ローマ・テルミニ駅(写真はコンコース)。映画『終着駅』でおなじみの、イタリア最大級の国鉄駅である。”テルミニ(termini)”は英語なら”ターミナル(terminal)”。国内線も近郊線も国際線もここに停まる。しかし、終わりは始まり、終着駅は始発駅でもあるから、地下鉄で行けない郊外や都市へ出掛けるにはこの駅が起点になる。
カテゴリー: エピソード
旅先のリスクマネジメント(1) 街路での声掛け
Pizza a credito(ツケでピザを)
去る4月、ナポリのとあるピザ専門店がお持ち帰りのピザを「ツケ」で売り始めた。言うまでもなく、ツケとは誰々に何々を売ったことを帳簿に付けておき、その場では代金を徴収せずに、後でまとめて支払ってもらう方法だ。客側にとっては買い掛け、店側にとっては売り掛けになる。
お勘定の話
二十代半ばになって自分のお金で飲食して会計し始めた頃、たとえば寿司屋で「おあいそ」などと告げるのが心地よかった記憶がある。このことばには、どう好意的に解釈しても、ちょっと威張った客目線が見え隠れする。
三十過ぎになって「お勘定してください」と言うようになった。こっちのほうがいいと思ったからである。しばらくして、「おあいそ」は店側が発することばであることを知った。「せっかくのお食事のところ、勘定の話で愛想づかしなことですが……」が転じて「おあいそ」になったらしい。「ご馳走さま、お勘定してください」と客が言い、「おあいそですね。ありがとうございます」と店が返す、調子のよいやりとりが定番なのだ。
ところで、お勘定にはぼくたちの想定する以上に間違いが起こる。たとえば、注文していない料理が運ばれてきて、「それ、頼んでいないけど……」「あ、すみません。あちらのテーブルでした」というやりとりの後は要注意だ。会計時には明細をレシートでチェックしておくのがよい。すでに注文が記入されていて、アルバイトの店員が訂正忘れしていることがありうる。これまで何度もそんな経験をした。
ひときわユニークな会計をしていたのが、パリの有名レストラン『シャルティエ』だ。数字を書き込んだ紙はレシートではない。エンボスの入った紙製のテーブルクロスである。ウェイターやウェイトレスは注文を受けるのも料理を運ぶのも同一人物で、いくつかのテーブルを担当している。そして、料理を一品ずつ運んでくるたびに、テーブルクロスの端に直接ボールペンで品名と金額を書くのである。まだ出されていない料理と金額は記入されないから、間違いようがない。料理のすぐそばに見えているので、客もいつでもチェックできる。何よりも客が数字をごまかすことも不可能である。
日本ではかなりの高級店でも、客が帰り支度をして勘定書きを手にしてレジへ向かい、そこで機械的な処理を受けて支払う仕組みになっている。食べたり飲んだりする場をレストランと言うが、これは本来「休息の場」という意味だ。客どうしの会話もさることながら、料理人や店員とのやりとりももてなしの一つである。お勘定にも人間味があってもいいと思う。
体験とこだわり
こだわりは「拘り」と書く。漢語的に表現すると「拘泥」。近年このことばは、たとえば職人らの固有の思い入れを良好なニュアンスで使うようになった。スープにこだわるラーメン店、秘伝と称してタレにこだわる鰻屋、卵の鮮度にこだわるパティシエなど、とりわけ食材の品質やレシピに関してよく用いられる。
以前、生パスタにこだわるイタリア食堂のオーナーシェフがいた。ところが、場違いなアニメのフィギュアが飾ってあって、「店に合わないねぇ」とつぶやくと、「でも、好きなんですよ」と強いこだわりを示した。生パスタへのこだわりはぼくにも便益があるが、フィギュアは趣味のわがままな発露に過ぎない。このタイプに「こんな雰囲気じゃ足が遠のくよ」と冗談の一つでもこぼすと、「じゃあ、来なくていいですよ」と言いかねない。実際、軽めの皮肉だったのに、彼はぼくに対してあらわに不快感を示した。当然ぼくも不快だから、行かなくなった。
こだわりとは、他人から見ればどうでもいいことに自分一人だけがとらわれ、そのことを自画自賛よろしく過大に評価することだ。いいだろう、ここは一つ譲るとする。それでも、自慢を秘めておくのがプロフェッショナルではないか。こだわりについて長々と薀蓄してもらうには及ばないし、それなくして物事が成り立たないかのように吹聴するのは滑稽である。
価格と価値
かつて「世にも不思議な物語」が存在したのは、常識であること・変わらざることが当たり前の時代にごく稀に起こったからである。最近、ぼくたちはちょっとやそっとの出来事では驚かなくなった。いろんな価値観が氾濫しているし、かつて珍しかったものも珍しくなくなっている。どうやら発生頻度において、非常識が常識といい勝負をするようになってきたらしい。
年賀状と喪中はがき
これは2012年の年賀状である。謹賀新年という文字以外にこれといった季節感は漂っていない。干支の話題もイラストもない。ぼくたちの仕事に関わる考え方の話が中心であって、何かのヒントにしていただければ幸いという思いで書いている。
エレベーターよもやま話
直近のニュースを持ち出すまでもなく、便利で身近なエレベーターにも時々悲劇が起こる。便利と慣れにかまけて、エレベーターへの注意がなおざりになってしまうのも事故の原因の一つだろう。
なお、エレベーターも車もボートも、「有事ゾーン」の移動手段とされているので、レディファーストのしきたりに従うならば、乗る時は男が先に乗ってから女性を導き、降りる時は先に女性を降ろす。
スリという稼業
かつて植木等が「♪ サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」(ドント節)と歌った。ありきたりなことを書けば、気楽なサラリーマンもいれば、過労死に追い込まれるサラリーマンもいる。稼業が気楽かどうかは本人が決めるものだ。ぼくはと言えば、楽に収入を得た仕事がなかったわけではないが、「気楽な仕事」に巡り合わせたことは一度もない。
全国ニュースにはなっていないと思うが、紹介する一件はスリ稼業の「♪ わかっちゃいるけど、やめられない」(スーダラ節)を象徴している。新聞記事によれば、住所不定・職業不詳の姉80歳と妹72歳がペアで現金をかすめ取ろうとしたところを現行犯で逮捕された。二人合わせて152歳。ぼくが記者でもこれを見出しにする。もう50年以上の「キャリア」があるから、捜査員とも顔なじみ。苗字の一字から「駒姉妹」と呼ばれていたという。明らかに「こまどり姉妹」をもじっている。
見巧者であれ
サラリーマン時代は、今のようにランチタイムを自分なりにフレックスに過ごせなかった。わずかな昼休憩の間にコーヒーも飲みたいから、仲間と出掛けてはそそくさとランチを平らげ、喫茶店に場を移して雑談したものだ。
ある日、行きつけの喫茶店が混んでいたので、店探しに少し足を延ばした。通りがかった喫茶店の前で同僚のTが立ち止まり、「ここにしよう」と残りの三人を促した。見ればドアに「夏はやっぱり愛す♥コーヒー」とマジックインクで書いた紙が貼ってある。
「Tさん、ここはないでしょ。この店構え、貼紙の文言や文字のセンスを見たら、完全にアウトですよ」とぼくは言った。だが、「時間もないし……」とTは譲らず、先導して店に入ってしまった。結論だけを書くと、店に入るなり埃の匂いがした。置いてあるソファは赤で場末のスナックから運んできたような代物だった。ソファのスプリングが不良で、座ればドーンと背中まで埋もれてしまった。見るに堪えない夜の化粧のオバサンが一人。アイスコーヒーは……愛すどころか、口に運ぶのも勇気がいるような味だった。
この一件から、「やむをえないという理由で選択肢を広げて妥協などしてはいけない」という教訓を得た。まったく不案内なことについて、ぼくたちは判断しなければならないときがある。蕎麦屋でも喫茶店でもいい、まったく知らない街で二軒の店があり飯を食うかお茶を飲もうとするとき、店のたたずまいや店名など、ごくわずかな情報から優劣判断をするものだ。どんな判断をするにしても、優劣がつけば優の格付けをした店に賭ける。しかし、二者択一ではないから、「劣劣」と思えば消去法的に選ぶことなどないのだ。義務も義理もない。
先月、「ジャズとお好み焼き」を謳い、コテをモチーフにしたチラシが貼ってある店の前を通り掛かった。かつての同僚Tなら喜々として立ち寄る店だ。ジャズと蕎麦の店にはぼくも行ったことはある。しかし、演歌の流れるフレンチには行かない。ジャズとお好み焼きはぼくの感覚域には属さない。コテを手にして熱々のお好み焼きを頬張りながら、どんなふうにジャズを聴くというのか。しかも、生演奏なのである。聴くほうのセンスも疑うが、演奏する者のセンスにも異議ありだ。
〈見巧者〉なる演劇の表現がある。上手に観劇する力のある観客のことだ。舞台は演じる者の技量だけで成り立つのではなく、観劇者にも同等の観賞眼が求められるのである。芸術一般の鑑賞にも当てはまり、店や料理にも広く敷衍できるだろう。上手は一方によってのみ存在せず、上手の本質に呼応する他方があって初めて生かされる。
下手は下手どうしで持ちつ持たれるの関係を続けるだろうが、上手と出合いたければ自らも上手の眼を養わねばならない。見巧者への道は試行錯誤の連続だが、日々の小さな判断力の積み重ねがやがて暗黙知を授けてくれるようになる。とは言うものの、店選びに関しては今も10回に一、二度は騙されてハズレを引く。