木にもあらず草にもあらぬ竹のよの端にわが身はなりぬべらなり
(『古今和歌集 』詠み人知らず)
「木でもないし、草でもない竹。わが身は、その節と節の間の中身のない端切れのようになってしまった」という意。空洞にもいいところがあるから、そこまで嘆かなくてもいいのに。それにしても、素材としての竹の力強さと柔軟さが生み出す造形美は他に類を見ない。その竹を木や草と呼ぶことにはたしかに抵抗がある。林に残ったままでも、切り出されて細工を施されても、竹は竹だ。
舌はキエフまでも連れて行く。
(『世界の故事名言ことわざ』)
ロシア正教の総本山だったキエフはよく知られていた。そこを目指す者は、道を知らずとも、出合う人に訊ねながら行けば無事に着けたのである。「舌」はことばや会話の比喩。某侵略軍がキエフに行けなかったのは不幸中の幸い。
徐々に空間を埋めていく快感は誰しも少なからず体験していることだろう。コレクションなども、すべて集め尽くさないと気が済まなくなる。一種の隙間恐怖症だ。
(松田行正『眼の冒険――デザインの道具箱』)
ジグゾーパズル熱もコンプリート願望も隙間恐怖症である。そう言えば、本棚が一段空いていたりするとぼくは落ち着かなくなり、古本を買ってきては並べる。オフィスの観葉植物も、置き場所を埋めていくうちに50鉢になった。そうか、病気だったのか。
唯一の証拠は、自分の骨身に沁み込んだ直感的な無言の異議申し立て、つまりは、今の生活状況の耐えがたいものであり、前はそうではなかったに違いないという本能的な感覚より他にない。
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)
「フェイクだ、信用できない」と他人がほざこうとも、自分自身が――自分の肉体が――何もかも知っているのだ。ぼく自身とぼく自身の差異の感覚が、ぼくが信じてやまない証拠である。
「汝がうちに汝の心あり、また汝がまわりにかくも多くの星と花と鳥あるとき、何の故の書物ぞや」というアシジの聖者の言葉が時として美しく思われる(……)
(桑原武夫「書物について」; 日本の名随筆『古書』より)
アシジを訪れたことがある。2001年3月のこと。この地で13世紀にカトリック教会を開いた修道士、聖フランチェスコへのオマージュだった。本や読書の前に、自分を見よ、自分を取り巻く自然に気づこう……このイタリアの守護聖人がそう告げている。漫然と本を読んでいる場合ではないと思うことが、時々ある。