諺のお勉強㊤

長崎の大浦天主堂を訪れてからまもなく2年になる。佐賀で仕事があった。翌日に長崎在住の友人に会う予定のつもりが、友人のお母様が亡くなり急遽キャンセルに。切符とホテルの変更が面倒なので一人旅することにした。高校二年の3月以来の長崎。

天主堂の一室、キリスト教布教とともに日本に定着した11の諺が紹介されている。新約聖書マタイによる福音書由来のことばが多い。ノートにメモしていたので読み返し、ちょっと断想してみた。


新しい酒は新しい革袋に盛れ
ぼくの定番企画研修では「コンセプトとコピー」の章でこれを引用している。新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけない……そんなことをすると袋が張り裂けて酒がほとばしってしまい、袋は使いものにならなくなる。と言うわけで、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるのが正しい。まあ、古風なラベルを貼った年代物のボトルにボジョレーヌーボーを入れたら値打ちがなくなるようなものだ。「新しいコンセプトは新しい表現で包め」というルールを導くエピソードとして気に入っている一言いちげん

風にそよぐあし
「人間は一本の葦であり、自然のうちでもっとも弱いもの。しかし、それは考える葦である」というパスカルの『パンセ』の名言も聖書のこのことばに由来する。葦が群生している場面をじっくり観察したことがないので、そよぐ様子があまりイメージできないが、葦は風の吹くままにそよぐらしい。その姿は他人の言いなりになりがちな人間のようにか弱い。そう言って突き放すのではなく、だからこそ「罪の救いがもたらされる」と結ばれてほっとする。

笛吹けど踊らず
「ノリが悪いなあ」とか「テンション低いなあ」というガッカリ感無きにしもあらず。あれこれと考えて段取りし(うまく演出もしたつもりだが)、居合わせる人たちは誘いに乗ってくれない。打てど響かず、のれんに腕押しに近い心理模様が読み取れる。ところで、ぼくは河内音頭の歌詞も節まわしも好きだが、ライブ演奏に合わせて盆踊りに参加したことがない。みんなが踊り、自分だけが踊らなくても、必ずしも乗り気がないとか誘われ下手とは限らないので、主催者はがっかりしなくてもいいと思う。

人はパンのみにて生くるにあらず
こういうやさしい表現の諺ほど曲解されたり意味が揺れたりする。言うまでもなく、「朝食はパンだけじゃなくてコーヒーも」という意味ではない。ここでのパンは食用としてのパンではなく、モノの象徴である。つまり、物質的満足に生きるのではなく、精神的な拠り所も必要だということ。では、その精神的な拠り所とは? 神のことばである。ぼくはクリスチャンではないので、「神のことば」についてはよくわからない。しかし、ことばに生きるということは常々実感している。

汝の敵を愛せよ
自ら発したり書いたりしたことはない。この諺を見聞きするたびに、言うだけなら容易だとつくづく思う。「悪意をもって自分を迫害する者に対してこそ、慈愛をもって接しなければならない」というのが本意。かなり人間ができていても難しい。米国大統領選を取り巻く状況で敬虔なキリスト教信者らがそうしているようには見えない。ところで、「自分を愛してくれる人を愛することは誰にでもできる」というのがこの前段にあったと思うが、自分を愛してくれる人を愛さなくなったから諸々の問題が生じ、週刊誌がスクープを流すのである。

(㊦に続く)