大大阪という時代

かつて大阪が「大大阪だいおおさか」と呼ばれた時代があった。大正末期から昭和初期にかけての頃である。そう誰かが命名したのだろうが、当時の人々も自ら生活する街をこぞってそう呼んだのである。戦後の高度成長時代と比べても遜色ない繁栄ぶりがうかがえる。その昔、父親から聞いた話だが、昭和一桁時代に「一圓」あれば、二、三人で通天閣あたりに行って芝居を見て晩飯にご馳走が食べられたらしい。

その通天閣、かつての威風堂々の雰囲気はすっかりくすぶってしまい、おまけに同じ地域にハルカスが誕生して俯瞰的にもかすんでしまった。地上に降りれば観光客で賑わってはいる。けれども、ぼくの少年時代からのイメージは、土地柄とも相まって、通天閣は垢抜けしない存在であり続けている。庶民的ではあるが、その姿も周辺の飲食店も場末感が強く、しかも風紀的にも好ましい印象からはほど遠い。

通天閣 歡樂の大阪 十里一望を標榜せる新世界の通天閣

『大大阪「絵はがき集」』が手元にある。大阪に華があった当時の勢いを示す写真24景が原色のまま収められている。もちろん通天閣は24景の一つで、「歡樂の大阪 十里一望を標榜せる新世界の通天閣」という一文が添えられている。誰かが言っていた、「スマートな東京タワーに比べたら、通天閣はコテコテ。えらい違いや!」と。通天閣を設計したのは内藤多仲だが、驚いてはいけない。「塔博士」と称せられた内藤、実は東京タワーの設計者でもあるのだ。


大阪大好き大阪人もいる。しかし、大大阪時代の誇らしげな心情が100パーセント残っているなどと言い切る自信はない。「やっぱ大阪好きやねん」と言いながらも、大半の大阪人の内には二律背反的な価値観が潜んでいる。自画自賛する一方で、自虐的であったりする。観光客が大阪城や通天閣に詰めかけるのを見てあほらしいと薄ら笑いを浮かべ、ミナミなどは怪しいディープな匂いがするなどと貶されると、「気さくでフレンドリーなんや!」と意固地になって反論する。

絵はがき集の冒頭で橋爪紳也が大大阪時代のことを次のように書いている。

大阪は「水の都」の愛称を得る。「東洋のベニス」と呼ばれた都市の中之島には、パリを想起させる美しい公園が整備され、市民の憩いの場に変容する(……)「煙の都」という異名ももらう。東洋のマンチェスター(……)

引用はこのくらいでいいだろう。東洋のベニスの中にパリの公園があって、ちょっと離れるとマンチェスターのような工場地帯が乱立していたのが大大阪時代なのであった。いったいここはどこ、ベニス? パリ? マンチェスター? 観光客が増えたと手放しで喜ぶ向きもあるが、何のことはない、大阪のアイデンティティの乱れは今に始まったものではないのである。カオスを個性とする現代の大阪は大大阪時代からのDNAをちゃんと受け継いでいるかのようだ。「幸か不幸か」と付け加えざるをえないが……。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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