心と言葉と

漢字の「言葉」を使うことはめったにない。若い頃に何かの拍子に刷り込まれてしまったのか、言葉と書くと「ことのは」という響きとともに情念が勝るように感じてしまう。思惑に反して文脈の情念が強くなりそうな時、「ことば」と書き表わすか、いっそのこと「言語」と言い換えるようにしている。ここでは敢えて漢字の「言葉」を使う。理由は簡単で、近くの寺院の今月前半の標語「心病むとき言葉が乱れる」を引用して文を綴るからである。実物は達筆でふるわれていたが、ここでは文意に則して書体に「ゆらぎ」を加えてみた。

心病むとき言葉が乱れる

命題の形をとる標語である。命題には証明がつきもので、こういう形式に出くわすたびに真偽のほどをチェックしたくなる。命題「AならばBである」の是非を考え始めたものの、行き詰まったり堂々巡りしたりして判然としない時に、いい方法がある。命題の対偶から眺め直して検討するのである。「AならばBである」の対偶は「BでないならばAではない」だ。したがって、「心病むとき言葉が乱れる」の対偶は「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」である。命題が真ならその対偶も真という論理法則があるので、対偶が真なら命題も真ということになる。

ところで、命題の証明に先立って術語の定義を明確にしなければならない。法律ではないが、証明にあたって気配りすべき暗黙の約束事だ。現場ではなく机上で物事を考えるなら、個々の語の意味を疎かにしてはいけない。しかし、この標語では定義すべきキーワードは「心」、「病む」、「言葉」、「乱れる」と手強いものばかり。しかも、短文命題であるから、用語の意味を明らかにすることと命題を証明することがほぼ同じになってしまいそうである。と言うわけで、回りくどく書いてきたが、対偶や定義から考えるのを諦めて、標語通り素直に「心が病む⇒言葉が乱れる」を検証することにした。


〔心病む〕
心とは厄介な概念である。心がどこにあるかについてはいろんな見解がある。「きみ、心の問題だよ」と言って胸のあたりを指差す人がいるが、そこにあるだろうと想像できるのは乳房か心臓である。まさか〈乳房イコール心〉や〈心臓イコール心〉はありそうもない。しかし、もしその人が指差しもせずに「心はね……」と言うなら、この心のありかはいったいどこなのだろうか。現在、最も有力なのは〈心イコール脳〉であり、ぼくも同意する。心とは脳の神経機能や作用の内的現象的な捉え方(表現)という見方だ。したがって、心病むというのは、脳の神経機能や作用が健全でない状態を意味する。

〔言葉が乱れる〕
脳が演出した心がそんな状態にあったとしても、もしきちんと書かれた原稿を棒読みしていれば、一応言葉は乱れていないように聞こえる。では、きちんと書かれたとは何か。それは、規範文法上不適切な言葉の使い方や誤用が見当たらないということだ。だが、寺院の今月の標語が規範文法に照らして言葉の乱れを指摘しているはずもない。おそらくもっと単純な辻褄の合わない言葉遣いや論理療法的な意味での思考表現のズレに近いと思われる。つまり、言っていることが考えや現実に一致していない場合のことである。こんな場合、言葉は曖昧になり、極端になり、過激になり、粗野になり、乱暴になる。

〔心と言葉〕
心を脳だとすれば――そして、それが健常でないならば――感じることや考えること、さらには現実を観察し認識するなどの処理は困難になる。言語はそんな処理に欠かせないから、言葉の用い方にも乱れが生じる。言語を司る脳が病んでいるのなら、言語を乱れなく司ることができなくなるのは当然である。ここに到って、「心病むとき言葉が乱れる」は類語反復であることが分かる。ついでに対偶である「言葉が乱れていないとき心は病んでいない」に戻ってみよう。常識的には成り立っていそうだが、一つ条件を付けなければならない。それは、その言葉が誰かに強制されたものではなく、自発的に用いられていることだ。この条件が担保されるなら、この類語反復標語はどうやら真らしいと言えるだろう。

最後になって書くのも気が引けるが、心が病んでいるとか言葉が乱れているとかを判断し指摘するのは、自分自身ではなく、他人である。そう判断し指摘する他人が「心病み言葉が乱れている人」ならば、心や言葉のありようについて、ぼくたちはその真相をどのように知ることができるのだろうか。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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