使用頻度の高い語句には認識の油断が生じる。「観察」もそんな語句だ。観察ということばを使う時、「○○を観察する」というふうに注意は対象に向く。しかし、観察者自身のこと、たとえば観察者の立ち位置などには注意が向かず、また意識も薄い。
『新明解国語辞典』によれば、観察とは「そのものがどうなるか、どういう状態であるかありのままの姿を、注意して見ること」。「ありのまま」とは何だろう? 念のために「ありのまま」の項を見ると、「何の粉飾もせず、実情のままであること」と書いてある。今度は「実情のまま」がよくわからない。
新明解は「観察眼」も取り上げていて、「うっかり見のがすようなところをも、見落とすことなく正しく見る力」と説明している。この「正しく見る」がまた、悩ましい。
ありのまま、実情のまま、正しく見る……こう言い放つのは簡単だが、いま目の前にあるコーヒーカップをどう観察すればありのままに見たことになるのか。あるいは、このコーヒーの味をどう感じた時に本来の味として正しく飲めたことになるのか。
「テーブルの上に3個のリンゴがある」と言えば、実情のまま観察しているかのように思える。しかし、それは数字の「3個」についての正しさであって、テーブルやリンゴについてはありのまま、実情のまま、正しく見ているという保証はない。現実と観察の間には誤差があるのだ。誤差とは個人差であり、個性の違いにほかならない。ゆえに、対象は観察者によって変わる。
対象を観察したデータは、観察時の視線の角度や光によって変化する。何よりも観察者自身の存在がデータを変えてしまう。観察環境がつねに一定などということはありえない。
ところで、桜の標本木を決め、つぼみの状態を毎日観察して開花を宣言をする習わしがある。気象や植物の科学に基づいているとは言いいがたい。標本とされた桜は任意に選ばれたのであり、観察者がチェックして「桜が咲いた」と解釈し「開花しました」と表現しているにすぎない。開花の観察と宣言とは、科学的と言うよりも文学的と言うべきではないか。