ことばの扱い一つが社会の文脈の中で決定的になることがある。軽い発言が思わぬ波紋を広げたり、表現が誤解されて致命傷になったりする。対話では、双方が織り成す文脈において、議論が合意に向かおうが対立に向かおうが、波長を合わせる努力は欠かせない。何についてどう感じているのか、そして何を言うのかに怠慢であってはならないのである。
なにも社会的文脈などと大仰に構えることもない。もっと身近な日々の生活、たわいもないやりとりの中でも実感する。ロジックということばを持ち出したりすると、難しい話だと思われるが、即興の会話の中でも底辺にロジックが横たわる。きみがそう言うからぼくがこう応じ、ぼくがこう応じたからきみが次にこう言う……というのは、最初の発言が前提となってつながる様子そのものではないか。即興とは特殊であり、一回きりのものである。相手が誰であるかに構わずいつでもどこでも同じことを言うのはアルゴリズムであって、そんなものは文脈を読まない音声合成マシーンか、社交辞令好きに任せておけばいい。
もっとわかりやすく言えば、相手のことばを今まさに生まれ出たことばとして取り扱わねば、自分が発することばにも〈いのち〉がこもらないのである。若者に「きみには尊敬する人がいるか?」と尋ねたら、彼は「人生、出合う人はみんな師です」と答えた。そんなことを聞いてはいない。そんな答えを返されると、それ以上ことばを継げないではないか。「尊敬する人ですか。ええ、いますよ」「それは誰?」「吉田兼好です」「へぇ、渋いところに行くねぇ。それは、またどうして?」……という具合にロジックが通ってほしい。
二十数年前になるだろうか、大阪の郊外に住んでいた頃の話。地下鉄からJRに電車を乗り継ぐ時に焼鳥屋に寄ることがあった。場末ということばがぴったりの路地裏の店である。一度目は店主の手際のよい仕事ぶりが印象に残った。二度目にはその手際の良さが客とのやりとりの中から生まれていることに気づいた。
ある客が「キモと皮を一本ずつ」と注文する。店主は間髪を入れずに返事しない。絶妙の間があって、「キモはタレですか、塩ですか?」と聞く。客が「タレ!」と発し、次いで「皮はタレですか、塩ですか?」とつなぎ、客が「塩!」と答える。三種類注文すれば、三回聞き返されるのである。
店主は「手羽はタレ? 塩?」などと手抜きせず、相手が常連なのに「手羽は塩ですか、タレですか?」とていねいに聞く。常連もちゃんと心得ている。「塩でお願いします」などと野暮は言わず、まるで合図のように「塩!」と威勢よく答える。「せせりはタレですか、塩ですか?」「塩!」……ト書きを省いて書けばこんな具合になる。これをぼくはロジックと表現したまでである。そう、ロジックにはリズムがあるのだ。
ある日、「ロジック崩し」をしたくてたまらなくなった。タイミングを狂わせたり、ことばをオーバーラップさせたりという程度のお茶目ではない。「ハートとキモ一本ずつ。ハートは塩、キモはタレで」と一人で完結するという暴挙に出たのである。店主はぼくに視線を投げ、うつろなまなざしのままフリーズした。その後の店主の調子はいつもとは違った。ロジックの崩れかたはぼくの想像以上であった。ロジックはたぶん折れたのだった。そして、その日がこの店にお邪魔した最後の日となった。