるためには、膨大な情報を脳内検索せねばならない。語彙力と検索力。少なくとも、ダジャレを小馬鹿にしながらダジャレを作れない者よりは、下手なダジャレを矢継ぎ早に繰り出す者のほうが頭はいい。ぼくはそう考える。

呆れるくらい下手で場を凍らせる人もいるが、ダジャレが出てくる気さくな場に居合わせていることを喜ぼうではないか。ぼく自身はジョーク大好き人間だが、ダジャレの熱心な創作者ではない。ただ、他人が当のダジャレに辿り着くまでの発想過程にはすこぶる強い関心がある。たとえば、数年前のコマーシャルで、唐沢寿明がエレベーター内でつぶやいた「君、コート裏」。これが「足の甲と裏」のダジャレ。その箇所に膏薬を貼れというわけである。

スポンサーか広告スタッフの誰かが膏薬を足の甲と裏に貼ったらすっきりした。これはいいということになり、そのままストレートに表現してもよかった。しかし、別のスタッフが「甲と裏」を何度か口ずさんでいるうちに、「コート裏」を見つけた。ここから「コートを裏に着ている」シチュエーション探しが始まる。コートを裏返しに着ている人物が遠くから見えているよりも、突然見えるほうがいい。いろんな候補からエレベーターが選ばれ、ダジャレを生かすシナリオが書かれた……まあ、こんな誕生秘話だろう。当たらずとも遠からずだと思う。


注目してほしいのは、ダジャレ人間は「ことばの音」を追いかけるという点である。無音の漢字を浮かべてもしかたがなく、同音異義語をアタマの中で響かせる必要がある。同音異義語が多いのが日本語の特徴だが、無尽蔵にあるわけではないから無理やり音合わせをこじつける。ここがウケるか寒くなるかの分岐点だ。ダジャレ、ネーミング、「整いました」のなぞかけ、語呂のいい金言などの底辺には同じ発想の構造がある。

昔、結婚式を「かみだのみ」、披露宴を「かねあつめ」、二次会を「かこあばき」とルビを振って紹介したら、ウケたことがある。神、金、過去が「か」で始まる二文字、続く動詞が三文字、合計五文字となって、別にダジャレでも何でもないが、語呂が合う。どこで仕入れたか読んだか覚えていないが、「結婚とは、男のカネと女のカオの交換である」というのがあった。単純だが、なかなかの切れ味だ。

結婚ネタついでにもう一つ関心したのがある。「最近、家庭内で夫婦病が流行の兆しです。症状は、熱は冷めるのですが、咳(籍)だけは残ります」。世間には結婚があり離婚がある。他にどんな「◯婚」があるか。ことばの演習問題にもなりそうだ。実体のない「空婚くうこん」、結婚式の日から始まる「苦婚くこん」に「耐婚たいこん」。辛いことばかりではない、いつまでも幸せな「甘婚かんこん」も「恋婚れんこん」もあるだろう。

ところで、ダジャレも含め、ことばを遊ぶユーモアを楽しむ集まりを三ヵ月に一度開亭している。その名も〈知遊亭ちゆてい〉。雅号、あるいは笑号と言うべきか、ぼくは「知遊亭粋眼すいげん」を名乗って席主を務めている。昨夜のR-1グランプリを途中から見たが、一度も笑う場面がなかった。あのレベルのピン芸人には負ける気はしない。

言在知成

「イメージとことば」に続く話になりそうである。「なりそう」とはひどい無責任ぶりだが、どこに落ち着くのか、予感の域を出ない。書き始めたいま確かなのは、「言在知成」と書いて「げんありちなり」と読ませる四字熟語が起点になったこと。実は、今日初めて公開するのだが、これはぼくが何年か前に造語したもの。だから、正確には四字の「熟語」などではなく、未成熟という意味で「四字若語よじじゃくご」と呼ぶのがふさわしい(もし言在知成がすでに存在しているのなら、偶然の一致である)。

ことばがあるから、知識も身につくし世の中の様子もわかる。美術の先生が対象を黙って指差して生徒に絵を描かせるのはむずかしい。先生は「今日は自宅からリンゴを二個持ってきたよ。手前と奥に一個ずつ配置するから描いてみなさい」と指示するだろう。イメージ的作業をイメージ的コマンドで動かすには、とてつもないエネルギーを必要とするのだ。だから、口下手なくせに、頭の中でイメージばかり浮かべようとする習性のある人は、あれこれと迷わずに、とりあえず口に出してしまうのがいい。イメージを浮かべてもことばになってくれる保証はないのだから。

「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」。これは意味明快なメッセージ。では、この意味を絵に描いたり、紙や粘土で造形する自信があるだろうか。アートセンスがないのなら、ジャスチャーでもかまわない。試みた瞬間、途方に暮れるに違いない。けれども、悩むことなどない。ワンクッションを置かずに、さっさと言ってしまえばいい。「私はリンゴが好きです。でも、イチゴのほうがもっと好きです」という想いを伝えたければ、ただそう言えばいいのだ。幸いなるかな、ことばを使える者たちよ。


「深めの大振りなカップにコーヒーを淹れてくれた。一口啜った瞬間、体温が二、三度上がったような気がした」。この文章から画像なり動画なりをある程度イメージできる。人それぞれのイメージだろうが、ことばの表現に呼応するかのようにイメージは浮かぶ。しかし、なかなか逆は容易ではない。よほど意識しないかぎり、一杯のコーヒーは見た目通りの一杯のコーヒーである。眼前のコーヒーカップからことばの数珠つなぎをしていくためには、指示や問いのような刺激が不可欠になる。

以上のような話をすると、言語がイメージよりも優位であると主張しているように勘違いされる。ぼくは体験的に言語とイメージの役割を考察しているのであって、優劣など一度だって論じたことはない。以前は、はっきりとイメージ優位・言語劣位の信奉者だった。若い頃は自分のイメージ力、その解像度の質に相当自信があった。浮かんだイメージをことばに翻訳するくらい簡単だと思っていた。ところが、イメージとことばを工程順に位置づけなどできないことがわかってきた。

コミュニケーション理論の本のどこかには、〈A君のイメージ⇒A君による言語化⇒A君の発話(音声)⇒Bさんの聞き取り⇒Bさんの言語理解⇒Bさんのイメージ再生〉などのプロセスがよく書かかれている。A君が何を話そうかとイメージし、最終的にそのイメージと同じようなものをBさん側で再生できればコミュニケーションが成立、というわけである。理論を手順化すれば確かにそうなのだろうが、会話のやりとりはよどみない流れであるから、複数の静止画に分割しても意味がないのである。

話をコミュニケーションから離れて、上記のA君自身における〈イメージ⇒言語化⇒発話〉という部分だけをクローズアップすると、何かが頭に浮かび、それをことばによって伝えるという順が見えてくる。人はこの順番にものを考え話していると、ぼくはずっと思っていた。しかし、今は違う。そんなに都合よくイメージばかりが浮かんでくれるはずがないのだ。それどころか、言語をくするからこそイメージがそこに肉付けされるのだと思う。知の形成の仕上げは言語。ゆえに「言在知成」なのである。