最近あまり本が読めていない。正しく言うと、未読の本と新着の本が読めていない。空き時間に拾い読みする本はほとんどが以前読んだものばかり。負け惜しみで言うのではないが、一冊の本を一度だけ完読するよりも同じ本を何度か拾い読みするほうが気づきが多いような気がする。一見よりもリピーターのほうが店の料理の諸々によく気づくように。
📖 『橄欖の小枝 芸術論集』 辻邦生
この種の論集では、本の題名と同じエッセイが本文のどこかで綴られているものだが、見当たらない。最後の最後に見つけた。題はあとがきに付けられていたのである。
私がはじめて橄欖の林を見たのは、一九五九年夏にイタリアの南端ブリンディシ港から船でギリシアに渡ったときでした。(……)
橄欖はギリシアでは聖なる樹木であり、その小枝は平和の象徴でした。それは、高貴な古典的な作品を生みだした古代ギリシアの風土に似つかわしい、気品に満ちた、偉大な象徴でした。(……)
橄欖の小枝は(……)二重の意味として考えることができるでしょう。一つは芸術家の内面の闘争の激しさへの暗示として、もう一つは激情を浄化した高らかな歌として。
二十年前、南イタリアの旅行中にブリンディシを経由したことがある。ブリンディシはアドリア海に面し、その先にギリシアがある。港は港でもぼくが経由したのは空港で、ローマ行きだった。ところで、この一文を読んでから、オフィスで育てている鉢植えの小さなオリーブの木に変化が生じた。ギリシアや芸術や歌のイメージが浮かび上がったのではない。他のグリーンと一線を画する存在としのイメージが浮かび上がったのだ。
文章以上に凝っているのが装幀である。本を保護する函が二つ。ダンボール色の「スルー型」の函が外函。そこから濃いグリーンの「スリップ型」の函が出てくる。箔押しされた白い本がそこに入っている。こんな本を手にしてしまうと、書物の文化性の大半を失っている電子書籍に頼りなさを覚える。一冊の本の部位には何十という専門的な名称が付いている。名称は長年培ってきた文化にほかならない。
📖 『パンセ』 パスカル
『橄欖の小枝』のすぐ上の棚に、これまで折に触れて引用してきた文庫本の『パンセ』がある。あるアイデアを思いついたのに、メモしなかったために記憶から消えたのが数日前。その時の思いとそっくりなことを断章の三七〇番にパスカルがすでに書いている。
(……)逃げてしまった考え、私はそれを書きとめたかったのだ。その代わりに、「それが私から逃げてしまった」と書く。
考えそのものを書かないといけなかったのに、「考えを書けなかった」と書く情けなさ。「さっきまで覚えていたのに、いまこうして書こうとしたらすっかり忘れてしまっている」と書くことにも意味があると思うしかない。日記のその日の天気もそれに近い。何も書くことがないけれど、日記の習慣を続け、そこに意味を持たせるために「○月○日 晴れ」とわざわざ書いたのに違いない。