今時のことば感覚

つい先日、あるテレビコマーシャルを初めて見た。「今はやめてよ、アポなし頭痛!」というのがそれ。頭痛は突然やってくるから、元来アポなしである。アポあり頭痛があったら気持ち悪い。だから「今はやめてよ、頭痛」でいい。「アポなし」を思いついたコピーライターがひとり悦に入り、「それいい!」と周囲が同調した様子が見えてくる。

よく練られたキャッチコピーほど一つのことばが感覚を研ぎ澄ます。しかし、調子に乗ってことばの力に頼りすぎると、アポなし頭痛のような意味なき駄作になってしまう。取って付けたようなことばはデジタル部品のようなもので、イメージや感覚の凹凸を奪うのである。

ことば遊びというのは文脈から切り離すと面白味が消えてしまう。たとえナンセンスでも、唐突ではなく、その場や状況とうまく絡むことがポイント。目の前に鰹のタタキがないのに「親のかたき、鰹のタタキ」と言っても不発である。鰹のタタキを注文するリアル場面があってこそ成り立つことば遊びだ。


イメージを思い浮かべるのはたいせつだが、思いつきだけではことばに切れ味は生まれない。計算も求められるのだ。

気に入っている都々逸があり、それを計算式にしたのが上の図だ。ちなみに、都々逸は「七七七五」でできている。4つのハートから3つの壊れたハートを引き算すれば答えは何?

〽 惚れた数から振られた数を 引けば女房が残るだけ

いやあ、目の付け所が粋である。行間がある。意味が深い。すべての愛妻家はやむをえずそうなったのだろう。都々逸のほか川柳や狂歌もそうだが、いい作品では表現が計算され尽くされている。


とある行政の夏のイベント告知の案内に「この夏、○○川に出掛けませんか?」と書いてあった。誘ってはいても不特定多数への平凡な呼びかけに過ぎず、キャッチコピーとして物足りない。「出掛けませんか?」は悠長だし、そんないざないでは距離感が生まれる。まるで他人事だ。

もし「○○川の夕涼み散策」がテーマなら、「出掛けませんか?」では訴求不十分である。しかし、「夕暮れどき、○○川の岸辺のそよ風はすでに秋」と書けば、これも不特定多数向けのコピーには違いないが、新しい情報が提供されることになる。

ありふれた名詞の羅列だけでも十分に新鮮に響くことがある。「浴衣とうちわと○○川」と並べ、わざと動詞を抜く。どうなるか、どうするかは自分で想像してもらう。このほうがスマートに物語を暗示できるのである。飛んだり跳ねたりするだけがキャッチコピーの作法ではない。