諺のお勉強㊦

キリスト教とともに日本に伝わり定着した諺。大浦天主堂で拾った聖書由来のなじみのことば、その続き。


狭き門
聖書の前にアンドレ・ジイドの小説で知った。狭き門ならさぞかし通りにくそうだとおおよそ見当がつく。「狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し」。救いへの道、天国への道は困難を覚悟しなければならない。
ある局面で難易二つの選択肢がある時、易しい方法を選びたくなるのが人情だが、それではいつまで経っても成長しない。長い目で見れば、分かりやすそうでも理解できたとは言えず、分かりにくいけれどいずれ理解への道が開かれる。読書などその最たるもの。

求めよ、さらば与えられん
この後に「探せよ、さらば見つからん。叩けよ、さらば開かれん」が続く。求めても小遣いが増えなかった、何日かかっても探し物は出てこなかった、叩いてもトイレのドアは開かれなかった……等々の経験、数知れず。結果はともかく、
解決の可能性としては、何もしないよりは求めて探して叩くほうに賭けてみたいと思う。
あんぐりと口を開けて餌が与えられるのを待つのを許されるのは雛だけ。成人なら自ら取りに行かねばならない。引きこもっているよりは散歩しているほうが少なくとも気分はいい。

目から鱗
十数年程前まで、てっきりわが国で生まれた諺だと思っていて、調べもしなかった。「鱗」という一字のせいである。「地に倒れ目が見えなくなっていたサウロに、使いのアナニヤが目が見えるようになるという主イエスのメッセージを伝えると、目から鱗のようなものが落ちた」というエピソードに由来する。
そこに正解や発見やヒントがあるのに気づかないのは、遮っている何かがあるから。その何かとは、実は己の目に張り付いた鱗。別名、「固定観念」。ところで、「目から鱗が落ちた」と目をパチクリさせるわりには、翌日に大きく変わる人はそんなにいない。

働かざる者食うべからず
働きたいけれど、職がなかったり病気していたりして働けないことと、働けるのに働かないことを分けておかねばならない。ただ、働かざる者であっても、目の前で腹を空かして泣きついてきたら知らん顔はしづらい。一般的な善人の、見て見ぬ振りできぬ弱みにつけ込んでくるしたたかなズルが後を絶たない。無為徒食や放蕩三昧を戒めるいい方法がことば以外にあるのだろうか。

豚に真珠
「神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたに噛みついてくるだろう」という話が〈山上さんじょう垂訓すいくん〉の一つとして出てくる。いま、ペットとしての犬、ありがたい食材としての豚を思えば、時代は変わったと言わざるをえない。
価値は人が決めるものなので、ある人にとって値打ちがあっても別の人にとっては無価値ということはよくある。いろんなケースがあるので、「豚に真珠」という諺一つに一般化できそうもない。したがって、スパゲッティは食べるがピザに見向きもしないA子には「A子にピザ」、旅行嫌いのB男に対しては「B男にGo To 割引」などとカスタマイズするのがよい。

砂上の楼閣
「砂の上に家を建てても、雨が降ったり川が溢れたりすると形を成さなくなる」に由来。国宝として残っている楼閣は何度か見ているが、たしかにどの楼閣も砂の上には建っていなかった。見た目が立派でも基礎がいい加減ならダメという戒めだ。有名料亭や旅館に「○○楼()」や「□□閣」が多いが、いかにも立派そうな雰囲気が漂っている。基礎がどうなっているのかチェックしたいのは山々だが、散財するので行くことはない。

(了)