「斜語録」の愉しみ

手帳サイズのノートに「採集したことば」を記録している。そんなメモがノートの約5分の1 を占める。ほとんどがおもしろおかしい表現や変な日本語、時々粋な言い回し。単純に愉しいから続いている習慣だ。ごく稀だが、たった一つの単語や一文を取り込むだけなのに目からウロコが落ちることがあり、大袈裟な言い方をすると、思考の地場が動くことさえある。仕事柄、新しいコンセプトを新しい表現で包み込まねばならないから、造語やネーミングのメモもかなりある。一部のメモを元に、昨年4月までは本ブログで〈語句の断章〉と題して20編を書き下ろした。

ところで、あるテーマについて考えていると、結局ことばについて考えていることに気づく。ぼくにはことばに自分の経験と解釈を重ね合わせて思い巡らす傾向があるようだ。本を読んだり、どこかに出掛けて誰かと話をしたりする。そのつど、ことばとことばに関する話を手を加えずに拾い、一部脚色したり仮構したりして書き留める。ある時は真面目に、また別の時にはふざけて(たとえば、権威ある辞書の語釈に異議申し立てしたり)。ノートには在庫がどんどん増える。長文を綴るに値するものはないが、在庫を捌きたいという思いがある。それが〈語句の断章〉だった。

岡野勝志の斜語録

さて、そういう思いを形にするのは簡単だが、〈語句の断章〉に代えて今度は何と呼ぼうか。ビアスにあやかって〈悪魔のランダム辞典〉とでも称するかと考えたが、二番煎じにして短絡的である。それに、必ずしも正統定義に対する逆説定義ばかりでもない。あれこれと思案した挙句、正語録という定立に対する、少々謙遜気味の反定立として〈斜語録しゃごろく〉なる造語に辿り着いた。うん、これはいい、と一人にんまりしている。


古今東西、人はモノを遊び道具とし、モノで遊びに興じてきた。しかし、どんなモノにも負けないほど遊びの対象となり、また遊びのきっかけを提供してきたのが、おそらくことばだろう。ことばで遊んできたのが人類だ。おそらく、モノの融通性に比べて、ことばが圧倒的に万能であり変幻自在に遊べたからと思われる。ことばは多義であり、そこに個人の思い入れも反映されるから、際限なく遊びの想像を広げてくれるのである。

「ことば遊び」という言い方があるが、敢えてそう言わなくてもいい。深遠な思考と切り離した次元でいい、ことばそのものの意味を探ったり軽妙に扱ったりすることが、すでにことばを遊んでいることにほかならない。つまり、日常的にぼくたちが生活や仕事の場面で聞き、読み、語り、書くことばは、ほんの少し斜めに構えて眺めてやるだけで、遊びとして成立してしまう。しかも、斜めに構えることによって、何がしかの複眼視点が得られることになる。

ぼくには、自他ともに認める、ことばの揚げ足を取る性向がある。正確に言うと、証拠や根拠に乏しい意見に与することができない時、その意見を表わしていることばの揚げ足を取るのである。弱者が発することばも対象になるが、その場合は、意見が崩れかけていることに気づかせてあげるためである。当の本人はことばの揚げ足を取られたと思うかもしれないが、あくまでも誠意のつもりである。どうでもいいことであっても、知らん顔せずに、なるべく面倒を見るようにしている。その時は多分に遊び心で揚げ足を取っている。なお、強者に対しては、揚げ足どころか据え足も取ってやるぞと闘志を燃やす。腕力なき者のペンと文によるせめてもの小さな抵抗である。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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