九月の述懐

「紙一重の差」などと言うが、対戦して仮に10連敗したら、僅差ではなく大差なのではないか。いや、一つの対戦に限れば紙一重の差で、それが10回続いただけと苦しい弁。いったい紙一重とはどのくらいの差なのか……誰も知らない。

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先日、ビストロで食事をした。食後にコーヒーの香りのする熱い白湯が出た。いかに料理がよくても、最後の一杯のコーヒーがお粗末ならリピートしない。店を出てコンビニの100円コーヒーで口直しをされたら屈辱的である。

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九種二貫ずつの刺身の盛り合わせ、850円。「うまい!」の前に「安い!」と迂闊にもつぶやいてしまった。〆に注文したうちわエビの味噌汁が200円。また「安い!」と言いかけて思いとどまる。自ら料理の値打ちを下げてはいけない。「真心のこもりし味覚秋近し」と詠んでお勘定してもらった。

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焙煎のアロマを微風が運ぶ。この季節、窓を少し開けておけばカフェに看板はいらない。
焙煎のアロマを微風に乗せてぼくを誘ったはずなのに、カフェのプレートはまだ“closed”

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自分が使う喋りの技と同じ技でころりと丸め込まれてしまうのが人の常。

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縁があるか縁がないか。あるギョーカイでは「あの人を知っている」と「あの人を知らない」の差は決定的である。だからこそ自ら縁を求める者が後を絶たない。しかし、縁は成り行きに任せるのがいい。縁があればありがたく思い、縁がなければ「縁がなかった」と思えばすむ。縁とはそういう類のものだ。

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ほとんどの民族は文字を発明した。記憶に自信がなかったから。
同じ理由から、人類は付箋紙を発明した。できることなら脳に直接貼り付けたいのだけれど、さすがに無理なので、やむをえず本やノートに貼っている。付箋紙ごときで格段に仕事がはかどったり記憶がよくなったりするはずはないが、付箋紙を貼ろうと意気込めば、見過ごしがちだったものが稀に見えることがある。

注の注の注(reprise)

『注の注の注』と題して一文を書いたことがある。あれから10年が過ぎ、よく似たことがデジャブのように繰り返された。今から書く文章は前の文章とは異なるが、同じテーマなのでrepriseルプリーズ(反復)と「注」のつもりで補った。注の注の注とは、付箋紙に付けた付箋紙に付けた付箋紙……のようなイメージ。

先日再読した本は、一冊のうち本文が3分の1、残りの3分の2が注釈・解説・あとがきという割合だった。全ページが縦書きの二段組みで、上段に本文、下段に脚注という割り付け。脚注を読まずに本文だけ読むとさっぱりわからないので、本文を23行読むたびに脚注を読むという具合。本文をスムーズに読ませようと意図したはずの脚注が、逆に本文の読みを中断させるという構造的問題を抱える書である。

類は友を呼ぶように、注は注を呼ぶ。注のための注が呼び寄せられ、そのまた注も続いてやってくる。いつまでたっても本題に入り込めないもどかしさ。本文という本線から脱線しても、おもしろさや期待感が薄まらないならいいが、そうはならない。説明という迂回は集中力を断線してしまう。


ありそうもない話だが、ふと妙なことを考えた。もしかするとこの本は、最初に注釈が書かれたのではないか……注釈が仕上がってから、それぞれの注釈にふさわしい本文が書き足されたのではないか……と。いや、最初にとりあえず文章を書いてみて、書き終わった後に本文と注釈に仕分けしたのではないか……とも考えた。

ていねいに注を付ける著者には親切でお節介な人が多いのだろう。また、読者便宜ではなく、自分にとって理解しづらい箇所を自分のために補っている人がいるかもしれない。これは翻訳者に多い。哲学書などは先人の知を暗黙の前提にしているため、不案内な読者への補足説明は不可欠になる。とは言え、できるできないにかかわらず、本文で何とか完結させる努力の一端を示してほしいものだ。

注の注の注があるのなら、「まえがきのまえがきのまえがき」も「あとがきのあとがきのあとがき」もありうる。同語を繰り返すのが面倒なら、トリの最後を大トリと呼ぶように、大まえがきや大あとがきと呼べばいい。最後を締めくくる注を大注おおちゅうと名づけよう。大注に辿り着く前におそらく本文読みは挫折しているに違いない。

じれったいジレンマ

二つの事柄が葛藤する様子をジレンマと呼ぶが、実際に葛藤しているのは人の心だ。ある人にとって二つの事柄が相反しているように見えても、別の人には両立する事柄であったりする。たとえば、生活と仕事のジレンマに苦しむ人がいれば、その二つは本来調和するのであって決してジレンマではないと平気な顔して言い放つ人もいる。

誰にでも同じジレンマがあるわけではない。二つの事柄が両立しないのみならず、片方だけでもうまくいかないこともある。思うようにならずイライラする。もどかしい。そう、事柄の問題ではない。ジレンマとはじれったい心理状態にほかならない。

理想と現実は二項対立としてよく語られる。たいてい一致しない。では、理想と現実が葛藤する状態はジレンマなのだろうか。現実を放棄するわけにはいかないから、頭の中のある種の「絵空事」を諦めるか描き直すしかない。理想に現実を近づけるのが難しいと判断すれば、いとも簡単に理想を捨てるのが人の常。では、懐疑と決断はどうか。この二つはジレンマの関係にあると思われる。同時に成り立ちがたく、また、迷ったり疑ったりしていると決心はつかない。他方、決断してしまうとあれでよかったのだろうかと後になって疑心が追いかけてくる。〈?〉と〈!〉の間を行きつ戻りつするのはジレンマだ。


昨今もっとも顕著なジレンマと言えば、”Go to トラベル”だろう。国民に旅してもらって観光を活性化させたい……しかし、新型コロナ感染が恐いのでほどほどに……密は困る、東京の人も困る、東京へ旅するのも困る……いや、ちょっと落ち着いたから、東京も、ま、いいか……。まるで駄々をこねる子どものような政策ではないか。したいとしたくないが葛藤している。

経済と安全、経済と秩序など、そもそも経済は「何か」と折り合わないのが相場である。経済には他の要因を抑え込んで強引に事をすすめていくところがある。経済はわがままな上司に似て、ペアを組んだら言うことを聞くしかない。したがって、コロナ対策と経済のジレンマ関係においては、有無を言わずに経済重視になる。コロナに一喜一憂しないという覚悟だ。いや、安全対策を講じると言うが、マスクと消毒液と人数調整以外に目を見張るような対策はまだない。

経済よりも観光や芸術や文化を優先して持続可能な安定を築いてきた時代や街もある。しかし、観光や芸術や文化もウィルスや病気には勝てない。しばらくはじっと我慢するしかない。我慢を続けられるかどうかは、ポリシーといくばくかの貯金次第。つまり、経済的メリットが出ている時にこそどう振る舞うかが問われるのだ。それはある種の危機管理でもある。

饒舌と手抜きトーク

論理思考は手間がかかる。とことん凝ると、物事をわかりやすくするはずの論理思考が論理主義・・・・へと変貌し、狂信的な様相を呈する。学生時代に熱心に論理学を勉強した結果、自明の事柄を偏執的なまでに証明せねばならないことに辟易した。そして、論理とはくどくて冗長であるという印象だけが強く残った。

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ全3巻』はくどさの最たるものだと専門家に聞いたことがある。手に取ったことがなければ今後もまったく読む気もないが、1+1=2」の証明に至るまでに約700ページを費やしているそうだ。そして、最終巻の最後にようやく実数の存在が証明されるらしい。確かめる気がまったくないので、「そうだ」と「らしい」で許してもらうしかない。


論理的な語りは雄弁の条件の一つだが、饒舌という第一の特徴を見逃してはいけない。ほどほどにしようとしても、饒舌とはすでに抑制がきかなくなっている状態なので、「ほどほどの饒舌」というのがない。では、寡黙な省エネ話者のほうがましかと言えば、いやいや、饒舌以上に厄介な存在なのだ。ことばの過剰は適当に引き算すれば済む。しかし、ことばが不足なら足し算せねばならない。足すのは体力と気力を要する。

省エネ話者による手抜きトークへのわが述懐
そもそも他人の思惑などわからないと思っているし、語られなかったことを推理しようとするほど暇ではない。そんな面倒くさいことはせずに、相手が話したことを真に受けるようにしている。適当に喋ったかタテマエだったかは知ったことではない。語られたことのみを材料にして自分の思いや考えを継いでいく。後日、相手が思い違いだ、錯覚だと言いかねないし、無粋な奴だと思われるかもしれないが、やむをえない。かつて隠れた心理を読もう、ホンネとタテマエを見極めようと苦心したこともあるが、読みも判断もよく間違った。間違いは自分だけの責任じゃないのに……。と言う次第で、話しことばはたいてい額面通りに受け取るようにしている。

さて、語りについてだが、言うべきことや思うところを寄り道せずにストレートにことばにすればいい。しかし、必死に伝えようと意識しすぎると論理に力が入り、やっぱり回りくどくなる。ここで落胆してはいけない。常にとは言わないが、迷ったらことば足らずよりも饒舌を選ぶべきだ。饒舌が過ぎて終わるような人間関係は元々脆弱なのである。寡黙だったらとうの昔に終わっていたはずだ。

包み隠す味の妙

秘密にせず、何もかも見せて明らかにすることを「包み隠さず」と言い、おおむね良いことだとされる。逆が「包み隠す」。他人に知られないように秘密にするのはよろしくない。しかし、素直に読めば、包み隠すとは「包んだ結果、隠れてしまう」とも読めるから、内緒にするという魂胆があるとも言えない。包めば隠れるもので、その類の料理も少なくない。

何かを包めば覆うことになり、隠すつもりはなくても人目には触れない。風呂敷に包んで結んだ手土産は、ほどかないかぎり見えない。同様に、ギョーザの皮で包むとあんは見えない。どんな具材がこねられたのかはわからない。焼きたてをタレにつけて口に放り込んではじめてわかる。いや、何となくわかるだけで、材料をすべて言い当てるのは意外に難しい。

ギョーザもシューマイも中身が見えない。巻き寿司や春巻きもそのままなら中身は見えないが、たいてい断面が見えるように皿に盛られる。巻くというテーマと包むというテーマは似ているようで、実は大いに違っているのだ。巻いたものが見えても不自然ではないが、包んだものが見えてしまっては意味がない。包むというテーマでは、最初から中身が見えなくなることが前提になっている。


誰かが包んだものを口に運ぶ時は中身が見えないし、当然中身を知らない。しかし、包む料理には自分で包むものがあり、その場合は何が入っているかわかって食べることになる。北京ダックはそういう一品だ。北京ダックは高級料理であり、どこの中国料理店でもメニューになっているわけではない。だから、そぎ切りした北京ダックの皮の代わりに、甘味噌で炒めて細切りにした牛肉を包んで食べる。かなりリーズナブルな値段になる。

包むのは甘味噌で炒めた細切りの牛肉、きゅうり、白ネギ。
北京ダックで使う烤鴨餅(カオヤーピン)に具材を乗せる。
カオヤーピンで包む。包んだからには中身ははっきりと見えない。

何を包んだかわかっている。しかし、中身を見ずに口に運ぶ。餅皮と牛肉ときゅうりと白ネギの重なり合いがどんな味に化けるのか、ワクワクする瞬間である。包む料理の醍醐味はここに尽きる。

哲学に〈内包〉という術語がある。「牛肉の細切り甘味噌炒め」で言えば、烤鴨餅で包まれる具という共通概念のことだ。内包には対義語がある。それを〈外延〉という。具という上位概念で済まさずに、いちいち牛肉の細切り、きゅうり、白ネギと具体的に示すこと。包む料理とは、外延的に包んだものを内包的に口に運ぶという哲学的料理にほかならない。

アナロジーの効用

以前、本ブログで『言論について(9)類比・ユーモア・パトス』と題してアナロジー(類比・類推)を取り上げた。その中で紹介した〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉というアナロジーの例の説明がてら話を始めたい。

ABの関係がCDの関係」に似ていたり類比したりできる時、〈A:B=C:D〉という式で表わすことができる。アナロジーの関係ではこの式が成り立つ。上記の〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉は、「発展途上国への経済支援はがん患者にモルヒネを使うようなものだ」と読み下せる。類比した両者をつなぐのは「当面の苦しみ(痛み)には効くが、抜本的解決にはならない」。「何々とかけて何々とときます。そのこころは……」の「こころ」に相当する。なぞかけもアナロジーの一つだ。

つまり、あることをそのことだけで説明してもわかりにくいなら、別の情報をそこに重ねて理解を促そうとする試み。主題〈AB〉に対比させる〈〉は主題よりもわかりやすく身近であることが望ましい。とは言え、難易や親近感は人それぞれだから、アナロジーによる認知過程は誰にとっても同じというわけにはいかない。


模倣したものと模倣されたものもアナロジーの関係を結ぶ。有名なのは「液晶とイカの神経構造」。昔の液晶は軽く触れて押すとイカの表面のように赤くなったり青くなったりしたものだ。実際にイカの内臓を使ったタイプの液晶もあると家電メーカーの研究員に聞いた。液晶はイカの神経構造からインスピレーションを得た、先端技術のアナロジーの例である。

魚釣りの撒き餌とデパ地下の試食もアナロジー。マーケティングのアナロジーだ。撒き餌上手なら魚が釣れる。試食皿を絶妙のタイミングで差し出して一言添えるスーパーの担当者がいる。あのおばさんが売る粗挽きウインナーはほぼ買わされてしまう。他にも、成功する会議と成功する演劇がアナロジーになる。成功要因を探っていくと共通項がとても多いことに気づく。

A:B=C:D〉のような二項類比だけでなく、文章全体をアナロジーの型として見立てることもできる。

「文法」に先立って「言語」が存在し、「言語」は「社会において他者の用いることばを経験することによって習得され、社会の一員としての共通観念によって運用される」。「文法」「言語」の習得と運用の高度化に資する役割を担う。

上記の文法と言語の関係式の型を借りて、法律と生活行動の関係式に書き換えてみよう。

「法律」に先立って「生活行動」が存在し、「生活行動は「社会における他者の習慣を経験することによって見習い、社会の一員としての賢慮良識によって実践される」。「法律」「生活行動」の規律の遵守に資する役割を担う。

アナロジーはすぐれた思考練習になると同時に、わかりやすい表現とは何か、粋な言い回しとは何かについてのヒントを授けてくれる。

小さな気づきや考えごと

かなり古めかしい喫茶店。コーヒーではなく、珈琲と書くのがふさわしい。出てくるまでの間延びした時間は手持ちぶさたの時間。それも珈琲代金の一部。

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森よりも「樹々」がいい。都会でも調達できるから。

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ふれあい、人にやさしい、思いやり、安心・安全などと言っておけば無難。無難であるとは、誰に対しても余計な気遣いや気配りをしなくても済むということだ。

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♪きゅーしん、きゅうしん。♪ひや、ひや、ひやの、ひやーきおーがん。♪大正漢方胃腸薬。♪タケダ、タケダ、タケダ。身近にあるにはにテーマソングがわっている。まさに「常備薬」。

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経験的に言うと、アルコールを飲めない人ほど高くつく。

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よく勉強会をしていた頃、勉強会後に懇親会がくっついていた。いつも同じ場所にしておけば楽なのだが、それでは芸がない。と言うわけで、懇親会の会場をよく下見した。「下見」とは、別名「味見」。

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世間の最近の傾向。暇が増えたのではなく、リスクが高まったのである。

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「うちの親の家とは理想的な『スープがぬるくならない距離』なんですよ」
「それを言うなら『スープがさめない距離』でしょう?」
「あ、うちのは冷製スープですから」

現実と願望のはざまで

あれもこれもしてみたい、しかしやり遂げるにはいくつものハードルがある、ハードルは現在進行形の現実にある、ハードルのすべてを越えるのは容易ではない……。

では、願望を諦めるのか。目の前の現実は願望もかなわないほど頑強だというわけか。現実と願望が凌ぎ合う、そして往々にして現実受容という折り合いをつける、それで、何かが変わることは稀だ。そうと知りながら、やっぱり現実はじめにありきなのか。

一億総評論家時代、現状の様子を窺うばかり。プロは少しは分析するが、素人は見てるだけ。見てるだけで直感的に語り始める。問題の解決は先送りされる。分析と観察は解決への入口ではあるが、扉を開けなければ解決には到らない。


分析の主な対象に原因と結果がある。数多くの原因から数多くの結果が生まれるので、そう簡単に因果関係を突き止めることはできない。ある部族が酋長の指示に従って雨乞いの踊りをすると百発百中で雨が降るという話があった。踊れば必ず雨が降るのである。なぜなら雨が降るまで踊り続けるからだ。このように、原因と結果の関係では、結果に合うように好みの原因をこじつけることができる。

精細に分析しても原因と結果を正確に捉えることはできない。つまり、現実の中に未来のヒントがあるにしても、問題解決のための処方箋が見つかるとはかぎらないのだ。問題を解決するエネルギー源として願望が欠かせない。こうあってほしい、できたらいいという熱量が創意工夫を突き動かし、構想を育む。

しばし現実を棚上げして構想に向かう環境が整っても、試練が待ち構える。構想の芽を摘むのに物理的な力はいらない。現実に直面している諸条件のフィルターを次から次へとかければ事足りる。もっと言えば、構想が潰れるまでとことんケチをつければいいのだ。時間を費やせば費やすほど、新しいアイデアは却下される。そして、誰もが満足していない現状が長らえていくのである。

「素地」のその前

「素」という漢字が単独でいきなり出てきたら、何と読めばいいのか戸惑う。「す」か「そ」かと推し量るしかない。しかし、「素」はおおむね熟語として使われるので、必然読み方が決まる。「素のまま」なら「すのまま」だ。そうそう、「もと」とも読む。味の素を筆頭に、炒飯の素、わかめご飯の素、冷や汁の素などがある。

関西ではかけうどんを「うどん」と言う。うどんに具を加えないという特徴を現している。素うどんは料理の名。茹でたうどんに出汁をかけるだけで何も足さない。とは言え、薄いかまぼことネギくらいはあしらってある。素を「そう」と読ませるのは全国区の素麺。うどんも素麺も素朴な食べ物であって、高級感を引き算するのが常。

素に近いのが「」。顔や肌と言うだけでは化粧しているかしていないかわからないが、素顔や素肌と言えば何も足していない。加齢しているから、生まれつきのままとは言いづらいが、うどんでたとえるなら「打ちたての生地のまま」というところか。ともあれ、素と地が一つになって「素地」が生まれた。壁は素地が肝心、学問や芸事は素地次第、商売は素地がすべて……などと並べてみると、基礎や基本や原初などの意味が浮かび上がる。


運よく素地に辿り着いたとして、そこで満足せずに、その素地の前にはどんな素地があったのかと考えるむきもあるだろう。「始まり」があるのなら、始まりの前があったはずだ。しかし、そんなことは誰にもわからない。わからないから定義によって意味を限定して妥協する。『ギリシア文明の素地』を学者が著したら、その学者が遡ったところまでが素地なのだ。その素地の素地が何かまで詮索してもキリがない。

「水が原初である」などという説は世界中にある。「万物の根源は水」と説いたのは、ソクラテス以前の哲学者タレス(紀元前625年~547年頃)。根源が水というのは説であって確証ではないが、考えても答えが出ないテーマを探究するという哲学がここに生まれた。素地の素地のそのまた素地を知りたければ研究すればいいが、「宇宙が素地の起源だ」という結論だとがっかりする。そこまで辿るなら自分でもできる。。

ある小説家――たとえばリルケやカフカ――の影響を強く受けたとしても、そこには自分の個性や考えの型や経験が入り混じる。そういう自分色を首尾よく脱色することができれば、おそらくリルケやカフカの素地が現われてくるのだろう。しかし、どんなに頑張っても人間の素地は判別しづらい。うどんの生地を突き止めるようなわけにはいかない。素地はわからない。わからない素地のその前に遡ることに意味があるとは思えない。