もう少し嘘の話

昨日に続く嘘の話をもう少し。

掃除のおばさんのようなあからさまな嘘は例外。あれは一種のギャグである。嘘はおおむね巧妙に組み立てられるものだ。偽装がまかり通り、詐欺の罠に嵌まる。いずれバレるのだが、摘発されるまでに相当数の被害が発生する。なお、嘘というものはバレることによって「市民権」を得る。バレなかったら誰も嘘として取り上げてくれない。

はたしてその人間が嘘つきかどうかを見破ることなどできるのだろうか? 顔色やしぐさをよく見て、使っていることばをよく聞き、深層心理のヒダにまで分け入ればわかるものだろうか? とことん性悪説的に人間を観察しないかぎり、無理である。

「よく考えているか?」と確認したら「はい」と返事されて信じてしまい、後になって「そいつがまったく考えていなかった」ということがわかる。「わかっています」「ちゃんとやっておきます」という嘘にどれだけ騙されてきたことか。

「明日から心を入れ換えます」という決意表明を決して信じてはいけない。ほんとうに心を入れ換える気のある人間は「今すぐに心を入れ換えます」と言うものだ。「明日から」と先送りする輩は絶対に心を入れ換えることはない。なぜなら、翌日になった時点でもそいつの決意表明は依然として「明日から心を入れ換えます」であり、毎日毎日、執行猶予一日分が必ず延長されるのである。


折れた煙草の吸がらで、あなたの嘘がわかるのよ」と中条きよしが歌った。あの歌詞のヒロインは天才だとつくづく思う。なにしろ折れたタバコの形状で嘘を見破るのだ。すごいじゃないか!? いや、嘘だけではなく、「誰かいい人できたのね」と真実まで見抜いてしまう。もしかして彼女は超一級の心理カウンセラー?

これだけ世の中に偽装や詐欺がはびこるのはなぜだろうか? 騙す側と騙される側は、売り手と買い手の関係同様に、市場原理の法則で動いているのだろう。騙される側(=消費者)がいなくなれば、騙す側は廃業するか倒産する。騙す側も懲りないが、騙される側も懲りない。ゆえにリピーターが多い。

中条きよしの『うそ』の歌詞は、1番から3番まである。1番の最終フレーズは「哀しい嘘のつける人」。2番が「冷たい嘘のつける人」。そして3番がなんと「優しい嘘のうまい人」と嘘つきを賞賛する。このヒロイン、嘘を見破る達人であると同時に、騙されることに酔いたがる常連さんなのかもしれない。

ギャグのような嘘

夏風邪が長引いて約10日。仕事をしたり外出したりと普段の生活に支障はない。のどのエヘン虫が咳を仕掛ける。それが少し苦痛だ。

あまり抗生物質系の薬には手を出さないことにしている。そこで医薬品のドロップをせっせと舐めてみるが効かない「痛いのど、せきに効くドロップ」と箱には書いてあるのだが、効かない。これって嘘つき広告にならないんだなあ。

いろんな嘘を聞いたり、嘘つきな人と出会ったり、自ら他愛もない嘘をついたり、嘘も方便とか何とかこじつけたりもしたことがある。でも、「激うまラーメン」が不味くても虚偽罪で訴えられないんだなあ。「頑張ります!」と言いながら決して頑張らない社員を業務不履行でクビにはできなんだなあ。まあ、そんなルーズさのお陰で、「この講座で能力パワーアップ!」とアピールする自分自身もだいぶ救われてはいるけれど……。


その昔、職業的嘘つき(つまり詐欺師)ではなく、とてもノーマルな仕事をしていながらよく嘘をつく人がいた。ビルの掃除のおばさんである。

ぼくより30歳ほど年上だったと思う。暗い人ではなかったが孤独な様子だった。廊下で会うたびに仕事をねぎらい少し立ち話をしたりした。この人の話を数ヵ月ほど聞いてあげた結果、人付き合いが少ないため「嘘の在庫」をあり余るほど抱えていることがわかった。

おばさんの断片の話を拾ってつなぎ合わせていくと、「五年前に亡くした主人を一年前に入院させ、しばらくして手術させ、その一週間後に見舞い、さらに次週に退院させ、その次の週にもう一度亡くし、先週の日曜日に生き返らせて一緒にお芝居を見に行った」というような一身上の都合が出来上がる。

目と目が合って、「今朝は早いですね」とでも声を掛けようものなら、もうどうにも止まらない。「朝が早いと言えば、私なんか若い頃には牛乳配達と新聞配達をしていましたよ」。これに「ほほぅ」とでも相槌を打つと、「今ではお掃除のおばさんだけれど、昔は中学の教師だったし、その後は大手の保険会社で女性スタッフの指導員もしていました」と続く。

共用部分の灰皿を掃除しながら、「火には気をつけないとね。昔、市民消防団の団長をやっていた頃には夜遅くまで巡回していました」。「へぇ、そうなんですか?」と応じれば、「体力が必要だったけれど、病院の婦長の経験もあったから健康には自信がありましたよ」キャリアウーマン・ストーリーが際限なく続く。

トータルすれば、このおばさん、主人を数回亡くしており、職業は10数回変わり、子どもが20数人いて、本人は10種類くらいの病気にかかり延べ数十年間入院生活を送ったことになる。最初の二、三回はユニークな人だと思っていたが、あまりにも短期間のうちに「嘘八百」をさばいてしまった。冗談と嘘は休み休み言うのが正しい。

やめてほしいことアラカルト

暑中見舞のシーズン。手書きの下手な文字で「暑ぅ~、お元気ですか?」という類のメッセージをしたためて毎年ハガキを送ってくれる人がいる。まず見舞ってくれることには感謝。それに字が下手なのも許せる。だが、誰かに念を押されなくても、暑さを重々承知しているので、猛暑や盛夏を倍増させるような「暑ぅ~」はやめてほしい。それに、その他大勢の方々にも一言。開口一番「お暑いですね」以外に何か挨拶のことばを交わしていただきたい。

たこ焼きや食いだおれを大阪の特徴の一つというニュアンスでPRするのなら許せる。だが、「たこ焼きイコール大阪名物」とか「食いだおれイコール大阪名物」などと、消すに消せない烙印を押すのはやめてほしい。大阪からはるか遠方に住んでいる知人は、「大阪人の主食はたこ焼き」という冗談を誰かに聞かされて鵜呑みにしているし、偽装された食品や衛生上お粗末なものを大阪人が食い、倒れることが「食いだおれ」の語源と信じている。

春先に道でばったり会った人がいる。数年ぶりの再会だった。久しぶりではあったが、特別に懐かしさを感じる相手ではない。だが、お茶に誘われた。別れ際に彼は右手の親指と小指を伸ばして耳にあてがい、いわゆる電話のポーズをしながら、「また、近いうちに連絡します」と告げた。それから数ヵ月経つが、電話もメールもない。愛想と儀礼の「連絡します」はまだ許せる。しかし、連絡する気もないのなら、あのとってつけたような大袈裟なポーズはやめてほしい。

たまに仲間と居酒屋に行くことがある。酒は強くも弱くもなくほどほどだが、一週間くらい飲まなくても平気だから酒好きの部類には入らない。居酒屋であれレストランであれ、「飲みに行く」のではなく「食べに行く」。ぼくに関して言えば、飲食ではなく「食飲」が正しい。だから「まずお飲み物のご注文からお願いします」はやめてほしい。食べたいものをじっくり選んでから、それに合った酒を決めたいのだ。食べ物も決めずに「とりあえずビール」なんていうのは食の文化度の低さを示すものだ。

プロ野球をテレビ観戦する。一打逆転という緊迫の場面。ピンチに交代した中継ぎ投手が手元を狂わせてデッドボール! そのとき十人中九人の解説者がこう言う、「当てられたバッターも痛いでしょうが、当てたほうのピッチャーはもっと痛いですね」。発想不足、表現不足、感性不足。あのコメント、やめてほしい。「解説者もマンネリでしょうが、聞いているほうはもっとマンネリです」。この言い方、おもしろくないでしょ?

食事と薀蓄の密な関係

知人がブログで鰻に関する薀蓄を傾けていた。興味津々、文章を追ってみた。

「鰻は腹より尻尾が美味しい。そこで、うな重は左手前に鰻の腹、右奥に鰻の尻尾が来るように配膳する。そして左手前つまり腹から食べ始めて、最後に右奥つまり尻尾を食べるのが流儀だそうだ」と料理専門家の話を紹介する。

なるほど。しかし、そんなに尻尾が旨いなら、尻尾ばかり四切れほど乗せてあげるのが最上の顧客満足なのではないか。あまり上等な鰻を食べないので、尻尾は少し堅いというイメージがある。だからぼくなら尻尾は遠慮する。

紹介された話にケチをつけているのではない。鰻という食材はご飯との相性によって成り立っていると思う。「鰻巻うまき」というタマゴとのコラボレーション料理や、キュウリという意外な仲間と組む「うざく」や「細巻きのうな胡」というのもあるが、ウナギサラダやウナギ五目ラーメンなどにお目にかかったことはない。鰻を無理やりに使ったヌーベルの冒険レシピがないこともないが、たいていは失敗作だ。

要するに、うな丼であれうな重であれ、せいぜいお吸い物と漬物がつくだけで、ひたすら鰻とご飯を食すことを強いられる。しかも、値が張るわりにはあっという間に食べ終わる。遠目に見たら、チープな牛丼を食っているように見間違うかもしれない。

だからこそ、鰻は薀蓄を必要とする。背開きだの腹開きだの、やれ国産はこうだ、山椒はこう振れ、腹から始めて尻尾で終われ……となるのである。主役はもちろん鰻だが、共演して主役を引き立てるのが薀蓄だ。そう言えば、鰻のタレを自慢する店主が多いが、あのタレの主成分も「昭和初期からのつぎ足し」という薀蓄ではないか。


一週間前、敬愛するM先生とA先生、それにM先生の子息ご夫婦と、はも会席をいただく機会があった。M家とはよく会っているが、A先生にお会いするのはかれこれ五年ぶりである。二十年前に知り合って以来、まったく変わっていないのに驚いた。おそらく何か妙薬を使っておられるに違いない。

鱧のしゃぶしゃぶのほか、鱧づくしの小皿料理、ふぐのてっさなど色とりどりの味を堪能した。招待を受けていたので、さらに旨さが増したような気がする。一品目は三種盛り。「ハモと茄子のハーモニーです」と店の人。ダジャレでありイマイチの芸だが、ツッコミは入れずに口に入れた。鱧は淡白である。だから梅や酢味噌のほか、少し濃いめのタレや紅葉おろしやネギと合わせる。

この席でも薀蓄が名脇役、いや、先の鰻の話とは違って、こちらは「会席の薀蓄一番鱧二番」という風情で、薀蓄が堂々の主役を担った。昔の小さなエピソードから仕事観へ、遊びの話からジョークへと縦横無尽の談論風発にあっという間の2時間半。この夜にかぎって、鱧は地味な存在であった。

ことばが次なることばを呼び起こし、イメージが貪欲に広がる。ああ言えばこう言う、さわやかな負けず嫌い。笑いのフォンの大きさを競って記憶をまさぐり、あの手この手の話題を捻り出す。嫌味な自慢話の吹聴になるか、それともサービス精神に満ちた薀蓄の披露になるかは紙一重。そのギリギリの綱渡りが楽しい。非生産性的な生真面目に出番はない。食のシーンでは、愉快精神が「どうだ!」とばかりに旺盛な生産性を発揮してくれるのだ。

「店員に呆れ果てる」の巻

店舗や店員に対するぼくの観察がとてもおもしろいと言ってくれる人がいる。何がおもしろいのかと聞けば、普通の人では気づかない小さな言動を精細に描写する「一種偏執的な観察眼」だと言う。たぶん褒められているのだろう。では、期待にお応えしようではないか。


小話その

アイスコーヒーをカウンターで注文すると、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」と聞かれる。この話、前にも書いた。「はい」と答えていたが、最近では首を縦に振るだけにしている。暑くて「はい」の二音すら発する気にならないからだ。

さて、ここからが本題。先週の話だ。例の通り、シロップとフレッシュはそれぞれ一つずつでいいかと聞いてきた。目と目を合わせて大きくうなずいてあげた。席に着いて、ミニ容器のツメを機械的に開けて、ほとんど目もくれずに両方ともアイスコーヒーに入れた。こげ茶色のアイスコーヒーがみるみるうちにベージュに変色していく。

よく見たら二つともフレッシュで、シロップがないではないか。あぁ、やっぱり、この連中にはうなずくだけではダメなのだ。シロップを手に入れたければ、「シロップとフレッシュはお一つずつでよろしいでしょうか?」に対して、「はい。シロップ一つにフレッシュ一つ。そこんとこ間違えずによろしく」でなければならない。

怒りをあらわにせず、貴重なシロップを一つカウンターで配給してもらった。「めっちゃ甘党のオッサン」と思われたに違いない。


小話その2

ディスカウントの文具店である。ポストイットを買いに行った。量販店というほどではないが、通路が5本あり奥行きも10メートル以上あるので探すのは面倒だ。天井から吊るしてあるコーナー表示板に「ポストイット」の名を掲げる店はまずない。

男性店員に場所を聞いた。「3番の通路を進まれて、棚が途切れたところで、右手に封筒コーナーがありますが、その手前側に置いてあります」。あぁ、パニックに陥りそう。

こうして文章に書けばわからぬでもないが、音声をキャッチして理解できるか!? しかし、やむなし。ええっと、3番の通路? あ、すぐそばだ。先へ進むが、わずか数歩で棚が途切れたぞ。で、次の棚に目をやれば、棚のサイドにすぐ見つかった。何のことはない、カウンター内の男性からは一切の遮断物がなく斜め直線で5メートルほどのところにポストイットのコーナーが見えていたではないか。

「ポストイットはあそこです」と指で示せばおしまいだった。あんなふうにことばを羅列したのは、自分たちの説明責任トレーニングのついでに客の理解力もチェックしていたのだろうか。

ランチタイムの選択肢

できれば弁当持参のほうが迷わないでいいというのがホンネだ。しかし、ランチのふいのお誘いが少なくないため、弁当を食いそびれてしまうことがあった。その弁当を夕食にするというのはちょっと情けないし、この時期だと食中毒すらありえる。というわけで、ランチはほとんど外食である。

同じ店に週に二回も三回も通わない性分なので、オフィス近辺の食事処はだいたい知り尽くしている。時間があれば一駅くらい平気で歩いて行く。目当てがあるわけではなく、新しい店を探すことも多い。店構えと店名とメニューと料金で推理し、当たり外れに一喜一憂するが、ぼくの選ぶ店は当たりが多い。知人友人も認めてくれている。

それにしても、何十年にもわたってランチタイムに少考したり迷ったりしてきたわけだ。出張時にはさっさと決められるのに、地元ではついつい選択の岐路に立って自虐的に迷いたがる傾向がある。

お決まりの店に毎日通い、まったく悩むことなく日替わり定食一本主義のM。誰が何と言おうと、ビッグマックとコーラ以外を口にしなかった、かつての同僚アメリカ人のR。この二人を思い浮かべると、心中複雑だ。彼らの確固たるランチ哲学を羨む一方で、それじゃまるで餌ではないかと皮肉りたくもなる。


どこで何を食すかに迷うのはやむをえない。自分がそれを内心望んでいるからだ。しかし、そうして注文した後に、今度は店側からオプションを突きつけられて、さらに迷ったり不条理な選択肢に首をかしげさせられたりする。

そのランチはセットメニューで、たぶんこの店の定番である。うどん、コロッケと鶏のから揚げ、ポテトサラダ、ライスの組み合わせだ。メニューを見て「これください」で注文完了。と思いきや、それで終わらない。

うどんは「そば」に変更でき、しかも「温」か「冷」を選べると言う。温かいうどんのつもりで頼んだが、冷やしうどん、かけそば、ざるそばという三つの選択肢が増えた。しばし迷って、ざるそばにした。「うどん・温」を「そば・冷」に変えるのは二重の変更で、あまりにも節操のない自分に呆れる。

さらに、「生卵か味付け海苔、どっちにしますか?」と奇妙なことを聞いてくる。

トッピングみたいなものがこの定食にはついてくるのか。まったくの想定外である。そんなものを客に選ばせることはない。両方ともつけたらいいではないか。しかもだ、しらす大根おろし vs 冷奴とか、バニラアイス vs 抹茶アイスなら両者拮抗しているが、生卵と海苔は選択肢としてバランスが悪い。

生卵が苦手なお客さんのためのオプションが味付け海苔? たぶんそうなのだろう。それはともかく、バリエーションやオプションが豊富であることがサービスともかぎらない。こっちは店と品物を選ぶまでに十分に迷ってきているのだ。「顧客の選択をこれ以上ないくらい容易かつわかりやすくしてあげる」というシンプルマーケティングの要諦を思い出した。

今日のランチは迷わずに上うな丼にしよう。少なくとも、温か冷か、生卵か味付け海苔かで迷わされることはなさそうだ。

コンセプトを伝える

先程出張先のホテルにチェックインした。メールのやりとりの必要があったので、フロントでインターネット用のケーブルが部屋にあるのかどうかを尋ねた。

「あいにくまだ準備ができておりません。モデムの貸し出しになります」とフロントマン。この意味が飲み込めなかった。ぼくの傾聴力に問題あり? そうは思いたくない。

部屋のメークアップとケーブルの有無の話がぼくのアタマで混線してしまっている。なんだかよくわからないまま、部屋にエスコートしてくれた女性スタッフに再度確認して事の次第がわかった。

当ホテルでは、全館各部屋にインターネットのケーブルを設置していない、ゆえにモデムを300円で貸し出す、ということだ。ならば、「まだ準備ができていない」は「当面のところ」というニュアンスを匂わすため、不適切な表現である。この一件、単なるコミュニケーションの巧拙だけに終わる話ではない。


理屈っぽい言い草で恐縮だが、メッセージの前にコンセプトがしっかりと定まっていないのである。部屋のケーブルの有無に対して、ホテルの設備計画面から応答するから伝わらないのだ。言葉遣いや表現の問題ではない。

これに先立って、タクシーの中でダイエットクリニックのリーフレットを見つけた。持ち帰ってきて、いま手元にある。「痩せたくない人は見ないで下さい」という見出し。これにケチをつける気はない。「真に痩せたい人」をターゲットにした一直線のコンセプトだ。だから、こういう言い回しになるのだろう。

ところが、他方で、「痩せたくない人もお読みください」という見出しにする手もあることに気づく。この表現にするならば、コンセプトがまったく違うものになっているはず。「痩せたくない人」には、「すでに痩せすぎていて、これ以上痩せたくない人」と、「ある種の思い(哲学?)があって、痩せたくない人」がいるだろう。この後者の、クリニック側から見れば強情な潜在顧客にも働きかけて損はない。

トマトを使った「トマリコ」というスナックが開発されたとして、「トマトの嫌いな人は食べないで下さい」とするか、「トマトの嫌いな人も食べてみて下さい」とするかは、コミュニケーションの良し悪しではなく、顧客心理へのコンセプトをどう定めるかによって決まる。

コンセプト(concept)は、「考える・はらむ」という“conceive”という動詞から派生した言葉だ。それは、メッセージを送る側の「思い」を凝縮したものにほかならない。 

いっそイノベーション

誤解なきよう。リサイクル思想に異論を唱える大胆な提言ではない。

修正や再利用を繰り返すよりも、思い切ってやり変えたほうがいいという、とても身近な話。散歩をしていたら、古めかしいビルの入り口横の壁に貼り紙を見つけた。最初は意図がよくわからなかった。その貼り紙には求人募集にともなう典型的な文言がいろいろ書いてあるのだが、一番目立ったのがこれである。

88歳までの方
38

さすが少子高齢化社会を反映して、ここまで年齢を引き上げての募集をしていたか……しかし、応募がなかった(若い人が嫌がった?)……そこでやむなく一気に50歳も引き下げて38歳? 「38」の数字はマジックインクの手書きである。

ちょっと待てよ、何かおかしい。よく見れば線で消されている88の十の位のほうが3から改ざんされた8ではないか。はは~ん、これで読めました、古畑任三郎。悪戯である。事の次第を推理すると……。

最初は「38歳」で募集していたのだ。ある時誰かが悪さをして「88歳」に書き直した。数字の38に変えるのは朝飯前、17に、あるいは56に変えるよりも簡単だ。悪戯をした奴はちょいちょいと一筆足して50もプラスできたことにほくそ笑んだに違いない。


そのオフィスはしばらく気づかなかったのだろう。早く気づいていれば、パソコンのデータも残っていただろうから、データを修正して貼り直せば済んだはず。何ヵ月か、もしかすると何年か経ってから気づいたが、当時のデータがない。で、おざなりに手書きで貼り紙に訂正を加えた……。

ぼく以外に誰がこんなに深い読みを入れて理解してくれるだろうか? ノーバディだ。みんな呆れたり薄ら笑いを浮かべて通り過ぎる。「よくもまあ、88歳で募集したもんだ。いったいどんな仕事なんだい? 28歳も88歳も一緒にできる世代間格差のない仕事? あればあったで結構なことだが、結局人が来なかったんだろ。で、やむなく50歳ダウンの38歳か」。ここまでの感想を洩らすことすらありそうにないが、まあこんな印象だろう。

これはなかなかの教訓である。リフォームしてよいことと悪いことがある。修正するより一からやり直したほうが手っ取り早く、しかもイメージを損なわないこともある。コストと手間がかからず見映えがよければ、黙ってイノベーションだ。

応募者心理に気配りできないあの会社、応募状況はどうなんだろう? と余計な心配。仮に「いっそ作り変えたら?」とお節介な口出ししても、「いやいや、あれでいいんです。へっちゃらです」と返されるかもしれない。あの貼り紙、なんとなく威風堂々に見えてきた。

五輪(2)~ルールとフェアネス

ルールが変わっているかもしれない。リレハンメル当時は、スキージャンプ競技ではスタンバイ信号が赤から青に変わってから15秒以内に滑走を開始しなければならなかった。スピードスケートのスタートも用意の合図からスタートまでの2秒間微動だにしてはいけなかった。

ジャンプで失格となった選手、スピードスケートで二度失敗した選手。両者とも、気の毒なことに、はるばるノルウェーまでやって来て、スタートを切ることなく去っていった。情状酌量の余地は、微塵もない。しかし、この二例とは対照的に同大会で再試技が認められた選手がいた。覚えている方もいるだろう、フィギュア選手トーニャ・ハーディング、その人である。スケート靴の紐にトラブルがあったらしく、フリーの演技中に審査員に泣きついたのである。

これを認めてしまった。認めるということは、ルールの未熟性を暴露することに等しい。フェアネス(公平性)とは正々堂々の精神であり、つまるところ「潔さ」でもある。再試技はフェアネスに反する。


これがルールとして許されるのなら、トリプルアクセルで転んだのは目に埃が入ったからだの、フィニッシュが決まらなかったのは脚が疲れたからだのと申し立てればよい。屋外のスキージャンプでは風や天候という外的要因と闘わねばならない。それでもルール違反は大目に見てもらえない。屋内の、しかも選手自身の人的コントロールが可能な競技に例外があってはならない。

例外なくルールが適応されるからフェアネスが保たれる。そこにスポーツの潔さを垣間見る。昨日・一昨日とアメリカの金メダル候補の有力選手が、水泳・陸上の最終選考会で落ちた。十回に一回の敗北かもしれないし、出場させてやりたいという人情も働くが、ルールはルールだ。

人はやみくもにフェアであることはできないだろう。しかし、一つの例外を許せば、その他のすべての約束体系をモデルチェンジしなければならなくなる。フェアであるためには万人に平等なルールが必要なのだ。もちろん実社会では杓子定規にはいかない。いかないからこそ、ルールは厳格であるよりも、まずは明快であることを優先すべきだろう。

五輪(1)~ライブと記録と記憶

東京五輪が開催された1964年は中学生だった。学校が斡旋した「五輪記録ノート」を買った。全競技全種目が開催日別に印刷されており、ページごとにメダリストと国名を自分で記録していくという体裁になっていた。

後日新聞記事なり開催終了時に掲載される一覧を見ればわかることだが、そのつど結果を記入していくとページたりとも空白のまま残せなくなってしまう。開催期間中はテレビ中継に釘付けになった。録画ではダメで生中継に意味がある。競技終了後に書き込むのが正統で、どうしても記録が追いつかなかったりして翌日新聞で確認して穴埋めするときは少し情けない気がしたものだ。

二学期の中間テスト前だったが、勉強はほどほどにしておき、全種目の金メダリストや日本選手の成績はほとんど覚えた。そんなもの覚えてもしかたがないことはわかっていたが、一種のオタクだったのだろう。しかし、自己弁護しておきたいが、開催期間の約半月は一億総五輪オタクのニッポンであった。


五輪のみならず、サッカーでも野球でもそうだが、録画はつまらない。結果を知らないで見る録画はまだしも、結果を知ってからの録画は話にならない。現場観戦が一番いいだろうが、それが叶わぬならばせめてライブだ。ただし、国内に居ながらの時差ボケというツケを払わねばならないが……。

1970年代以降夏季五輪はもちろん観戦したが、冬季もよく見た。印象に残る冬季大会は1994年リレハンメルだ。スキージャンプは、原田選手の失速に日本じゅうが悲鳴をあげた。観衆も一緒に自分の腹筋に力を入れて1メートルでも先へと足腰を浮かせてみたが、結果は団体銀メダルに終わった。

さらに印象的なのが4年後の長野大会。ラージヒル団体戦の当日、ぼくは講師として大手企業の合宿研修の最中だった。立派な研修センターでロビーには大型テレビがある。最終ジャンパーの跳躍だけでもライブ観戦したいとの思いから、卑しくもその時間帯を自習させることはできないかと画策していた。

結果的には卑しくならずに済んだ。というのも、企業の研修担当課長が「研修していても気が入らないでしょう。ぜひ30分ほど休憩してみんなで観戦しませんか?」と申し出てきたのだ。ここで相好を崩すわけにはいかない。ポーカーフェースで「う~ん、やむをえませんね」とぼく。

4年前の雪辱を果たす原田選手のウルトラジャンプに全員拍手と感激の嵐。金メダルに酔った。気がつけば、ロビーは他のコースの研修生も含めて人で溢れていた。やっぱりライブだ。ただ、受講生のテンションの余燼がくすぶり、その後の研修の調子は失速していったのを覚えている。