嘘つき考アゲイン

夏風邪のようにしつこいが、引き続き嘘と嘘つきの話。

手元にある辞書で嘘の定義を調べてみたら、「有利な立場に立ったり話を面白くするために、事実に反することをあたかも事実であるかのように言うこと」と書いてある。話を面白くするための事実歪曲も嘘ということだ。

そうならば、ぼくの知り合いの大阪人はほぼ全員嘘つきということになる。笑わせるためには手段を選ばない。他人の身の上に起こったことをあたかも自分のことのように話したり、実際は自分のことなのに「オレの知り合いでこんなヤツいてますねん」と切り出すのに何のためらいも感じない。

嘘や嘘つきにまつわる諺はいくらでもある。「嘘から出たまこと」や「嘘も方便」などは、嘘を堂々と正当化する。「実」と「方便」のほうを強調することによって嘘の責任を軽減しており、「えっ、嘘って結果オーライでいいの?」という安心感と誤解を与えてくれる。

これに対して、「嘘つきは泥棒の始まり」というのもあって、こちらは批判的である。泥棒の始まりって何だろう? 不自然な表現である。プロ野球選手の始まり、タクシー運転手の始まり、学校の先生の始まり……何をすれば、それぞれの専門の始まりになるのだろうか。嘘つきは泥棒の初心者? 開業直後の泥棒? もうすでに泥棒をしてしまっているのか? 「嘘つきは前科一犯」と言わないところを見ると、正真正銘の犯罪者ではないのだろう。


嘘つきと泥棒以上に密接な関係にあるのが、嘘つきと博識である。もしかすると、「嘘つきは博識の始まり」のほうが的を射ているかもしれない。道徳論者なら怒り心頭に発するだろうが、嘘つきには物知りが多いのも事実だ。なにしろ「嘘八百を並べる」のだ。知識が豊富でないと、なかなかできることではない。

学生時代、当時流行していたダンスパーティーで、これまた当時もてはやされていた医学生を装った男がいた。「大阪大学医学部です」と偽ったものの、「ご専攻は?」と女子大生に聞かれてしばし沈黙。慌てて「ネズミの解剖しています」と答えてあえなく沈没。もちろん、その彼女との二曲目のダンスはなかった。

プロの嘘つき、すなわち詐欺師にも浅学な者と博識な者がいる。当然後者が一流のプロである。一流どころは、知識が豊富で想像力もたくましい。医者になりきったり政治家になりきったり弁護士になりきったりする。医学、政治、法律などの専門知識を蓄えておかなければならない。加えて話力も必須だ。浅学非才や話し下手では嘘をつけないし、ついたとしてもすぐにばれてしまう。

嘘つきを賞賛はしない。しかし、その道の博識を備えた「徹底したなりきり」を学ぶべきだ。事実の歪曲を肯定しているのでもない。しかし、事実の誇張やアレンジ、あるいは一部事実の隠蔽をやみくもに否定できるだろうか。広告、プレゼンテーション、経営理念、約束……。機能と構造はかぎりなく嘘に似ている。騙すのか、訴求するのか――違いはたったこの一点。

発想を鍛える手軽な方法

「うちの社員は型通りな発想しかできない。何か妙案はないだろうか?」 一年に何度かこんな質問がある。「たとえ型通りであれ、発想できるならひとまず良しとすべきでしょう」と答えることにしている。

何かを思い浮かべることができる、しかし出てくるアイデアがで「どこにでも転がっていて平凡」――こんなことはアイデアマンと呼ばれる人にもしょっちゅう起こる。何十回、何百回発想しても99%は型通りであることがほとんどだ。だが、アイデアマンが凡人と違うのは、型を自ら崩したり壊したりして新しい発想に転換できる点である。

発想法や創造技法をいろいろと試してみた。試してみたうえで実際の企画研修でも演習に使っている。ブレーンストーミング、チェックリスト法、強制連想法、シネクティクス、NM法……。収束向きと拡散向きがあるので、何でも使えばいいというわけではない。ほとんどすべての技法に共通するのは、「いま知っていること」から「未だ知らないこと」を導くという点だ。「既知から未知へ」を可能にする、あの手この手の人為的仕掛けの法則化である。


日常茶飯事手軽に発想を鍛える方法がある。それは、テーゼに対するノーを敢えて意識する「アンチテーゼ発想」。ある種の常識、価値観、慣習、意見、視点に対して対極からアマノジャクな揺さぶりをかけたり茶化してみたりするのである。ホンネは棚に上げておく。

たとえば、メダルに手が届かなかった五輪選手が、この四年間苦しかったこともあったと振り返る。「辛かっただろうなあ」といったんはこのコメントを素直に受容する。そして、しばし腕を組んでから「ちょっと待てよ」。「過去四年間を振り返ったら、誰だって苦しいことくらいあるさ。ぼくにだってあった。ただマスコミがその苦しみを聞いてくれないだけ」とひねくれてみる。

たとえば、菜食主義者がいる。他人に自説を押しつける偏狭な心の持ち主ではない。豆腐と野菜を巧みにアレンジして仕立てた「ハンバーグ」が好物だと言う。「鰹節でダシをとった味噌汁もタマゴも口にしない徹底した菜食主義。忍耐強いなあ」と褒めてあげる。そのうえで、「肉食をとことん断つのなら、わざわざハンバーグ風にしなくてもいいじゃないか。やっぱりまだ未練があるに違いない」と皮肉ってみる。


たわいもない「くすぐり」である。高等な批判精神とは無縁だ。ちょっと口をはさむだけの話。それを意識してやってみるうちに、絶対と思えたものが絶対でなくなり、ダメなものがダメではなく、時代遅れが実はオシャレだったり……というようなことが浮かび上がってくる。

ぼくたちがふだん見ているものはたぶん偏っている。立場によって、思想によって、好みによって偏っている。コインの表側だけしか見ていない。振り子が左右に思い切り振れている様子が見えていない。アマノジャクなアンチテーゼ発想は、実は見えないところを無理に見ようとする想像力の源泉なのである。 

イタリア紀行6 「広場はアート空間」

シエナⅢ

鳥瞰、つまり高い所から鳥の目線で地上や景色を眺めるのは非日常的体験である。だから旅行でどこかに出掛けると少しでも天空に近づこうとする。その街に塔や鐘楼があれば、階段がたとえミシミシときしる木製であれ狭い石段であれ、とりあえず上る。イタリアの都市はほぼ間違いなく一つや二つの高所を備えているので、時間さえあれば欠かさず挑戦する。

ところが、実は、軽度だが高所恐怖症気味。階段を上に行くほど足がすくむし、ガラス張りされていない手すりだけの屋上に立つと膝がゆるんでくる。カメラを持つ腕を突き出すと腰が少し引けている。それでも上る。それだけの価値があるからだ。

自分を叱咤してマンジャの塔からの景観を楽しみ、恐々階段を下りた後にはカンポ広場を見渡してエスプレッソを飲む。数百年間にわたって大きく変化していないこの広場に人々がそぞろ集まる。いつも同じところを歩き同じ光景を眺めて何の意味がある? こんな、物事の実用性を前提とした問いに出番はない。習慣化した行いには、本人にしかわからない格別の快楽がある。

広場のある街がうらやましい。とってつけた公園ではなく、広場。貝殻状の形状といいアートな色合いといい、シエナの広場は至宝である。至宝の恵みを享受し続けるために、住民は我慢と禁欲に耐える。コンビニに代表される、無機的な利便性に走らない。窓枠はもちろん、留め金一つでも「修復」と考える。自分の部屋でも勝手なリフォームは許されない。

流行や便利とどう付き合うか? カンポ広場のバールでエスプレッソを飲みながら、行き着いた問いである。「一歩遅れ気味に生活する」というのが答え。 《シエナ完》  

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Bar il Palioのカフェテラスでゆっくりと流れる時間の中で、心ゆくまでマンジャの塔を眺める。

もう少し嘘の話

昨日に続く嘘の話をもう少し。

掃除のおばさんのようなあからさまな嘘は例外。あれは一種のギャグである。嘘はおおむね巧妙に組み立てられるものだ。偽装がまかり通り、詐欺の罠に嵌まる。いずれバレるのだが、摘発されるまでに相当数の被害が発生する。なお、嘘というものはバレることによって「市民権」を得る。バレなかったら誰も嘘として取り上げてくれない。

はたしてその人間が嘘つきかどうかを見破ることなどできるのだろうか? 顔色やしぐさをよく見て、使っていることばをよく聞き、深層心理のヒダにまで分け入ればわかるものだろうか? とことん性悪説的に人間を観察しないかぎり、無理である。

「よく考えているか?」と確認したら「はい」と返事されて信じてしまい、後になって「そいつがまったく考えていなかった」ということがわかる。「わかっています」「ちゃんとやっておきます」という嘘にどれだけ騙されてきたことか。

「明日から心を入れ換えます」という決意表明を決して信じてはいけない。ほんとうに心を入れ換える気のある人間は「今すぐに心を入れ換えます」と言うものだ。「明日から」と先送りする輩は絶対に心を入れ換えることはない。なぜなら、翌日になった時点でもそいつの決意表明は依然として「明日から心を入れ換えます」であり、毎日毎日、執行猶予一日分が必ず延長されるのである。


折れた煙草の吸がらで、あなたの嘘がわかるのよ」と中条きよしが歌った。あの歌詞のヒロインは天才だとつくづく思う。なにしろ折れたタバコの形状で嘘を見破るのだ。すごいじゃないか!? いや、嘘だけではなく、「誰かいい人できたのね」と真実まで見抜いてしまう。もしかして彼女は超一級の心理カウンセラー?

これだけ世の中に偽装や詐欺がはびこるのはなぜだろうか? 騙す側と騙される側は、売り手と買い手の関係同様に、市場原理の法則で動いているのだろう。騙される側(=消費者)がいなくなれば、騙す側は廃業するか倒産する。騙す側も懲りないが、騙される側も懲りない。ゆえにリピーターが多い。

中条きよしの『うそ』の歌詞は、1番から3番まである。1番の最終フレーズは「哀しい嘘のつける人」。2番が「冷たい嘘のつける人」。そして3番がなんと「優しい嘘のうまい人」と嘘つきを賞賛する。このヒロイン、嘘を見破る達人であると同時に、騙されることに酔いたがる常連さんなのかもしれない。

ギャグのような嘘

夏風邪が長引いて約10日。仕事をしたり外出したりと普段の生活に支障はない。のどのエヘン虫が咳を仕掛ける。それが少し苦痛だ。

あまり抗生物質系の薬には手を出さないことにしている。そこで医薬品のドロップをせっせと舐めてみるが効かない「痛いのど、せきに効くドロップ」と箱には書いてあるのだが、効かない。これって嘘つき広告にならないんだなあ。

いろんな嘘を聞いたり、嘘つきな人と出会ったり、自ら他愛もない嘘をついたり、嘘も方便とか何とかこじつけたりもしたことがある。でも、「激うまラーメン」が不味くても虚偽罪で訴えられないんだなあ。「頑張ります!」と言いながら決して頑張らない社員を業務不履行でクビにはできなんだなあ。まあ、そんなルーズさのお陰で、「この講座で能力パワーアップ!」とアピールする自分自身もだいぶ救われてはいるけれど……。


その昔、職業的嘘つき(つまり詐欺師)ではなく、とてもノーマルな仕事をしていながらよく嘘をつく人がいた。ビルの掃除のおばさんである。

ぼくより30歳ほど年上だったと思う。暗い人ではなかったが孤独な様子だった。廊下で会うたびに仕事をねぎらい少し立ち話をしたりした。この人の話を数ヵ月ほど聞いてあげた結果、人付き合いが少ないため「嘘の在庫」をあり余るほど抱えていることがわかった。

おばさんの断片の話を拾ってつなぎ合わせていくと、「五年前に亡くした主人を一年前に入院させ、しばらくして手術させ、その一週間後に見舞い、さらに次週に退院させ、その次の週にもう一度亡くし、先週の日曜日に生き返らせて一緒にお芝居を見に行った」というような一身上の都合が出来上がる。

目と目が合って、「今朝は早いですね」とでも声を掛けようものなら、もうどうにも止まらない。「朝が早いと言えば、私なんか若い頃には牛乳配達と新聞配達をしていましたよ」。これに「ほほぅ」とでも相槌を打つと、「今ではお掃除のおばさんだけれど、昔は中学の教師だったし、その後は大手の保険会社で女性スタッフの指導員もしていました」と続く。

共用部分の灰皿を掃除しながら、「火には気をつけないとね。昔、市民消防団の団長をやっていた頃には夜遅くまで巡回していました」。「へぇ、そうなんですか?」と応じれば、「体力が必要だったけれど、病院の婦長の経験もあったから健康には自信がありましたよ」キャリアウーマン・ストーリーが際限なく続く。

トータルすれば、このおばさん、主人を数回亡くしており、職業は10数回変わり、子どもが20数人いて、本人は10種類くらいの病気にかかり延べ数十年間入院生活を送ったことになる。最初の二、三回はユニークな人だと思っていたが、あまりにも短期間のうちに「嘘八百」をさばいてしまった。冗談と嘘は休み休み言うのが正しい。

小さく縮めて考える

昨今は研修や講演を主な仕事にしているが、本業は企画である。ざくっと言うと、企画は価値を高めたり付け加えたりする仕事であるため、大きくとらえたり足し算で進めていくものだと思いがちだ。たしかに初期の段階ではそういう要素もある。マクロな見方の企画。それをぼくは”ANDの企画”と呼ぶ。

しかし、冷静に考えれば、ぼくたちのアタマはあまり遠大向きではない。天の川とアンドロメダ星雲が30億年後に一つになるという説を聞いてもピンと来ない。何億光年の未来が見えたらすばらしいだろうけど、一年、いや一寸先も怪しい視界しか持ち合わせないのが凡人だ。大きく構想するのはたいせつだが、小さなことを見失ってしまうリスクのほうが大きい。


今から78年前、アメリカのある中学の先生が発端となった、世界を100人の村に縮小する話を覚えているだろうか。この村は57人のアジア人、21人のヨーロッパ人、14人の南北アメリカ人、8人のアフリカ人で構成されている。有色人種が70人で白人が30人。この村の6人が富の59%を所有し、50人が栄養失調に苦しみ、1人が瀕死の状態にある。この村で大学教育を受けたのはわずか1人。周辺ではこんなに普及しているパソコンだが、実はこの村には一台しかないという話。

比喩ではあるが、現実を何かに大きくなぞらえる比喩ではない。現実よりも極端に縮小する比喩であり、これにより本質がより見えやすくなる。スポーツもゲームも起源においておそらく何かの象徴であり、縮小版だったのだろう。ある経済学者は麻雀を「閉じた経済における4ヵ国貿易」という具合にたとえていた。


少々粗っぽくても、何かを端折はしょって思い切りわかりやすくしてみる。足すのではなく引き、膨らますよりも縮めてみる。こういうミニチュア化を”ORの企画”と呼ぶ。この種の発想は比喩と相性がいい。

世界の669358万の人口(2008812日午前10時現在)を100人と仮定するように、地球の歴史46億年を1365日のカレンダーにたとえる。つまり、元旦に地球が誕生し、今がちょうど大晦日で、まもなく新年を迎えるところという設定。

人類の歴史500万年。これは地球の1年カレンダーの0.4日に相当する。人類は大晦日の午後2時~3時の間に生まれ、いま除夜の鐘を聞いている。新参者もいいとこだ。ちなみに恐竜の祖先は1210日前後の生まれで、1226日に滅びたことになる。

とてもマニアックなシミュレーションだ。しかし、漠然と大きなことを考えるよりはよく見える。発想のきっかけになってくれるかもしれない。「こんなことをして何の意味があるのか?」という問いを発する人は企画という仕事に不向きである。 

イタリア紀行5 「色で魅せるゴシック都市」

シエナⅡ

シエナを描写する表現に落ち着きがないのを自覚する。実感を的確に表せないもどかしさがあり、どこか空振りしているような気分だ。弁解させていただくならば、シエナに関する紀行や説明は、専門家の手になるものでも少し誇張されたような印象がある。

一観光客ならはしゃぎ気味に思いをしたためるのもやむをえないだろう。しかし、実ははしゃいでなどいない。むしろ神妙な心持ちからくる「詩的高揚」とでも言うべきものである。

お付き合いしてから四半世紀、高松在住のY氏は、平成19年の年賀状でシエナの思い出を綴られていた。その二年前にお会いした折に、ぼくはシエナの話を披露した。Y氏が刺激を受けて60歳半ばの身体に鞭打って出掛けられたのか、まったく別の好奇心だったのかは確かめていない。ぼくの高揚感にどこか似通っているその年賀状の文章を紹介してみたい。

シエナの街並は、中世の面影が色濃く残っている。赤煉瓦の幾何模様が美しいカンポ広場がそれだ。
この広場は貝殻の形をして、放射状に広がっており、しかも中心に向かって低く傾斜しているので、浅い巨大な半円のすり鉢に見える。この奇妙な形の広場の真ん中に立つと、夏の眩しいほどの光の乱舞と広場をとりまく、ドゥオモ・宮殿・塔の幻想的な美しさで酩酊する。そして、ここで毎年行われる、中世から伝わる騎馬競走に巻き込まれる幻想にとらわれた。
人々の歓声、馬のいななきの中で、私は中世の世界にタイムスリップした。
―イタリア・シエナのカンポ広場にて―

シエナの建造物の色合いは赤褐色でもなく茶褐色でもなく黄褐色でもない。それは、シエナブラウンという独特の土色である。現在ではいろんな商品にこのカラーが使われているが、それぞれ微妙に違うように思う。何が正真正銘のシエナ色か? それは写真を見て判断するしかないが、写真でも再現精度にバラツキもがある。いずれにせよ、光と影と色を絶妙に調和させる街と、後景としてその街を包み込むトスカーナの丘陵の趣には見とれてしまう。

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奥に向かってゆるやかに傾斜するカンポ広場には、赤褐色に見える煉瓦が敷き詰められている。
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画面右上の端に大聖堂を配した街並み。細い通りを隔てて建物が密集している。この濃いベージュがシエナの土色。
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少し靄のかかった街の周辺の丘陵地帯。まさに中世の空気そのもので満たされた幻想的な風景だ。
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マンジャの塔から見下ろすカンポ広場。修復を繰り返しながら、魅力ある街、絵になる街を保存する。シエナに「新築」はありえない。すべて”レスタウロ”(リフォーム、リノベーション)である。

ことばは尽き果てない?

昨日に続くことばの話。ことばが有限か無限かという学術論争があるらしいが、一個人からすれば答えは決まっている。一生涯で知り尽くせないだろうから無限である。

辞書の編纂者には当てはまらないかもしれないが、普通は知らないことばは知っていることばよりも圧倒的に多いだろう。二十代の頃、無職の時代があってよく本を読んだ。ついでに辞書も読んだ。引くのではなく「読む」。ア行から始めてサ行の途中までいく。当然挫折する。またしばらくして挑戦する。同じくへこたれる。だから、ぼくはア行からサ行までの語彙はタ行以降よりも多いはずである。

暇だからできたことだろう。だが、この習慣は意外に続いていて、何か調べるために辞書を使うというよりも、適当なページを繰って関連することばを渉猟したりする癖は今も染みついている。ビジュアル辞典や類語辞典の類はそんな行き当たりばったりの「ことばの海の遊泳」にぴったりだ。


何年か前に、「競馬場で走る馬」という表現を耳にした。テレビの手話ニュースだったと記憶している。これには腰が抜けるぼどびっくりした。「サラブレッド」の説明に使われたのではなく、唐突に出てきたからである。そこまで言わなくても、サラブレッドでいいではないか。このことばを知っているという前提は決して高いハードルではない。妥協するとしても、「競走馬」で十分である。

「陸上競技場で走る人」「柔道着で格闘する人」はいずれも人を説明する表現である。それぞれ陸上選手、柔道家という固有の言い回しがあり、まったく不満なく通じる。会社員を表現するのに「会社で働く人」では違和感があるし、「市役所で働く一番偉い人」といちいち言わずに、市長というほうが便利である。

相手はこのことばを知らないだろう、難しいと感じるだろう、それならあらかじめわかりやすく説明調でいくか――こんな配慮を親切心とは言わない。そもそも辞書の定義に近い表現を使ってわかりやすくなるのは稀である。

「太陽の光線をあらゆる波長にわたって一様に反射することによって見える色のワイシャツを着てお越しください」。これは「白いワイシャツ」のことだが、「白」がわからないだろうと予測してこんな言い回しをする人はいない。「黒の反対の色のシャツ」という人もいない。白を知らない人はたぶんワイシャツということばも知らないだろう。

話し手や書き手は傲慢になってはいけない。できることなら、聞き手や読み手が参照できる範囲のことばを使うのが望ましい。しかし、受け手側を甘えかせすぎるのも考えものだ。すべての人間は未知のことばと対峙して今までやってきた。「ママ」も「ワンワン」も未知だった。何度も使っているうちに意味や概念の輪郭がはっきりしてきて、「ママ」が自分の母親であり「パパ」とは異なること、「ワンワン」は四足で毛の生えた動物だが、どうやら「ニャンニャン」とは同じ仲間ではないことなどを知るに至るのである。

ことばは尽き果てない。知らないことばがいっぱい。だからこそ愉快なのであり、コミュニケーションは深遠なのである。

ことばを知れば視界良好

ぼくたちは知らないことを「ことば」や「体験」によって知る。体験できなければ、とりあえずことばで説明を受けて知ることになる。絶対とは言わないけれど、ことばの数と知識の量はおおむね比例する。意味のない多弁やおびただしい空言は批判されるべきだが、ことばが少なければ小さな世界観しか持てないだろう。

ある人が「たこ焼き」の話をしたら外国人に「それは何だ? 」と聞かれた。聞かれて、次のような内容を英語で説明しようと試みた。

水と出汁で溶かした小麦粉を鉄板の丸い凹の部分に流し込み、そこに小指の第一関節くらいの大きさに切った茹でた蛸、ネギ、揚げ玉、紅しょうがなどを入れてよく熱し、機を見計らってアイスピックみたいな道具でくるりとひっくり返し、球のごとく仕上げる。それにソースか醤油を刷毛で塗って青のりと鰹ぶしを振りかけて、やけどしないように食べる。

説明しようとすることばの中に、スライスした蛸、揚げ玉、紅しょうが、ネギ、青のり、鰹ぶしなどのわが国固有の名詞がふんだんに含まれ、英語で表現するにはいかんともしがたく、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

ことばでは説明しきれない概念がある。たこ焼きは説明するものではなく、体験してもらうものである。好き嫌いはさておき、試食したうえで、それが「たこ焼き」であることを覚える。次回から誰かと会話するとき、わざわざ「水と出汁で溶かした……」と延々と語らなくても、「たこ焼き」という四字で済ますことができる。


話し手は極力わかりやすいことばを使うべし――これに異論はない。なるべく相手の辞書機能に合わせた説明をするべきだと思う。しかし、相手が知らないという理由でことばをどんどん因数分解していっても限度があるし、わかりやすくなるという保障もない。

あまり聞き手市場になってしまうと、話し手の持ち味が損なわれてしまう。テーマから話が逸脱して、ことばの定義ばかりしてしまうことになるのだ。たとえば、ぼくの私塾で「質と量」の話をするとき、ぼくはそれ以上は説明しない。質と量の概念をわかっているという前提で話をする。たこ焼きとお好み焼きの違いも取り上げない。そういう聞き手のボキャブラリー・レベルを想定して話をする(この”ボキャブラリー・レベル”ということばも微妙だ。かと言って、「語彙水準」と言い直しても、よけい分からなくなる人がいるだろう)。

わからないという理由だけで、初耳のことばを拒絶しないことだ。概念が不明であっても、とりあえずなじんでみる。子どもたちは意味がわかってからことばを覚えるのではなく、訳がわからないまま語感やリズムでまずことばを覚え、それから徐々に意味の輪郭をはっきりさせていく。大人も例外ではない。

シニフィアンとシニフィエ

難解なソシュール言語学の話をするつもりはない。ただ、マーケティングにおける記号(ひいてはネーミングやブランド)の意味について一考してみようと思う。

シニフィアンとシニフィエ? 響きは、児童文学に出てくる少年少女の名前みたいだ。実は、そうではない。シニフィアンとは記号表現、シニフィエとは記号内容のことであり、それぞれ専門的には「能記」、「所記」と呼ばれる。

ぼくはメガネをかけている。このメガネというものは、(1) 聴覚がとらえる「メ、ガ、ネ」という音(シニフィアン)と、(2) 「眼鏡」という概念(シニフィエ)の二つが一つの記号となって、実際に手に取ったり掛けたりする「👓(メガネ)」を表わしている。

身近なことばに置き換えると、ことばとモノが表裏一体ということ。「」という実体のモノを、日本語では「デ、ン、ワ」と発音することばで、英語では “telephone”(テレフォン)と発音することばで、それぞれ名付けている。元来、モノとしての「」と「デンワ」または「テレフォン」との間には、こうでなければいけないという理由などなかったはずだ。それでも長い歴史の中で繰り返され、さも必然であるかのようにモノに音声が染み渡っている。

御法川みのりかわ法男のりおと聞いて、その人物の顔が浮かばなかったらシニフィアンとシニフィエが表裏一体になっていない。顔をモノと言っては失礼だが、この場合、ことばからモノを参照できないのだ。「この名前の人、だ~あれ? えっ、みのもんた!? な~んだ」。これでやっと表裏一体になる。モノとことば、つまり人と名、場所と地名、商品とネーム、企業と社名などは、シニフィアンとシニフィエが一つの記号を醸し出している。


もともとは必然ではなかったのに、繰り返し使っているうちに内容と表現がしっくり融合してくる。いま椅子に座っているが、この「イ、ス」という音と物体の一体感はどうだ。とてもよくなじんでいる。「尻置き」でも「腰休め」でも「スワール」でも違和感がある。

使いこんでいるうちに名が体を表わすようになる成功パターンがある一方で、繰り返し使っても何年経ってもしっくりこない場合がある。マーケティング的にはネーミングやブランディングの失敗ということだ。男性かつらに「バレーヌ」や「ズレニクイーノ」はダメだろうし、「ゲリラ特攻隊」という整腸剤は遊びすぎだろうし、「酔ったついでに・・・」という焼酎はいろんな意味でよろしくない。

ユニークな記号が注意を喚起し訴求力をもつのは事実だが、同時にネーミングには共通DNAみたいなものがあって、そこから逸脱すると受け入れてもらえなくなるのだ。

シニフィエに対してこれ以上ないシニフィアンを探し当てる。これがコンセプトの言語化であり、商品のネーミングであり、メッセージのコピー表現なのである。とらわれぬ発想、すぐれた語感、そして膨大な語彙がこの仕事のバックボーンになる。